学校で再会した彼は、予想に違わず『元気で可愛い優等生』を見事に装い、不自然な注視も意味深な言葉も投げかけてこず、心配しつつも密かに期待していた自分を落胆させた。
彼と自分の間に何かあったと気付いている筈の花輪もそれは同じで、やはり意識しているのはこちらだけだと思い知らされた。
見とれないように、さりとて殊更眼を背けることの無いように、と必死になっている自分が馬鹿みたいだった。
二晩続けて何をやったかを振り返れば、“みたい”ではなく馬鹿そのものだ。
彼と二人で汚したシーツを抱きしめ、あの晩の出来事を思い出しながら自慰に耽った。
自らの手でいくら慰めても彼に与えられた快感には到底及ばず、焦れるばかりで辛くなり、ついには前だけでなく後ろにも手を伸ばした。
容易に挿入できないのは潤いが無いからだと痛みを覚えてようやく気付き、潤滑剤と避妊具を買いに走ってしまった。
苦労の甲斐あって指を入れることに成功したが、違和感に萎えかけはしても気持ちよくはなれなかった。
後孔は闇雲に突き入れられた指を拒むように締め付けて思うように動かせなかったし、彼の時にはなかった痛みに耐えられなくてすぐに抜いてしまった。
優しくしてもらったのだと思うと涙が出てきた。単に手馴れていただけとも言えるが、粗末な扱いを受けなかったのは確かだ。
痛い思いをせずにすんだのは、彼が上手かったからだろう。
不慣れな自分をあやすように何度も口付けながら時間をかけて入れてくれた。
少しでも息をつめれば、抱きしめたり前を愛撫したりと労わってくれた。
―――本当は自分でも判っている。
ペニスへの刺激だけで達することができなかったのは、後ろでの快感が忘れられなかったのみならず、自分を抱き締めてくれる腕が無かったからだ。
単に入れる物が欲しいわけじゃない。寄り添ってくれる人肌が恋しい。
肌を直に触れ合わせ、抱き合う悦びを知ってしまった今、一人自分を慰めるのが惨めで堪らない。
シーツに顔を埋め、泣きながら擦り立てたけれども一度気付いてしまうともう駄目だった。
萎えた物に固執しているのが情けなくなって、諦めてその晩は文字通り泣き寝入りした。
翌朝未練を振り切るつもりでシーツを洗濯したが、眠る直前に枕カバーに残っていた小さな染みを見つけてしまうと、たちまち下腹に血が集まり始めた。
乾いたばかりの、もう何もついていないシーツにくるまって、自らの両手を彼のそれだと無理やり自分に言い聞かせて、あの晩を思い出しながら弄った。
熱さを増すと共に、やはり後ろにも刺激が欲しくなって指を入れてしまった。
前の晩よりは容易く入り、彼の物が自分の中を抉る光景を想像しながら動かしてみると、あっという間に果てそうになった。咄嗟に指を抜いて、できるだけ引き伸ばそうと慎重に動かして快感を味わった。
射精した後、余計に虚しくなると知っていながら。
一度達して、すぐにシーツも枕カバーもゴミ袋に詰め込んだ。
今朝マンションの前に出してきたから、帰る頃には無くなっている。
ベッドサイドの潤滑剤と避妊具も一緒に捨てようか迷ったが、忘れてしまいたいのは彼のことだけだと苦しい言い訳をして残しておいた。
多分、これからも使うだろう。自分で慰めるしかないのだし。
あれらの品々を買い求めるのにも、変装じみた真似をして近所の店を避けたというのに、一人寝が辛いからといって街で男を拾う度胸など無い。
誰に会うか見られるか知れたものではない、と身をもって体験したばかりだ。
後ろを覚えると前だけではいけないと小耳に挟んだ事がある。
まだそこまで行っていないと思うが、そうなったって構いはしない。
自分の指で病み付きになるほど浸れたら、もう男はいらないわけで願ったり叶ったりだ。
それに万が一潤滑剤と避妊具を買う場面を見られた所で、男好きだとばれることに比べれば大した問題ではない。
彼のことは、単に後ろの快感を教えてくれた恩人として片付けてしまえばいい。
後は開き直って学校に行きさえすれば、向こうが知らぬ顔をする以上はいずれこちらも慣れて何ともなくなるはず―――だと思っていたのだ。
実際に顔を見て声を聞いてしまうと、二晩がかりの決意もあっけなく砕け散ってしまった。
見れば嫌でも思い出してしまう。
あの唇の熱さも柔らかさも知っている。彼のペニスを扱いている間中、あの指に翻弄され続けた。綺麗に並んだ歯が耳朶を甘く噛むのに、そこも性感帯の一つだと教えられた。
普段よりも少し低く掠れた声で囁かれ、あの背中にしがみつきながら幾度も射精したのだ。
つい凝視してしまいそうになるのを堪えて、できるだけ不自然に見えないように数をかぞえながら目をそらした。
欲望に満ちた眼差しに気付かれたくなかったのは勿論だが、一緒にいる彼の友人達を睨みつけてしまいそうで怖かった。
彼がどんな風に男を抱くか知りもしないくせにと内心勝ち誇りかけて、自分の場合は抱かれた内に入らないのではと却って落ち込んでしまった。
彼らの間に性的な関係はないだろうに、見当違いの嫉妬は侮辱と変わりない。
よしんばあったとしても口を挟める立場ではない。
なのに、気安く彼の肩に触れるている手を見れば、駆け寄って払いのけてしまいたくなる。
何事にも淡白と言われ続け、自分でも諦めがいい方だと思いこんでいたけれども、違った。
こんなにも独占欲が強かったのだ。
彼に執着し、周囲を取り囲む男全てを妬んでいる。
………他の男に会えないように、どこかに閉じ込めてしまえたらいいのに。
そんな馬鹿げた妄想に耽ってしまうほど―――彼が、欲しい。それからの三日間は、毎日少しずつ諦めの境地に至るため学校に通ったようなものだった。
姿を見れば胸がときめく。しかし決して傍には寄れない。
蜃気楼と違って手を伸ばせば届くところが厄介だ、と間抜けたことを考えて溜息をついた。
行動に移さずにすんだのは僅かながらも理性が残っていたのに加え、“手を伸ばして抱き締めても独占できるわけでなし、疎まれるのがオチだ”と判っていたからだ。
欲しい欲しいと言って手に入るなら、とっくに誰かのものになっているだろう。
昼間は彼我の距離を否が応でも見せ付けられて苦しみ、夜は何をする気力もなく泣きながら眠りにつく―――まさに神経が磨り減るような思いで日々を過ごした。
僅か三日間で疲れが顔に出てしまうほど消耗し、休日の前日には複数の教師達に「連休は仕事を忘れて骨休めをするように」と言われてしまい、申し訳なさの余り面が上げられなかった。生徒との淫らな行為が忘れられなくて夜も眠れずにいるだけなのに。
そんなこととは思いもよらない真っ当な人々の優しい言葉も、道を踏み外した獣には己を攻撃する槍にしかなりえない。
深々と胸を突き刺された痛みを顔に出さないように、精一杯明るく振舞って帰路についた。
―――帰ってから泣けばいい。一人きりの部屋で、好きなだけ。
部屋に帰ってドアを閉めた途端に涙が溢れた。玄関に座り込み、流れるものを拭いもせず、ただ泣き続けた。
どうしてこんなに涙が出てくるのか自分でも判らない。
いつも通り、さっさと諦めて妄想の対象にするだけで満足できないのは何故なのだろう。
“誰を夢想して射精しようがばれなければいい”と開き直り、翌朝当人の顔を見て感じる一抹の後ろめたさすらその夜の快楽に繋げられる図々しさを、いつの間になくしてしまったのだろうか。報われぬ想いを抱えるのには慣れているはずなのに。
―――好きになったって、どうしようもない。
ずっと自分に言い聞かせてきた言葉だけれども、今ほど胸にしみたことはなかった。
………彼が好きだ。
初めての相手に拘泥しているだけだと己を何度叱咤しても、彼の姿が脳裏から離れない。
今まで焦がれた相手とは余りに違いすぎて、自分でも趣味を疑ってしまう。
精悍な風貌の逞しい男達に惹かれ続けてきたのが、いきなり自分より背の低い年下の美少女もどきに心を奪われてしまうなんて。
“好きになろうと思ってなれるものなら苦労はしない”と実らぬ恋をする度に自分を慰めてきたけれども、今回のは酷すぎる。
友人を装って側にいることすら許されない。欲望を押し隠し、さりげなく触れて満足することもできず、ただ指を咥えて見ているだけ―――これまで後ろ向きだった報いなのか。
どうしてこんな感情があるのだろう。恋なんかしなくても生きていける。むしろ邪魔だ。
ひとしきり泣いて涙が止まる頃には、座り込んでいた尻がすっかり冷えてしまっていた。
立ち上がってスーツを軽くはたき、鼻を啜りながら靴を脱いだ。
辛い恋をしているからといって日常生活を全て放棄できる人間は稀だ。そこまで浸りきれたら、いっそ楽かもしれないが。
夜毎泣き続けても、朝になればいつもの時間に部屋を出て行ける。
繰り返せば嫌でも慣れる。そのうち何事も無かったような顔もできる筈だ。
今はこんなに辛くても、いつかは思い出に変わる。
どうせ何もできはしないのだ。じっと耐えていさえすれば、いかに遅く感じられたとしても確実に時は過ぎる―――彼の卒業まで待たずとも、次第に気持ちも褪せていくだろう。
すっかり諦めて何の期待もしていなかったから、連休の前夜、日付が変わる直前に彼が現れた時は驚きの余り声も出なかった。
風呂上りにインターホンの音を聞いて、最初はこんな時間に子供の悪戯かと眉を顰めた。
外部からの客がエントランスで足止めを食っている場合とは音が違うし、管理人や隣人が訪れるあてもない。まさか深夜の入浴を咎めに来たのだろうか。
防音はしっかりしていると姉に聞かされてこれまでにも散々やっている。苦情があればとうの昔に来ているとは思うが、我慢の限界を超えたのかもしれない。
自分では特に上下の物音が気にならなかったから姉に倣ってやりたい放題してきたものの、基準は人それぞれだ。
慌ててバスタオルを腰に巻き、取りあえず返事だけでもと向かった画面に映っていたのは、この三日間夢にまで出てきて自分を苦しめた少年だった。
玄関に走って鍵を外し、勢いよくドアを開けると、軽く身をのけぞらせた彼がいた。
『危ねえな―――おい、なんつう格好してんだよ』
タオル一枚でサンダルをつっかけた姿を笑われてしまったが、素足で下に降りなかったのが不思議なくらいだ。
『風邪引くぞ』
手の甲で胸元をはたかれ、はっとしてドアから手を離して後ろに下がった。彼は閉まりかけたドアを片手で抑えると、そのまま当たり前のような顔をして中へ入ってきた。
咎めも追い返しもしなかったのは単に思いつかなかっただけで、その後の展開に期待する余裕などなかった。目の前に彼がいるのが信じられず、馬鹿みたいに口を開けて見つめ続けるばかりで―――。
『どうした?』
言葉もなく立ち尽くす自分を、まっすぐに見上げる彼の笑顔が眩しかった。あれだけ彼を欲しがっていたくせに、実際こうして側に来られるとまともに目が合わせられない。
『また泣いてんのか?』
頬に手が添えられ、親指で涙が拭われた。
『……だ……って……』
嗚咽混じりの声はみっともなく引っくり返り、満足に物も言えなかった。言いたいことは沢山あるのに。
―――会いたかった。声が聞きたかった。側にいてほしかった。
気がつけば彼に抱きついていた。言葉にしたくてもできないもどかしさをぶつけるように強くしがみつき、肩に顔を埋めて泣きじゃくった。
『風邪引くっつってるだろ?』
声音の優しさも背に回された手の暖かさも、何もかもが新たな涙を誘う。ほのかに漂う数日前と同じ香りも。