2.
少年はそれ以上何も尋ねずに,黙って昇降口まで歩く.彼女は教職員用の靴入れから,彼は4年生の靴入れから,其々のサイズの履物を取り出して,上履きに代える.
「なぁ山田君」
「ハイ?」
「先生さー.ブス?」
「美人ですヨ.」
「まじで?」
「まじデ」
「さんきゅ」
ちょっと明るくなって,それでもまだ手を繋いだまま,二人は裏門を出る.休み中に舗装が終ったばかりの畦道を踏締めながら,別々の方角を眺める.山田君は耕地の向うの丘陵地帯,工藤先生は国道の向うの街の灯.
「先生さー.身長が普通よりあるでしょ」
「ありますネー」
「174cmだから,自分より10cmは高い人じゃないと釣り合わんの」
「そんな事ないですヨ」
「男はデカい女怖がるし」
「僕は怖くないデスよ.後,クラスの男子は誰も工藤先生怖がってまセン」
「それはそれで問題だな.舐められちょる」
ふっと鼻息をついて,下を見る.地面が遠い.彼女は外人の母親を恨めしく思う.自分を怖がらないのは教え子だけだ.だから先生になったのかもしれない.
「でもさー.また逃げられちゃったよ.身長187cm.医者!病院の跡取!」
「どーして身長低くちゃいけないンデスカ?蚤の夫婦なんて結構イマス」
「ほー,って何?」
「蚤の夫婦.奥さんの方が背高い夫婦デス」
「難しい言葉知ってるね学級委員」
青闇が当りを押し包む.日暮の風は,肌寒いのに,どこか火照るような感触を残していく.我慢しなくては.教師は極力隣へ目をやらぬよう俯きつつ,掌で包んだ小さな指を,気付かぬ内,強く握り締めていた.
「透ちゃん」
「その名前で呼ぶの無しっていったの先生でスヨ」
「いいよ,今日は透ちゃんに戻って?」
「はい,なんですか真美ネェ.」
「私さ,透ちゃんのオムツ変えたことあんだ」
ずるっと山田少年がこけそうになる.怪訝そうな目付きが年上の幼馴染を窺った.
「なんでスカ?いきなり」
「工藤真美が中学一年生の時であります.透ちゃんの蒙古斑の形まで覚えてるでありまーす」
「酔ってマス?」
そんな筈は無いとは思いながらも,4年3組の学級委員としては担任が阿呆という有り難くない評判は戴けないので,手を引っ張って先を急がせる.
「私はそれから幾星霜,我慢に我慢を重ねて来たのでありました」