33.
『いいだろう.最初にインシュマーと呼ばれたのは,朱儒の法学者だった.中部アフリカの小国に非合法の製薬工場を建て,特許を無視して無料のエイズ治療薬を作り続けた男だ.合衆国の情報部が彼を追跡し,捕えて,惨い拷問を行なって黒幕は誰だと尋ねた.すると彼は答えた.インシュ・マー(主だけがご存知だ)とね』
過ぎ去った日々を懐かしむが如く,サイードの言葉には湿り気が混じる.
『次にインシュマーになったのは,ユーラシア大陸の回族自治区で,彊の言葉で教育を進めようとした老先生だった.お婆さんで,腰が曲がっていたが,不屈の闘志を持っていた.彼女は沢山の学生を育てたが,多くが技師になり,ある時中央の差別的なやり方に逆らって鉱山に立て篭もった.役人は彼女を捕え教え子に節を曲げるよう強制した.彼女はマイクを前に,血塗れの口を開いてただインシュマー(主の御心に従え)とだけ呟き,事切れた』
サイレンが鳴る.出航が近付いてくる.
『三番目から,インシュマーは他の名前を持たなくなった.彼は仲間とシベリアにある社会主義連邦のドナーキャンプに潜りこみ,人間牧場の実態を公のものにしようとした.だが四年間の活動の末,結局警備を務めるマフィアに囚われた.自白剤を打たれ,本名を吐くように言われた彼が笑いながら答えたのは…』
『インシュマー,不死なる主の御心』
ハシームは後を引き取るとゆっくりと瞼を閉じた.涙が,二筋,髯の濃い頬を流れ落ちる.
『ですが僕にとってのインシュマーは,あの人だけでした.愚かで不注意でさえなければ,あの人を守れたのに…』
『危険は承知だったのだよ.私達が新しく二人のインシュマーを選出し,片方がダマスに司令部を整え,もう片方が国際連絡網を引き継ぐ間,古いインシュマーは敵の目をひきつけ,大掛かりな罠を用意させ,自ら其処に飛び込んで役目を果したのだ』
『僕はあの人を愛していました.私の祖父のように,弟のように.せめて…』
『あの子はねハシーム.どの道長くは生きられなかったのだ.十二年前,合衆国軍部と繋がったさる企業が,アブダビのドナーキャンプで五十人の妊婦に特殊な人体実験を行なった.目的は,キャンプの難民が先進国の病人達に,より拒絶反応が少なく,生命力が強く,遺伝子的欠陥のない臓器を提供できるようにする事だった.あの子も,それから新しい二人のインシュマーも,その五十人の中に含まれている』
『なんですって?じゃあ…』