Blue Blaze No.2

「私の話、解りにくかったでしょうか?」

 語り終えた婦人は、ふと室内の沈黙に気付き、咳払いをして尋ねた。歌劇場で独唱の部が終ったばかりのような、森閑とした静けさが、彼女を落ち着かなくさせたものらしい。

「いえ、大変明快でしたよ」

 探偵は人差し指で天井を示す奇妙な仕草で懸念を打ち消すと、肘掛け椅子を発って、火の消えた暖炉の方へ歩み寄った。煤のこびりついた鋼の柵を眺め、腕を組みながら軽く顰め面をすると、拳を顎へ宛てて押し黙る。だが席へ戻った時には、すっかり合点が行ったといわんばかり晴れ晴れした表情をしていた。

「店に、何かお預けになりましたか?」

「はい。でも、化粧箱を収めた手鞄だけは離しませんでしたの」

「宜しい、さてヒギンズさん。私の記憶が正しければ、貴女がお召しの"赤い館"の着物は、茶会や園遊会といった催しへ着てゆく昼のドレスと、正装用の夜のドレス、そして、今身に付けていらっしゃる外出用の朝のドレスが揃えになっていらっしゃる」

「その通りですわ」

「空の色へ合わせて生地の濃淡を変えるのを除けば、丁度同じ服を着ているかのような錯覚を抱かせるよう、似た仕立になっている…」

「共和国の流行です、少なくとも人の話ではそうと…」

 得たりと、鋭い勝利の表情が、グレマンの口元を掠めた。婦人は怪訝そうな態度で、謎解きの続きを待っている。

「失礼ですが、そのため縫製で無理がかかり、衿から胸へかけて、襞飾りの合せが崩れやすい欠点があります。恐らく園遊会で一度、ひょっとすると料理店に入ってからも一度、服の乱れを慮って、化粧台へ立たれませんでしたか?」

「…あの…グレマンさん…」

 美しい依頼人は、明け透けな指摘をされて頬を赤らめた。傍らで影の如く控えていた少年が身動ぎし、小さな目配せで、もっと礼儀を守るよう求める。

 探偵は頷くと、山猫のように忍びやかな足取りで夫人の座る椅子の隣へ並んだ。穏かな表情を浮かべて、緊張をほぐすよう、幾分ゆっくりと喋る。

 「貴女が学校で受けた教育を、しばらくの間だけ忘れて頂けませんか。探偵は告解師と同じような者とお考え下さい。少なくとも私は…」

 「やはり何もかもお答えする必要が、あるのでしょうね?」

 「気が楽になる事を話しましょう。私は貴方と同じ女です。ああ、そのお顔からして、バートン夫人からは聞いていらっしゃらなかったのでしょうね。取り立てて秘密にしている訳でもありませんが」

 グレマンは、自分の発言がもたらした効果を観察しながら、僅かに首を曲げて慇懃な笑みを浮かべた。ヒギンズ夫人は茫然とした様子で、相手のズボンにチョッキといういでたちを眺め、同性であるという説明と適合させようと、四苦八苦している様子だった。

 「そうでしたの…メアリが秘密めかして私達の味方といった意味が解りましたわ…」

 「勿論、私は貴女の味方です」

 「でしたら、はい…確かに料理店でも一度、化粧台へ行きました。はしたないとお思いにならないで下さいね…」

 「近頃の女性には当たり前のことですよ。その時、化粧台の側に誰かいませんでしたか」

 依頼人は、ようやく肩の力を抜いて、笑みを返した。頭を左右に振って、両手の指を膝で組むと、視線を真下へ落す。上薬の剥げかけた床の木目を追いながら、記憶を辿って、再び否定の仕草をする。

 「いいえ。他に人は、誰も居ませんでしたわ?そこですられたとお考えですの?手鞄を鏡台の横へ置いたのは確かですが、ほんの少しの間でしたし、あの箱は開けると音楽が」

 「犯人は恐らく僅かな時間さえあれば仕事を終えられた筈です。従業員は?たまたま客の忘れ物を取りにきたとか、そういった理由で貴女を煩わせませんでしたか?」

 「…ああ、それなら…背の低い娘が一人、慌てふためいて後ろを抜けて行きました。でも、通り過ぎただけですわ」

 「なるほど」

 短く相槌を打つや、探偵は素早く小さな相棒へ合図を送った。マッキンリー少年は、彼女の推理を保証するように頷く。満足した探偵は、すっかり煙に巻かれた態の依頼人へ向き直ると、安心させるよう言葉を接いだ。

 「古い手口ですが、アラン・ロスタールは同じ遣り方を過去に七回以上もやって、決してしくじらなかった」

 「ロスタールさんが?まさか?」

 「奥様。最初から彼を疑っておいででしょう?私の元へ見えられたのも、彼を追い詰める為の助力を得ようとしたからに違いありません」

 初めてヒギンズ夫人の面差しを、明敏な知性の影が彩る。立て板に水の如く喋りながら、柔らかな物腰を崩さぬ探偵を、改めて、演技の交じらぬ賞賛を込めて見詰める。

 「…シャーロック・ホームズのようだという噂は、本当ですわね」

 「種をばらしますと、彼とは付き合いが古いだけですよ。尤も以前は別の名前でしたが」

 「え?」

 「以前はラ・ドゥワイエ子爵でしたか…まぁそれは置くとして、恐らくその娘は彼の手下です。保証しますが、貴女をその料理店へ誘ったのは、最初から下心があってでしょう…」

 「そう、そうなのですね」

 「ひょっとすると最初に赤い館のドレスについて、話をしたのは彼かもしれませんね?貴女は彼から気をそそられる共和国の流行について聞いて、その厄介なドレスを買う気になった」

 「でもどうして?」

 「ドレスを着た貴女を化粧台へ行かせるためです。胡桃邸から料理店へ行く途中、馬車は酷く揺れましたか?」

 「一度曲がり角で辻馬車とすれ違って、馭者が急いで向きを変えさせましたけれど」

 「ではすれ違った馬車も、化粧台の小娘同様、あの男の手下とお考え下さい。全て貴女の服の衿を乱す為だったのです。彼の指はちょっとした機会さえあれば、誰にも気付かれずそれができます」

 ヒギンズ夫人は、信じられぬと口元を蔽った。グレマンは何気なく、胸元からパイプを取り出そうとしたが、マッキンリーが軽く爪先で床を叩いく音を耳に留め、不承不承止めた。

 「憶測だけで喋っているように聞こえるかもしれませんが、以前共和国で、似た手口で盗みがあったのです。生憎警察は、容疑者を、証拠不充分から逮捕できませんでしたが…」

 「けれど、そう伺ってもやっぱり確信が持てませんの、ロスタールさんは夫の友人ですし…」

 「彼には友人が多い。表向きは冒険家で、魅力的な紳士で、しかし、しょっちゅう悪戯めいた犯罪を起こすんです。大抵の場合もっと大きな目的を隠す為ですが…ふむ…貴女の目的は、宝石を取り戻すことでしたね。そうでしょう?」

 「ええ。青い炎さえ戻ってくれば…彼が何者だろうと構いません」

 「結構、ではお願いがあります。まず化粧箱と、手鞄を見せて頂きたい。それから、料理店の名前と、胡桃邸からそこへ至るのに使った経路を教えて貰います。最後に、化粧箱を作った職人も紹介して欲しいのです」

 「はい、勿論ですわ」

 探偵は手を取って依頼人を立たせると、低く告げた。

 「良かった。全て恙無く行けば、一週間と掛からず青い炎を取り戻して見せますよ」










 馬車が去っていった後で、男装の探偵は存分にパイプを燻らせ、窓辺へ尻を落ち着けた。灰白色の陽射しが、大理石の彫像の如く青褪めた、しかし整った横顔を照らし、部屋の隅の薄闇と相俟って、フランドル絵画のような印象深い陰影を作り出す。

 「どう見るかねマッキンリー君」

 尋ねる声は、先程客へ一席ぶった時と異なり、幾分女らしさの篭ったものになっていた。すると、それまで真鍮製の置物宜しくしゃちこばっていた少年は、ふっと力を抜いて、抑揚を欠いた台詞を返す。

 「可哀相な人です。探偵と泥棒の良い玩具にされて」

 「彼女は全然可哀相な人間なんかじゃないと想うがね。知っている事を小出しにして、探偵を試したんだから、大した神経をしてる」

 マッキンリーはうんざりという風に呻くと、長椅子へ腰を降ろした。

 「穿った見方をしすぎですよ。不安だったんでしょう。この事務所は探偵に対する信頼を呼び起こすようなものはありませんからね」

 「とんでもない。彼女が情報を僅かづつ与えたのは、私が藁の山から針を探り出すような芸当をするのを観察するためさ。お陰で、此方も喋りながら彼女をゆっくり観察できたがね」

 語句の端々に、押し殺した怒りが篭っている。退屈そうな目付きで、窓の下を行き交う人々の服装を品定めしながらも、探偵が立腹しているらしいのは明らかだった。相棒の気紛れな性分を重々承知している少年は、こっそり溜息を吐いてから、口調を和らげて呟く。

 「素晴しい語り振りでしたよ。宝石を盗まれた本人を前にして、現場を見て来たかのような」

 「それは私が偶々、ロスタール氏、いや、ラ・ドゥワイエ子爵でもでもいいが…つまり暗闇梟の手口を知っていたからさ」

 「予備知識も探偵の実力の内ですとも。ヒギンズ夫人は感心していました」

 慰撫とも嫌味ともつかない表現をされて、探偵の唇は皮肉っぽく歪む。

 「自分より短い時間で、自分と同じ結論に達したという意味ではね。ねぇマッキンリー君。よくよく気をつけなくてはいけないよ。暗闇梟は犯罪を運んでくるんじゃない。彼は梟が闇の中で鼠の気配を嗅ぎ取るように、犯罪の匂いに惹き付けられるんだ。あの夫人は何かを隠している」

 「泥棒は泥棒ですよ。あの男は、貴方に挑戦したくて、ヒギンズ夫人のような無辜の人を巻き込む犯罪を起こしたんだ。あるいは"鵞鳥の卵"絡みの企みにジャクリーン・グレマンを誘い出すためか、どちらにせよ、問題なのは、仮名ロスタール氏の方です」

 相棒のむっつりした物言いに、グレマンは肩を竦めた。

 「君こそ穿ちすぎじゃないか。青い炎と鵞鳥の卵はどちらもダイアモンドだという以外に共通点はない。片方は、バートン夫人のささやかな集まりを"社交界"と呼ぶ程自惚れた商人の細君の持ち物、もう片方はそう、畏れ多くも女王陛下の御物だ」

 「…で、僕は何をすればいいんです」

 「件の料理店について、従業員と客の両方について聞き込んで欲しい。それとここ最近、見慣れぬ辻馬車があの近辺を走っていなかったか調べてくれないか。向うが手下を使うなら、此方も組織力を使おうじゃないか」

 「グレマンさんは?」

 紫煙が女の顔を包み、炯々と火を点す双眸と、血気の薄い、白皙の面差しを隠す。

 「私は、ヒギンズ夫人の頼みに応じて働いたという万能の職人l'uomo universaleに会ってみるとしよう」

 「何か関係があるんですか?」

 「暗闇梟と私に共通点があるとすれば、偉大な技芸に関して、並々ならぬ敬意を表する態度じゃないかな」

 はぐらかすような答えを聞いても、少年は然して苛立った素振りをせず、ただ小さく頷いた。

 「解りました、では始めましょう。一週間で解決という約束が、嘘にならないようにね」










 探偵が解くべき謎は、人と人の間で紡がれる。人が密に暮す場所程謎の糸は縺れ、世に言う緋色の一筋が交り易くなる。地方の農園と中央の市街では、起きる犯罪も、調査方法も自然趣を異にする。

 都市には数多くの目があり、口がある。厄介が多い分、手掛かりも多い。正しく問う術を知っていれば、正しい答えを導ける。都会者は嘘吐きだが、田舎者のように意固地な唖ではない。

 警察と同じ目を持つならば、赤線や阿片窟や貧民街を絡め取る、緋色の網に気付くだろう。之が答えへ至る第一歩、闇組織の縄張りだ。彼等は、日の光を浴びぬ領域では限りなく万能に近く、下層社会の出来事全てに関わり、大抵の犯罪に力を貸している。

 より高い地位にある人物が何か企みを実行に移す際も、意識的にせよ無意識的にせよ、暗黒の徒へ接触せざるを得ない。悪は悪を求め、結びつき、必ず一繋がりの存在へと成長していく。己の手を血で染めて、不正な利益を得た者が、油断していると次の瞬間、証拠を握られ、恐喝や強請の対象となる。

 暗闇梟のような怪盗紳士は別格だが、しかし其でも、某かの痕跡は残してしまう。将来、金になる望みがある限り、あらゆる秘密は取って置かれ、滅多に忘れられることはない。

 今此処に独り、組織に情報を求める者が現れた。漁夫にして猟師、闇に生まれながら闇を狩る側へ寝返った人物。組織は彼を"犬"と吐き捨てたが、娼婦や路上の孤児、乞食は未だに"王"と呼んで憚らなかった。

 少しだけ、この男について語るとしよう。

 "孤児の王"ラルフについては、帝都で最も鼻の利くタブロイド紙の記者すら、噂にしか聞いたことがなかった。警察は勿論、随分前から新たな王権の台頭を感じ取っていた。救世軍の士官は或る時から、襤褸を纏った子供達が規律のある行動を執り始めたと本営に報告していた。

 ことの興りは七年程前。不思議な噂の波が街区から街区へと広がると、以前は大人をも震え上がらせていた、小さな盗賊団の多くが浮き足立ち、激しい混乱と恐慌を来しながら瓦解していった。月のない晩は幼い喉が放つ断末魔の絶叫が響き、路地裏で激しい乱闘の音がした。ところが、誰が調べても、壁や地面には一滴の返り血すら認められなかった。

 大人達は首を傾げたが、初め、何が起きているのか全く解らなかった。

 何が起きていたのか?

 戦争が起きていたのだ。

 群雄割拠する帝都の路上を、僅か五つばかりの男の子が変えようとしていた。フランク帝国を打ち立てたチャールズ大帝のように、ラルフは次々と敵対部族を打ち破り、従う者を配下へ加え、逆らう者を殺し、追放した。

 当初、裏社会の顔役連は、子供同士の血腥い食い合いを下らぬ騒ぎとしていた。所が、終ってみると、巨大な敵が出来上がっていた。

 ラルフは少女娼婦と少年娼を大人のポン引きから切り離し、自分のものにした。彼は、大人が決してやらなかった制度を児童売春に導入した。つまり小さな売春者達の命を守る為に用心棒をつけることで、彼等の支持を得た。ナイフやブラックジャックで武装した大柄な少年は、充分に護衛の役を務め、ただの買い叩かれるだけで利の薄かった商売に、安定した収入を齎した。

 ラルフは靴磨きと犬の糞拾い、溝掃除、物乞いを組織化し、ごろつき、乞食や年を食いすぎた売春婦から職を奪い取った。組合は吼え猛り、自らの利益を守ろうとちび共を脅かしたが、鼠のようにすばしっこい競争相手を、路上という仕事場から追い出すのは不可能だった。

 だがラルフの最大の商売は情報屋だった。彼は仲間を訓練し、帝都で最も鋭い目と耳へ鍛え上げた。都合の良いことに、孤児は何処にでも居たのだ。頭のおかしいメソジスト派の牧師と、都の衛生維持に腐心する害虫駆除係を除けば、大人は皆が彼等を無視し、存在しないかのように扱った。

 丁度、中産階級が使用人を空気のように扱う如く、貴族が平民を、社交界という舞台を彩る退屈な描き割として扱うが如く、女王と議会が植民地人を便利な家畜と見倣すが如く。

 だが孤児は何処にでも居た。植民地人が何処にでもいるように、使用人が何処にでもいるように、国中に平民が溢れているように。彼等は存在の希薄さを逆に利用して、噂を集め、真実を選り分け、売った。高額でだ。黄金よりも貴重なものとして。

 波止場のどの倉庫にどれだけの馬鈴薯があるか、どの病院では、解剖済みの死体をいつどこへ捨てるのか。あらゆる情報は、忠実な家来によってラルフの膝元へ集められ、必要とする者の元へ伝えられた。

 路上のあらゆる職業が跪き、平和共存を申し出た。犯罪組織は、警察や敵対組織の動向を求め、同時に、路上の孤児にいきなり後ろから刺される恐怖から逃れようと彼のもとへ詣でた。空気や描き割や家畜と戦う愚を知ったからだ。

 衝突がなかった訳ではない。子分を集めて、ガキ共を殺せと息巻いたある強面の顔役は、その帰り道、馬車ごと帝都の真中を流れるタメシス川の堤防を越えて、冷たい水の中へ突っ込んだ。いつのまにか、車軸が外れていたらしいが、水底から引き上げられた残骸はもう、細工の跡を判別できるような状態ではなかった。

 郊外の農園へ閉じ篭って、手紙で虐殺の指示を送った顔役は食卓の家鴨に当って死んだ。家鴨は銅貨の緑粧の交じった餌を与えられていた。誰に?解らない。結局、子供は何処にでもいるのだ。

 ラルフの栄光はいや増し、やがて孤児達は大人の前で胸を張って歩くようになった。

 だが得意の絶頂にあったはずの二年前、王はいきなり退位の意を明らかにした。原因は、とある事件だった。

 其年、帝都の東端の貧民街で八人の娼婦が首を切り裂かれて死んだ。大事な商売道具を傷つけられた組織は血眼になって下手人を探し、手紙で挑発を受けた警察も、たかが売春婦殺しには珍しく本腰を入れて捜査を行なったが、生憎結果は芳しくなかった。

 件の殺人鬼の足跡は雲か霞のように捉えどころがなく、貧民街の何処をも塒にしていない様子で、手掛かりが見付からなかった。おまけに、どうやら相手は中流階級以上の人間らしいと目途がついた所で、殊もあろうに政府から強い圧力が掛かり、表と裏の顔役は共に引下るしかなかったのだ。

 だが、娼婦は同業の死を悼み、復讐を望んだ。組織も警察も当てにならないと知った彼女等は金を出し合い、とある探偵に追跡を依頼した。

 探偵は、帝都切っての情報屋としてラルフに助力を仰いだ。

 しばらくして、三人の少女と一人の男が死に、事件は終った。男は、獅子と一角獣の紋章がついた手巾を持っていたが、それは孤児の王の靴で踏み躙られ、屍と共にタメシス川へ放り込まれた。"切り裂き魔"の最期は、探偵と娼婦と孤児以外誰も知ることがなかった。

 死んだ三人の少女は囮で、はるか低地の国の奥津城に匿われた殺人鬼を、再び帝都へ誘き出す餌の役割を振られていた。内一人はラルフの后と呼ばれた娘で、勇敢で賢く、彼の腹心を務めていた。だからこそ、危険な任務を率先して引き受けたのだ。結果として最愛の身内を犠牲にしてしまった王の嘆きは深く、引退の決意を固めさせるに充分なものだった。

 彼は、信頼のおける孤児仲間の寄合へ後事を託して一線を退き、路上から消えた。

 だが、子供達は忠誠と敬意を忘れなかった。帝都の孤児は依然、孤児の王ラルフ・マッキンリーの用を務める手足であり、街の隅から隅までを探る耳目であった。なればこそ、如何に暗闇梟と雖も、其の網から逃れるのは至難の業であったといえよう。










 「あたし知らないわ、本当よ王様」

 少女は髪を梳りながら、不満そうに呟いた。小じんまりした部屋はひどくちらかって、どこにも若い女の子らしさは無く、どれもこれも埃を被り、辛うじて壁にかかった料理店の制服だけが、清潔を保っていた。

 「知ってることだけでいいからさ、エリー」

 ベッドに腰掛けた少年が足をぶらぶらさせながら、そう答える。エリーと呼ばれた娘は髪から外れなくなった刷子を引っ張りながら口先を尖らせ、不服そうに宙を睨んだ。

 「メニューだって覚えきれないんだもの。その日の従業員の顔なんて、無理よ」

 「んなんじゃ給料上がらないぜ。折角良い仕事に就いたんだしよ。親の有る奴等に負けねぇようにしろよ」 

 「お説教はよしてよ、五つも年下の癖に。皆はちやほやするけど、あたしは王様のことは怖くないんだから」 

 「怖がらせようなんて想ってねぇよ。とにかく頑張って思い出しなって」

 「無理!」

 「けち」

 言い捨てると、少年は、少女を置いて玄関を出ようとする。はっとしたエリーは後ろから小さな肩を掴んで、引き戻した。

 「もう行っちゃうの?」

 「そうさ、他の奴に聞く」

 「でもデニーのことで相談に乗ってくれるんじゃないの?」

 「あいつも十九だろ。飲んだくれようが知った事じゃねぇな」

 「デニーは王様の言う事しか聞かないのよ?知ってる癖に。酔うと、昔はイレギュラーズで一番頼りにされてたっていつも嬉しそうに…」

 ラルフ・マッキンリーは立ち止まると、鋭い目付きで彼女のほうを振向いた。

 「へぇ?他になんか言ったかい?」

 蛇が喉笛を鳴らすような掠れた声音に、エリーはぞっとして凍りついた。

 「い、いいえ、それっきりよ。デニーは、口が固いもの。王様、いやよ。デニーは王様が好きなの、大好きなのよ。お願い、怒らないで」

 刹那、暗闇が少年の周囲を包み、影を何倍にも膨らませたように見えたが、すぐそれはランプの火の揺らぎの中で、元の大きさに戻った。

 「怒っちゃいねぇよ。デニーには飲み過ぎねぇよう言っとくさ。邪魔したな」

 「あ…ありがと…ねぇ待って、私知ってるの。友達のキャシーって子が一日だけ月の物を酷くして休んで、従妹だっていう、凄く背の低い、でも可愛い女の子が代りに入ったわ。ブルネットで、全然似てなかった。後でキャシーに訊いたけど、誤魔化されたわ」

 「共和国語鈍りだったろ?」

 「そうよ、ヘンリーをアンリなんて言わなかったけど。私気付いたわ。外国人よ。ねぇ、これって友達を売ったことになるかしら。あの子に頼まれたの。支配人を誤魔化して欲しいって。キャシーはそんなにお金持ちの家の子じゃないのよ。お願い王様…」

 引退した孤児の王は、困ったように肩を竦めると、少女の手を取って軽く叩いた。

 「エリー。こっちを毒虫みてぇに見るのは止めな。王様だったのも昔の話さ。今はただ話を聞きたかっただけ。やべぇ仕事とも、むかつく告げ口とも関係ねぇよ」

 「ああ、ごめんなさい王様…でも知ってることはこれで全部よ…デニーのことお願いできる?私たち結婚するのよ。あの人が年季明けの配管工になってくれれば…」

 「それは心配すんなって。親方のガドモードさんは良いおっさんだ。とにかく前に会った時はそんな感じだったぜ。酒の話もデニーにちゃんと言っとくからさ。エリー。これで旨いもんでも食いなよ。ロブの店じゃ最近、フィッシュ・フライを買うと、カップルにだけ一切れおまけ呉れるんだってさ」

 エリーは、少年の放った硬貨を掴んで、頬を緩めた。

 「本当?行って見るわね。ありがと王様」

 額にキスを受けてにっこり笑うと、ラルフは狭い下宿を後にした。探偵事務所のそれにも増してぼろい木製の階段を、軋み一つ立てずに、滑るような速さで降ると、半開きになったドアから外へ出る。

 十歳くらいの乞食坊主が二人、地面に蹲って石ころ遊びをしていたが、彼を認めると素早く立ち上がって、ひしとしがみついた。

 「エリーの泣き言を聞かされたんだろ王様」

 「へっ、デニーが悪魔の水の味を覚えちまったからな。しくしく涙が止まらないんだぜ」

 ラルフは、げらげら笑い出す二人を怖い顔で睨みつけて、すぐ可笑しそうに唇を吊り上げた。

 「ジャス、ケリー。報せは?」

 洟を垂らした孤児の片方が、飛び跳ねて、金切り声を挙げた。

 「解ったよ。例の馬車は床屋通りを抜けて、虱横丁を入って、織物屋通りへ折れて、ジェームズ二世大路へ出て、また床屋通りへ入って、泥棒小路へ消えたのさ」

 「合計五回も、毎度毎度道筋を変えて、例の曲がり角で馬車とぶつかる練習をしてんだ。全部道筋を言えるぜ。でも馬車も二度変えてる。古い馬車は中古で売っちまった。買った奴を調べて、確かめてみたけど、普通の二頭立てだったぜ。共和国製じゃなかった。馭者はハゲで赤ら顔のデブだ。用心深い奴で、宿は解らなかったけど。この前の火曜日に船で海峡を渡ったみたい。後は向う岸の兄弟たちに聞かないとな。一応連絡とってみるけど、もっとやるかい?」

 「ああ、だが深追いはすんなよ。そいつも泥棒の本職だ。誰か、奴がヒギンズ夫人の馬車にぶつけようとしたって、警察で証言できそうなカタギはいるか?」

 「そいつは無理だ。あそこジェームズ二世大路は俺達みたいなダニはうろつけねぇし。息のかかった大人も潜り込ませてねぇもの」

 得た情報を熟慮しながら、少年はゆっくり脚を動かした。後から二人の子分が小走りについて行く。

 「王様、どうすりゃいいんだ?向こう岸の兄弟たちは手柄を立てたがってるから、馭者をふん捕まえる位はするぜ」

 「だめだぜジャス。王様も言ったろ。そいつは泥棒の一味なんだ。迂闊に手を出すとこっちが痛い目を見る。くそ、サツに証言がいるのかい?奴等俺達ダニの証言なんててんから信用しないし…」

 ラルフは立ち止まると、もう充分という風に腕を振って、こましゃくれた参謀達の提案を打ち切らせ、顎をしゃくった。

 「ジャス、ケリー。仕事へ戻れ」

 「そう?なぁ王様、今度はいつ戻ってくるんだい?あんたが居ないと兄貴達は、ばたばたして内輪揉めを起こしちまう」

 「マギンティ一家と西区のトレヴァーが、ハンクとリッキィにそれぞれ鼻薬を使ってんだ。俺達、大人にいいようにされちゃうよ」

 不安そうな訴えを、しかし孤児の王は断固として斥けた。こうして実務に関する助言を求めるのは、仲間内では淋しさや幼さを見せぬよう意地を張る彼等の、精一杯の甘え方なのだ。

 「ハンクにもリッキィにも考えがあんのさ。引退した奴がどうこう嘴を挟む筋合いじゃねぇ…デニーは銀鷲亭?」

 「ああ、多分ね」

 「また火酒で酔っ払ってるよ。昔の栄光が忘れられないんだ」

 「十九歳で?デニーの甘ったれめ。ありがと、助かったよジャス、ケリー。いつでも家に遊びに来な。犬小屋より狭いけど、雨は凌げるぜ」

 二人の頭を撫でてから、くるりと踵を返すと、少年は馴染の酒場へ向かった。やれやれ。仲間を使ってもこの程度か、相棒に合せる顔がない。得られたのはただ単に、彼女の推測を裏打ちするだけの情報だ。暗闇梟の首根っこを抑え込むに足る、有無を言わさぬ証拠とは程遠い。

 「どうやら、そっちに期待するほかなさそうですよ。グレマンさん」

 首を捻って酒場の扉を押す。喧騒が熱風となって頬を撫ぜると、ラルフの表情は揺らぎ、探偵助手のそれから、また孤児の王のものに戻った。

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