ありふれた日常に至る四つの方法 | |
ファーストフードの二階で、階段がよく見える席に座って、光二は棋譜を眺めていた。階段口が気になって、手許に集中など出来ていないので本当に“眺めている”だけの棋譜。多分、他の時なら真剣に読んでいるだろうが、今は光二の頭の中に少しも入らない。それでも彼女が姿を現した時の格好つけの為に棋譜を仕舞う訳にはいかなくて、効率の悪さに段々と光二の機嫌は悪くなる。 彼女が何時になるか判らないから今日は逢うのを止めようと言っていたのを無理矢理に約束させたのだから、ここで自分が機嫌を悪くするのは筋違いだと光二は重々分かっていた。 首を僅かに振って、とにかく気を紛らわそうと光二は棋譜から目を上げた。目の前には冷めた珈琲が三分の一ほど入った紙コップがある。気分転換にでも動こうかと光二は珈琲片手に立ち上がった。 一階のカウンターに降りていき珈琲を新しく注ぎ直して貰うと、勧められたミルクと砂糖を断って二階に戻る。本当は光二はブラック珈琲なんて嫌いだった。適度にミルクと砂糖の入った珈琲が好みなのだ。そこを我慢してブラックで飲んでいるのも、光二の苛々に拍車を掛ける。 席に戻り、ずずっと熱い珈琲を啜りながら何度目か判らない視線を階段に向ける途中で、近くに座っている二人組の女子高生に気が付いた。光二の方をちらちらと見て、笑いながら何か二人で話している。光二はむっとして視線を外した。 今日は仕事もなかった為、大人しく高校に行き、授業が終わってすぐさま家に帰ると光二は私服に着替えてこの店に来た。制服じゃないんだから、せめて大学生くらいには見えて欲しいと光二は強く願うが、それがどこまで叶えられているかは不明だ。 さんが早く来ないから、大事な土曜の午後をこんな店で潰す女子高生になんて目を付けられるんだと、光二は胸の中で八つ当たりする。美味しくない珈琲を半分まで喉に流し込むと、光二は胸がむかつくのを感じて目を閉じた。 「−−光二くん、ごめんね、待たせちゃって」 不意に耳に届いた声に、光二は慌てて顔を上げた。すぐ脇に綺麗な色のスーツを着たが立って、光二の顔を覗き込んでいる。 「さん」 「寝てた?」 光二の声が掠れているのに気付いて、は申し訳なさそうに訊いてきた。 「起きてた」 憮然とした声で判りきっている嘘を口にした光二を面白そうに見ると、は良かったと呟く。空いている光二の向かいの椅子に座りながら、は続けた。 「どこに行こうか?」 腕時計に目を落とすと、夕食にはまだ早く、どこか出掛けるには遅すぎる中途半端な時間だった。光二は肩を竦めて目の前の仕事帰りのに言った。 「どっかでお茶して、適当な時間になったら御飯食べに行こう」 「良いの?何か映画でも観る?」 「映画よりさんが良い」 「光二くんてば」 大真面目に光二が告げると、ほんの少し顔を朱らめては立ち上がった。 「早く行きましょ」 照れ隠しに先に歩き出す後ろ姿を見て、可愛いなぁと光二は口許を緩ませ、の後を追うべく、続いて席を立つ。ふと視界に入ったさっきの女子高生達がを見ているのに気が付いて、やっぱり同性の視線を惹きつけるほどは可愛いんだと恋人莫迦なことを考える光二に付ける薬はなかった。 ようやくデートと言えるような約束が出来るようになったのはまだ数える程で、此処まで来るのに掛かった年月を思えば、を待つ数時間など、光二にとっては取るに足らないものだった。待ち合わせの約束自体が光二にとっては嬉しいもので、を待つのも、に待たれるのも楽しくて仕方がない。そのことを一度弘幸に漏らした時に、今が一番楽しい時だよねぇ、などと光二にもにも失礼なことを言うから、それ以来、光二は弘幸を見掛けても気付かない振りをしていた。 楽しいことが勿論大部分を占めていたけれど、実際はそればかりではない。 例えば、棋院の中に居た時には何とも思わなかったとの歳の差。光二は高校生で、は社会人だ。背は何とか肩を並べるくらいに追い付いたが、隣りに立つと姉弟に間違えられても可笑しくない。プロになった時から出来る限り大人っぽい服装をするよう心懸けたし、の彼氏に昇格した現在、毎月メンズ雑誌を何冊も買って研究している毎日だ。それでも十六という年齢がまとわりついているようで、光二は口惜しくてならなかった。周りから一目で恋人同士だと判るような雰囲気を醸し出したくて、光二はと逢う時はいつも心を砕いた。 出掛ける先も、酒も煙草も許されるといまだ規制される光二では自ずと限られてくる。雑誌に載っている洒落たレストランも経験不足の光二にはを誘って行くには敷居が高い。 そしてもう一つ、最大の難関はの態度だった。時折、は光二を子供扱いする。それが無性に口惜しくてならなかった。 のお気に入りだというカフェに二人は落ち着き、注文した物が運ばれて来るのを待つ。綺麗に化粧をしたの顔を見ながら、光二は今日こそはと決めてきたことを言い出す切っ掛けを探す。 「なに?光二くん」 「え?」 「あ、違った?何か言いたそうだったから」 「あ……」 逡巡したのは僅かの間で、から水を向けて貰ったのは複雑だが、光二は折角の機会を逃す愚は犯すまいと口を開いた。 「うん。実はお願いがあるんだけど」 「お願い?光二くんが私に?」 珍しいことがあるものだとが少しの驚きと多大の興味で目を楽しそうに輝かせる。それを光二は、ポーカーフェイスを装って、悪戯を仕掛けるワクワクした気分で見詰めた。 「さんにしか出来ないことなんだ」 「そんなことあるかしら?」 「それは沢山あるけどね。聞いてくれる?」 「良いわよ、何?」 「あ、ちょっと待って」 ちょうどウェイターが二人の珈琲を持ってきたので、光二は口を噤んだ。に砂糖とミルクを勧め、自分はブラックのまま口にする。酸味と苦味が口の中に広がって、光二は密かに顔を顰めた。 「お砂糖とミルク、良いの?」 「いらない」 見られたかと思い、内心慌てながら光二は答えたが、は何も気付かなかったようで、そのまま自分のカップを持ち上げた。 「で?」 「あ、うん……」 はカップを手にしたまま、光二を目で促す。言い淀んだ光二が覚悟を決めるように一つ大きく息を吸った。 「さんの名前、呼び捨てにしても良い?」 一瞬、きょとんとしただが、光二の覚悟もあっさりと、良いわよ、とは一言の下に了承した。 「本当に?」 「うん」 念を押す光二に、はカップをソーサーに戻して可笑しそうに笑った。 にとって敬称なしの呼び掛けが何の意味もないのは光二も知っていた。前に大学の同級生から呼び捨てにされているという話も聞いたことがあった。だからこそ光二はそれこそ対局中の心持ちで、この“お願い”に踏み切ったのだ。 「じゃあ、俺のことも『光二』って呼び捨てにして」 「え、光二くんのことを?」 戸惑った顔で見返すに、ここぞとばかりに光二は言い募った。 「、はさぁ。気が付いてないけど、俺のこと子供扱いするだろ?」 「え、してないわよ」 「してる。まだ、ちゃんと俺のことを彼氏だって分かってないから、だから俺のこと『光二』って読んだらもっとよく分かるとと思う」 そう言って、光二はの顔を覗き込み、にっこりと笑った。十六年の人生で培ってきた光二のこの笑みを向けて、否やと言えた相手は数少なく、目前のも困ったように目を伏せた。 「……判った。努力する」 「うん、楽しみにしてる、」 そう光二が言うと、の頬にほんのりと朱が昇ったように見えた。 「だから、他の人に呼び捨てにされないでね」 「え?」 思いがけなく続いた光二の言葉に、は驚いたように顔を上げた。 「の名前の呼び捨ての権利は俺のものだから、他の友達にも訳言って止めて貰って。勿論、俺も以外には呼び捨てにさせないから」 「だ、だって、光二くん、そんなの無理」 呼称は互いの立場と培った関係によって自然に定着するものだ。それをいきなり一方の申し出で変えるなど下手をすれば人間関係の崩壊にも繋がる。が無理だと言うのは至極当然で、勿論光二もそれを分かっての上でのそれこそ“お願い”だった。 「無理でもお願い」 目の前のの目を見詰めて、ここが正念場とばかりに光二は真剣に頼み込む。その視線に圧されるようには一度目蓋を伏せ、半ば降参の体で恨めしそうに光二に抗議した。 「……ずるくない?」 「うん。ずるいけど俺はより歳が下で、より俺の方がを好きな分、分が悪いから、使える手は何でも使うつもり」 その言葉を聞いた途端、の顔が僅かに強張ったのが光二に分かった。 「どうして私より光二くんの方が、好きだって分かるの?」 「それは、分かるよ」 「分からないわよ。私の好きの方が光二くんより大きい」 怒ったように続けるに光二は内心焦った。何がの気に障ったのか分からず、どう弁解したらいいか分からない。 「?」 「光二くんの莫迦」 「莫迦……」 から投げられた言葉に光二は呆然とする。途中まで上手くいっていた筈なのに、どこから狂ってこんなことになったのか。手合いなら挽回の方法を考えられるのに、相手のこの局面でどうすればいいのか頭が回らない。 そんな光二に気が付いているのかどうか、は力強く宣言した。 「光二くんが自分の間違いが分かるまで、絶対に呼び捨てでなんて呼んであげない」 「えっ!待ってよ、」 顔いっぱいに焦りの表情を浮かべて、思わぬ方向に転がりだした展開を落ち着かせようと光二はの名前を呼んだ。そんな光二を一瞥すると、今度は柔らかくが続ける。 「でも私にも思うところがあるから、私の呼び捨てに関しては善処する」 「ってことは−−」 「光二くんも他の人から呼び捨てにされちゃ駄目よ。私が知ってる限りだと、弘幸くんとか、森下九段とか」 「うわっ!ちょっと待って!っと、師匠は苗字で呼ぶから別だって」 「あら、ばれちゃった?」 「ーー」 一気に脱力した光二には柔らかい笑みを浮かべた。 「あのね。光二くんは高校生で、私は社会人だけど、少しも釣り合わないかも知れないけれど、でもこういうのも良いかなって思うの」 「?」 「勿論まだ思うだけで、高校生の子にヤキモチ妬いたりとか、つい若い子向けの服を手に取っちゃったりとかしちゃうんだけどね」 そこでは頬に苦笑を刻み、言葉を一度止めて光二を見た。 「百歳を越えれば、一回りや二回り違っても同じでしょ。だからいまこの歳の差があるから楽しめることを楽しもうかなって」 光二はゆっくりとの言葉を噛み締めて、それから悪戯っぽく笑った。 「……百を過ぎても流石に二回りの差は大きいんじゃない?」 「そう?」 「下手すれば死んでるよ」 「大丈夫よ。私は光二くんより先に死なないもの」 そう言って笑ったが綺麗で、光二は眩しいものを見るように目を細めた。 「おはよ、光二」 駅の改札を出たところで、後ろから声を掛けられた。振り向かなくても、相手は判る。ここのところ、ずっと腹を立てて無視していたのに、そんなことお構いなしで声を掛けてくる彼に光二は毎度のように呆れた。一瞬、今日も知らんぷりしてやろうかと思ったが、との約束の方が大事だと思い直し、光二は振り返って相手の顔を視界に入れた。 「お早うございます、芦原さん」 「……っ!!なにっ !? どうしたの、光二!何か悪いもんでも食べた?!」 驚いて飛びすさりながら、怒濤のように聞いてくる弘幸に光二は苦笑した。 「別にどうもしません、芦原さん」 「だって!なんだよ、それ。その呼び方」 気持ち悪そうに言う弘幸に、それはお互い様だと光二は多大な努力でもって心の中だけで呟いた。 「一応、お互いプロでライバルだし、名前の呼び捨てはやめましょう」 「……もしかして、この間のこと、まだ怒ってる?」 「怒ってません」 「じゃあ、なんだって……」 「急がないと手合いの時間が迫ってますよ」 踵を返して棋院への道を辿る光二の後ろを弘幸がおろおろしながら付いてくる。 「やっぱり悪いもん食べたんじゃ。ああ、どうしよう。家の人か、森下九段に電話するか……。それよりさんに訊いてみた方が良いか、ああっ!いま会社か、どうしたら……」 「……五月蠅い」 「え、光二?」 「お前、五月蠅い!とにかく俺を呼び捨てにするのは止めろ」 最初は放っておくつもりだったが、いつまでも弘幸が莫迦なことを呟く為、我慢出来ずに光二は振り返って、今までと同じ調子で怒鳴ってしまった。 一度戻してしまうと、弘幸相手に丁寧に話すのはまだるっこしく、光二は今日のところは肩を竦めて諦めた。 「なんでだよー」 「俺を呼び捨てにして良いのはだけなの」 「えー、なになに?何があったの?」 光二のいつもと違う態度の理由が何となく見えた途端、好奇心いっぱいに顔をした弘幸を横目で睨むと、光二は再び背を向けて歩き出した。 「教えない。判ったな、俺を呼び捨てにしたらもうお前とは絶交だからな」 「えー。訳も教えてくれないで、ずるくない?」 「ずるくない」 「ちぇっ。まあさん絡みなら仕方ないかぁ。でもさぁ“光二”がダメなら何て呼べばいいの?」 「好きで良いよ」 「光二くん、冴木、冴木くん、冴木さん……」 「……」 背筋がむず痒くなるのを我慢して、光二は弘幸が決めるのを背中越しに待つ。 「冴木くん、かなぁ。どう“冴木くん”て」 「別に」 「じゃあ“冴木くん”ね」 「判った、芦原さん」 「……あーあ。なんか大人になるってこういうこというのかなぁ」 どこか寂しそうに言う弘幸に、我が儘を言った自覚のある光二は悪いと思いながら言葉を綴った。 「違うだろ。呼び方や話し方だけで大人になれるなら、苦労しないよ」 「そうだよね。オトナな彼女と付き合ってる光二が言うと重みがあるなぁ」 「お前、やっぱり五月蠅い」 「久し振りにさんに会いたいなぁ。ねぇ」 「ダメ」 「なんでー、減るもんじゃないし良いじゃん」 「減る」 「減らないよー」 子供のようなことを言い合いながら、二人は昨日までと同じように、明日も同じとは限らない棋院への道を辿った。 |
またしても妄想の産物です。…って、今更ですね(苦笑)。もう少し、冴木さんの背伸びとか、ヒロインの若作り(笑)とかきちんと書きたかったんですけど、長くなりそうだったので断念。 20040701 |