1.
飯綱達也巡査は,その時まで,性的搾取について人並の考えしか持ち合わせていなかったし,増してや実際の現場に遭遇するとは想像さえしていなかった.
彼は警察学校を出たばかりのしがないノンキャリアで,定年までに警部へ昇進出来れば御の字という,ごく平凡な交番勤務の警察官に過ぎなかった.だから巡回中の薄暗い裏路地で,トレンチコートの影が少女を強姦しようとする場面に出くわした時,性的搾取の社会的問題について深く考えるより先に,腰の拳銃を抜いて警告を発した.
「動くな,暴行罪で逮捕する!」
ニューナンブの当てにならない照準を向けられるや,強姦魔は目深に被った鍔広帽子の下で三日月型の笑みを浮かべ,少女を放り出すと,ゆらゆらと陽炎のような足取りで銃口の方へ歩み出した.
異常な事態だった.当節,日本の警察官に銃を向けられて脅えない犯罪者は居ない.警察庁の指針では,巡回中の警察官が窃盗以上の犯行現場に遭遇した場合,極力発砲「する」ように取り決められている.現に毎年全国で百人以上もの犯罪者が撃たれていたし,死亡件数も少なくない.規制緩和以来,警察組織は拳銃使用の実績作りに血道を上げているのだ.
しかも飯綱巡査は多くの同僚と同様にマニュアルに忠実だったので,第一発目から直接犯人の身体を狙うつもりだった.
だがそうした日本の警察官の危険な習性をまるで意に介さないのか,トレンチコートの影は,大きく両手を広げ,さぁ的はここだ,といわんばかりに胸を突き出していた.
「どうした,撃たないのかい坊や?」
声は,まるで複数の男女が一斉に話し掛けてくるようで,聞く者の脳の内側に反響し,神経を麻薬のように痺れさせた.若い巡査は四肢から力が抜ける奇妙な感覚に戸惑いながら,歯噛みして武器を構え直す.
「くっ,動く…な!警告は二度…まで…だ.次は…撃つ」
すると強姦魔の口が更に大きく裂け,げたげたと耳障りな笑いを立てた.何時の間にか二人の距離は詰り,もう互いの手が届くほどの所まで来ていた.
「次?次は無いわなぁ…」
トレンチコートの前が風船のように膨らみ,ボタンが弾け飛ぶ.布地に覆われていた部分から腥い風が吹き付けるのと,何か濡れたものが飛び出るのとは同時だった.
銃声が二度,僅かな間を空けて起る.べたつく液体が青い制服を汚し,生暖かい滴が頬に撥ねて,不快な感触を残す.暫く固まったままでいる警官を,背後から第三の声が叱咤した.
「飯綱!何してる.下がれ!」