ロマンチスト・エゴイスト

後編

 空に浮んだひまわりも、たまさか予報を外しはするが、9月最初の土曜日は、概ねテレビやラジオやニュースサイトの告げた通り、激しい雷雨で終わりそうだった。

 先々の帝にゆかり深しと聞こえる神社の苑では、いつもは日落ちて尚姦しい鳥の囀りもはや止んで、天から過ぎた恵を浴びた木々ばかりが、葉を打たせては梢を揺すったが、ほかは、近くの国道を通る車の唸りさえ、絶え間なく地に当たって爆ぜる飛沫の音に掻き消されている。

 番人も、あと数時間は衰えぬと伝えられた雨足を重く捉えたのか、滅多に使わぬ園内放送で、子供連れの利用者に帰宅を促した。

 ひどい雑音混じりのアナウンスが、終わるか終わらぬかという頃。黒と灰との濃淡を織り成す雲海から、滝の如き水の箭が注ぐと、刈り込まれた山つつじの茂みを白く煙らせ、萎えた椿の葉を撃ち落し、歩道の窪みを浅瀬に変えては、人々を家へ追い立てる。

 湖を模して杜の只中に造られた真緑の淵で、大きな波紋が生まれては、新しい波紋とぶつかって歪み、ついには池の面全てが泡立ちながら、万象の協奏に参加する。辺に建てられたコンクリートのあずまやにも、鉄砲玉のような玉滴がたたきつけ、薄い樹脂製の屋根を太鼓のように乱打した。

 いつもは広場の芝生で日向ぼっこを楽しむ野良猫も、そこかしこでゴミ箱を漁る餌を漁る烏も、樹陰へ姿を消し、雨ばかりが喧しく、いっさいを濡らしてゆく。

 暗く沈んだ木々の間、かすかに荒らぐ息だけが、夕立に降り込まれた避難者の、気配。

 携帯電話のコール音が急に、分厚い水のカーテンを切り裂いた。続いて上がった驚きと抗いの声を、平手の響きが封じると、木製のベンチが、2人分の体重に軋む。

 "…はいっ?"

 「もしもしキヨー?僕だけど」

 "羽深?何だよ"

 「あはは、何だはないだろ?ひさしぶりなのに〜」

 少年の指がルージュを摘み、唇を彩る。ヘアバンドを解くと、黒髪が肩まで広がり、性別不詳の容貌が、仄闇に隠れて婀娜な品を作った。

 「冷たいよね。先週、僕の誕生日だったのに、プレゼントどころかメールもくれないなんてさ」

 "おい…気持わりーこと言うなよ…"

 左右の頬へ雌虎の縞に似た線を描くと、柱と横木の角にたてかたコンパクトへ、あいまいな微笑を映してから、次いで眼窩の周りを隈取り、眉に沿って矢の如く緋の筋を入れ、古代の戦士の、死出の装いにも似た化粧を施して行く。野生の似姿を写しとるにつれ、獣の霊を宿しでもしたように、象牙のような前歯が急に剥き出されると、組敷いた獲物を威嚇した。

 眼下に仰臥するのは、毛皮を削いだ兎、服を奪い去った捕虜。怯え切り呼吸さえも押し殺して、しゃっくりのような啜り泣きを外へ漏らすまいと、必死で口元を覆った掌を、わざと跳ね除けると、電話機を触れるほど近づけ、肋の間に鋭く爪を立ててやる。

 喘ぎは辛うじて喉で止まった。

 "息荒ぇぞ?"

 「えーそう?それより、プレゼントなんだけど」

 "やらねーよ"

 「うわーひっどいなぁ」

 紅を降ろし、血の滲む裸の胸に軌跡を描かせ、滑らかな皮膚をキャンパスに、奇妙な模様を残しながら、引き攣る頬に口付けを1つ捺す。もう涙で消えたりしないよう、くっきりと。

 "…だいたいお前、寮だろ。私物の持込とかうるせーんじゃねーの?"

 「別に?ふつーだよふつー。ねぇ、いきなりだけど聞いて良い?」

 "何だ?"

 「例えば僕がさーキヨのものを貰ったとして、それ、壊しちゃったとしたら、どうする?」

 "はぁ?"

 「キヨの、大事にしてたものをさー、めちゃくちゃに、直らない位壊しちゃったら」

 "あん?何かやったけか?"

 「たーとえーばー、だよっ♪例えばの話」

 "…訳解んねーこと聞くなよ…"

 「応えてよ」

 沈黙。

 しなやかな脚を肩へ担ぎ、汗ばんだ太腿にぐるり螺旋を印して、大小の丸を幾つか周りに飾った。蛇の模様。おぞましさに震える指の股を、軽く舌で舐って、また声を引き出そうとする。けれど、電話の向こうの想い人からも、長椅子に寝かせた柔らかな肢体からも、待ち望んだ言葉は得られない。

 「キーヨー」

 "…眠ぃんだよ…じゃー弁償すればいいだろ"

 「お金でいいんだ?」

 "ったく、絡むんじゃねーよバカ、何かあったのか"

 「うん」

 "…あっそ……………お前が何壊したっていいぜ、別に"

 「そう?何でも、キヨの1番大事なものでも?」

 "壊れて困るようなもの、人にやらねーよ"

 「本当?」

 "ああ、絶対やらねぇ。当り前だろ"

 浅い溝を刻んだコンクリートの床へ、ルージュが落ちた。乾いた響きと共に跳ね回りながら、無数の欠片を散らす赤い顔料の塊を、スニーカーの爪先が蹴りつける。

 「じゃ、そんな感じで頼むねープレゼント♪」

 "っておぃ!!?"

 怒鳴りが耳元へ届く前に通話を切ると、会話に集中していた注意が四方に拡散し、雨音が急に大きく聞こえ出した。すぐ側で、あえかな嗚咽が溢れる。

 「ねぇ」

 下着の跡だけ白い双臀が、朱鷺色をした蛇の絵に絡みつかれて、ぼんやりと眼前に浮んでいた。指を這わせ、鷲掴んでやると、吸い付くような触感と高い体温が伝わる。

 「ねぇ東野」

 「…ゃっ…」

 「…なにその態度。終わりにしたいんじゃなかったっけ」

 「…ひぅっ……っ…」

 「だったらさ、最後にちゃんと、満足させてよ」

 携帯を仕舞い、空いた手で房毛を握って、ぐいと上半身を起させ、いびつな嗤いを投掛ける。

 「キミの手と、口と、からだの全部でさ、そのつもりだったんだろ?」

 「……うよ」

 ぽつんと、漸く返事があった。

 「違うよ。こんな、羽深くんが楽しくない事、したくて呼んだんじゃない」

 あの両瞳。まただった。

 「…っ今さらなにいってんの?何でいつもお前が、楽しいか楽しくないか決めるんだよ。なんか、ちょっとでも僕が解るわけ!?ばっかじゃない?」

 「解るよ」

 薄紅の呪紋に彩られた生贄は、すっくと立ち上がると、運動で作られた伸びやかな肢体を、雨のあずまやに晒した。真直ぐな双眸に、幽かに澱む惑いの色。昂然と顎を上げながらも、両脚を閉じ、右手で左手の肘を抱いた格好は、まだ羞じらいを捨てきれていないからか。

 「ただ、ちゃんと終わらせたかったんだ」

 口調には、しかし、迷いはなかった。

 「だまれよ、また殴られたい?」

 「だまらないよ…羽深くんが聞いてくれるまで」

 放った拳を、華奢な手が掴み取る。力の強さに、真は否応無く悟った。相対しているのは、少女のような外見をしていても、同じ男なのだ。

 「威勢がいいじゃない。どうせならキヨと電話してる時も、そうしてればよかったのに」

 心無い揶揄は、真摯な面差しにあるかなきかの狼狽を起させはしたが、たちまちのうち、強靭な意志の力に斥けられてしまう。サーモンピンクに塗られた唇が、一文字に引き結ばれた。もう付入れるような弱気はどこにもない。

 「いいよ」

 「…?」

 「キヨちゃんにっ、また電話しても」

 「はっ…悪いけど、もうそんな気になれないな。めんどくさいし」

 「それなら、僕が電話するね」

 東野は、緊張の汗で濡れた掌を差し出すと、覚えず小さな鼻を膨ませ、くしゅっと、くしゃみをした。いつまでも服を着せないで居ると、風邪を引いてしまうだろう。雨はまだ激しく屋根を叩いていた。

 「キヨに嫌われてもいいの?」

 「キヨちゃんは、解ってくれるから」

 「…っ…」

 また、負けるのか。いつも土壇場で逆転される。

 「だから、ちゃんと終りにしようよ。そうしたら、またインターハイで」

 「イヤだ」

 「…どうしてっ…」

 「どうしてって?キミがキライだからに決まってるじゃない。ムカつくんだよ。心の底から。都合良い終わり方なんてあるわけない…キヨ1人がどう思ったって関係ないさ」

 「きら…い…」

 「…っ、なに勘違いしてんの?こんな格好で、バカみたいなことさせられてさ。命令聞かないなら、写真、海老原や穂村や、一中の後輩にも送信してやるよ。忘れたの?バスケできなくするって脅し」

 「…」

 「あー、また友達ごっこに騙されてたんだ。ほんと頭悪いね」

 「…」

 「なに泣いてんの?ほら、予報だと雨が止むまで、あと2時間あるしさ、さっき言った通りにしなよ。それでチャラ。写真も消してあげるし、後腐れなく広島でもどこでも行けるだろ?」

 細い首は促されるまま、糸の切れた操り人形のように縦に振れた。

 「やっと素直になったじゃない。東野には、他に取り得ないもんね。身体で媚びる以外にさ」

 「…っ!…ぅっ…」

 「それと、いっとくけど今、すごい楽しいから。心配しないでいいよ」










 小柄な少年は、ルージュの線のほか一糸も纏わぬまま、主人の膝元に蹲って、露にされた肉の幹へとむしゃぶりついた。1年前、初めて強要された時のような、懸命さばかりの児戯ではなく、隅から隅までを丁寧に舐め清め、慈しむような奉仕だった。

 「…上手、だねっ…ほんとっ…東野って…天才じゃない?」

 唇が先走りの糸を引いて離れ、焦点の定まらぬ双眸が、真の顔を仰ぐ。もう泣きもしない。

 「…咥えなよ」

 「んっ…」

 おとがいが落ちて、熱く濡れた口腔が、固くなった性器を包み込むのが感じられた。奥まで届いたろうに、咳をしたり吐き戻したりせず、剛直を啜り上げ、健気に青い牡の匂いを吸っている。

 「ぅぁっ…はぁっ…はぁっ…、んっ…かっこわる…いね」

 汗ばんだ頭が一心不乱に上下する度、房毛だけが、ふわふわと揺れた。

 「たかどりのっ…んっ…エースがさっ…帝北の、はっ」

 もっと嘲ってやりたかったが、うまく舌が回らない。真の好みに合せて、何ヶ月もじっくり性の処理を教え込んだ奴隷の淫技は、ブランクが空いても鈍ってはいなかった。名手が、馴染の楽器を奏でるような、嵌り過ぎる位の心地よさで、語句を紡ぐのさえ難しい。

 「っ…キ…」

 もう呼べる筈もない。仮初の逢瀬の為に作られた、偽りの人格。喉を突いて出そうになった熱い憤りの塊を押し返し、脚の間へ視線を落とす。卑猥な格好で傅きながら決して本当の穢れを知らない姿。つややかな黒髪に指を絡ませると、絹より柔らかな触り心地に、つい溜息が零れた。

 楽しくない、だって?

 小さな舌が雁首をなぞって、鈴口の間を抜けるのが解る。狂いそうな程、気持ち良い。真は、下顎に力を入れ、瞼を閉ざした。雨の音に心拍が重なり、鍛えられた腰の付根と、背筋の筋肉が絞られ、肺が波打つ。

 ねぇ 気になって友達に聞いてみたんだ
 君がちょっといない間に…
 ぼくらがそっと内緒で会っていること
 誰にも話していないよね?

 「キヨ…」

 もう1度、口にする。2人のどちらにとっても、特別な名前を。

 蝙蝠の翼が描かれた両の肩甲骨が中に寄って、浅黒い首筋に皺が出来た。まだ少しも、ふっきれてなんかいないじゃないか。でも、離さない。そのニセモノのハネは、翔ぶためにあるんじゃない。彼の前で、舞う為だけにあるのだから。

 どこで何をしていても
 ぼくだけの君

 快楽の焔が内臓を焼くと、瘧のような発作が神経を伝って、関節という関節を襲い、脳の芯に電流が走った。無意識のうちに、指に篭めた力が増す。長髪の少年は腰を浮かせ、疼く逸物を相手の狭い喉奥へ深く押し込みながら、たった独りのほか、誰にも見せた覚えのない兇暴な表情で、短く宣告した。

 「出す…よ…っ」

 脱力感と共に陽茎を精液が抜けていく。黒い嗤いが唇を捻じ曲げる。官能より、嗜虐の悦びの方が勝っていたかもしれない。膝の間で、水鳥のような喉が鳴って、えづきかけながら、一滴も零さず同性の出したものを飲干す。顔は見えなくても、とろんとした眼をしているのは想像がついた。

 多分キヨは信じられないだろう。大事な幼馴染が、自分以外の相手に外でこんな痴態を晒しているなんて。増してほんの1年前まで、同じ部の仲間から、あさましい行為を強いられていたとは、決して。

 もしも君とみんながいる廊下で
 偶然すれ違ったとしても
 ぼくのことを振り返ったりはしないで
 そわそわした目で見ないで…  

 「いい子にしてたみたいだね。他の誰かと練習した?」

 「んくっ…んっ…う゛ぁぅっ…して…ないよぉ…」

 「こんなにちゃんとやれるなら、あの時トイレとか屋上でも、試してみれば、良かったよね…」

 「…」

 東野は応えず膝立ちになると、真の腿に両手をついた格好で顎を上向かせ、唇の周りを舐めた。いいつけを守ったご褒美に、ミルクを貰った仔猫のような、ちょっと得意そうな仕草。苛ついた飼い主は、目前に紅く尖る胸飾りを抓って、当惑と嬌声とを引き出す。

 「ひぁっ、はぶかく…おねが…ぃ゛っ!!?…ぁっあ゛ぁ゛っ、痛…いじわる…は…もっ」

 「かわいいじゃない」

 君のすました顔
 ぼくだけのもの

 「ぁっ…あの」

 「自分で乗りなよ。広げてさ」

 「うん…」

 幼げな奴隷は、年の変わらぬ主人の膝へ登ると、肩に頭を凭せ、微かに頬の朱を濃くしながら、指を尻朶に当て、菊座へこじ入れた。

 ほんの少し、石鹸の芳香が昇る。

 「なんだよ…」

 「…っ」

 尋ねても眼差しを逸らして、口を噤むばかり。後はただ、粘膜を解す淫らな粘音だけが聞こえる。

 「バカじゃない。写真の為にここまでするわけ?ほんとに、誰かに見せると思ってるの?」

 本気かどうか、解るはずもないけど。頭の悪いこいつには。だけどなぜ。

 誰も君の心には さわらせたくはないから…
 その消えてしまいそうな ぼくらの秘密に
 誰かが触れてしまうと きっとこわれてしまうから
 ぼくが永遠にそれを 守るつもりでいるんだ

 「…写真なんていらないよ」

 東野は細い指で真の両肩に掴まって、そろそろと両脚をベンチに沿って左右に伸ばす。

 きれいだった。

 「そう」

 「ごめんね。羽深くんにうそついちゃった…」

 「なにが」

 「やっぱり…ただ、会いたかっただけみたい」

 ねぇ 気になって電話をしてみたんだ
 なんだか浮かない顔していたし…
 もしかしたら 誰かにぼくらのこと
 相談していたりしないよね?

 「ぁっ…んっ…ねっ、島根からの、帰りのバスで、非通知で…」

 「大会の最終日?」

 「羽深くんのわけ…ないよね」

 ねぇ このままぼくら終わってしまっても
 何もなかったと言えばいい
 ねぇ このまま秘密でいさえすれば
 いろいろと都合もいいし

 「違うに決まってるだろ。ほら、早くしなよ」

 鞠のように弾む尻を、紅葉が浮ぶほど強くはたいてやる。

 「ひゃぁっ!?…ごめんなさっ…ひぐぅ…んっ…んぅうっ…」

 命ぜられるまま、後孔で秘具を受け容れた東野が、サーモンピンクの唇でキスをせがむ。

 いつものくせ。真は仕方なく開いた頤の奥で震える舌を啄み、歯先で挟んでから、こちらもルージュを塗った唇でしっかりと塞いでやった。自分の放った精の匂いが鼻をついて、少し胸が悪くなる。それでも、嬉しげに首へ回された細腕に、ついまた我を忘れそうになった。

 「んっ…んっ…んっ…」

 必死になって口淫に応えようとする、愚かな玩具。いつ挿れてもきつい、バスケットボールプレイヤーの因果な下半身。やっと半分位まで収めた所で、鷹鳥一中のエースは、苦しみに耐えかねて、かつてのライヴァルにひしと縋りつき、もうちょっとだけ待ってとでもいうように、弱々しく首を振る。

 真はせせら笑うと、相手の臀肉へ爪を食い込ませ、力づくで引き降し、根元まで捻じ込んだ。魂切るような苦痛の咽び。両瞳を覗き込むと、ひと揺すりごとに目尻で泪の珠が膨らみ、睫の端から零れ、頬を伝い落ちていくのが見れる。括約筋は緊く締まって、柔襞が分身にぴったりとはりついていた。

 舌と舌が離れ、刹那に息を吸う。

 「ふぐっ…ひっ…はぶ…く…きら…で…も…ぼっ…はっ…」

 「うるさいっ」

 脚のばねを利かせて突き上げると、汗に濡れた背筋は弓なりに反り返り、薄い胸板を圧してくっきりと肋が浮き上がった。睫に溜まる塩辛い水粒を吸って味わいながら、おののく肩をきつく抱き寄せるとシャツの臍に、尖った幼茎が当たって、淫らな染みを作る。

 それは君のため
 そしてぼくのため

 「…き…だ…よぉっ…ぁっ…」

 「うるさいっ、鳴けよっ」

 「ひぁっ、ああっ」

 誰もぼくらの世界には さわらせたくはないから…
 その消えてしまいそうな ぼくらの秘密に
 誰かが触れてしまうと きっとこわれてしまうから
 ぼくが永遠にそれを 守るつもりでいるんだ 

 裸身がまた、釣り糸にかけられた若鮎のように跳ねる。汗に溶けた模様が溶けて流れ、血の如くべっとりとシャツを汚す。長髪を振り乱した少年は、接吻を求める唇を邪険にのけると、ひたすら腰を使って、感じ易い痩躯を突き崩した。

 泣いているのか笑っているのか、道化のような化粧を施した丸顔が、奇妙に歪んで、喘ぎを零しながら朦朧と眼差しを上げ、陵辱者の表情を確かめようとする。応えて、鉤爪のように曲がった掌が、澄んだ双眸を覆った。

 誰も君の心には…
 誰かが触れてしまうと…

 「だい、きらいだよっ…アキっ…」










 雲の群は街から最後の熱を奪って、夜半には北へ抜けていった。

 海老原大太郎は、白い息を吐いて雨上りの湿ったグラウンドを走りながら、ふと晴れ渡った日曜の朝空へ眼差しを上げた。陽射しが眩しい。昼前にはまた暑くなるだろう。

 視界の隅には腕を組んで怒鳴るコーチと、コメツキバッタのようにペコペコ頭を下げる同級生の姿が見える。相変らず手回しの良さで、帰宅前に寮監と担任には連絡を入れておいたらしく、無断外泊には当らないから、事実上の責任者である福原女史も、長く叱り付けておくだけの材料がない。

 もともと教え子にじっくり説教をして更生させるより、不服従を知るやおっぽり出すタイプなのだ。才能があるからといって、渚をはじめとした問題児を辞めさせずに指導し続けるのは骨なのだろう。結局小言は5分程で済み、遅れてランニングの列に参加した羽深は、けろりとした顔で皆に挨拶して、大柄な相棒の隣へ入った。

 「…で?」

 「なにがだ?」

 「聞かないの?どこ行ってきたとかさ」

 「うむ…どこに行ってきたんだ」

 「秘密」

 言い捨てると同時に、スピードを上げて、先頭集団へ躍り出る。ペースメーカーの武村と彼の背にべったりくっついていた渚が、それぞれ、苛立たしげな注意と陽気な挨拶とを投掛けた。大太郎は軽く深呼吸すると、上体を倒して脚の動きを速め、連れに追いつく。

 「デートはどうなったんだ」

 「中途半端だったのを、振ってきただけ」

 「!?」

 「遠距離恋愛は趣味じゃないからさ」

 「そ…そうか」

 なんとなく距離を空けると、すぐにまた詰められる。いつもは寄るなとか、うっとうしいとか、側を通りかかるだけで悪態をつくのに、こういう時だけ周りにわざとらしく親密さを強調するのだ。

 「だからこれからは会う時だけするセフレでいよーって、ね」

 「なっ!!!!」

 絶句する大太郎を、一番前の走者が鋭い眼で睨みつける。

 「練習中の私語は慎めっ」

 「あはは、大太郎くん怒られたー」

 しょうがないな、という感じで肩を竦めると、真はまたスピードを上げ、とうとう武村の横へ並んだ。

 「羽深、下がれ」

 「たるいよ。もっと上げてったら?」

 「これが達也の指示だ」

 あっそ、と真がうんざりしたように舌を出すのと同じくして、トラックの内側でタイムを図っていた眼鏡のマネージャーが、メガホンを口に当てた。

 「ペースアップ」

 「ほらね」

 「ぬぐ…」

 相手をしていられるかという風に顎を引いた武村は、腕の振りを大きくして、速度を上げた。後の渚が飛び跳ね、喜々としてついていく。けしかけた真はといえば、天邪鬼にも速度を落とし、再び後続の海老原の所まで戻ると、にんまり笑った。

 「単純な奴はいいよねぇ」

 「別れたばかりなのに、ご機嫌だな」

 「まぁね。振られるより、振るほうがましだからさ」

 「ペースアップ」

 アップそっちのけで四方山話に興じるレギュラー2人を見咎めた杉森が、淡々と声をかける。

 長髪の少年はちろりと舌を出すと、スパートをかける前に、ジャージのポケットから半分以上なくなったルージュを取り出し、親指と人差し指の間で回してから、掌のうちに握りしめた。

 「失恋なんてそんなもんじゃない?」

 大太郎は首を斜めに傾げ、肯とも否ともとれそうなジェスチャーをすると、相棒の背を叩いて、一気に横を駆け抜けて行く。

 残された真はうつむき加減になって、荒れた親指の爪を紅の顔料に埋めた。やがて頭を擡げると、ふと鼻先を掠めた赤蜻蛉に目を円くしてから、小さく笑い、また終わりのない周回を辿り始める。

 アキは、もう、すぐ近くに来ていた。

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