『それ』を見つけたのは、年末名物大掃除で自室の押し入れ内部を漁っている時だった。
押入れの1番奥に、黒い靄のような「もやもや」が湧いて出ていたんだ。最初はカビか何かだと思ったけど、それに手を伸ばした僕の手は、そのまますっと靄の奥に吸い込まれた。そこには壁があるはずなのに。
普通なら無気味に思うのだろうけど、好奇心に駆られた僕は、そのまま頭も突っ込んでみた……今にしてみれば、我ながら無謀だったと思う。
闇の中で、下りのエレベーターに乗ったような感覚が、一瞬僕を襲った。
ふと気がつくと、僕は闇が広がるだけの空間にいた。ここが押入れの中じゃないことは確かだ。
ごつごつとした冷たい岩の感触が、尻餅をついた僕のお尻と掌に伝わってくる。
目の前で振った手も見えない、本当の暗黒。真の闇――原始的な恐怖に駆られた僕は、その場をやみくもに走り回ろうとして、
ふにっ
「え?」
何か柔らかいものに蹴つまづいて、僕は派手に転倒した。
固い岩が僕の顔面に激突――はしなかった。柔らかく、暖かく、すべすべした何かが、僕の身体を優しく受け止めてくれたんだ。
「……ん〜……だれぇ?」
身震いするくらい美しい、しかし眠そうにおっとりとした女性の声が、僕の耳元に響いた。
「だ、誰!?」
「んにぃ……おはよぉ……」
「ど、ど、どこにいるの!?」
「……あ、光が無いと見えないんだね〜」
突然、周囲が光に満たされた。ごつごつした黒い岩盤の所々に白い水晶の柱が立って、それが電灯みたいに光を放っている。
そして、僕の体の下に『彼女』がいたんだ。
20数年しか人生経験の無い僕だけど、これだけは断言できる。
僕は、今まで彼女ほど美しい女性を見た事が無い。そして、これから彼女より美しい女性に出会う事も無いと。
あらゆる美の形容詞が当てはまりそうな魔性の美貌は、思わずその場に膝をつきかけたくらい妖艶で、荘厳だった。女帝の風格とでも言うのだろうか。彼女に「死ね」と命令されたら、誰もが即座に舌を噛み切るに違いない。
でも、トロンと眠そうな瞳が、そんな物騒な雰囲気を幾分和らげていた。
癖のある茶色い髪は、宝石を溶かしたように艶やかで――ちょっと冗談みたいに長くて量が多かった。軽く10mはあるんじゃないだろうか。それはまるで最上の毛皮を着ているように、彼女の肢体に絡みついている。
そして、一糸纏わぬ身体ときたら……男の欲望と女の理想を完璧に具現化しても、ここまで見事なプロポーションにはならないだろう。匂い立つ色香は10代20代の小娘には絶対出せないだろうし、肌の張りは1桁の年齢でも通用する。特に乳房の反則敵な大きさときたら、バナナどころかスイカも挟めそうだ。その先端にツンと立つ朱鷺色の乳首にむしゃぶりつく事ができるなら、次の瞬間地獄に落ちても、僕は悔いは無いだろう。
そんな魔王のように美しい彼女が――うつ伏せに倒れた僕の体の下にいるんだ。
「うひゃあ!!」
僕は慌てて起き上がり、転がるように彼女の上から離れた。
「ええとぉ……人間…ですねぇ? キミの種族に会うのは久しぶりぃ……」
眠そうに目を擦り擦り、彼女は僕に話しかけてきた。
「……キミのお名前はぁ……?」
「あ、赤松 英(あかまつ ひで)です。知人からはひでぼんと呼ばれていますです」
「ひでぼんさんですかぁ……」
にへら〜、と彼女は笑った。一瞬、口が耳まで裂けたように見えた気がするが、幻覚だろう。あんな美しい女性を前にして、正気でいられる方がどうかしている。
「ボクの名前はぁ……名前はぁ……ええとぉ……何でしたっけ?」
「いや、僕に聞かれても」
「あぁ、思い出しましたぁ……ボクの名前はぁ、“つぁとぅぐあ”って言いますねぇ……」
“つぁとぅぐあ”さんは、ゆっくりのんびり時間をかけて、ふらふらと眠そうに身体を起こした。
でかい。
いや、あの反則的な大きさの爆乳じゃなくて、彼女の背丈の事だ。身長180cmを超える僕が、“つぁとぅぐあ”さんの肩にも届かない。
「ひでぼんさぁん、よろしくお願いしますねぇ……」
「あ、いえ、こちらこそ」
深々と御辞儀する“つぁとぅぐあ”さんにつられて、僕も深く深く頭を下げた。
地獄を支配する女魔王のような風体なのに、どこかのんびりとした温厚な雰囲気の女性だ。
「……ふにぃ〜」
と、いきなり“つぁとぅぐあ”さんが頭を下げる僕の背中にもたれかかって来たんだ。不思議と巨体の重さは感じられなかったけど、その柔らかな肢体の温かさと、甘い肌の香りに、僕の頭の中は真っ白になる。
「……お腹が空きましたぁ」
素っ頓狂な彼女の言葉が、僕の意識をピンク色の靄の中から現実に引き戻した。
「お腹が空いた……んですか?」
「……はぁい、最近供物を頂いていないのでぇ……何か食べ物を捧げてくれませんかぁ?」
「は、はぁ……」
「でないとぉ……キミを食べてしまいますよぉ……?」
僕はダッシュで側に漂っていた黒い靄の中に飛び込んだ。なぜか、彼女の言葉が冗談に聞こえなかったからだ。
幸いにも、靄の奥には見慣れた自室の押入れがあった。転がり落ちるように階段を降りて、台所に飛び込む。ヤカンに火をかけ、カップラーメンの蓋を開け、湯が湧くまで意味も無く台所を走り回った。数分後、沸騰したお湯をカップラーメンに注ぎ、箸とそれを引っ掴んで、5段抜きで階段を飛び越えて、押入れ奥の靄にヘッドスライディングを決めた。
闇の中を落下した僕を、“つぁとぅぐあ”さんは優しく受け止めてくれた。
「――わぁ、美味しそうですねぇ……いただきまぁす」
3分後、ぜーぜー荒い息を吐く僕の前で、“つぁとぅぐあ”さんはカップラーメンに深々と御辞儀した。そのままカップラーメンを手に取り、蓋を開――かないで、湯気の立つそれを、ぱくりと一口で飲み込んでしまったのだ。
「ん〜、なかなか美味しかったですよぉ……それでは、おやすみなさぁい……」
唖然とする僕を尻目に、“つぁとぅぐあ”さんはその場にごろりと横になると、長い髪を毛布代わりに身体にくるんで、
「……またぁ、供物を持って来て下さいねぇ……待って……ます……ぅ……くー」
可愛らしい寝息を立てて、“つぁとぅぐあ”さんは眠ってしまった。
それが、僕と彼女『達』の、奇妙な交流の始まりだったんだ……