何億の夜を越えれば辿りつけるでしょう。
何億の太陽をまてば見つかるのでしょう。
幾千の星屑をあつめれば叶うのでしょう。
幾千の夢のむこうに眠っているのでしょう。
いこうと誘う声がします。
いくなとよぶ声がします。
どちらを選べばまっすぐ進めるのでしょう?
両腕をひらいて。
抱きしめる人を探して。
儚いともしびだけをたよりに走りましょう。
くるしくともかなしくとも、つらくともいたくとも。
きっとあすはすべてが変わっている。
*
唄が響く。
息子よ あしたはすべてが変わっているだろう
くるしみは裏口からでてゆき にどともどってこないだろう……
「まただよ……勘弁してくれよ……」
夜番のもうひとりが、ほとほと苛まれた調子でこぼす。
近頃は政府からの援助金が大幅に削減されて財政が苦しい。削れる諸費用をとことんまでケチろうと、夜番の最中灯されることを許されているランプはひとつっきり。当然に夜になれば部屋は暗い。
おそらくは、ここの図面を引かせた者は番をする者に対する配慮をしなかったのだろう。夜用の監視室はせまっくるしいところにモニターと操作パネル置かれて、監視人が二人並んで座るともう他に余裕はない。切り替えが可能なモニターは横に六つ、縦に四つ並ぶ。うち、二段目の左から二つ目に、番の相方の、その赦しでも乞うかのような視線がそそがれている。
農夫はじぶんの土地に しっかりたってほほえみ
労働者のむすめももう まちかどで身を売ることはない
闇色の紙の上、清水を滔々と流すように、ときに揺らぎながら、ときに突き貫くがごとくのびあがる旋律。かたいいつぼみがほのかに色づいて最高を咲き誇っていくまでの不思議な勇壮さが匂うことば。
モニターに音声はついていない。
「響いてきている」のだ。
ここまで。
なんとまあデカい声だろうと思いたくもなるが、実際それほど声高に喉を鳴らしているではないらしい。どういう原理なのか、壁も床もすりとおすようにして響きあい音を届けてくる。距離はいくらも離れていないが、決して壁は薄くないのに。
相方殿が嘆くのは、うるさいからだとか、下手くそだからといった理由ではない。むしろなにも思わなければだるい夜番のいいBGMだ。
明るく楽しげで……どこかもの悲しいメロディ。のせられて、希望をこめ明日をつむごうと詩が語る。
嘆きたくもなる。歌い手がどんな境遇であり、自分たちがどういうものであるかをちょいと振り返ってみたならば。
にもかかわらず、彼はこの歌をそんなに酷いものだと思っていなかった。このところの夜番では、わりかしこれを楽しみにもしている。良心の点では、よっぽど相方殿のほうが天使らしいのだろう。これを平気で聴ける自分はどこかおかしいのだ。
というより、ここで働いている時点で誰も彼もおかしい。自分の場合、『この部分』がズレているだけで。多少各々場所が違っても等しく皆おかしい。
相違ない。
相方殿は耐え切れぬ、と居眠りを決め込んだ。
見回り、とひとつ言い残し、彼は監視部屋を出た。
息子よ あしたはすべてが変わっているだろう
銃弾も 鞭も 牢獄の鉄格子ももうないだろう
近ければ近いほどよく聞こえはするが、といって音量が高くなるかといえばなぜかそうでもない。
だがこの声だけが聞こえる。ともすれば鳥肌がたつほどの寒さのなか、深々と降る雪のような気配で。無人の浜辺に波音がそうであるように。
おまえは息子と手をつなぎ とおりを散歩するだろう
わたしがおまえといっしょに したくてもできなかったことを
ノックをするべきだろうか? それともそのまま開錠し、ノブに手をかけてしまおうか。
そしてどちらにするにせよ、いったいどのときを選ってそうすべきだろうか?
存在を知られればきっと唄はやむ。ならば終わりまで待つのがいいだろうか?
ひょっとして、こんなに強く唄うのだ、何をしても直接声をかけなければきづかずに唄い続けるかもしれない。
わかくたのしい月日を とらわれてくらすこともなく
遠い異国の土地で 死ぬこともないだろう
鼻で笑う。意味がない。
終わりまで待ったとしてもすぐに違う唄が始まるだろうし、近くで鍵を差し込こまれ扉があく音がわからないほど遠い耳ではないだろう。
愛しあうものたちは いつも一緒に暮らし
祖国の大地のうえで たのしくねむるだろう
息子よ 明日はすべてが……
開錠――。
水がうたれた。
痛む胸元を抑えるようにして握られた左のこぶし。
すこし顎をあげて、斜め上をむきながら閉じたまぶた。
ゆうるり、こぶしはとかれまぶたはひらかれ、首がまわされ、視線が交差した。
「なにか?」
ほんの情けばかりの青い光に、ぼやっと映し出される小さく幼い姿。長い髪は月色だが受ける印象としては反対に太陽の可視光線のよう。真直ぐ障害がないが、しかし椅子に座ってあまる部分はちゃんと床で折れて横たわっているのだった。
服はサイズが半端で合うものがなかったせいで大き目のものを着せられている。本来半そでのはずの袖が七分にみえる。そこからのびた両手首には――訂正――右手首には拘束具がはめられている。左には、二の腕にはまっているはずだ。
ズボンから覗く寒々しいはだしの両足首にも同じものがついているし、首にもついている。
アストラル力を抑え込み、必要ならば筋力さえ奪う、束縛以外どうしようもなく使い道のない輪が。
うすい笑みを浮かべる彼女。この暗がりの中ではむしろ青みがかった黒に見える目を、細めるのに何の抵抗もないらしい。この自分に対して、だ。
「今夜は冷えるから」
腕にかけてきた毛布を、ついとあげて示す。
少なからず意表を突かれたらしい。細くなっていた目が見開かれる。
「……ありがとう」
礼のことばが聞けたのは、近くまでいって渡してやってからだった。
渡しても立ち去らない自分を不審に思うが、それを口にするほど無神経でもないのか妙なものでもみるように無言のうちに横目で伺ってくる。
長い髪がある。たっぷりした生きた髪。結い具を与えられていないから流れ落ちるままに放置されている。
「髪、触ってもいい?」
不躾に尋ねる。またしても彼女は驚いたようだが、断る理由もないのだろう首を傾げ、
「どうぞ」
一房、さわって手にとる。
やわらかい。むろん小動物やなにかのそれと比べればしっかりしていたが、目に見える直線から感じられるよりはずっとやわらかな髪だった。数日櫛もろくにとおしてないだろうに、一本一本が他と交わろうとしない。結びつこうとしない。滝のような髪。
手に取ったまま、口元にあてる。あたたかな匂い。体臭というにはもっと他のものの匂いであるほうがしっくりくるような。
手を下ろし、彼女から離れる。ドアを閉めて、背にして座り込んだ。
彼女は怪訝そうに彼を向く。
「ききたいことがあってさ」
用件を告げる。
「なにを?」
「………………」
黙していると、彼女は立ち上がり椅子を彼に向けて座りなおした。
「なら私からひとつ聞いても?」
頷く。
「これ、なんです?」
素の腹を普通に男に見せるのはどういうことなのか。そも、この少女には頓着がなさすぎる、と彼は思った。夜更けに男がひとり尋ねてきて(しかも持ってきたものが毛布だぞ)不審に思えど警戒をしないのはいかなることか。
たくしあげられた裾から覗く腹は、真ん中辺りが楕円に黒くなっている。楕円に。
「ああ」
首を振る。ちくしょう。
「それは、殴られたんだよ、君。その……ミカエル様にね」
「やっぱり」
「やっぱり?」
「そうじゃないかと思ってたから」
「覚えてないの?」
「さっぱり」
彼は吐息をついた。これは尋ねたいこととはすこしずれるが……
「唄さ」
「?」
「君のうたう唄」
「ええ」
「あれは、ミカエル様に向けてうたってるのかな」
彼女は意外そうに、
「……どうして?」
「だって……あてつけみたいな唄うたうじゃないか」
「あら」
苦い顔で視線を横にずらす。
「嫌だわ」
「違うの?」
「もちろん。どうしてそんなことを?」
彼は言いよどむ。
なんだって? 訳なんか言うまでもないだろう。君がここにいるのは、その腕にある針の痕は、原因を辿れば、みな。
「ああ……殴られたから? 撲たれたのは別にこれがはじめて、ってわけじゃありませんし」
そうなのか?
「それじゃ、なんであんな唄を」
「意味を聞かれても……浮かぶから唄うだけ。退屈なんですもの、ここ」
「寝ないの?」
ほとんど夜通し、彼女は唄う。いつ眠っているかわからないほど。
彼女はへらっと力の抜けた笑い方をし、言った。
「怖いの。寝るの。嫌いなの」
変なのもいたもんである。寝るのが怖い?
「ばらばらになりそうだから。意識がなくなると。……あんまり人にはいわないようにしてるんですけどね。心配かけるから」
「平気? ……体、とか」
そんなことよりも酷い目に遭ってるのに、今更の気遣いだと言ってから気づいてしまった。
「浅くは眠ります。睡眠は少しで足りるし、今までは眠らなくたってその分補給できましたもの」
それで、それがどうしたのか、と続きを促してくる。
よくわからないが、平気であるらしい。
話を戻す。
「ミカエル様を恨んでないの?」
「……恨む?」
「ここにいるの、辛いだろ? ミカエル様が君をここによこしたんだぜ?」
「だから?」
「だから、って……」
「ミカエルさまがそうしたいから、そうなさったのでしょう?」
「だろうけど」
「じゃあ、いいじゃない。それがなにか困るのかしら」
「困らないけど」
「ミカエルさまが望まれた、だから私はここにいる。おかしいことがあります?」
ありまくりだろ。
反論しようとして、今更ながら気づく。
目ははっきりと彼を見据えている。
本気だ、この子。
疑問にすら思ってないのだ。
頭おかしいのか?
「私は頭がいかれてるんですよ」
心を読んだように彼女は断言した。びくっと体が震えた。
彼女はここではないどこかを、前世を想うような目つきで眺める。
「友達によくいわれます。自分では……そうは、思わないんですけど。
聞きたいことはそれでした?」
「いや」
かぶりをふる。わからない。違う生き物と喋っているみたいだ。
彼女は長い髪の毛を指に巻いて言葉を待っている。退屈しのぎは独唱より誰かとのお喋りのほうが(たとえ相手が誰でも)いいのか、突然現れた男の行儀の足らない質問を、無下にもせず答えようとしている。
(……変な子)
じっと無遠慮に見つめる視線を正面から受け止めて物怖じもしない。
その態度を不憫だな、とぼんやり思った。
「あのさ」
さっきまでの様子じゃ、また判らない答えになるだろうか。それとも、覚えていないか?
「なんで、笑ってたの?」
「?」
理解できないと、首を傾げた。
「その、お腹の痣――ミカエル様に撲たれたときに、笑ってただろう、君は?」
気を失った体を受け取ったとき、その顔を見て吃驚した。微笑んでいたのだ。薄く優しく、どことなく、満足そうに。
彼女は一瞬、きょとん、として。さも可笑しそうに笑った。
「見てたの」
クスクスと声を上げて笑う。その笑い方はとても無邪気で、この上なく愉快そうで、羨ましくなるほど幸せそうで……
胸が痛くなるほど哀れだった。
「女ですもの」
笑いながら、決然として言う。
「愛する男の前では、そうできる限りいつだってすべからく微笑んでいるべきでしょう?」
悲しかった。苛立たしく、湧き上がる腹立ちと憐憫を感じた。強く。
それらを拭い取るように胸中から削除して、立ち上がった。
もう用はない。
彼女のそばにいって、小さなあたまを撫でた。
名前を聞こうと思って口を開いた。が、詮無いことだと、聞いても疼が長引くだけだと気づいて言わなかった。
別れの挨拶もせずにドアをくぐり、閉めようと振り返ったとき、彼女は右手を額の斜め上にあげて瞳を閉じ、誓いのように唱えた。
「holy, holy, holy, holy......」
鍵をかけてから、やはり名前を聞いておけばよかったと、少し、後悔した……。
響く。
「holy, holy,
holy, holy......」
聖なるものよ あなたがどうして汚されましょうか?
「One of the lords who are the heads」
あなたより尊いものはなく またあなたより美しいものもない
「Gain mastery over the army of devil who
draws near from the crevice of golden
clouds with the sword which burns and shines」
すべての邪悪なるものはあなたのまえにひれ伏すでしょう
あなたの輝きのもとにすべてがつどうでしょう
「The lord of a light great like God. The leader」
世界はあなたの栄光にあふれています
「You are just the highest commander of an angel's army」
ただ一言 ことばはあなたのためにある
「The prince of a glory」
いったん、言葉が切られて沈黙と静寂が降りる。
言おうか言うまいか、茜の唇が迷う。紺青の瞳がイタズラのように細まり、開かれ、くるっと中身がまわされる。
「My beloved, My sweetheart」
あなた。私のあなた。
クスっと笑って、ひとりの名を紡ぐ。
「ミカエル」
はっきり口にする。壁が音をかえすほど。
「愛してる」
憎悪より激しく絶望より強く、悲しみよりも深く、怒りよりも鮮やかに。
そして呪いよりも想いを込めて……。
「あなたを愛してる」
祈り。
ふっと口元が緩む。
理解して欲しいんだけれど。
私は平気なんですよ。あなたが私に望むことなら。
たとえ剣に貫かれても、あなたの刃を私の血が汚しても、決して私には痛いものじゃない。
あなたは私を好きにしていいし、そのことで思い悩む必要も気を咎めることもないの。どんな些細な理由で撲たれても、殺されたとしたってそれがあなたなら私は大丈夫。いっそ理由なんてなくてもかまわないの。
あなたのためというのなら、苦しみも喜び獄も楽園にかえられる。
そういうことなの=Bたぶん、私という存在は。そう。
単調な曲節を鼻腔で唄う。
私は心配です。
甘く苦い笑みがこぼれる。
「あなたのほうが、泣いてなきゃいいんですけどね……」
それだけが心配です。
*
数日後、夜になっても唄が消えなくなった。
わかっていた、ことだったけれど。
*
ムカつく。
理由その2:理由その1のために悪魔狩りにでも参加しようかと思ったら間違えて予定のない日に職場に行った。
理由その3:腹を立てていたらなぜか次々と周りから人影がなくなっていった。
理由、その1。
何気なく歩いていたら、足が止まった。振り向かねばならないような気がしたのだが、振り返ってみても、歩いてきた廊下は別段変化ない。
首を捻ろうとして――目の前で理由の姿が閃いた。
消える。
「……くっだらねぇ……」
噛み潰すようにして呟く。
くだらない話だ。実にくだらない話だ。
振り返っても、もう誰もいやしない。
忘れたい。早く忘れたい。忘れたらいい。なかったことにしておけばいい。
それですべて元に戻る。
必ずだ。
『何もありはしなかった』。 たった少しの時間だ。短い時間だ。瞬きにも等しいわずかな時間だ。どうしてなかったことにできないはずがある?
「……くだらねぇんだよ」
自室で、腰かけたまま天井を仰ぎ、目を閉じて繰り返す。
あまり認めたくはない。だが確かに、振り向く対象が消えてしまってからはじめて気づいた。
歯を食い縛って、薄く目を開けた。
少し、嬉しかった。
「………………」
目立った汚れはないけれど、年月による幾度かの瀬にあらわれて褪せた天井がそこにある。
少し、嬉しかった。自分に向けられていた剥きだしの好意。
今更家の中どこを探しても。
一度ほどけば引きずるしかない長い長い髪や、いつでも笑みを浮かべて真っ直ぐ見上げてくる青い視線やカップを差し出す白い手とか、庭から聞こえてくる唄や名を呼ぶ声、追いかけてくる軽く楽しげな足音。
彼女がいないということは。
それらが全部、ない、ということだ。
なのに、耐えがたいほど幾つも残っているものがある。
以前よりペースの落ちた歩く速さ。横に見えないときに振り向く癖。『待っている』自分。
……笑っていた。
なるべく、顔を見ないようにしていたけれど、しかし渡すときに目に入ってしまって。
意識は、なかった。断言してもいい。彼女に意識はなかった。
閉じられた瞳とくちびるが、笑っていた。
笑っていたのだ。
痛くなかったわけがない。殴られて意識が失せたのだ。痛くなかったわけがない。
それなのに、なぜ笑うのだろう。
誰に、笑ったのだろう。
彼女は笑っていたのに。
「……なんで俺が泣くんだよ」
嗚咽もむせびもなく、涙だけがただ出てくる。悲しいとも悔しいとも感じていないのに、ただ、泣くだけ。
名前を呼びたくなる。でもできない。たとえ小さな呟きでも、事実声に出してはとても呼べない。決して応えがないから。
ひどく不思議な気分だった。
どうして彼女がここにいないのだろう? ――自分が渡したからだ。
どうして渡した? ――遠ざけようと思ったからだ。
どうして遠ざけたかった? ――おかしくなるから。
彼女が嫌いだからか? ――違う。
それは、違う。
彼女を嫌いでないのなら、遠ざけねばならない理由がどこにあったのだろう?
「畜生……」
おかしくなる。
離れない。
いなくなれば。
きっと何もかも元の通りに、彼女のいなかったころに戻ると、思っていた。
忘れてしまえる。さっぱりと、この思考から。
彼女が、いなくなれば。
いない。
望みどおりいない。
彼女はいない。
……彼女がいない。
無性にいらだちがわきあがる。
なんでいない? いるだろういつも? なんでいなくなる? お前は傍にいればいい。へらへら笑いながら隣にいればいい。
「……お前、なんでいないんだよ」
矛盾している。わかっている。自分自身がそうしたからだ。他でもなく自らの意思でそうしたからだ。
――だんッ!
壁を殴る。
彼女はもう笑わない。お茶を持ってくることもない。
ホワイト・ルームの潔癖な白さに染められて。
釈明も言い訳も弁解もありえない。
あの瞬間、世界は永遠に隔たれたのだ。触れても触れていない、見えても見えていない、重なっても重ならない、交わっても交わらない。
触れようとしても目を向けようとしても……どうにもならない。
そう思うのに、どうしても、なんどでも。
記憶に映る姿はいつも笑顔。
痛い。
*
数十日後、力天使長ラファエルの目覚めが天界中に知れ渡った。
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