Ape's Delusion Vol.3

今度ばかりは夢ではなかった。

金髪の少女が頬を染め、バズズの胸にとりすがって、上目遣いに見つめていたのだ。見覚えがあるのに思い出せない、優しげな容貌。同輩とともに幾らか盃を重ね過ぎたとはいえ、ロンダルキアの城内で、近衛の頭たるデビル族の長が見分けられぬ顔などないはずだが、どうしても名前と素性が脳裏に浮かばない。

「ずっと…お…お慕いしていました…」

「我が輩を?いやそなたはほんの子供ではないか。悪ふざけも大概にするがよい」

「あ、あの…えと…私、そのうちトンヌラ母様くらいきれいになります…だから…」

小さな娘は先ほどからちらちらと脇見をしながら、やけに生硬な調子で台詞を諳じている。だがシドーの騎士には最早、そうした密かな仕草に注意を払うだけの理性は残っていなかった。ふんわりと円かな面差しが、秘かに呪っている穢れものの妃と重なり、激情が突き上げてくる。

「相分かった。何だか知らんが兎に角よし!部族の統領として、務めを果たそうぞ!」

両腕でしっかりと獲物を捕え、苦しげな呻きが漏れるまで締め付けると、酒気を帯びた息とともに花のかんばせへ唇を近づける。

「ちょ…ちょっちょっ…」

突如、華奢な肩が揺すれ、もがいて、細い首が、妖猿の性急な接吻から逃れようと横へねじ向けられる。とたん仰け反った娘の頭から、黄金の鬘がずり落ちて、下に隠れていた射干玉の髪が表れた。

「フォルっ!もぉ!!いいだろ!!」

「あははははは!」

廊下の突き当たりの角から朗らかな笑いが響いて、そっくり同じ顔の童児が飛び出す。ロンダルキアの将軍は凍りついて、抱き締めていた相手の正体を悟ると、今にも泣き出しそうなあどけない容貌を改めて凝視し、静かに身を離した。

「殿下…我が輩の無礼、万死に値します」

跪き、項垂れる騎士を前に、少女の装いをした少年は却って縮こまって謝罪する。

「いや、あの…こっちこそごめんなさい…フォルと…その賭けをして」

「バズズなら絶対ひっかかると思った!」

ロンダルキアに跡取り、フォルトゥナートが嬉しげに叫ぶと、双子の兄弟であるシドーの肩に腕を回して、してやったりの表情をする。

「これで父様の銅の剣は僕のだぞ。シドー」

「う…うん…」

「ちぇ。もっと悔しがると思ったのになぁ」

「あの…フォルもバズズさんに謝りなよ…」

赤髪の青年は膝をついたまま、黙って石床を睨んでいた。すっかり酩酊から覚めたようすで、練達の武者らしく、処罰を待つよう首を差し延べ、巌の如くに不動の態勢をとっている。

さすがにいたずらものの王子も気が咎めたのか、相棒から一歩離れると、威儀をあらためて告げた。

「バズズ。ほんの戯れだ。忘れよ」

「…御意」

「…下がってよいぞ」

「はっ…」

二人の若君の、倍以上の齢を重ねた将軍は、少しの不快も反感も表さずに、しかるべき礼を尽くして場を退いた。

あとに残った子供らは顔を見合わせて、気まずげに目まぜをする。

「やっぱり。ちょっとやりすぎたかな…」

「ちょっとどころじゃないよ…」

「ま、いいや。バズズだって酔ってたんだし。明日には忘れちゃうよ」

「だといいけど…」


「何という事だ…」

酒が手伝ってとはいえ、主君の愛児を押し倒そうとするとは。そもそも人間の仔の雄に盛りつくなど在ってはならなかった。竜の血を引き、かつては破壊神の器であったとはいえ、もはやただのひ弱な幼生でしかなく、胤を宿す胎さえ持たない存在に。

魔軍の元帥はほとんど朦朧の態で、姉が待つ褥ではなく、執務室へ戻ると、椅子に深々と腰かけて、卓に肘をつき、頭を抱えた。

「我が輩は…もう…駄目だ…」

つわものだけが生き残る極寒の地に命を受けて以来、積み上げてきた自我の礎が、軋み、拉がれて、粉々になろうとしていた。並の漢であったなら、涙を抑えきれなかっただろう。しかし巨人アトラス、悪魔ベリアルと並び賛えられた豪傑の意地か、貌は蒼白になりながらも喉は嗚咽を堪え、独白はあくまで平静を保ち得ていた。

「デビル族の誇りも地に堕ちた…祖先よ蔑み給え…恥辱に塗れて永らえるよりは潔く死を以って志操を証するべきだ…ズィータ様…カリーン様…お許しを…」

自害のための短剣を求めて抽出を探ると、指が一枚の紙に触れる。古文書の断簡だ。血族であるデビルロードがいずこかへ持ち去り、還して寄越した際にはずたずたに引き裂いてあった。さっさと処分するように勧めを受けたが、貴重な品でもあり、わざわざできる限り切れ端をつなぎあわせて修復し、薄板に張り付けておいたのだ。仕舞いこんだまますっかり忘れていた。

奇妙な古代語の羅列をぼんやり眺めているうちに、噂に聞いた効能が記憶に蘇ってくる。

「眠りのうちに…真の望みを知る…か…一度は悪夢を見ただけに終わったが…ふむ。あるいは…」

確かめられるかもしれない。乱れ惑う心の底には、堕落しきった人間の如き腐れた根性だけしかないのか、あるいは上級魔族に相応しい気骨がまだあるのか。シドーの騎士は、いやそう名乗るさえもはやおこがましい、一頭の狒々は、かすかな希望にすがりつくようにして、旧き世に記された写本を取ると、右の掌を押し当て、左の手で額を掴んで呪文を唱えた。

「ラリホー」


すべてが始まったのは、湯治場での一幕だった。バズズが汗を流そうと脱衣所に入ったところで、裸のまま真青になって服を抱えるシドーと出会したのだ。

破壊神の名を持つ王子は、異形のうわべを捨てて、滑らかな肌と親譲りの美貌、健全な体を持つようになった。誰もがそう信じていたのだ。だが、将軍が目にしたのは、経血で汚れた下着を握ったまま、どうしてよいのか分からず、うろたえる半陰陽のできそこないだった。

「っ!?…バズズさ…駄目っ…見ないで…見ないでっ…」

「殿下…これは…」

「違うの…違…」

「失礼を」

穢れた布を隠そうとする細腕を捕えて、奪い取ると、仔細に観察してから、告げる。

「やはり、普通のお体ではなかったのですな」

「うう…」

「再び破壊神の御姿に成られる兆候…」

「そんっ…」

「ないとは言い切れますまい。いずれにしても周りが知れば、恐れ騒ぐでしょう。民の動揺を抑えるため、殿下には再びほかのものを遠ざけた暮らしをして頂かねばならぬかと…」

少年、いや少女というべきか。双生の童児は、睫の端に硝子玉のような雫を盛り上げて、ぽろりと頬を伝せた。

「や…やだ…もう…あんなの…やだよ…フォルとも…あんまり会えなく…なっちゃう…」

騎士は溜息を吐くと、首を振った。

「ズィータ様には報告せねばなりません。いかなる禍も起こらぬよう備えるのが、我が輩の務め故」

「止めて!お願い!!止めて…何でもする…何でもするから…」

「我が輩にズィータ様への忠誠を裏切れと?」

「ぁ…ぁ…ぅっ…」

「…もののふに節を曲げよと申されるのか」

「…っ…でも…」

「ならば、相応の対価を賜りたい」

紅蓮の髪の青年が真直ぐ覗き込むと、滅びの具現であるはずの童児は、おののきながらかたえを向いた。新雪のように白い膚。父から受け継いだ鴉の濡羽色の髪に、母に似た柔らかな体の線。羞恥と恐怖におののくさまは、生まれたての仔鹿か、狼に脅かされた仔兎のようだった。嗜虐の渇望に疼く心を隠し、素早く屈み込むと、すんなりと伸びた脚に触れて、左右に開くよう促す。次いで幼茎の下、緋に汚れた筋を窺がい、指で広げて中を確かめた。

「ぃやっ…」

「お静かに…もう、仔を孕めますな」

「っ…やだ…やだよ…赤ちゃんなんて…」

「だがここは、産むための備えができている。今宵は叶いますまいが…」

将軍は立ち上がると、王子をひたと見据えた。

「種を付けさせて頂こう」

「ひっ…そ…そんな…」

「大いなる破壊の主の裔にデビル族の血が混じる。我が忠義と引き換えにするならば、過分な願いとは思い申さぬ」

「できない…できないっ…」

「ならば…この件をズィータ様やご家族に報せるまで」

「だめぇっ!!ぅっ…ぅっ…分かっ…分かりました…」

臙脂の双眸が暗い火を燃やし、人か神か、可憐な相貌を射抜く。妖猿が氷原が獲物を誘い込む際の、蠱惑の韻きの篭もった語らいが、濃い蜜の如くゆっくりと溢れ、幼い耳に粘りつく。

「フォルトゥナート様の側を離れ、我が輩と比翼として添い遂げると。誓って頂きたい」

「…フォル…フォル……ぉ…お願い…ば、バズズさん…フォルと一緒にいさせて…お願い…」

「体も心も、魂も、すべて賜りたい。さすれば、昼は御兄弟の傍らで過ごされようとご勝手。だが夜は我が臥所に欠かさず侍って頂く」

「…ぅっ…はい…」

功を重ねた魔族が仕掛けた罠から、未熟な半神が逃れる術を知らなかった。絶望の涙が、一粒、二粒と、ふっくらした頬を伝い落ちていく。だが、恐ろしげな名前に似合わぬけなげさも、はかなさも、すべては雄を喜ばせるだけだった。

犬歯の覗くあぎとが、わななく唇へ喰らいつこうとする。

たが残酷な接吻の始まる寸前、脱衣所の戸が叩き開けられた。

「ちょっと待ったあああああ!!!!」

立っていたのはシドーと瓜二つ、破壊の神と対をなす救世の勇者。フォルトゥナート王子だった。硬直するバズズを傍に、すばやく衣服を脱ぎ捨てると、まだ伸び盛りの滑らかな肢体を露にする。

「シドー!僕の側からいなくなるなんてだめだ!」

「で…でも僕…もう…」

人に化けた狒々の腕に抱かれ、うつむく双子の片割れに、もう一方が励ますように叫ぶ。

「大丈夫だよ!おんなのこの部分があったってシドーはシドーだ!というかぼくも、同じだし」

高貴の少年は何もなくほっそりした両腿を開くと、可愛らしい陽根と、下にあるまだ一筋の線のような陰唇を晒した。

「ぇっ」

バズズは絶句して、主家の御曹司の痴態に魅入った。

「何を騒いでいるのかと思えば、そんな話か」

フォルの背後からぬっと丈高い影が現れる。抜き身の剣のようにしなやかな痩躯の青年。ロンダルキアに隠れもなき竜王、ズィータだ。

「…んなのは俺も同じだ。なぁアトラス?」

続いて赤銅の巨漢が頭を出し、主君に向かって軽く礼をすると告げた。

「左様、拙者も。今年の頭から。この病も相当、流行しておるようでござるな。皆、恥ずかしがって中々明かしませぬが」

「ぇっ」

半裸の男等、というか双生なのだろうか。兎に角むさくるしい筋肉で埋め尽くされた観のある小部屋に、今度はするりとたおやな姿態が二つ入り込む。ともに素肌に布を巻き付けただけた佳人。

「あらバズズ」

「本当にあなたは鈍いのですね」

「その分では自分の変調にも」

「気付いていないのでしょう」

「ぇっ」

仮初に美姫の形をとった二頭の妖猿は、呆然とする弟から、真赤になっている王子を優しく引き離すと、兄弟のもとへ押しやった。フォルはにっこりすると、ぎゅっとシドーを抱き締めて、頬擦りをする。

デビルロードはそろって莞爾とすると、それぞれバズズの前と後に回り、まとっていた布を剥ぎ取った。露になったのは砂時計型の胴と、御椀を伏せたような形のよい乳房。加えて在り得べき、魁偉な逸物だった。

「そんなに仔が欲しいなら」

「恵んで上げましょうね」

「私どもの種を」

「お前の腹に」

「ぇっ」

姉妹は、合計四本の腕で弟の肩と腰を同時に押さえ込むと、剛直を前後の穴に宛がい、いささかの準備もなしに貫いた。

「アッー!!!」

暗転する視界の中、バズズの脳裏に絹を裂くような音と、赤い血の雫が滴る幻像が過った。


「本当に…もう駄目だ…」

おぞましい睡みから覚めた騎士は、両の掌で貌を覆った。余りに情けなさ過ぎて、泣けもしなかった。

「なにがだめなの?」

傍らから可愛らしい問いかけを聞いて、振り返ると、悪夢の続きか、また金髪の少女が立っていた。先ほどシドー王子が化けていたのに比べれば随分小さい。幼いながら本物の姫君、カリーンだ。

「…カリーン様」

「あのね。シドー兄さまが、小父さまがおちこんでるみたいだから、おみまいにいってって」

「…ああ…いや…なに…ちと疲れが…カリーン様をわずらわせるほどのものでは…」

「そう?でも、げんきなさそう。そうだ、げんきのでるおまじないしてあげる」

カリーンは椅子の肘掛に手をついて爪先立つと、バズズの頬にちゅっと接吻をした。

「母さまがこうすると、父さまはとってもげんきになるの」

歴戦の将軍はほとんど石と化し、間近でいとけない面差しが紡ぐ、得意げな台詞も耳に入っているのかどうか、ぼんやり宙を仰いでいた。

王女は少し悲しそうになって、大好きな小父を上目遣いに見上げた。

「きかなかった?」

「いやその…もったいない…」

デビル族の長は、王族を前にまだ椅子についていたのに気付いて、慌てて立ち上がると、跪いて頭を垂れた。その首筋を掠めて、いきなりまさかりが飛んでくると、執務机に食い込む。ぎょっとして面を上げると、戸口には姫君の側仕えたる女狂戦士が構え、ぎらぎら光る目つきでねめつけていた。

「なんぼバズズの旦那でも、さっきから、ちい女神さまにちっと無礼でねぇか」

「バーサか…いや…我が輩は…」

遥かに年下の娘に説教をされて、近衛の頭は消沈して項垂れる。いつもの威丈高な元帥とはかけ離れたしょんぼりしたようすに、若い主従は顔を見合わせた。

「旦那…ちっとおかしいんでねえの」

「小父さま、びょうき?びょうきなの?」

「左様…我が輩…しばらくおひまを…」

ほとんど無意識に零れた台詞に、金髪の少女は敏感に反応して、騎士の首に抱きついた。

「どこへもいかないで!小父さま。ここにいて!わたしかんびょうするから」

バーサーカーも蓬髪を掻き揚げて和した。

「旦那がいねば、城のやろどもは、まず言う事きかねぇしな」

「…カリーン様…バーサ」

さしものロンダルキアの兵馬の司、機略縦横の軍師にして、万魔を率いる猛将バズズも、二人の気遣いには、とうとうぽろりと涙を零したのだった。

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