Blue Blaze No.1

 隙間風の入る下宿の二階、暖炉の煤と、得体の知れない化学の実験で汚れたモルタルの壁は、住人が歩き回る度に、乾いた欠片を落す。裏側を駆け抜ける鼠の気配、隣からは、酔っ払いの怒鳴りや、赤ん坊の泣き声が漏れ聞こえる。

 窓の向う、騒がしい帝都の街並は、今日も今日とて、工場の煙突から立ち昇る煤煙と、河からの霧に巻かれ、天を突いて聳える時計塔も、装飾を施した大聖堂の天蓋も、陰気な灰色と黒に塗り潰されていた。さながら、絵具をけちった画家の手になるバビロン像だ。

 しかし、目を痛め、喉を焼け付かせる朧霞を通してさえ、教会の屋根だけは、ぼんやりと輪郭を見て取れる。さもありなん。篤信者も不信心者も併せ、四百万の会衆を分かつ各教区には、其々の階層に応じた規模の神の家が建つ。朝も終わりに近付く頃は、川下の余り景気が宜しいとはいえない片隅までも、時を告げる青銅の鐘が朗々と響き渡る。

「十時だ。お客が来る頃だな、マッキンリー君」

 桟に手をつき、通りを眺めていた人物が、海泡石のパイプを口から離し、独りごちるように呟いた。彼はくるりと室内を振り返ると、連れに向って芝居がかった風に片眉を上げて見せる。声に篭った自信有りげな調子に対して、長椅子に腰掛けた年若い少年が、新聞から目を上げて、不審そうに答える。

「さぁてグレマンさん。僕は市民の平穏な生活のために、そうでないことを祈りますが」

 尤もな言葉をぶつけられると、グレマン氏は、卸したてのように小奇麗な海老茶の胴着(ちらかった部屋には実にそぐわない代物だが)の胸に出来た皺を指で直してから、再びパイプの端を噛んで、紫煙を燻らせた。

「おいおい私に失業しろというつもりかい。だがどっちにしたってこの帝都では、一週間と退屈な日は続きやしないんだ。そろそろ胸躍るような事件の依頼が舞込むような気がするね」

「まったく、貴方って人は余り趣味が良いとはいえませんね!犯罪が起きるのを待ち焦がれるなんて。じゃあ、どうです?今日の帝都日報にほら、こんな話が載ってますよ」

 インクで手を汚さぬよう気を使いながら、少年は新聞紙を掲げてみせる。三面に大きく"怪盗暗闇梟、三度帝都を揺るがす!盗まれたのは王立美術館の名画5点"云々と組まれ、大きな挿絵が入っている。黒覆面に、黒の鍔広帽、黒い套衣に黒い燕尾服と、何から何ま黒づくめの怪人が、にやりと三日月のような笑いを浮かべながら、五枚の絵画を小脇に抱えて、夜陰に飛び去る場面だ。

 グレマンはざっと字面を追うと、呵々大笑し、煙にむせて軽く咳き込んだ。新聞紙を支えていた方は、気を悪くして膝元へ畳むと、唇を尖らせて尋ねた。

「なんだって笑うんです。警察当局は、この盗賊のために特別捜査本部を設置しているのに。次は女王陛下の御物を狙うと公言して憚らない大胆な犯罪者ですよ」

「いや、いや。失敬。挿画家のやつ、杖と単眼鏡をつけ忘れたんじゃないかね」

「そういえば…しかし、大した問題じゃないでしょう。グレマンさんも、暇を嘆く位なら、暗闇梟を捕まえる智慧を絞ったらどうなんです」

「いや、泥棒を捕まえるのは私立探偵の仕事じゃないな。本庁の連中に任せるよ。さて…」

 不意に言葉が切れる。階段の軋みが、短い沈黙を破り、ゆっくり部屋へと近付いてくる。探偵は小さな相棒へ目配せすると、素早くパイプの火を消した。白皙の面には冷静な、しかし満足げな微笑が浮んでいる。外では固く規則正しい足音が続き、少し躊躇うように止まってから、また古びた木板を踏んで、上へと登る。

「どうやら我々の依頼人は、若い既婚婦人のようだ。夫は年だろうな。帽子は流行の品を買うんだから、金は持っているらしい。随分育ちが良くて、神経質な性質らしいが…痩せ過ぎてさえいなければかなりの美人だ」

 相手の姿を見てもいないのに、まるで目の前にしているかのような口振りで、姿形や仕草を解説していく。マッキンリー少年は眉を顰めて応えなかった。なんとも胡散臭い占いかペテンのようだが、年上の友人は、予言を外した試しがないのだ。

 やがて、小さく二度、扉を敲く音がした。

「どうぞ、お入り下さい奥様」

 グレマン氏がごく慇懃に招くと、戸惑ったような間が合ってから、把手が回り、油のさしていない鎹を擦りながら、内側に開いた。

 入ってきたのは背の高い女性で、地味だが仕立ての良い服を纏っていた。確かにボンネットつきの重そうな日除け帽を被り、しっかと手提げ鞄を脇を引き寄せて、真剣さと脅えの入り混じった顔付きで、粗末な調度品を見渡した。唇には毒々しい程濃い紅を引いてあるのに、全く色が映えない。外の寒さにあてられたか、あるいは、此処を訪れる人々にとってもっと有りそうなのは、とてつもない心配を抱え込んでいるかのどちらかに違いなかった。

「こちらは…」

「グレマン&マッキンリー探偵事務所ですが。失せ物探しをご相談に?」

「え、ええ、そうですの…でも」

「余りにみすぼらしいのが気に掛かりますか?そうでしょうね、ヒギンズ夫人。確かにあなたのような、暮らしをしている方には、些か胡乱に見える場所なのは致し方ない」

 女性はいきなり名前を呼ばれて、あっとよろめいた。マッキンリー少年は素早く側に歩み寄って、ほっそりした肘を掴み、倒れないよう支えた。

「失礼を」

 声変わり前の甘く、優しげな囁きを受けて、彼女は恥じ入るように軽く帽子を下げた。

「いいえ、ありがとう坊や。でも、どうしてご存知なんです?私はまだ名乗っておりませんのに」

「ああ、先走りました。お帽子が、海外で発売されたばかりの最新型ですので。それだけしっくりと合うように、お召し物を揃えられる若いご婦人は、まだ帝都でも貴方の他にはいらっしゃらないかと」

「まぁ…貴方、女性の衣服に詳しいんですの?ええと…」

「グレマンです。ジャック・グレマン。申し遅れましたが、当事務所の所長です。私のような職業をしている者には、衣服は沢山の情報を齎してくれるのですよ」

 すかkり感心しきって頷くヒギンズ夫人の横で、少年は小さく肩を竦めると、茨のような金髪の巻毛を揺すって、近くの椅子を引いた。

「奥様、どうぞ」

 グレマンが身振りで勧めると、夫人は催眠術に掛かったようにすとんと腰を降ろした。ややあってまた口を開いた時、言葉は少し和らいで、幾分滑らかに流れ出た。

「では、私の素性もすっかりご存知ですのね。夫のことも、今の暮らし振りも」

「いえ、新聞で時たま読む程度ですよ。専らご夫君の貿易商としての活躍ぶりなどをね。しかし外地から伝わってくる冒険談には、同じ帝国市民として感服しておりますが」

「そうですの」

 上の空で相槌を打ちながら、居た堪れなそうに身動ぎする夫人の様子に、グレマン氏はまた喋るのを止めた。断りを入れてから、席へ就くと、両手を膝で組んで、ぐっと前へ乗り出す。

「しかし、ご相談の件は、どうやらご夫君とは関係無いようですね」

「ええ!ええ!何でもお解りになりますのね。そうです。私…」

「宝石ですか?指輪か、首飾りのような?」

 神に出会ったかのような表情で、ヒギンズ夫人は探偵を見詰めた。

「首飾りですわ。でもどうして」

「実の所、当事務所へのご依頼は、貴重な装飾品の紛失に関する件が一番多いのですよ。ただダイヤモンドは珍しいですが」

「まぁ!」

「おや、当りましたか?お帽子の色からあてずっぽうをしたのですが。ルビーやエメラルドは合いませんし、向うの雑誌でサファイアなら見かけましたが、まさか貴女のような女性が、雑誌と同じ石を身に付ける訳が無い。なくされたのはブルーダイヤモンド。それもごく最近、一週間以内のことでしょう」

「三日前です」

 グレマンはなるほどと首を縦に振った。いつのまにか少年は姿を消しているが、すっかり話に夢中になった夫人は気付いても居ない。

「青い炎と言いますの。私の実家に伝わる石で、夫の財産とは関係ありません」

「最近カットし直して、首飾りにされたのですね」

「…まぁ、もう、どうしてとはお尋ねしませんわ。三日前、友人の家の園遊会に出席したおり、身に付けて行きましたの」

「人目に曝したのは初めてですね?」

「その通りですわ。なのに、家に帰ってから、失くなったのに気付きまして…なんて馬鹿な話かしら。でも、散会になってから、帰りの馬車の中で、化粧箱に収めたのは覚えていますのよ」

「すると箱の中身だけ抜き取られた訳ですか」

 双眸をきらりと輝かせて、探偵は微笑んだ。人の不幸を喜ぶわけではないが、解き難い謎にぶつかると、興奮する性質なのだ。組んだ指の関節が白くなるまで力を篭め、抑えた低い声で先を促す。

「きっと、まっすぐは帰られなかったのでしょうね」

「…はい…。園遊会に出ていた、友人と一緒に少し…」

「園遊会を開催されたのは、胡桃邸のバートン夫人ですか」

「そうです。でも…いえ、社交界にもお詳しいのね」

「ええ、というより、バートン夫人は私の依頼人だったのですから。恐らく此処のことも、彼女かお聴きになったのでしょう?すると、帰りにご一緒になられたというのは…」

 ヒギンズ夫人は血の気を薄くして周りを眺める。

「あの」

 グレマンは安心させるように組んでいた両手を広げた。

「私立探偵というものは、信用だけが頼りの商売です。今まで、どんな依頼人の秘密も漏らしたことは在りませんよ。その点については、バートン夫人の言葉を信じていただいて結構です」

「ええ。確かにメアリもそうは言っていたのだけれど…」

「彼女はいつも少し、そう、物事を劇的に描写するのが好きな方ですからね。私のことも、シャーロック・ホームズか何かのように話していたのでしょう?」

「でも大方本当のようですわ」

 初めて、ヒギンズ夫人が相好を崩した。それは少女のように無邪気な笑だったが、男をぞくっとさせずには置かない何かを持っていた。探偵は一瞬だけ眩しげに目を細めると、また快活に次句を接いだ。

「お話し願えませんか?」

「本当に引き受けて頂けるんですの?お金の話もまだ…」

「バートン夫人は言っていませんでしたか。私は、興味を惹かれた仕事を断った試しは無いんですよ。さぁどうぞヒギンズ夫人。私のことは教会の懺悔僧とでもお考え下さって結構です。何しろ探偵の仕事というのも、半分以上は人の話を聞く事にあるんですからね」

「ええ…」

 彼女は瞼を伏せてから、やがて淡々と事件を語り始めた。






 私、アンナ・ヒギンズは、旧姓をスコットフィールドと申します。北部にある海辺の街に生まれました。父も、祖父も貿易商で、暗黒大陸の市場開拓に熱心でした。"青い炎"というダイアモンドは、祖父が訪れた土人の国に代々伝わる王家の宝だったそうです。青みがかった揺らめくような光を放ち、黒い肌をした未開の民に、彼等の神々の化身と崇められていたとか。

 はい、ウィリアムと結婚したのも、親同士が同業だったのと無関係では在りません。彼の父と私の祖父は合弁会社を設立し、暗黒大陸南方の植民地で手広く鉱産物や奴隷などの取引を行なっていました。

 ともかく"青い炎"は、その折に祖父が手に入れたものです。商売で成功し、本国に戻ってから、祖母への求婚の贈物にしたそうです。といっても、大きすぎて指輪にはならず、裸のまま化粧箱に収めたとか。兎に角それ以来、ダイヤモンドは、スコットフィールドの家宝になりました。

 そんな大切な品を、今になってこの私が、首飾りにし、世間に出したのか、奇妙に思われるでしょうね。つまらない見栄からしたのならば、浅墓な話、自業自得ですもの。

 でも、そうではありません。私はどうしてもあの青い石を身につけて行かなければなりませんでしたの。社交界に関わる、ちょっとしたいわくがあるのです。

 園遊会を催したメアリ・バートンは、もう随分と長いお友達ですけれど、少しうかつな人です。ある時どこからか青い炎の話を聞きつけて、平民の私が、女王陛下の冠に嵌った"鵞鳥の卵"より見事な宝石を隠し持って、密かに自慢していると、出任せを広めたのです。

 悪気があったのではありませんわ。でも、彼女は座を盛り上げられるとなったら、どんな嘘でも平気なんですからね。ええ、お会いになったからにはお解りでしょうけれど。

 もっと良くないことに、口さがない人が噂を聞きつけて、尾鰭端鰭をつけた挙句、私が女王陛下より物持ちで、美貌と富を鼻にかけていると、悪い方向へ話を捻じ曲げたのです。夫は海外へ出ていますから、まだ良かったものの、残っていたらどんなに恥かしい思いをしたでしょう。

 そこで私は、むしろダイヤモンドを、人々の目につくようにしようと考えました。ええグレマンさん。ご推察の通り、先だって"鵞鳥の卵"の寸法を調べて、大体を把握した上で、祖父の代から付き合いのある職人に、それより小さくなるようにカットして貰いました。勿体無いとお考えかしら?でも世の中には宝石なんかより大切なものがありますわ。例えば、スコットフィールド家とヒギンズ家の評判とか。

 胡桃邸の庭に、首飾りをつけて現れた時、皆さんは失望と感歎のこもごも入り混じった目をしていました。噂ほど大きくは無く、想像していたより小さくはなかった、といった所だったかしら。実を申しまして、ふふ、打ち明けますけれど、爽快な気分がしましてよ。

 でも、問題はその後です。私の馬車が急に調子をおかしくして、古馴染の馬車に相乗りさせて貰いましたの。ついでという訳ではありませんが、お誘いがあったので、とある料理店までご一緒しました。アンリ・ロスタール氏。そう、ご存知ですのね。共和国のご出身で、有名な探検家、しかも大変熱心な美術品収集家ですわ。夫のウィリアムの旧友ですの。

 天気が良かったので、屋外の席で、あれやこれやの雑談をしまして、どんな話かですって?夫の新しい出張先のことですわ。なんでも白人に対する土人の暴動が起きているとかで、酷く心配でしたから。現地の租界では、共和国の勇敢な将兵達が、文明国の同朋として、女王陛下の軍隊と共同警備に当っているから大丈夫だ、と安心させるような話をしてくださって。そう、園遊会が終ったのが三時半ですから、六時頃だと思いますわ。家まで送って頂きました。

 はい、自室に戻ってから、ダイヤモンドを収めた化粧箱を寝台の側に置いて、席を外したのは覚えています。紛失に気付いたのは夜八時頃。うちの小間使いたちにそんな度胸はないと思いますが、万が一、と思ってきつく問詰めました。でも無駄ですわね。だって、箱には鍵が掛かったままでしたから。あの化粧箱には仕掛けがしてあって、鍵を開けるとオルゴールが流れるのです。曲が終るまで、巻き戻せません。ですから、どれだけ開いていたか一目瞭然になります。首飾りを造ったのと同じ職人が、昔祖父の依頼で拵えたとか。

 そうです。他の方法では箱を壊さない限り開けられません。いいえ、箱も、誰にも見せたことも話したこともありません。謎だらけのお話でしょう。私ほとほと困り果てまして、以前メアリが教えてくれた名探偵のことを思い出しましたの。考えてみれば、あの人が今度の災難の種を撒いたのだし、ひょっとすると育ってしまった禍を刈り取る術も知っているのかもしれないと、青い炎のことはおくびにも出さず、こちらの探偵事務所の所在地を聞き出しましたの。

 私、初めに夫とは関係の無い話だと申しましたけれど、本当は、ウィリアムが仔細を知った時を想像するだけで、寒気が致します。彼はきっと、烈火のように怒るでしょう。倫理観の強い人で、私の財産には指一本触れませんが、大変な締まり屋ですから、妻の愚かさを責めますわ。

 どうか宜しくお願いします。表沙汰にならないように。貴方だけが頼りですの。グレマンさん。

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