千億羽の白鳥が羽を散らせたような、柔らかな新雪の原。腰まで埋まりそうな冷たいしとねの上に、一頭、小屋ほどもある銀の猟犬が立ち、背には金の仔猫を載せている。 ロンダルキアの城を守護する二将、バズズとアトラスが見たのはまずもって斯様な光景だった。いずれ本性は有翼の狒々と単眼の大鬼。異形というなら負けてはいないのだが、しかし両雄ともに眼前の獣が放つ威圧感には息を呑まれた。 「モニャス」 山吹の毛並みをした小さな貌が、ひどく人間くさい動きをし、妙なろれつで呪文を唱える。たちまち、下にいる鋭い爪牙の持ち主ともども光り輝いて、別の姿に変わった。上になった方は緑の法服をまとった華奢な少年、下になった方は紅い頭巾に象牙色の長衣をまとった、丈の高い娘。 「…下界の魔法使いか」 鮮やかな変化の術を前に、妖猿の移し身たる赤髪の青年、バズズが不承不承ながら感嘆の響きの混じった独白を漏らした。眼帯の壮漢に化けた巨人、アトラスは素直に相槌を打つ。 「見事なものよ」 長身の娘は、小柄な相方を肩車したまま無言で立っていた。少年は大きな目をぱちくりさせてから、短く呟く。 「寒い」 「眠い」 すかさず大柄な連れが応じる。 二体の魔将は顔を見合わせてから、あらためて招かれざる客を訝しげに眺めやった。いつまでもいたずらに時間を費やしてはいられないと、まずはデビル族の長が一歩踏み出して尋ねる。 「下界の魔法使い。何用だ。ここはロンダルキア王ズィータ様の御座所。うぬら下賤の輩が気安く近づいてよい場所ではないぞ」 「…届けもノだけど。お姉ちゃンニ」 何を考えているのかよく分からない表情で、少年が応じる。一角獣族の長は不意に隻眼を開いて、よく響く声で告げた。 「む?お主等見覚えがあるな…そうだ。いつぞや勇者アレフとこの城を訪なった、ムーンブルクとサマルトリア、ロト両王家の影武者だな」 「かげむしゃ?」 大柄な少女が頭を上げて相棒を窺う。猫目の童児は軽く耳の後ろを掻いて首を振った。 「お姉ちゃンニ会いニ来たノだ」 バズズは仇敵を凝視すると、拳を固めて喚いた。 「黙れ黙れ!ローレシアの小僧と一緒の時は煮え湯を呑まされたが、いい機会だ!穢れた双生の小僧めが!此度こそは雪原の紅い染みに変えてくれよう!アトラスはもう一方を始末せよ。どうせなりは大きくとも中身は赤ん坊と、さは違わぬ」 「ぬ…拙者は呪文の操り手はちと…」 アトラスは気が進まぬげに答えた。同輩と違って幼いロトの裔とぶつかった経験はなかったが、剛力を武器とする己では、名高い魔法の国からの使者には手を焼きそうだった。 癖のある金髪をしたサマルトリアの僧侶戦士は、視線をムーンブルクの魔法使いに落とす。 「プリン、どうする?」 「お腹減った」 「お姉ちゃンニ会ったらいちごパイ食べられるよ」 「何個食べていい?」 「四個ぐらいかナ」 「クッキィは何個食べる?」 「ニ個ぐらい」 「じゃぁプリンもその位でいい」 「プリンは育ち盛りだからいっぱい食べてもいいノ」 放って置くといつまでも続きそうなやりとりに、妖猿はしびれを切らして、虚空に大げさな身振りで呪印を刻んだ。 「死よ、死よ。我が敵の血を凍てつかせよ…ザラ…」 「マホトーン!」 言いざま月の都の姫は左正拳を振るう。長い四肢と、伸びのある大股の足捌きのため、初めはとても届かぬと思われたデビル族の長を捕えて、精確無比に顎を撃ち抜いた。なるほど術の働きはないが、詠唱は途切れる。 「イオナズン!イオナズン!バギ!バギ!」 プリンは呪文を連呼しながらもあくまで肉弾の連撃を続け、左右の腕を鋭く動かして猛打を浴びせる。一角獣族の長があっけにとられる傍らで、ロンダルキアの兵馬の統帥の顔はみるみる歪み、ひしゃげると、まるで王妃が得意とする、いちごの煮詰めをたっぷり塗った焼き菓子そっくりに変わっていくのだった。 「ぶべらっ…」 青年の整っていた目鼻立ちは、抽象画の如くにそれぞれ配置を移して、蒼紫と赤の混合に彩られる。やがて、ひどくゆっくりと痩躯が雪の上に突伏した。 「バズズ…モシャスも解かず…敵の正面で大がかりな魔法を使うなど…お主らしくもな…いやお主らしいか…」 同輩が、砂漠の国の金髪を前にすると理性を失うのはいつもとはいえ、ともにシドーの騎士と称えられる壮漢は、さすがに情けなさそうな面持ちだった。 「…そっちもやるの?」 血に濡れた双拳を掲げて、ムーンブルクの王女が静かに尋ねる。白兵ならばと、アトラスはやや武張った興味が起きかけたが、向こうの肩に乗った双生の童児が、妹分の頭をよしよしと撫でながらも、猫の瞳でじっと凝視しているのを認めて諦めた。恐らく直接攻撃を得意とする敵に対しては、あの半陰陽の少年が仮借ない術を使ってくるだろう。となるとバズズがのびていては勝機が薄い。 主君の命にかかわるのであれば、例え我が身と引き換えにしても二つの雛首を捻るのにためらいはなかったが、そうでないのはとっくに悟っていた。そもそも相手に殺気があれば、妖猿の統領とて、かくも間の抜けた負け方はしなかったろう。 「よかろう。通れ」 「プリン。行こ」 「うん」 大小の客が門を通り抜けていったあとで、巨人は溜息を吐くと、失神したままの妖猿を引き起こし、シドーの神官が控える施療所へ向かっていった。 「はいはい泣かない泣かない。男の子だろ。ほら、お菓子。君には特別大きいの」 黒衣をまとった細身の婦人が、涙の止まらないギガンテスの童児を歌うようにあやしながら、丸のままのいちごの焼き菓子を差し出す。 「うが…うが…おきさぎざまぁ…ごめん゛なざい…おで…おでごわがっだぁ…おっぎい竜が…城の奥でのっしのっし…」 むしゃむしゃと好物を平らげながら、幼い巨人は喚く。隣では同じ恐怖を味わったシルバーデビルの仔猿が、幾らか落ち着きを取り戻したようすでちびちびとおやつをかじっている。向かいの席には、シドーの神官見習いの少女が二人、城の小間使いの服に着替えて、行儀よく座ったまま突き匙を使っていた。 一角獣族とデビル族の男の子は面識があるらしく、甘いものを食べて心にゆとりが出てるとお喋りを始めた。 「情けないぞギーガ。我ら上級魔族がいつまでもうろたえるなど」 「だげどぉ…シルバーだって…こわがっだろ?泡ふいでだぞ?」 「そ、それは…と、とにかく、やつがれは…このような失態でへこたれぬ。必ずやシドー様の騎士になるのだ!」 「お、おでもフォル様のどもだちになりだいなぁ…だけどドラゴンが…おっがないもの…」 「ズィータ様…」 ぽつりと神官見習いの一方が呟くと、もう一方も頬を染めて宙を仰ぐ。 「素敵…」 「だめよアーカニ。あの方にはすでに家族が居られるのだから」 「アーカナだって…シドー様やフォル様も同じくらい素敵かしら…いいえ…大人の魅力って…あるもの…」 やや離れたところで、おやつを配り終えた王妃が苦笑いしながら、のぼせた姉妹を見守っている。 子供等の集まる食堂の片隅へ、いきなり廊下の冷たい風が吹き込んだかと思うと、金髪の少年と、それを肩車した長身の娘が現れた。あらゆる悪を滅ぼすサマルトリアの僧侶戦士とムーンブルクの魔法使い。だが正体など知らぬ魔族やシドーの信徒は、また新しい”御学友候補”かと眺めるだけだ。 「お姉ちゃン」 猫目の童児が嬉しそうに呼びかけると、黒衣の婦人は驚いて立ち上がった。互いによく似た顔立ち。若い方の天真爛漫さが、年嵩の方にも移ったように、笑みがこぼれる。するともう、ロンダルキアの闇の后は、ほとんど周りと変わらないほどあどけなく見えた。 「どうしたの?アレフさんと一緒じゃないの?」 「アレフはズィータと会うノ面倒だから来ナかった」 「プリンちゃんは一緒なんだね」 「いちごパイ」 寡黙な月の都の王女が、子供等の頬張る菓子を指差す。小さな相棒は耳の後ろを掻き、姉に向かって告げた。 「僕だけだとつまンナいから、プリンも連れてきた。いちごパイ食べれるって言ったノ」 「そっか…待ってね。皆もおかわりいるよね?」 食いしん坊の群は、女の子も含めて一斉に頷く。そさくさと取りにいこうとする王妃を、幼い縁者が袖を掴んで引きとめる。 「待って。届けもノあるよ」 「なに?」 「プリン」 呼ばれたムーンブルクの娘が背嚢を開いて、大きな布包みを出した。 受け取ったサマルトリアの童児はするすると紐を解く。中にあったのは男ものの法服、靴、帽子、手袋といった一そろい。布地は遥か遠く故郷に茂る樹々の、春盛りの葉と同じ色。神鳥の紋がついた衣装だ。雪国へ嫁いだ姉は息を詰まらせた。 「これは…僕には着られない…よ」 「お姉ちゃンノお父さんが言ってた。サマルトリアノ王子は死ンでナいって」 「ぁ…」 「きっと王子が必要ニナる時もあるって」 「…っ…」 王妃はそっと布地に指で触れ、丁寧な縫目のあとをたどる。意を決して手に取り、胸に当ててみると、大きさはぴったりだった。 「これ…誰が…」 「ルル」 「あの子が…」 闇の后、いやサマルトリアの一ノ宮は瞼を閉ざすと、懐かしい故郷の香りを吸い込んだ。やがて両目を開くと、少し気が引けるようすで縁者に語りかけた。 「ねぇクッキィ…ここ…お願いしてもいいかな。お菓子は次の間の戸棚にあるから」 「うン分かった。どこいくノ?」 王子はにっこり笑って答えた。 「見せにいくんだ。僕の友達に」 |
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