灰の匂いがした。木の灰ではなく、岩の灰。彼方の山々から紅蓮の火柱とともに噴き上がり、粉雪のように降ってくる薄片が放つ匂いだ。
天には、冥々と凝り固まった叢雲のあいだに眩い紫白の雷が走り、血の匂いに狂った蛇の群の如く暴れ、絡み合っている。
やがて灰は雨に混じるだろう。
地には、化石の樹林がくすんだ鼠色に染まってどこまでも広がっている。といっても、かつて隙間ないほど茂っていたろう結晶質の枝と幹は、打ち続く鳴動と颶風とに倒れ毀たれ、もはやまっすぐに立っているものはまばらである。
太古に死してなお形をとどめる木々の尽きるところに、小高い丘があった。頂にはいずこか知らね深淵から切り出した鉄紺の巌が粗雑に積み重なり、城館とも陵墓ともつかぬ方形の建築を成して、一面に虚ろな眼窩と口腔とを晒している。
ぽっかりと開いた入り口にたたずむのは、極夜より暗い鴉羽色の甲冑。
籠手をはめた腕に鋼の大弓を携え、板金でおおった背には太矢を挿した箙を負う。腰には長剣を一振り。闇に浸したような鞘に収めている。ねじれ角のついた兜は面頬を落とし、ものものしい騎士のいでたちだが、肝心の軍馬はなく、ただ独り歩哨の如くたたずんでいる。
眉庇(まびさし)に翳る双眸が、不意に眼下の命なき森の一角に向いた。
人の影が 一つ、音もなく走り寄ってくる。格好はおよそ荒れ果てた焼け野にふさわしからぬ、仕立てのよい背広の上下と鍔広の帽子、手には大きな角鞄を持つ。それぞれ布地も革も景色に溶け込むような薄墨に染めてあり、滑るように動きは、黄泉からあらわれた亡霊にも似てとらえどころがない。
しかし鎧武者の兜に隠れたまなざしは、精確に曲者の居所を掴んだようだった。たちまち装甲で覆った腕が流れるように弓を番え、満月のように引き絞り、放つ。矢は黒い光芒を引いて灰の雨の中に弧を描き、空をよぎりながら一千にも分かれ、化石樹のあいだに突き刺さっていく。
鉛色の背広をまとった標的は、じぐざぐに駆けつつすべてを避けかわし、尚もはやてのように丘へ迫る。だがやがて無数の武器が行く手を遮った。矢の落ちたところから、円月刀と丸盾を持った骸骨が、あたかも草のごとくに生え出でて、軋みをさせながら集まってきたのだった。
影は足を止める代わり、兎か鹿の如く跳躍した。宙で身に捻りを加え、竜巻のように旋回しながら、手に提げた荷物を開くと、奇怪な鬨を放つ。
「イィイイイヤアアアアアアアア!!!!!!」
怪鳥を思わせる声とともに、低い唸りをさせて鞄の中から小さな渦を撒き散らした。四つの鋭利な切先を持つ得物。手裏剣が、髑髏の尖兵を砕き挫いていく。
骸骨の七、八割を一度に屠っただろうか。灰背広は正面にいた残敵を、手提げから反身の細刃、忍者刀を鞘疾らせざまに斬り伏せると、用は済んだと鞄を投げ捨て、さらに速度を高めて駆け抜ける。
だが待ち構える側はすでに二の矢を番えていた。籠手に包まれた指が開くと、飛び道具は緑の燐をまとってまっすぐに翔ぶ。
「イヤァアア!!!」
再び裂帛の叫び。忍者刀が常盤に煌く箭を打ち落とし、最後の間合いを詰めた。
騎士はあっさりと弓を捨てると、腰に帯びた長剣を抜き合わせる。真紅に輝く文字を刻んだ漆黒の諸刃が、青白い片刃と噛み合い、火花を散らした。
頭上では、霹靂がますます激しく轟き、足元では地鳴がいっそう騒がしくなる。灰の匂いにまじって硫黄までもが香って、早晩、呼吸すらままならなくなる兆しを示した。
打ち合うこと十数合。先に崩れを覗かせたのは背広の影だった。急に咳き込むように呼吸を乱し、構えをゆらがせるのを、騎士はすかさず下から抉り込むような鋭い刺突で喉を狙った。
隙と見せたのは誘いであったのか、乱破(らっぱ)は恐るべき俊敏さで体勢を立て直すと、切先を紙一重に首の横へかすらせ、跳び退りながら小手を痛撃する。
甲高い金属の叫びとともに、死の牙が足元に落ちた。濡羽玉の甲冑が武器を拾うべく腰を屈めんとする機先を制し、灰の背広がさらに鋭い横凪ぎで追い討ちを入れる。
騎士はたまらず二、三歩下がる。最早、灰の中に転がる得物を掴み取るのは諦めたか、足を前後に開き、両手を前に差しのべて、組み打ちの構えをとる。鎧の固さに望みを託し、捨て身でかかるつもりらしかった。
対する忍者は小さく頷くと、ゆっくり息を吸って吐くのに合わせて肩を大きく上下させ、無造作に太刀を抛り捨てるや、同じく柔(やわら)を使う素振りをした。
「イヤアアアアアアア!!!!!!!」
耳をつんざくような威嚇も、しかし黒の鎧武者をたじろがせはしない。禍々しい甲虫じみた光沢を放つ長躯はかえって奮い立つと、低く屈んで、叫喚の源へとぶつかって行く。敵の軽装を見て、重量だけで轢き潰さんとする勢いだ。
だが灰背広の影は逃れようとはしない。踏みとどまったまま、骸骨に囲まれた際と同じ急旋回を決めると、突進してくる甲冑の角の生えた兜を掌底で叩く。
とたん、ぐらりと騎士は均衡を失って前のめりに倒れた。
とどめになった一発は、単に軽く押しただけのようでもあったが、刹那のうちに相当な力が働いたらしく、薄墨の洋袴をつけた両足は地にめり込んでいる。
鮮やかな結末に、乱破は勝ち誇るでもなく、紙を裂くような乾いた咳をしてから、摺り足で歩き、相手の弓、剣を拾い上げる。
後ろでは無明に彩られた板金が、喧(かまびす)しくぶつかり合う音をさせながら蠢いていた。早くも鎧武者が起き上がろうとしている。とはいえ兜ごしに受けた衝撃から回復しきらぬ態で、先程まで全身からにじんでいた透明な焔の如き戦意は失せている。足甲で覆った二本の足が、どうにか支えなしで塵芥の積もった大地をまた踏みしめると、落ちた面頬の奥から、くぐもった声音が告げる。
“見事だ。望み通り、我が命をとって誉れとするがよい。異国のものよ”
「いや。そのつもりはありません」
灰の上着から白い袖と時計を覗かせた腕が上がって、目深に被っていた鈍色の帽子を脱ぐと、優しげな縹緻があらわになる。烏を思わせる髪、黄みがかった肌、筆で描いたような細い眉、小刀で切ったような双眸、尖った顎。女とも紛う相貌だったが、低くゆるやかな話し方は男らしかった。
“では何を望む”
騎士が尋ねると、青年ははっきり伝わるよう語句を慎重に切りながら述べた。
「あなたが守ろうとしたものを見せて頂きたい。仕事でしてね」
一瞬、濡羽玉の甲冑からまた殺気を溢れさせたが、潮が引くように鎮まった。
“是非もなし。この地に近づくものに決闘を挑み、打ち負かせば退け、もし敗れれば勝者に従うのが我が誓いなれば”
「ありがたい」
銀鼠の三つ揃いをまとった影が、うやうやしく黒い弓と刃を差し出すと、騎士は黙って受け取り、それぞれを鞘に収め、肩にかける。ややあって踵を返すと、鬼の顎(あぎと)にも思える城館の入り口をくぐって、勝者を奥へと導いた。
内部の構造はしごく簡素で、あたかも岩盤を半球にくりぬいたような空間があるきりだった。いびつな穹窿の一部はとうに崩れ、降り込んだ灰があちこちに積もり、亀裂から覗くかなたの曇天で稲妻が閃く都度、眩い光が窖の中にまで差し込んでは、死した巨獣の肋や腸じみた石壁の凹凸を、くっきりと照らした。
広間の中央には、太古の種族が静かに蹲っていた。かつて在りし智恵と威力のよすがが。外洋を渡る船の帆より大きな翼、破城鎚を思わせる角、どんな利剣をも霞ませる鋭い牙と爪。周囲には、王侯が己の帷子につけるために千金を積んだであろう虹に煌く鱗が、宝箱からぶちまけた金貨や銀貨の如く散らばっている。
竜の屍だった。
「ああ」
乱破が弱々しく喘ぐと、鎧武者は振り返って、兜の奥に隠れた眼差しを注ぎ、もはや外敵ではなく客人に対する口調で、問いを投げかけた。
“異国のものよ。滅び行く地で、滅びしものを、何故命を賭してまで求めた”
薄墨の洋服をまとった青年は、咳き込んでうつむく。あたりの硫黄の匂いはきつさを増していた。
「あなたの竜ですか」
“そうだ”
「私がお邪魔するのがもっと早ければ…だがまだ…」
云いさして、振り子の如く左右によろめき、背広の影は頽おれる。先刻までの水際だった手並からすると、にわかに信じがたいぶざまさだった。騎士は素早く抱きとめて、軽さに戸惑うようにしてゆっくり横たえた。
「失礼。持病で…ちょっと急な運動をしすぎました」
“胸が悪いのか。ここに薬と呼べるようなものはないが”
篭手をはめた腕に、青年はそっと触れて告げる。
「あなたは優しい方だ。たった今剣を交えた相手を気遣うとは。ではよろしければ、私の胸に印籠が」
“インロウ…これか”
携えていた弓を置いた鎧武者は、病人の上着の内側をまさぐって艶やかな木製の容器を取り出すと、器用に装甲に覆われた片手の指だけで蓋を開ける。中には丸薬がいくつかと、一葉の写真が入っていた。どこか緑豊かな場所で、倒れた男によく似た髪や瞳、肌の色をしているが、しかしずっと幼い子供が小さな手をいっぱいに広げて、あどけなく笑っているようすが映っていた。
面頬の奥から、臙脂に燃える双眸がじっと写真をねめつける。甲冑は凍りついたようになり、病人の手当ても忘れた風だった。
“この細密画は…娘か…あまりに可憐な…”
「息子です。あの、薬をいただいても?」
“息…子…?ああ、そうだったな”
促しを受けて丸薬を飲ませると、青年は瞼を閉じて飲み干す。後しばらくは竜の眠るそばで、二人は動かず、ただ地鳴りが陵墓を震わせるに任せていた。
「ありがとう。楽になりました」
“この娘…息子は何と言う…”
「遥(ハルカ)。私のただ一人の子…物心つく前に母を亡くし、私がこの通り外国出張ばかりのもので、いつも寂しい思いをさせています。そう」
急に莞爾とした忍者は、肩を支えてくれるごつい篭手をゆっくり握り締め、弾むように話した。
「望みはもう一つありました。仕事とは別に私用で。実は結婚相手を探しております。先程のあなたの戦いぶりにすっかり惚れ込みまして。よろしければ、遥の親に、私の伴侶になっていただけないでしょうか」
騎士は心臓が四拍を数えるあいだ、生きた彫像と化してから、兜で隠した首を巡らせ、手に持ったままの印籠と、写真とを一瞥し、錆付いた声で答える。
“是非もなし。勝者に従うのが我が誓いなれば”