数学・物理 100の方程式

act. 8

『……仕方ねえな』
彼の低い呟きに怯える間もなかった。
どこにそんな力があるのか、僅かに腰をおとしただけで子泣き爺のようにしがみついていた自分を軽々と抱き上げてしまうと、そのまま靴を脱いで上がった。
自分が履いていたサンダルも脱がせて放り投げ、勝手知ったる他人の家を奥へと進んだ。
『頭くらい拭けよ』
洗面所で下ろされ、タオルを被せられて乱暴な手つきで拭かれた。タオルの隙間から彼の肩が湿っているのが見える。
『……ごめ……っ……』
もつれた舌ではろくに謝罪の言葉も紡げない。情けなくなって震えの止まらない唇を噛み締めると、ふいに柔らかいものを押し付けられた。
『―――そんな顔するなよ』
優しく囁かれた後、再び重ねられたそれが彼の唇だと気付き、一気に体温が上がった。
軽く吸われてほどけた唇が何度もついばまれる。次第に深くなる口付けに酔い、足元がふらついてもすぐに抱き締めて支えてくれた。
嬉しさのあまり体から力が抜けてしまいそうだったが、次の瞬間、笑い混じりの彼の指摘に背筋が凍りついた。
『なんだ、立っちまったのか』
太股で中途半端な角度のそれを刺激され、慌てて腰を引いた。
『ち、ちがっ……あっ!』
離れてしまう前にタオル越しに握られて、つい上げた声の高さに顔が赤らむ。
『抜いてやるよ』
いつまでもからかったりはせず、直接触れて扱き出した彼の手を必死で止めようとした。
『いい、そんなことしなくていいから』
『気にすんな。さっさと出しちまえ』
『だ、だって、こんな所で』
僅かな間をおいて彼の手が離れた。
『お前、ほんっとに注文多いな』
一瞬訝ったものの、すぐに前回のことを言われているのだと悟り、顔から火が出るかと思った。もっとも、羞恥のせいばかりでもない。三日間繰り返し反芻したあの夜の出来事を改めて思い出してしまったのだ。
自分がどのように振舞ったかを彼が覚えていたのは相当恥ずかしかったけれども、同時に嬉しくもあった。無様な姿で構わないから、このまま記憶に残しておいて欲しい。
広言されたら困るに決まっているが、素知らぬふりをされ続けたのは寂しかった。
せめて見つめることができたら―――つい先程までそう願っていた。
単にささやかな望みを抱く自分に酔っていただけだと今なら判る。再び抱き締めてもらえた瞬間、まがい物の殊勝さは消え失せてあつかましさが前面に出た。
いきなりしがみついた挙句、立ったものを押しつけるなんて盛りのついた犬と変わらない。
彼の股間を見下ろしてみても平静なままで、自分一人で舞い上がっていたのは明らかだ。
そこでようやくのぼせた頭が冷えた。
―――もしかしなくても、とんでもないことを言ってしまった。
手っ取り早く処理をしようとした彼に「場所が嫌だ」などと抜かしたのだ。そんな贅沢を言えた身ではないのに。
『判った』
低い声に、途中で放り出されるのかと泣きたくなったが、幸いにも見捨てられずに済んだ。
『つかまってろ』
再び抱き上げられて運ばれた先は寝室だった。ベッドに下ろされる際にタオルも剥ぎ取られ、ついで灯された照明に裸身が晒された。
全て見られてしまった後でもやはり抵抗はある。少し開いていた膝を慌てて閉じかけたが、彼の手に膝頭を抑えられて阻まれた。
『手間かけさせんな』
これ以上機嫌を損ねるのが怖くて、黙って体の力を抜いた。
―――どうせ彼にはみっともないところばかり見られている。この期に及んで何を恥らう必要があるのか。
足首を取られ、両足が大きく開かれた。そのまま体を進めてきた彼の背を抱こうと手を伸ばしたが、指先が肩に触れると同時に動きが止まった。
勝手な真似をして怒らせたかと怯えつつ見上げると、彼は斜め前方を凝視していた。不審に思い、のけぞるようにして探した視線の先にはサイドテーブルがあった。
並んでいるのは読みかけの本、予備の眼鏡、そして潤滑剤と避妊具とティッシュ。
『あ、あれは違う』
彼を思い出しながら一人で使っただけで他の男は寝室に入れていない、と聞かれてもいないのに必死で訴えた。封が切られたそれらの品を、彼以外の男と使ったと誤解されたくなかったのだ。
ひとしきり喚いてから、彼にとってはどうでもいいことだと気付いて自己嫌悪に陥った。
勝手に入れあげて操立てして、身の潔白とやらを捲したてる。誰も頼んでいないのに。
悔やんでも仕方が無い。一旦口から出た言葉は戻せない。
―――運良く彼に触ってもらえたのに自分で台無しにしてしまった。
鼻の奥がかすかに痛み、熱い雫がこめかみを伝った。前の時といい今日といい、彼の前では泣いてばかりいるような気がする。
泣き落としを狙っていると思われたくなくて、嗚咽が洩れかけた唇を強く噛んで堪えた。
両腕で庇いながら顔を背けようとしたが、横を向く前に顎を掴まれて叶わなかった。
せめて醜く引き歪んだ口元を腕で覆い隠そうとすると、暖かく湿ったものが唇をなぞった。
『噛むなよ』
囁きながら再び触れてきたのが彼の舌だとは、すぐには信じられなかった。
『泣くこたねえだろ』
素っ気無い口調とは裏腹に優しく舐められ、顎の力が抜ける。抵抗を止めた唇は、すぐに彼の舌に犯された。
口中をかきまぜられて、たちまち股間が熱を取り戻す。
両の手首を取られ、腕を頭の上にずらされた。シーツの上に押さえつける力はさして強くもないのに、縫い止められたかのように動かない。逆らう意志が微塵も無いのだから当たり前か。
夢中になって彼の舌に自分のそれを絡めているうちに唾液が口の端から零れた。首へ辿りつく前に唇が離れ、伝い落ちたものを舐め取られる。陶然として彼が再度口付けてくれるのを待っていたが、与えられたのは唇ではなく意地の悪い質問だった。
『で? 次はどうすりゃいいんだ?』
優しい声で囁かれ、蕩けて半開きになっていた口元が引きつった。
………判っている。ここまで来て躊躇してみせる方が余程いやらしい。無垢な乙女でもあるまいに何をいまさら勿体ぶっているのか。
さっさと言ってしまえばいい―――そう思いつつ息を大きく吸い込んだものの、いざとなると言葉につまった。早く言わなければと思うと余計に焦る。
ろくに声も出せないまま、いたずらに唇を震わせていると彼がくすりと笑った。
固く閉ざしていた瞼に唇が触れ、両腕が解放された。次いで彼が身を起こすのに慌てて目を開けると、こちらうの体を跨ぐ格好で両膝をつき、シャツを脱いでいる最中だった。
嬉しかったけれども、そこですぐに安心できるほど楽観的な性格でもない。最悪の事態に備えて身構えながら、脱いだ服を放り投げる彼を見上げた。
逆光と涙と弱い視力の三重苦で輪郭がぼやけてしまっていたが、目を逸らしたらそのまま帰ってしまいそうな気がして、涙も拭かずに祈るような気持ちで見つめ続けた。
誘ってみせることも満足にできない。たとえ愛想をつかされても引き止める手立てを何ひとつ持たず、うるさいと思われないように黙ってじっとしているのが精一杯。
そんな自分に向けられた気まぐれが一体いつまで続くかなんて、当の彼にだって判るまい。
さほど着込んでもいなかったし大して時間はかからなかったはずなのに、待つ身には途方もなく長く感じられた。
ゆっくり覆い被さってきた彼の背を抱きしめる頃には、緊張のあまり掌は冷たい汗に濡れていた。
彼の肌に触れかけて気づき、すぐさま下ろしたが、それまで怠惰極まりなかったマグロが急にばたつけば不審に思われるに決まっている。
シーツで拭う間もなく両の手を取られ、情けないくらい気が逸っていた証拠を隠滅しようという姑息な企みはあえなく潰えた。引き戻そうにも強く握られて叶わない。ただでさえ腕力は彼に劣る。逆らうような真似をしていいものかと迷う気持ちも抗う力を削いだ。
狼狽して目を泳がせていると、彼はおもむろに手首を掴み、震えて縮こまった指に自らの指を絡めようとした。じっとり湿った掌が、乾いた彼の掌によって暖められる。
当初の性急な求め方とはうってかわった穏やかな所作を見ているうちに、肩の力が抜けて呼吸が少し楽になった。
深々と息をついた唇に触れるだけのキスが何度も施され、そっと塞がれる。
物慣れない自分でも構わないと言ってもらえたような気がして、胸が熱くなった。
その一方で、頭の隅に僅かながら残っていた理性がぼそりと呟く。
―――図々しいにもほどがある。
何気ない仕草を自分に都合よく解釈して妄想に耽った挙句、相手に押しつけようとするなんて、散々同級生がこぼしていた「面倒くさい処女」と少しも変わらない。
自意識過剰で頭でっかちで鬱陶しい、と惚れた男に蔑まれていた彼女達。
話を聞いた時は哀れだと思いこそすれ、後々「我ながらよく似ている」と自嘲する日が来るとは思ってもみなかった。
だが、こうなってしまうと開き直る気持ちもふつふつと湧き上がってくる。
それまで誰にも相手にされなかったことくらい一目見れば判るだろうに、わざわざ近寄って舞い上がらせる方も悪い。振り切るのに苦労した経験が一度ならずありながら懲りずに繰り返し、自分がもてていると勘違いしていた見苦しい男。「本当は追いかけ回されるの
が嬉しかったんだろう」と、あの時はっきり言ってやれば良かった。
………いずれは彼も、自分とのことを笑い話にしてしまうのだろうか。
花輪を含む校内外の友人に、あるいはあの朝迎えに来た男に、馬鹿な教師と過ごした夜をすべてぶちまけて「最低だった」と罵るまだ見ぬ彼が、目の前の今は優しい彼に重なった。
―――どうせいつかは足蹴にされる。ならば、今のうちに精々いい思いをさせて貰おう。
熱くなった胸に卑屈な想いが水を注し、小さな亀裂を生んだ。痛みを堪えきれずに溢れた涙と先ほどまで頬を濡らしていたものの違いなど、黙っていれば気付かれはしない。
余計なことは口走るまいと固く心に決めて、彼の前に身を投げ出した。

気を失うようにして眠りについたのは前回と同じ。
朝になると彼は帰ってしまった。律儀なところは相変わらずで、一度目を覚ました自分に声をかけてから部屋を出て行った。
そのまま夕方まで一人でベッドの中で過ごした。余韻に浸りたかったというよりも、単に起きるのが辛かった。
行為の途中で「最後までして欲しい」とせがんだら、「最後って、何だそりゃ」と笑われてしまった。………顔から火が出るかと思った。
結果として望みは叶えられたのだから、恥ずかしい思いをした甲斐はあった。
手を伸ばし、まだ疼いている箇所に触れてみた。少し熱を持って腫れているような気もするが、怪我はなさそうだ。彼を受け入れたのが嘘みたいに、再び固く閉じている。
(あんなに大きなものが入ったなんて、信じられない。)
念入りに広げられたそこに彼が押し入って来た時、元に戻らないかもしれないと心配したが杞憂に終わった。“それでもいい”と悲壮な決意を固めた己の滑稽さに、つい吹きだしてしまう。ひとしきり笑い転げた後、寝返りをうった拍子に涙がこぼれてシーツを濡らした。
―――最後までできて、本当に良かった。
彼に愛撫された自分の体がいとおしくて、労わるようにそっと両腕で抱きしめた。
自分の中で彼が果てたと知った時の感動は、きっと一生忘れられない。
これで諦めがついた。もう彼を学校で見かけても、目で追ったりはしない。
学校が始まれば嫌でも判ることだが、自分にとっては人生の一大事でも彼にとってはごくありふれた日常の一コマだ。ちょっと気が向いただけで、何の思い入れもない。
女にだらしのなかった同級生と比べたりもしたが、彼ならあんな無様な結果にはなるまい。
男あしらいも上手そうだ。下手な未練を持たせるような隙は一切見せないだろう。
すっかり自分の世界に浸りきってだらだらと泣き続けていたが、夕食時になるとさすがに空腹を覚えてベッドから脱け出した。きしむ体を引きずり、残りの休みは外に出なくてもにすむように、食料品と日用品を大量に買い込んだ。誰にも会わずに過ごしたかったのだ。
会いたい人はいる。いるけれども、もうこの部屋には来ない。
―――もし教師と生徒でなかったら、何も考えずに彼にまとわりつけたのか。
ふと心に浮かんだ甘い夢は、濃い妄想に発展する前に赤い車に轢かれて消えた。
今でこそ「ブスと言われたのは生まれて初めてだ」と苦笑する余裕もできたが、あの時は何も言えなかった。では今なら言い返せるかというと………絶対に無理だ。
正直言って二度と会いたくない。あの男を向こうに回してまで彼の後を追う根性は自分にはない。それに、あれ一人ではすまない気がする。
まとわりつくどころか彼の視界に入る前に蹴り飛ばされて終わりそうだ。
贅沢は言わない。昨夜の思い出を胸に彼の卒業を待つ。
そこで彼との縁は完全に切れる。もとより大した縁でもなし、既に切れたも同然。
―――そう思っていたのに。


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