Belial's Love Vol.4

「勇者ロトだと?」

ズィータが独りごちるように呟く。側に侍るベリアルは、無言のままガーゴイルに退くよう指示すると、主君に声を掛けた。

「お心当りがおありか」

「ああ…」

ロンダルキアとローレシアの血を引く闇の統主は、軽く拳を握って虚空を睨む。青髪の騎士は石像のように身動ぎもせず、若き王の横顔に魅入った。

「その者は…」

「ベリアル」

「お答えいただきたい。その者は御身より腕が立ちましょうや?」

青年は一寸、狐に摘まれたような表情をし、すぐに傲然と言葉を返す。

「いや」

「ではローレシアには御身より手練れの剣士はいかほど居りましょうや?」

「一人もいねぇ」

答えてから、ズィータは急に相好を崩し、ベリアルを見詰めた。

「ベリアル。お前はいいな」

「は…」

「無駄がねぇ」

ドラゴンの裔は悪魔の化身に歩み寄り、鋼の胸当てに拳を押し付ける。

「人間は…余計なもんだらけだな…むかつく…」

将軍は沈黙を守り、命令を待った。ややあって王が面を上げ、鋭く勅を発する。

「ベリアル。サマルトリア攻略の第二陣を任せる。デーモン族を連れて行け。オーク、マンドリル、ホークマンの各部族は好きに使って構わん。祈祷師も必要なだけ従軍させろ」

「御意」

「ついでに勇者ロトとかほざく男の首を獲って来い。褒美は…」

ズィータが語尾を濁すと、ベリアルは即座に跪き、組んだ両手を前に差し出した。

「褒美に賜りたきものがござる」

「何だ」

「ムーンブルク王家がマリア内親王の首」

黒髪の青年はまたしても絶句し、苛立ちを紛らわすよう爪先で床を突付く。

「何故だ?」

「ムーンブルク攻略の指揮を執りしはそれがし。その折、マリア内親王とは一騎打ちにて首を貰い受けるはずでござった。しかるに勝負決したる後、ハーゴンが邪魔に入り、かの姫を犬に変え、それがしを軍より逐い申した」

「その首がどうしても欲しいのか」

「是非にも。恥を雪ぎ、もののふとしてのけじめをつけとうござる」

勢い込むデーモン族の長に、ロンダルキア王は乾いた口調で訊いた。

「それだけか?」

ベリアルは厳かに頷く。ズィータは、家臣の頭から爪先まで眺め回してから、いきなり破顏した。片手で拳を作り、もう片手の掌にぶつけると、高らかに宣告する。

「よし、ベリアル。サマルトリアを落とし、ローレシア軍総大将の首を持ち帰った暁には、ムーンブルク王女マリアをつかわす」

悪魔は面を伏せて拝命した。

「在り難き幸せ」

「良い知らせを待ってるぜ」

「夏至まで待たせますまい。しからばこれにて」

深々と礼をしてから、御前を辞す。踵を返し立ち去ろうとする将軍の背へ、主君は今一度言葉を投げた。

「…サマルトリアの王女ルルは生け捕りにしろ」

ベリアルは立ち止まり、振り向かず答える。

「やはり御身は人間にあられる」

「……」

「それがしは、陛下に仕えられたこと、心より嬉しく思い申す」

「行け」

鎧武者が扉を潜って消えると、若者は肩を落とし、憂鬱そうに玉座へ戻った。指を伸ばして黄金の肘掛に触れ、父祖の代に刻まれた伝承の浮彫をなぞると、急に歯を食い縛る。

「勇者ロトだと…ふざけるな。てめぇなんぞに人間が救えるか…」

激情に染まる熱き氷のような双眸は、果して竜王の後胤のそれか、あるいは己が呪うべき光の血から受け継いだものだったろうか。


ムーンブルク駐屯地は、敗戦の沈痛な雰囲気から、一転して勝利の予感に沸いていた。

かの不敗将軍がデーモン族を率い、北部戦線に戻ってきたのだ。ハーゴン健在の頃は、ロンダルキアを離れることを許されなかったベリアル子飼いの軍団は、ゾーマの御世を髣髴とさせる威容を誇り、貢従するオーク族のみならず、デビル族に仕えるマンドリル族や、旧教団の幹部である祈祷師達にまで畏敬と興奮を呼び起こした。

これらアークデーモン一千余に加え、オークキングを筆頭にしたゴールドオーク、オーク八千五百。ヒババンゴをはじめバブーン、マンドリルが総勢二千。斥候を務めるガーゴイル、ホークマンあわせて三百。呪文による支援を行う祈祷師、妖術師、魔術師、占めて四百。

その他残党狩りや城攻めに使われる、数限りないおばけねずみ、大ねずみ、やまねずみ、よろいむかで、かぶとむかで。

ロトの子孫が支配する国々を滅ぼすに相応しい、魔物の一大混成部隊である。

長い蛇列が廃城に達する頃、指揮官に並んで進むアークデーモンの一匹が、感極まって言葉を漏らした。

”まこと、このような日が来ようとは。我等が日の下、本来の姿で下界を歩き回り、ロトの王家を打ち倒す大役を担う…何と晴れがましいことか!大殿、感謝いたしますぞ!!”

黄金の悪魔は、首を捻って嗤う。

”気が早いな、爺。サマルトリアもローレシアも永らく諸国に覇を唱えてきた列強。容易くは落とせまいぞ”

”たかが人間如き。ロトの脅威の過ぎ去った今、大殿と我等デーモン族だけでも充分叩き潰せまする”

配下の楽観した台詞を聞いて、将軍は不意に笑みを消した。

”ロトか…分らぬぞ…”

”どうなされた…や、あれは?”

丁度、道は朽ちた宮殿への登り坂に差し掛かった辺りだろうか。小さな影が、進路とは坂向きに斜面を降ってくる。

「…にき…兄貴〜!!」

若草の胴着をまとった少女が独り、甲高い声を上げて走っていた。服と同じ色をした短髪を初夏の風にそよがせ、そばかすの浮いた貌にはいっぱいの歓喜を表し、伸びやかな両脚で仔鹿のように地を蹴って、ぐんぐんとベリアルに近付いてくる。

”タホ!”

牛頭金鱗の怪物は、ほっそりした肢体を抱き止めて、軽々と持ち上げた。

「わわ、兄貴」

”驚いたぞ。変化の術を修得したのか!”

タホはにまっとして頷いた。

「キシシッ。そうだよ。ロンダルキアのお城に上がるのにドラキーの格好じゃいけないもんね!…ていうか兄貴ちゃんと約束覚えてる?」

”当り前だ。此度の戦が終わったら、お主を連れて行くつもりであったぞ”

「キシッ。さすが兄貴!」

”ドラキーの変化か!!大殿に無礼な口を利くと許さんぞ!!”

アークデーモンがしかめ面を突き出して吠える。緑髪の少女は悪魔の長に抱かれたまま、きっとなって相手を睨み返した。

「なんだいあんぽんたん!あたいにケンカ売ってんのかい?」

”爺、タホはそれがしの側仕え。好きに振舞わせてよい”

”はぁ…”

会話するうちにも、行軍はたゆみなく続いていく。蝙蝠の娘は、将軍の広い肩に小ぶりの尻を載せ、穏やかな大気の流れを頬に受けると、瞼を閉ざして、快さそうに微笑んだ。

「久しぶりだね!こんな風に兄貴といっしょに歩くの」

”うむ。変わりないか?おばばは?”

「あたいは元気さ!ばあちゃんはちょっと呆けてきてるけど。ねぇ兄貴、この格好、どう?」

そう訊く顔付きがほんのり赤い。将軍はいつものように連れを凝視してから、語句を紡いだ。

”よいな”

「そ、そう?どの辺が?」

”髪と目だ。お主の翼の色と同じ。このムーンブルクの緑だ”

タホは茹蛸のようになると、熱を冷ますように両頬に掌を当てる。まるで、本当の人間のような自然な動きだった。ベリアルは瞬きして、細やかな仕草の一つ一つを観察する。

”見事だ”

「で、でも、兄貴は草とか木とか花なんて嫌いだろ?だってあの時…」

”それがしは、人間の手が入った草木は好かぬ。だが、ムーンブルクの森を隠れ歩いたときは心躍ったぞ。人面樹やマンイーターの生う木ノ下闇は荒々しく、活々として佳い”

緑髪の少女は首を傾げて、兄と慕う魔物の言葉を熟慮する態であった。

「あたいは…あんまり強そうじゃないね…」

”うむ”

「ちぇっ、どうせ化けるならもっとごつい戦士にすればよかったよ」

将軍は呵々大笑する。

傍らに控えるアークデーモンは、惣領と押しかけ侍女の会話に憮然としていた。ロンダルキアの嶺峯の如く厳めしく、かつまた誇り高くあるべき一族の長が、たかがドラキー如きと漫談に興ずるとは。

どう諫めたものかと老兵が思案するうち、当の統主は首を巡らせ、てらいもなく新たな台詞を投げてよこす。

”爺。それがしはタホと内密の話がある。先に行って野営の采配を致せ”

紫鱗の悪魔は絶句したが、すぐ礼を取った。

”…承知”

大きく翼を広げて羽搏くと、土埃と共に空へ舞い上がり、いっさんに廃城へ翔んで征く。砂を被った少女は、唾を飛ばして悪態を吐いた。

「ぺっぺ、もう!下手くそな飛び方だね!」

”左様。デーモン族は優雅ではないな”

ベリアルの低い呟きに、タホはすぐ失言を悟り、慌てて取り繕おうとする。

「ごめんよ。あたいったら生意気言って…」

”かしこまるな”

「うん」

将軍は口を噤み、視線を蒼穹に遊ばせるや、手にした三叉戟を掲げ、眩い太陽の光箭を反射させた。雲の下を征くガーゴイルの数羽が合図を受け取った印に輪を描き、伝令となって先頭と後尾へ散っていく。

牛頭は俯き、しばし瞑目すると、再び肩に載せた伴侶に尋ねた。

”…マリア内親王はまだ存命か”

「うん。体は大丈夫だよ」

”そうか”

「兄貴?」

ドラキーの化身が気遣わしげに見返す。デーモン族の長は眼を逸らし、戟の柄を空いた肩に掛けてから、囁くように語句を継いだ。

”心はどうだ”

「うん…。たぶん、もう駄目なんじゃないかな。最近はあたいのことも、わかんなくなってきてるみたいだし」

”そうか”

「あ、あとねジョゼフが…」

”ジョゼフ?”

「床屋だよ。城の中に匿ってる」

”奴か…どうした”

「おかしくなってきてるんだ。ごはんちゃんと食べないし、あんまり寝ないし、目付きも気持ち悪くなってきて…じぶんのこと傷つけたり、いきなり喚いたり、何時間も動かなかったり」

”人間にしては保った方よな”

ベリアルはさらりと云い捨て、また正面に向き直る。

「兄貴…」

タホは何か訴えようとしたが、結局諦めたように項垂れた。

将軍は蟠りを追い払おうとするかのように宣告する。

”此度の戦で全てが終わる”

「だよね!サマルトリアやローレシアをびしっとやっつけちゃえば、ロンダルキアの王様だって兄貴に一目置くようになるし!そしたら…そしたら」

”…あの忌々しい城との因縁も切れよう…”

見上げる眼差しの先には、己が打ち滅ぼした古都の遺墟が在った。

近付くにつれ、行く手から吹き付ける風は毒の沼地の瘴気を含み始める。巨獣の骸骨の如く横たわる石積みには、凶々しいポイズンキッスの蔦が絡みついているのが認められた。銃眼や櫓の作る暗がりには、血を吸う霧ガストが群れ集って、重苦しい景色をいっそうおどろおどろしく彩っている。

月の城の参状を眺めたシドーの騎士は、巌のような相貌に微かな笑みを浮かべた。

若草の髪の少女はしかし、幽かな溜息を漏らすと、黒く焼け焦げた塁壁の彼方、戦禍に引き裂かれ、狂わされた恋人達を想った。


マリアは厩の干草に寝そべって、主を待っていた。片手で重く張った腹を撫で、もう片手で秘所を弄くりながら、魔物の訪れを待ち侘びていた。

いつも空気が冷えてくる頃には、最初の一匹がやって来るはずだというのに。何故か今日に限って、オークの喧しい鼻息も、マンドリルの荒い呼吸も、おおなめくじやホイミスライムの立てる粘音も聞こえない。

雌犬は火照った身体を独り慰めながら、切なげな喘ぎを漏らした。

やがて言葉にならない渇望に答えるように、木戸が開き、黒く大きな影が視界に入る。黄昏の光が描き出したのは、生きた巌の如く魁偉な輪郭。雄牛の頭と巨人の体躯、黄金の鱗を持つ悪魔の姿だった。

”内親王、このベリアルを覚えておられるか”

ムーンブルクの王女は舌を垂らし、魔物に這いずり寄った。

「ああ、ご主人様、ご主人様ぁ。わたくし、お待ちしておりましたの!!」

すがりつく細腕を、柏葉のような掌が掴み、抑え込む。

”…くだらぬ真似はよせ”

「いやぁっ、ご奉仕させてくださいませぇっ、雄ちんぼぉっ!雄ちんぼ欲しいの゛ぉっ!!」

ベリアルは身震いすると、もがくマリアの肩を引き寄せ、羽交い絞めにした。

”聞け。それがしは御身との約束を果たしに参ったのだ”

「ああ、もっと激しく抱いて下さいませ!そしてこの雌犬のお尻とぉ、汚まんごもめじゃぐじゃにほじってぇ!お願いしますぅ!!」

雌犬は喚きつつ、情欲に染まった眼差しを悪魔の太い首に注ぎ、やがて舌を伸ばしてざらつく肩の鱗を舐り出す。将軍は歯を食い縛って尚も語り掛けた。

”ジョゼフの命を救うとの誓いだけは忘れられぬはず”

「ジョゼフぅ?あはっ、あの人もわたくしを犯してくださるの!!?それなら三人でぇ、いいえ、もっともっと沢山の雄ちんぼを下さいませっ!!ねっ?はやくっ、挿れてぇっ」

”…ジョゼフは御身が全てと引き換えに救わんとした相手ではないか”

なじられると、妊婦は涙を流して絶叫する。

「だからぁ、雄ちんぼ!雄ちんぼ欲しいのぉっ!!!!!」

将軍は耐え切れず、身重の体を突き放した。干草の山に沈むマリアの孕み腹が鞠のように揺れる。古い藁が舞い上がり、擦れた啜り泣きだけが、しじまに広がっていく。

”…何故だ…”

「…ごめんなさいっ、ごめんなさいっ…ちゃんと、気に入るようにしますからぁっ…」

”黙れ”

「そうですわ…タホも人間に化けられるようになったのです…あの娘もいっしょに犯して、そうしたらきっとご主人様も満足いただけますわぁっ ♥」

ベリアルの双眸に殺気が疾った。猿臂を伸ばすと、鉤爪の付いた手で王女の喉首を掴み、高々と吊り上げる。

「あぐっ、ぎぃぃっ!」

妊婦は背を反り返らせて痙攣し、すぐに手足をだらりと落とした。悪魔の膂力が人間の骨を圧し折るのに寸刻も要さない。僅かなためらいだけが、華奢な頸椎を握り潰さんとする太指を抑えていた。

デーモン族の長は狂女の容貌をねめつけ、我知らぬうちに歯噛みする。

”人間め”

怒りに任せて命を奪おうとした刹那、マリアの胴が淡い光を帯び、次の瞬間、臍の辺りから雷霆が迸って将軍の巨躯を弾き飛ばした。

壁にしたたか頭をぶつけたベリアルは、即座に跳ね起きると、牙を剥いて臨戦態勢を取る。だが当の雌犬はすでにうずくまり、怯え切った上目遣いで主人を傷つけた非礼を詫びていた。

「ごめんなさい。ごめんなさい此の仔がぁっ…許して、許してぇっ…」

悪魔は刮目して立ち尽すと、ややあって静かに問うた。

”…内親王…御身はハーゴンにも辱めを受けられたか?”

「はいぃっ♪ハーゴン様はぁっ、普段は見ているだけで、淡白な振りをなさってましたけれど、ほかのご主人様が見てないところでは、すごく激しく犯して下さいましたわぁっ」

デーモン族の長は突然口を三日月に歪めると、哄笑を放つ。

”…ふ…ふは、ふははははははははは!!!!!!!”

「あは?うふ、うふあははっ…はっ♪」

”人間!人間!御身等人間は!!”

小山のような両肩は、嗤いに合わせて揺すれ、遂には瘧にかかったかの如くわななき出す。

「ふふ、おほほほっ…どうなさいましたのぉ?」

”初めてモシャスを学んだときの心得を思い出したのだ。魔物は幾ら化けようと魔物。決して人間と交わらぬ。我等と御身等の間には決して越えられぬ谷がある。種族の谷がな”

「はぃっ。わたくし達人間は魔物の家畜ですわっ♪」

”左様。人間は家畜との間に子を為すまいが!心より喜び申し上げる!ムーンブルクの世継ぎは稀代の大魔道士となられよう!光と闇の血をともどもに引く、最強の術者に!”

意味を解せず、あどけない顔付きで首を傾げる王女に、シドーの騎士は恭しく会釈した。

”内親王。これにておさらばでござる。もう二度とお目に掛かるまい”

「いやぁっ!!行かないでぇっ!はめてぇっ!ご主人様の逞しい雄ちんぼぉっ!!」

”しばしお休みあれ。再び目覚める時、御身はもはや、快楽に悲苦を紛らわす必要を感じぬだろう”

黄金の鱗に包まれた指がマリアの額に触れると、淫蕩に溺れた両瞳は光を失う。ベリアルは倒れ伏す王女にくるりと背を向けると、厩の敷居を跨ぎ、日暮れる廃墟の景色へ歩み出していった。ただの一度も振り返らず。


ロンダルキア軍はローラの門を渡り、砂の国へ雪崩れ込んだ。海底洞窟はサマルトリアの工兵によって埋められていたが、穴掘りを得意とするキラーアントを擁した部隊にとって、人間の置いた道塞ぎの岩を除くなど児戯に等しかった。

さきの戦闘で、辺境の砦の多くは無人と化しており、魔物の群は何ら障害のないまま、一路王城への途を急いだ。

初めて敵に遭遇したのは、沙漠に踏み入って三日目。宮殿まであと七十里の距離にある泉だった。だがオークの先鋒は土塵を撒き返して、哨戒していたサマルトリアの騎馬隊の視界を塞ぐと、巧みに背後に回って、弓に矢を番える暇も与えず殲滅した。

ロンダルキア軍の被害は僅少で、ロトの国の武力に対する魔物の危惧は著しく減じた。第一陣を鏖にしたというローレシア騎士団の影だけが未だ将達の心に巣食っていたが、兵卒の間では、あの名高い人間の軍隊も、大半が首狩り族と相討ちになって死に絶えたのだという噂が広がっていた。

それが真実でないことが示されたのは、沙漠の五日目の朝だった。マンドリルの一隊が、砂嵐に紛れて襲い掛かった青い鎧の敵勢に残らず屠られたのだ。

警戒心を失い、長く伸びた縦列は、奇襲攻撃の格好の的となった。

ベリアルは各部族で固まり、三部隊ごとに連携して迎え撃つよう命じたが、数の少ないマンドリル族はオーク族との折り合いがうまく行かず、孤立しがちとなり、いつのまにかまるで蟻地獄に吸われるように連絡を絶った。

加えて掠奪による食糧調達の困難さが、主力であるオークの士気を急速に失わせた。期待していた泉の隊商宿は全て先手を打たれ焼き払われており、ガーゴイルの見付けた補水地点は、どれも辿り着いてみると毒が投げ込まれていた。

サマルトリアの沙漠は、今や恐るべき飢えと乾きの顎でがっちりと魔物どもを捕えていた。オークやマンドリルは、争って山ねずみやよろいムカデを貪り喰らい、本来城攻めに効果を発揮するはずの雑兵は、仲間の爪牙を恐れて四散してしまった。

しかし一千のアークデーモンは小揺るぎもせず、進軍も止まることはなかった。王宮はもう目と鼻の先に迫っていた。

十日目。ついにゴールドオークの指揮する獣鬼の群が待ち伏せに成功し、奇襲部隊を包囲した。だが美しい馬を駈って神速の機動を誇る騎士達は、凄まじい闘い振りを見せ、ロンダルキア軍に甚大な死者を残して、脱出した。

ベリアルは焦らなかった。既にローレシア軍の戦法は見切ったという確信があったのだ。また逃してやった敵兵に、送り狼として付けたドラゴンフライが、朗報を持ち帰るだろうという予感もあった。

案の定、翼ある魔物は本隊の居所を突き止め、戻ってきた。王城の手前、年古りた砂丘の背後に青い鎧の集団が火のない野営をしているというのだ。

不敗将軍は各隊を扇状に展開させ、待ち伏せする相手をさらに押し包んだ。凍てつく夜を徹して、月明かりの下、霜を踏みながらの布陣が完了すると、魔物どもは牙と爪を磨ぎ、毛皮を人間の血に濡らす渇望を抱いて配置についた。

日の出とともに、会戦の角笛は鳴り響いた。

そうして始まったのは、太陽さえ目を背けたくなるような殺戮だった。悪魔は唸り、獣鬼は叫び、狒々は吠えた。鳥人は翼と嘴とを朱に潤した。ベリアルは咽せ返るような血臭に酔った。ムーンブルク以来、これほどの戦いに身を置くのは初めてだった。

アークデーモンの戦列は肩を並べて前進すると、吶喊してくる騎士団に、一斉にイオナズンを放った。爆雷に灼き尽される人馬の奥に、算を乱した敵の宮廷魔導師団の姿があった。

シドーの騎士は翼を広げて砂海の上を滑空し、逃げ惑うローブの背を次々に突き刺した。懸命に友を護ろうと杖を振う少年の腹を貫き通し、息子ほどの部下を庇った老人を骨ごと拉いで、膿漿と肉片を飛び散らせながら、真直ぐに本陣へ向かう。

”殺せ!殺せ!殺せ!この沙漠の砂粒が一つ残らず真紅に変わるまで!!”

何と充実した合戦だったろう。青い鎧を纏った王家の守護者達は、そこかしこで結集し、果敢に剣を振い、矢を射続けた。彼等は強かった。ベリアルに従軍したオークキング五匹のうちすでに四匹が死んでいた。ヒババンゴの屍は堆く積まれ、上に立った独りの騎士が、奪い取った弓で、一羽でも多くのガーゴイルを仕留めようとしていた。

アークデーモンでさえ、五十匹近くが命を落とすか、負傷していた。不意打ちにも関わらず、多勢に無勢にも関わらず、敵は善戦し、状況は膠着しつつあった。

無論、不敗将軍が切り開く血路を除けば、だが。

デーモン族の長は、三叉戟を風車のように振り回し、最も手強い十数騎を相手取って、荒々しく嗤った。面頬を通して、恐怖に見開かれた敵の瞳を一つ一つ覗き込む。

”さらばだ、ローレシアのもののふどもよ!”

別れを告げるや、金色の悪魔は胸を膨らませ、逆巻く業火を噴いた。鎧ごと火に包まれ、もがきながら倒れる騎士の兜を、次々蹄で踏み砕くと、翼で炎を払い、指揮官の元へ向かう。

煤と埃に汚れたラーミアの旗印の下、ひときわ豪奢な具足を着けた騎士が、大剣を杖代わりに待ち構えていた。

”お主が勇者ロトか!”

「試してみろ」

ベリアルは哄笑して、刺突を送る。鋼と鋼が噛み合う軋りが起った。騎士はたたらを踏むと、得物を構え直し、上段に振りかぶって、巨きな的へ斬撃を浴びせる。

容易く受け流した将軍は、大跨ぎで間合いを詰めると、逆手に構えた石突で、碧玉の色をした胸当てを叩いた。指揮官は一間ばかりも跳んで砂に没する。

勝者は、仰向けに倒れた敵へ悠然と歩み寄り、声を掛けた。

”よい腕だ。だがロトを名乗るには不足。お主の剣は我が君の足元にも及ばぬ”

敗者は喀血とともに笑い咳を漏らす。金色の悪魔は、天晴れと頷いて語句を継いだ。

”首を獲る前に名前を聞こう”

どこにそんな力が残っていたのか、騎士は自ら面頬を跳ね上げると、若い貌を曝した。

「…サマルトリア騎士…団…親衛隊長っ、ピピン…」

”何?”

男は唇を歪め、快心の笑みを浮べる。

「ロンダルキアのばけもの…貴様は罠に嵌ったのだ!精々シドーの神とやらに祈れ!」

”何をほざく!!”

だが、ベリアルが胸倉を掴んだ時、すでに相手は事切れていた。

四方に視線を巡らすと、後方の砂煙の向こうからアークデーモンの飛影が大きくなってくる。

”大殿!!”

”爺、どうした”

”しんがりより報告でござる。西より新手。その数八千から一万。凄まじい早さでこちらへ迫っております”

”どこの軍勢だ!”

”分りませぬ。鎧は紋章もなき、打ち立てのものばかり。ただ、鬨はローレシアと”

デーモン族の長は瞠目した。

”謀られたわ”

”と申されますと”

”我らが戦っておったのは、ローレシア騎士団に非ずしてサマルトリア騎士団。こちらを引き込むため、鎧を取換えておったのよ…”

”小癪な策を。即刻返り討ちにしてくれましょう!”

将軍は頭を振る。

”兵が散らばった今となっては難しいぞ…むしろ、このまま一気に王城を落とす。サマルトリア騎士団本隊は六、七割が壊滅したとみてよい。守りは手薄となっておるはず。皆に伝えよ”

”承知”

老兵が再び飛び立ちかけた矢先、前方の砂煙を越えて、矢傷を負ったガーゴイルが舞い降りた。全身から血を流し、すでに瞳は濁っていたが、指揮官の姿を認めると、のろのろと歩み寄ってくる。

”ベリアル様…東より新手…その数四千から五千…”

”どこの軍勢か?”

”精霊ルビスの紋章。石の巨人を先頭に、ラダトームと叫びながら…オーク隊を次々と破っております…ここへ達するのも時間の問題かと”

”ラダトーム…アレフガルド軍が…”

独りごちる将軍をよそに、報告を終えた鳥人は静かに頽おれ、息を引き取った。

不意にベリアルは、背筋に異様な寒気を覚えて、戦塵を透かし見る。累々と転がる魔物と人間の亡骸の遥か、眩く輝く一振りの剣が、沙漠の燥いた大気を裂いて迫っていた。

首狩り族が残したという最期の言葉が、悪魔の脳裏に蘇る。

”奴等を率いるのは勇者ロト。我等魔物を打ち滅ぼし、ロンダキアの城を毀つため、精霊ルビスが遣わせた”


独りの魔術師は、風に乗って流れる笛の音を聴いた。そして見た。

竜王とロトの物語に現れる石の巨人ゴーレムを。妖精の笛を奏でる少女の姿を。メルキドの末裔は、朽ちたる都市を離れ、ラダトームの下へ着き、今また異郷の地で、遠い昔に忘れられた旋律を奏でていた。

無敵の剛腕は、槍を構えたオークキングをぞんざいに捻り潰し、巨足は獣鬼を平らに延ばして、ゆっくりと砂漠を進んでいった。

独りの妖術師は、風に乗って流れる弦の音を聴いた。そして見た。

竜王とロトの物語に現れる銀の竪琴弾きを。白髯を蓄えたガライの末裔は朽ちたる都市を離れ、ラダトームの下へ着き、今また異郷の地で、遠い昔に忘れられた旋律を奏でていた。

奇しの曲が響くところ、アークデーモンは互いに武器を向け、最強の呪文を操って、魅惑されるがままに殺し合いを演じた。

独りの祈祷師は聴いた。砂漠に降り注ぐ驟雨の音を。そして見た。

竜王とロトの物語に現れる雨雲の杖を。太陽の石を。賢者の末裔は朽ちたる祠を離れ、ラダトームの下へ着き、今また異郷の地で、遠い昔に忘れられた業を為していた。

黒々とした嵐の渦が、ガーゴイルやドラゴンフライを大地に撲ち落とし、日照を数千倍にした光箭が、狒々の群を消炭に変えた。

そして。

魔物達は聴いた。見た。絶望のうちに知った。

ローレシアの鬨の声と、真の恐怖を。

疾風の如く大地を馳せる騎士。光の旗手。

勇者ロトの到来を。


”大殿、お下がりあれ!!”

アークデーモンの咆哮は戦場の騒乱をついて響いた。紫鱗の巨躯が、己の惣領と、迫り来る”絶対の死”とのあいだに立ち塞がり、挑戦するように拳を振り上げる。

だが勇者ロトの剣は、稲妻のように仮借なく虚空を薙ぎ払い、老兵の頭蓋から尾底までを唐竹に割った。

”爺!!”

ベリアルは三叉戟を扱いて、青きはやてに相対する。

”名乗れ!!!”

「アレフ」

答えたのは少年の声だった。眼前に在るのは、まだ丈も大人の肩まで届かぬ、華奢な肢体だった。鎧はおろか鎖帷子すら纏わず、ただ長いマントを翻し、長剣を斜めに構えている。

”ローレシアの第二王子か!!”

「ただのアレフだ」

漆黒の髪、鋭い双眸。意志の強さを示すような太い眉。全てが余りにもズィータに似通っていた。デーモン族の長はいつのまにか、ロンダルキア宮廷での対決の時と同じように、訳の分らぬ身震いに襲われていた。

”…宜かろう。我が君はお主の首を所望だ!お相手願おう”

少年は剣を青眼に構え直してから、ぽつりと問い掛ける。

「他人のためにこんな戦をするのか」

”何”

「戦が好きか」

”何を言う!”

「魔物は変わってるな」

金色の悪魔は、覚えず半歩後退っていた。

”ほざけ!我が手勢を数多斬り捨てておきながら!!”

「そうだな。よし、来い」

”おおっ!!!”

将軍は怒りに任せた戟の一撃を見舞うと装って、背を反らせると、激しい炎を吹き付ける。

アレフは表情を変えず、紅蓮の舌が足を舐める寸前で、ふわりと跳躍した。マントが風を孕んで広がり、痩躯を宙に浮かばせて、信じられぬ高度と距離を運ぶ。

ベリアルが頭上を取られたと悟った刹那、敵の手になる刃が眩い光を放ち、視界を白く塗り潰した。ペルポイ製の”光の剣”の効果と知れるまで、僅かに心臓の半拍ほどの刻が要ったろうか。

勇者は、悪魔の鎖骨の横へ切先を押し込んだ。鍔に両足を掛けると全体重を載せ、頑丈な骨を避けて、深々と内臓の奥へ貫き通す。

デーモン族の長は仁王立ちのまま、瞳を限界まで見開いて、硬直した。

吐息を一つ残すと、少年は突き刺した剣をそのままに、金色の巨躯を蹴って跳び退る。

”ベホ…”

治癒の呪文を唱えるより早く、アレフの隠し持っていた聖水の瓶が、将軍の開いた顎に収まり、粉々に砕けて口腔を灼いた。

ベリアルは両膝をつき、呼吸を失ったまま、天を仰ぐ。

いつしか砂塵は晴れ、蒼穹はどこまでも澄み渡っていた。

”おお……これが…死か…”

すでに耀きの消えた眼が、ロトの再来へと向けられる。

”勇者ロトよ”

「アレフだ」

”アレフよ。ムーンブルクの王女マリアは生きている。そして城の奥にはもう独り、ジョゼフという若い床屋が匿われている。二人は恋人同士だ。あらゆる苦痛に耐えて、生きる道を選んだのだ。分るか?”

「うん」

”マリアは身籠っているが、恋人の子でも、魔物の子でもない。その子は、世界で最も偉大な者になるだろう。お主に心があるなら、救ってやってくれ”

「よし」

”それと…あの城には…ドラキーが…それがしはあやつを…”

ロンダルキアの城へ連れて行くと約束したのだ。そう言おうとして、シドーの騎士は、まさか勇者ロトにタホを雪国まで案内してくれと頼むわけにもいかないと思い直した。

そして死んだ。

ローレシアの第二王子アレフは、風のマントを掻き寄せると、屍から光の剣を引き抜き、戦闘の終結を伝えるべく、父王の元へ走っていった。


ローレシア、サマルトリア、ラダトームの連合軍は沙漠でロンダルキア軍を壊滅させると、即座に兵を転じてローラの門を越え、ムーンペタを奪還した。街の城門からは一里に渡って、マンドリル族とオーク族の首が槍に刺されて並び、腐り果てるまでそのまま放って置かれた。

アークデーモンの骸は早々に諸侯の戦利品争いの的となった。武勲に拘りのある騎士ならば、誰しもがこの珍しい獲物の剥製を求めたのだ。兵卒はゴールドオークの毛皮を尻に敷き、バブーンの髑髏で作った盃を交すと、趨くままムーンペタの女を犯し、捕虜にした魔物を切り刻んで気勢を挙げた。

酒保で最も多く叫ばれたのは、アレフ王子の名だった。今回の勝利を齎したのが、若き英雄の機略であることは間違いなかった。

サマルトリア軍を囮にしたローレシア軍は、魔物の到来を前にローラの門を渡り、ムーンペタへ向かう代わり、海峡の小島に潜んだ。岩で洞窟内を塞いだのも、すべては伏兵の策を悟られぬための目眩しであった。

ベリアルの軍勢が洞窟を抜けると、アレフ王子は配下を率いて影のように後ろに張り付き、沙漠の真中に至るまで手を出さず追跡した。やがて魔物の群が、ローレシアの軍装を纏ったサマルトリアの騎士と衝突し、争闘がたけなわに達するのを待って、ラダトーム軍と連携して挟み撃ちにした。

数多の将兵を捨石にするこの作戦は、しかし見事にあたった。北方世界は、侵略者を駆逐しただけでなく、失われた三王家の一つ、ムーンブルクの地を取り戻せた。

「…暗いな」

大反攻の立役者は今、夜の廃城をさ迷い歩いていた。手にした銀の鍵が月光に煌めき、華奢な体躯は闇に見え隠れする。松明も持たず魔物の巣窟を進むとは、いったい如何なる命知らずであろうか。ただ勇者ロトのみに許される行為である。

羊腸のように曲がりくねった廊下を辿るうち、少年はいつしか、淡い星明りに照らされた庭へと着く。手入れもされず、荒れ放題の花園には、しかしまだかつての栄華を慕ばせる、美しい小亭や人工のせせらぎが認められた。

ぼんやり景色を眺めていると、突然、頭上から羽搏きの音がする。アレフは考えるより先に剣を抜き払い、襲い来る魔物を斬り捨てた。緑の翼が地に落ち、芝生に黒い血溜りが広がる。

ローレシアの王子は、マントの裾で血脂を拭ってから、刃を鞘に収め、奥へ踏み込んだ。

「ジョゼフ、床屋のジョゼフは居るか?」

呼ばわると、茂みの一角が揺れ、襤褸を纏った男が枝を分けて来る。落ち窪んだ眼窩と、痩けた頬、微かに開いた唇から覗く退えた歯茎は、幽閉暮らしの辛苦を慕ばせた。夢遊病にかかったような表情で、予期せぬ訪問客を眺め、ぼんやりと呟く。

「…ああ、あ、あんたは…」

「アレフ。そっちは床屋のジョゼフ?」

「…ああ…」

理髪師は操り人形のように頷いた。少年は特に同情も、嫌悪もなく淡々と話す。

「終わったよ」

「終…わった…?」

「この城の魔物は全部殺した。マリア王女も保護した」

ジョゼフは信じられぬように首を振った。

「何を言ってるんだ…これは…いたずらなのか…あんたは、魔物が化けてるのか?タホはどこだ…なぁ…」

「タホって人は知らない。魔物が化けてる訳じゃない。いいから来なよ。王女が待ってる」

「あの人が…俺は…だけど…俺は…」

アレフは我慢強く説明する。

「早くしなよ。王女は子供を身籠ってて、生まれそうなんだ。床屋だろ?こっちは急いで来たんで、軍医を連れてないんだ。困ってる」

「子供…それは…魔物の子なのか…」

「さぁ。でも、産婆も医者も立ち会わなかったら、母親は危ない」

理髪師はようやく頷くと、踵を返した王子について戸口を潜り、見通しの利かない迷路を歩き始めた。子供らしい軽快さで先を進む案内役を、痩せ衰えた虜囚は幾度も躓きながら追いかけていく。

「なぁアレフ…あんたは北の国の兵隊か…まだ子供みたいだけど」

「そうだよ」

あっさりした返事を聞かされて、頬のこけた容貌は左右非対称に歪んだ。

「なぜ…なぜ今まで助けてくれなかったんだ…」

「知らなかったから。ムーンブルクに生き残りが居ること」

突き当りに空いた穴から、灰色の薄明かりとともに毒の沼の瘴気が入ってくる。だが少年は足取りをゆるめず、恐れげもなく城外へ出て、身を蝕む濁水に踏み込んだ。深呼吸すると、後ろを振り向き、年嵩の連れに手を差し延べる。

若い床屋は寸毫の逡巡してから、骸骨のような指を伸ばして小さな掌を掴み、汚泥に脚を降ろした。たちまちふくらはぎの肉を噛み千切られるような痛みに襲われ、悲鳴を堪えるため歯を食い縛るはめになる。

「…っ」

「行くよ。ころばないで」

動くたび、世界は真赤に染まり、頭が破裂するような感覚に不覚の涙が零れた。息を喘がせつつ、そういえば泣くのは久しぶりだと、らちもない考えが脳裏を過る。

夜風が沼に漣を寄せ、月にかかる雲のはぎれを吹き払った。霞む目に廃城の景色が映る。沼に立つアカシアの枯れ木、かつて広い練兵場のあった三の丸の外郭側。王女と密会した薬草園の番小屋。すべてが真黒な池の下に沈んでいた。

青年は声を殺し、胸を激しく上下させて、永遠にも思われた時間を歩き続ける。

やがて先を行く王子が、別の壁の亀裂に辿り着いて足を止めた。巨大な刀傷のような石積みの隙間を、素早く攀じ登って城内に入り、細腕に似合わぬ剛力で理髪師を引き揚げる。

何とか毒の沼地から上がって、冷たい床にへたり込むジョゼフに、アレフは一枚の青い葉を摘んで寄越した。

「薬草噛みなよ。少し楽だから」

ムーンブルクの生き残りは、虚ろな嗤いを浮べて好意を受け取る。

「…アレフ。あんたはなんでそんなに強ぇんだ」

「慣れてるから」

平然とした答えに、理髪師は爆笑した。

「…面白ぇな…ローレシア人は、子供でもそんなか」

「別に」

「教えてくれ、そんなに強ぇローレシアが、どうしてムーンブルクに生き残りがいるか、調べようとしなかったんだ…ハーゴンと戦ってくれなかったんだ!!」

狂ったように縋りつく理髪師を、王子はむんずと掴み返し、大人しく座り直させる。

「やったよ」

「やった?」

「ローレシアは、あちこち百人くらい騎士を送ってハーゴン教団を調べた」

「嘘だ!!だったら…」

「ムーンブルクにはローレシア最強の騎士が送られた」

「…へっ、見なかったな」

恨みの籠った皮肉に、しかし少年は素直に頷いた。

「その騎士の名前はズィータ。ローレシアの第一王子だった」

「…王子…あんた等は王子を…だけどそいつはどこに」

「ズィータ王子は一回も国許に報告しなかった。元々くせのある性格だったから、ローレシア王も諦めてたんじゃないかな」

「…そいつは、死んだのか…死んだんじゃないとすれば、そいつは!」

「多分、マリア王女を見捨てたんだね。王子は死んでない。ハーゴンを暗殺し、母方の血筋からロンダルキア王を名乗った。あとはよく分らない。魔物は今もあちこちで人を襲ってる」

理髪師は激しい憎悪の籠った眼差しで、幼い勇者を睨みつける。

「…てめぇの国の王子だろうが…それを…そいつは俺達をずっと生き地獄に落としたまま…」

「ズィータ王子は、いつもそんな目でローレシア王を見てたな」

「なにをっ…」

「王子のことは、そのうち王が決着をつけるよ。それより、元気出たなら急いで。マリア王女のことを忘れないで」

アレフは立ち上がり、出発の素振りをした。ジョゼフは唇を噛んだままそれに従う。

血痕と焦跡おびただしい廊下を、二人は早足に抜けていった。すべてが古び、無情な月日の過ぎ去りを示している。

さらに進むと、そこかしこに悪魔の眼やキングコブラ、うみうしなどの屍が転がっているのが認められた。魔物の死体は次第に数を増し、完全武装したオークやゴールドオークのものまで混じり始める。

ほぼどれもがただ一太刀で斃されており、オークに至っては大半が凄まじい恐怖の表情を浮かべていた。理髪師は息を切らしつつ、先導役に尋ねる。

「なぁ…ローレシアにはもう一人王子が居たな」

「うん」

「そいつは…そいつは俺達人間のために戦ってくれるのか。ズィータってクソ野郎や、あのベリアルみたいな化け物とも…」

「戦って欲しいのか」

「ああ。奴等を鏖にしてくれ!!ムーンブルクの皆が受けたのと同じ苦しみを味あわせてやってくれ!!」

「戦いが好きか」

唐突な質問に、答えに窮したジョゼフは口籠った。

「…いや…そうじゃない」

「今の喋り方はベリアルに似てた。楽しそうなところが」

「…ベリアルだと。あいつは!」

「死んだよ」

ムーンブルクの生き残りは、仇敵がすでに亡いのを知って絶句する。

「アレフ…あんたがやったんだな…あんたは、そうなんだろ。人間がどうしようもなくひどい目にあったとき、ルビス様が遣わすっていう…俺は、俺は信じちゃいなかった…だけど…」

「もうすぐ厩につくよ。あとはマリア王女を助けることだけ考えたら」

厩の入り口には、青い鎧の騎士が二人立っていた。いずれも面頬を下ろし、長剣の柄にゆるく手を宛てて、悠揚として油断のない構えである。

王子が近付くと、揃って一礼し、扉を開いた。

「…殿下、お気を付けを」

「うん」

厩の中には、寒さ防ぎの藁が詰まれ、兜を火鉢代わりに煉炭が燃えている。急ごしらえの寝床には、巨きな腹を抱えた娘が横たわっていた。毛布代わりのマントの上で脂汗を掻いて呻いている。

「姫さん!!!」

ジョゼフは駆け寄っていた。マリアは虚ろな眼差しを上げたが、相手の姿を捉えるや、絞め殺されるような悲鳴を迸らせる。だが、理髪師は構わず側に膝を就くと、追い払おうとする手を握り締めて囁いた。

「姫さん…姫さん…」

「ジョゼフぅ、お願いぃっ、恐いのぉっ…赤ちゃんが…ねぇ、雄ちんぼ嵌めてぇっ…そうしたら、気持ちよくなれるのぉっ!!!」

男は息を詰まらせ、言葉を失う。だが背後で、少年が小さく鼻で笑うのが耳に入ると、一瞬宙を睨んでから、にやりと唇を歪める。

「…ちゃんとお産が終わったら、何百回でもはめまくって差し上げまさぁ」

王女は安堵したように微笑み、急に妊娠した肢体をくねらせてしなを作った。

「あはっ、わたくしぃっ、わたくし雌犬ですのっ!誰とでも交尾する最低の糞犬!この子も誰の子か分りませんのぉっ、太い雄ちんぼのオークかも♪にゅるにゅる汚まんごのなかで動くホイミスライムかも♪」

「どれだって姫さんの子だ、可愛い赤ちゃんに決まってる…これから子供も死ぬ程産ませて差し上げまさぁ。兄弟がいっぱいいりゃぁ、この子も遊び相手に事かかねぇ」

恋人達は接吻を交す。激しい飢えを満たすように、長く、獣じみた接吻を。

「んっ…ぷはっ…あんっ♪ジョゼフゥっ…」

「やべっ…勃ってきちまった…」

「だってぇ、いっぱい練習しましたものぉっ♪ねぇ、わたくし、ジョゼフだけでなく他のご主人様ともしたぁいっ、外の騎士や、そこの坊やともいっしょにぃ」

理髪師はそっと愛する女の髪を撫ぜて、蕩けた蜜のように甘く語り掛けた。

「そいつは駄目だ。姫さんは俺だけの雌犬だからな。すぐに俺しかみえねぇように調教し直してやる。もう小便するときだって離さねぇ」

男の言葉を聞いているのかいないのか、マリアは急に眉間に皺を寄せると、相手の腕にもたれかかって喘ぐ。

「わたくし…お腹…」

ジョゼフは顔を上げてアレフに怒鳴った。

「…おう、ガキ!!とっとと湯をわかして持ってこい、清潔な布と、よく切れるナイフもだ」

少年は肩を竦めて答えた。

「湯とナイフはなんとかする。布はあるもので我慢して」

「さっさとしろい!!」

幼い勇者は踵を返すと、家臣に命令するため足早に厩を出た。

夜天の下、騎士達は廃城の闇と静かに揺るぎなく相対している。声を掛けようとしたアレフは、独りが無言のまま、片手をまっすぐ上に向けているのを認めた。

空を仰げば、遥かなる高みに、未だかつて見たことのない明るい星が一つ昇っている。

「殿下、あのような星は初めて目に致します。何でございましょうか」

ローレシアの王子は微笑むと、親指で厩を示した。

「天の向こうにいる誰かが、赤ん坊が産まれるお祝いをしてるのさ」


三人の王が東の方からまっすぐに馬を飛ばしていた。ラダトーム王、サマルトリア王、そして名にし負うローレシア王である。

黄金の髪持つサマルトリア王が、最初に西の空に昇る星に気付いた。

「あれは何であろう。不思議な星だ」

古き都統べるラダトーム王が、髯を扱いて答える。

「ムーンブルクの方角じゃ」

すると黒き髪と氷の瞳持つローレシア王は厳かに云った。

「戦の日、曠野で叫ぶ声を聞いた。それは”人間のうち最も偉大な者がお産まれなる”と言っていた。後になって、息子がやってきて教えた。翼在る者の予言であったとな」

「ベリアルの」

「そう、ベリアルの。あの星は、奴が言い置いた者の誕生を告げるのだろう。我等にとって吉事なのか凶事なのかは知らぬが」

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