ジイラ・メル・ウォルクム。化石の森の主にして黒曜竜の乗り手、古王国を統べし闇妖精最後の裔は、とあるマンションの一室で、リビングルームの椅子に形の良い褐色の肢を組んで腰掛け、手に持つ湯飲みを憂鬱そうに見つめていた。
「やはりな」
陶器の碗には、半分だけ残った煎茶が入っている。卓上には四分の一ほどかじった水羊羹が、小皿の上に鎮座している。
「どちらでもない」
ダークエルフは立ち上がると、居間を彩る風変わりな調度の数々を眺め渡した。砂時計のような形をした青い水槽、銀の葉を茂らせた盆栽。橙をした粘菌のような鉱物標本。
目にはやかましい景色だが、室内はしんと静まり返っていた。
ジイラが寄宿する行平家はもともと、狭苦しい作りの分、防音のいい建物の中にあるが、まして今は午前十時。近隣の子供等は学び舎に、多くの大人は働きに出ているのだ。
何かを探るには都合のよい頃でもある。鋭い耳をかすかにひくつかせた騎士は、長い腕を前に突き出して、まっすぐ伸ばすと、指だけを奇妙な角度に曲げ、滅びた国の言葉で何事かをゆるやかに吟じる。
朱の呪紋が手先から二の腕あたりまでを疾り抜けたかと見えるや、部屋のそこかしこにあるオブジェが陽炎のような揺らぎが包み、徐々に何もない場所に彩り鮮やかな煙が凝り固まっていき、それぞれが人に似た輪郭を形作る。
水槽からは、細長い布を斜めに巻きつけて衣とし、鰭と水滴を模した飾りで装った、のっぽの嫗。盆栽からは長袍をまとい編笠をかぶり、長い白髭を垂らした侏儒の翁。標本からは橙にぬめる液体が壮漢の巨躯を模した姿だ。
闇妖精は腕を下ろすと、厳かに呼びかけた。
「我が名はジイラ・メル・ウォルクム。灰に埋もれる国から来た。竜を御す騎士である。いずれ名のある方々と見受けるが、うかがえまいか」
初めに嫗が応えた。
“わらわはマツヤ。大水に沈める国から参った。海原の太后、呑舟の魚の最後の一柱”
次いで翁が言う。
“わしは扶桑(フーサン)。天落つる国から参った。蓬莱を支える仙木、最後の一柱”
さらに壮漢が続いた。
“俺に名は無い。エントロピーが近づく終末の領域から来た。最後の物質を食らうものだ”
ジイラは大きく呼吸して、後を引き取る。
「おのおの、朽ち逝く故郷から渡り来られたのだな。パパ…この家の主の導きにより」
三つの化身はそろって同意の仕草をした。
“この家にいるものは皆似た素性”
“眠りに就いていた故、挨拶もせなんだが”
“よくぞ覚醒状態にさせたものだ”
ひとりは海嘯の如く、ひとりは風に揺れる木々のさやめきの如く、ひとりは青銅の鐘の如く、それぞれ異なる言葉で話す。
どれにも夜の娘はうやうやしく聞き入ってから、わずかにためらい、しかしてまた訊いた。
「あなたがたが眠りに就いて時を過ごすのは、あの子…ハルカのためか」
魚、木、鉱物。三つの化身は互いを見合わせてから、また化石の森の主の方に向き直り、慎重に告げた。
“あの精気は強すぎる故”
“あの息吹きは、我等を養い、若さを蘇らせ、さらに強くする”
“なれど一度に吸収すれば、思考中枢に混乱が生じ、基礎構造に甚大な損害を蒙るだろう”
行平家へ先に居候をするようになった歴々が、思慮深く話すのに、尖った耳を傾けていたジイラは不意に咳払いをし、別の問いを投げ掛ける。
「私がよそで会った時、この家の主は、病んでいた。体の内が深く傷ついているようだった。あれはもしや」
“内傷(ネイシャン)と言う。養い児の強い精気に炙られ続けたためじゃ”
“ほかにもあちこちの国を訪れる都度、怪我はしているが”
“人間の基礎構造は脆弱だ”
三様の意見に、竜の乗り手は頭を振って尋ねる。
「あの子は事情をよく知らぬようだった。この家の主は何故話さぬ」
“臆病なのであろう”
“子を育てるのは初めてであるような”
“情報を与えて思考中枢の混乱を招くことが、関係の喪失に帰結すると警戒している”
化身が訥々と返してくる推測に、闇妖精はといえば、たわわな乳房の前で浅黒い腕を組んで、考え込むそぶりになった。
「諸方の国々から、私やあなた方のように、精気を吸うものを数多く集め、ハルカの周りに配せば、事足りるであろうか。あの子が、パパと一緒に暮らせるようになるであろうか」
すると水槽の魚が変じた嫗が、巻き布の衣をゆるやかに波打たせつつ呟く。
“この家の主はもはや、そうまで望んでおるのかどうか”
盆栽の翁は髭をしごきながら話の穂を継いだ。
“今はただ養い児が達者で育てばよかろうよ。共に生きられずとも”
最後に鉱物標本の壮漢は伸縮しながら、いささか晦渋な見解をまくしたてた。
“まして強い耐性のある個体を獲得した以上、目的はほぼ完了したと判断できる。今後の急速なエネルギー増大も、適切な管理により破局を回避可能であろう”
三つの化身は頷くと、不意に揺らめき、薄れ始める。
「待たれよ。あの子は何故あれほどの精気を放つ。まるであれは私の」
騎士は慌てて引き止めるように掌をかざしたが、緋文字が宙に瞬くよりも早く、人影はもとのオブジェに還ってしまっていた。
「うむ」
低く唸ると、ジイラはまた席に着き、すっかり冷え切った煎茶をすすって、残りの菓子を口に運んだ。どちらも味は気に入っていた。
「私は、まずハルカのママになるのだ。ママに」
瞼を閉じると、昨日の夕方から今朝の薄暮にかけての記憶がどぎついほどの映像となって過ぎり、覚えず唇の端から涎が一筋落ちる。かつて故郷で竜との絆を結んでいた頃にも等しき熱が、肚に疼く。
「ハルカ…ふふ…」
今朝、寝不足のせいで夢遊病のようになりつつも、裸にエプロンだけといういでたちで食事を用意し、どうにか服を着て出かけていった息子。台所に立ってよく働く小ぶりな尻や、ランドセルを背負っていってきますと挨拶する姿を反芻しているうちに、義母の整った造作はにやけ崩れ、最前までの凛々しさはすっかり剥げ落ち、だらしなく幸せそうな雌の表情が浮かんでいた。