7 欲するものを手に入れた時、あなたは何を失いましたか?




 かつ、かつ、かつ、かつ、かつ……
 あの長い、やや節だった指がデスクを叩く音はもう随分長いこと続いている。
 フィルは体を丸めないと眠れない。その理由を――精神学? 心理学? どちらでも大してアリエルには変わらないが、彼自身が前に説明してくれたことはある。聞き流したので覚えていない。由ある寝方をするため、 彼は一番大きな椅子で膝を折り、横座りして寝息をたてている。チェック柄の愛用アイマスクの下には半開きの口。
 かつ、かつ、かつ、かつ、かつ……
 さながら美女めいた容貌をしながら、無防備によだれを垂らすのは非常にやめて欲しいのだが、指摘すると必ず『ほっといてくれ。僕はこれでも男なんだよ!』と不機嫌な反論がなされる。男でも女でも関係ないだろうに。どうも豪放に振舞うことによって自己の男らしさをアピールしたいらしい。間違った方向であることをどうやったら諭せるか、アリエルはフィルの口元に光るものを見るたび思索する。
 かつ、かつ、かつ、かつ、かつ……
 しかし、眠たいのなら家に帰ればいいのにそうしないのは、つまるところ、彼の優しさなのだろう、まったくありがたいことに。
 かつ、かつ、かつ、かつ、かつ……
 右には、シャルがいる。焦点の定まらない赤い目にまばたきもさせず、デスクの上に腕枕で体重を預け、ずぅっとかつかつかつかつ人差し指で叩いている。
 一見暇をもてあましているようだが、違う。彼女は考えている。
 この状態のシャルを意識するたび、フィルの気遣いに深謝する。
 誰がそうと言わずとも、情報を洩らした局員を割り出すのはシャルの役目。気が重たいのだ、それが彼女には。コミュニティは、信頼で成り立つもの。特にシャルは戦闘系の軍人。仲間を信じ背後を託して戦うその場、疑いを挟み、裏切りに怯えるのは周到ではなくただの馬鹿。 軍は総員で一振りの刃であり、一丁の銃。あからさまにおかしいものを妄信することはなくても、大きな前提として、ユダはいない≠烽フ。
 いつでも可能性はある。
 そして、事実が挙がっている以上は必ずいる。
 信じるべき、頼むべきものの腹を探るのはシャルでなくても滅入りそうなものだが、適材適所、彼女のスペックに収めるのが最も処理が早いのだから諦めてもらうしかない。
 さらに、深刻な状況が付加されては……逆か……鬱にもなる。
 シャルは泣く。それは泣く。どういった情緒であっても限界を越すととにかく泣く。
 沸点は決して低くないし、癇癪を通り越して泣き出すのは滅多にないことだが、今回、アリエルはここですぐシャルが泣き出したとしても不思議には思わないし、それを責めたりもしないだろう。
 なにせ、
「アリエル。命って何色だと思う?」
 いつのまにか、デスクを叩くのをやめてアリエルを見ている。
「色?」
「色。命の色」
「赤」
「違う。青」
「どうして?」
 答えない。
 シャルはデスクから身を起こし、ルビーの奥で何を思うやら、天井を睨む。髪が重力に従う。どうやっても頑固にハネるらしい髪はあのミカエルと同じ赤。一度しか見たことがないが、アリエルは思う。
(シャルには悪いけど、でもやっぱりあの人の方が数段、綺麗な色よね)
 好ましく映るかどうかは別としても。
 シャルは青だといったが、命に色があるなら赤だろう。炎にたとえられるように、あんな風に燃える赤の色。
「アリエルコーヒー」
「自分で淹れなさいよ」
 一呼吸あって、
「あたしのケーキがいらんというなら、そうしてもいいけど」
 と。
 ふわ。甘い匂いがアリエルの鼻腔をくすぐった。弾かれるように見るとシャルはトレイを手にしており、その上には気品すら感じさせる並びに彩りも鮮やかな……
 アップル・パイ。ベリーのタルト。クリームたっぷりのショート。チョコシフォン。マロンクリームのオリジナルパウンド 。スコーン。ちょっと軽めのスウィーツ。
 立つしかない。
「待って。コーヒーじゃなくて開けてないアッサム、まだあったはず」
 言って、シャルはいつものようにデスクの下に頭をつっこむ。
 「この間買ってきたの、とっときのが残って……あれ?」
 ……まだ気づいてなかったのかしら。
「もうあっちに開けてあるわよ。あなたも飲んだじゃない」
「え……痛っ。なんで? まだあれは開けてない」
 またいつものように頭をぶつけて(どうしてだろう? このときに限って彼女が注意を払わないのは?)問いかける。
「……癇癪起こしたときに物投げるのと、大事にとっておこうってものをデスクの下にしまいこむ癖は、直してもいいと思うわよ」
「〜〜〜〜アリエルっ!」
「だって、お茶が切れてたんだもの。鍵のかけてある引き出しだったらともかく、デスクの下じゃとられたって文句いえないわよ」
 手を上げて踵を返す。背後のシャルはまだいいたそうな気配を放っていたが、適当に的確でぐっさりくるような台詞が見つからないうちにアリエルが遠ざかってしまったので、諦めたようだ。仕度の間に用の一つを済まそうとするのか、ぶつぶつ口元にこぼす言葉と共にスクリーンの蓋を外す音。
 シャルのケーキが食べられるなら、茶を淹れるくらい安いこと。アリエルはいずれくる舌先の甘味に浮いて部屋を出た。
 
 
 生命の色は青だ。これは間違いのない事実だ。見るがいいさ、ほら。地球は命の惑星と言われる。地球は何色だ? 青だ。生き物たちを生かす毒素でもある物質、酸素。あれが青であることに繋がっている。視覚的にも、天使たちがアストラル観念にみるようにもかの守護星は青い。
 すべての命の源はなんだ? 元素。水や風は青。大地は、先のとおり、地球を表す。青。……炎さえも、きちんと人為的に調整した完全燃焼の火は青い!
 命の色は、青なのだ。
 友人たる金髪の少女の瞳の色。あれは命の色そのものだ。シャルはあの目を見るのがとても好きだ。綺麗な色だ。白目に際立つ、澄んだ紺青の。あの瞳が自分を見つめてくれたら、すべての罪と穢れが濯がれて、綺麗なものになれる気がする。彼女に好かれている実感がわく。あの目の前で懐疑するなど思いもよら ない。
 ……どうしよう? 失ったならば?
 長らく、永らく、想ってきた、隠してきた、真実の境地で唄う彼女をとても失えはしない。
 他の誰だって同じ。誰も失えない。愛する人を失えない。
 昔言われた。それは君の弱さだと。同時に君を支える強さでもあると。
 知るか。
 「どうでもいい」。「関係ない」。
 論理的な理屈付けなどいらない。爪の間に挟まった砂利を取る助けにもならない。
 嗚呼、嗚呼。
 憎悪というのはなんだ。愛ってどうして生じるの。
 シャルはその困惑のために怒り続けなければならない。
 どうしてこう、自分には青い要素がどこにもないのか。赤すぎる。髪も、目も、血も。いっそイカが羨ましい。少しでも青があったら心の慰めになるだろうに。
 赤は死の色だ。
 命の色なんてとんでもない。血が、赤であるから、そう錯覚するだけ。否、その錯覚ですら見当違いだ。血は、血は、流れるだろう? 流れては死ぬでしょうよ。息の根を途絶えさせぬためには血の色を 『見ない』ことが重要なのだ。赤であることを知らずにいることが生きることなのだ。 血を持たない生き物、血が赤くない生き物だっている。そんなものの色がなぜ象徴になる。
 たくさんの死は赤をともなう。赤は死の色。
 闇より夜の色よりも、切実に死の近い色。
 ……喚いたら、たぶん迷惑だろうな。
 許してはくれるとは思うが。
 アリエルに問うても赤だと答えられた。この間違いの根ざす元は何処だろう。
 ラファエル。
 彼ならどういってくれるだろう。
 自嘲する。何を期待しているのか? 彼もまた、赤だと言うに違いない。
 糖分でも摂取しよう。混乱している。まともな考えを捻るにはもういくらか整理せねば。自分の場合、アドレナリンでも注射できればそれに越したことはないのだが。
 とっておきの紅茶を開けられたことに腹が立たないこともなかったが、アリエルの、薄く色づく桜色が揺れるので許した。アリエルが持つ髪、無二のトーン。感じる憧憬と羨望。同じ系統でも、あそこまで美しくなれるのだ。サクラ。物質界の樹木。その花弁。果敢なくも胸を打つ、 小さな小さな力強さ。
 比べて、自分の髪は。より穏やかであるか、せめて夕焼けのようであればと思う。
「赤なんて大っ嫌いよ……」
 自然と口上に愚痴がでる。
 詮無いことと知っているからこそ、愚痴らずにはいられない……。
 お茶をするまえにラジエルに会おう。すぐに出来ることは済ましておいたほうが後々楽だ。不足の事態が起きたとき、時間が取れないことを予想すればなお。
 壁に埋め込んであるスクリーンの蓋をはずし『世界の魂』のオフィスにかける。プライベートの番号を知ってはいたがこの時間はこっちに詰めているはず。
 ほどなく、回線が開かれてスクリーンに事務受付の顔が映る。知った顔だ。
「こんにちは」
『あっ……こんにちは。えっと、統主へですよね?』
「ええ。アポとってないけど平気かな。一刻、ってほどには急いでないから、忙しかったら夜にでも自宅にかけなおすわ」
『ちょっとお待ちください』
 と、彼はスクリーンを待機させた。
 次に表示されたのは、甘そうな蜂蜜色の髪とマリン・ブルーの瞳をもった少年。
「ハーイ、ラジエル君。お久しぶり」
『お久しぶりです、シャルさん』
 親しげに微笑んでくる。始めてあったときは、ザフィケルの傍をついて回る軟弱そうな彼をなんだこの腰巾着はと思ったものだが……ここ数年でかなり、変わった。フィルとは別タイプの、女に見える可愛い♀逞ァちの話ではなく 、統主としての、というのはもちろんとして、一本通すべき筋と守るぬくべきものを知っている顔になった。目の奥に宿る凄絶な光も。三次大戦前には見られなかった。
『この間は差し入れ、ありがとうございます。おいしかったです』
「それはよかった。悪くなきゃまた持っていくわ」
『ええ、お願いします。そうだ、ノイズさん――ってわかります? 九雷さんのおつきの』
「判るよ。黒髪ウェーブのコでしょ? 片羽の」
 ラジエルは頷く。
『ノイズさんが、ケーキの彩りに使ってあるあの青のクリーム、どうしたらあんな鮮やかで綺麗に作れるのかって、不思議がってました。僕も。訊いていいですか?』
「あーれは」苦笑する。「反則なの。テラマイト加工したチェーレの汁を普通のクリームに混ぜると反応で青くなるのよ。よかったらレシピを送ろうか?  あっちにチェーレがないなら用意するけど」
『喜ぶと思います』
「で、ラジエル君。お願いごとがあるんだけど」
『なんです?』
 目を細め、優しい微笑みの形に唇をあげる。
「『白い部屋』は知ってるね?」
 表情が変わった。
『はい』
「潰してくれない?」
『………………』
 いきなりだったからか、ラジエルは言葉に詰まった。視線をシャルから外して、眉間の間に浅く皺を寄せて黙考する。
 待つ間、こういう表情が似合うようになったなぁ、と思った。
『それは、また、どうしてです?』
「友達がさ」
 細かい説明はこの際省く。
「目をつけられてるらしいの」
 簡潔だが、通じる。どういうことなのか、ラジエルには理解できるはずだ。
「あそこのやり方は気に食わない」
 同意してくれるだろう。言い切る。
 ラジエルは再び考え込む。シャルは言を進めた。
「成果なんてものも疑問だし。そもそもあそこって、セヴィー……セヴォフタルタの趣味みたいなところだったでしょう? 人道的理由で何度批判が上がっても続いてこられたのはえーと、彼? の後ろ盾があってこそだった。その残滓を拭いとるのは、今の貴方にはわけないことじゃない? 助けてほしいの。仮にも政府の研究所だから、あたしが下手動くと面倒なことになる」
『時間が……かかるかもしれません』
「当面はバシバシ叩いてくれるだけでいいの。ほかのことをする余裕がなくなるくらい。潰したいのは単にあたしの希望。重要なのは友達を奴らに渡さないこと」
 厳しく唇を噛むラジエル。
『引き受けます。いや、僕はあそこの有害さを、嫌というほど知っていたんだ。言われなくてもやるべきでした』
 肩の力を抜く。今度は気楽に、
「気にすることないわ。あたしだって今回のことがなければ頼もうと思わなかった。そんなものよ」
 曖昧に、こちらにあわせたのかラジエルはそれでも笑ってくれた。ふいに何かに気がついたように、
『でも、政治的なことは僕のほうに任せてもらうとしても、メディア的な評判や民衆の意気なら――え、ごめんなさいっ僕なんか変なこと言いました!?』
 がっくり頽れておそらく彼ほうのスクリーンから外れたであろうシャルは、遠慮なく鼻っ面をしかめた。
 皆こういうのだ。皆こういうのだ。皆こういうのだ。クソ。
 複雑な事情は知らないけれども、ラジエル率いる〈世界の魂〉のロシエル(綺麗な顔をした男だったがシャルはなんかいけ好かなかった。多分双子の弟だからだ)によって被せられた悪名と世間の大いなる誤解のために、あの、世界でトップクラスに忌まわしい男を紹介したのはシャルだ。だからラジエルが奴を知っているのはあたりまえだし、紹介という立場をとっている以上、親しいものだと判断されてももっともだ。
(だからって、みんなしてあたしの前であの男の話題を出してくることないじゃないか!)
 これがセクハラだと、認めてくれるのはアリエルだけだ……。
「いーえ。なんでも」
 手を振って気にしなくていい旨を示す。
『そう、ですか?』
 思慮深い子供がウサギを触ってもいいかと誰かに尋ねるときのような面持ちで訪ねてくるのに、シャルは体を立て直して、肯定する。
 話のついでに、次の会議の打ち合わせを簡単にしていたのだが、戻ってきたアリエルが待ち遠しそうにしているのとラジエルの予定があいまって、世間話らしい世間話もとくすることなく通信は切れた。
 途端、倒れこんで力を失うシャルの肉体を椅子が支えた。


「これ、届いてたわよ」
 アリエルは茶汲みついでに寄ってとってきたやけに重たい郵便物と紅茶とを、ゼリーになっているシャルのデスクに置く。
 反応は竜のあくびに似た細長い鳴き声。
 自分のカップから一口飲んで、目当てのケーキを皿に取る。
「中身、見ないの?」
 重さの原因見たさに、促す。シャルは面倒くさそうな目つき(先天的なものと気分的なものが相乗していっそう面倒そうだ)で厳重な箱を一瞥すると、ケーキの一つを手づかみで口に持っていく。
「ブラックじゃん」
「ブラック?」
「そ。ブラックプール」
 一つ目のケーキの末尾を放りこんで舌で手についたクリームをなめとると、傍にあったナイフで大雑把に包みを開ける。
「調子が悪くてメンテだしてたのさ」
 出てきたのは、黒い氷?
「能天使や座天使御用達の高級品だよ」
「ふーん……?」
 透明感のある黒、という矛盾を見事に併せ持った銃。片眉をそびやされて、受け取る。重い、というのは判っていたのに、銃と知って重みが増したように思える。アリエルは非戦闘員。戦わない。講義くらいは受けたが訓練は受けてないし、だから銃もろくに扱えない。
「このゴーグルは?」
 グリップの下から伸びたコードが、同じ黒さのゴーグルに繋がっている。
「高級品であるゆえん」
 抽象的な返答。シャルは椅子ごと寄ってきて、ゴーグルの脇を指差す。
「このスイッチ入れると銃のモードが入れ替わる。つけてごらん」
 言われたとおりにする。スイッチを押すと、目の前に明滅した標準が現れる。
「それが練習用。銃のほうのボタンを押すとグラスに敵が現れるから撃つ」
「おもちゃじゃない」
「へっへっへ。ためしに撃ってみな」
 シャルは不敵に笑うと手を広げた。
「実銃撃つのと同じ衝撃が来て、あんたの手なんか折れるから」
 撃とうとして……びくっと手が震える。シャルの手がのびて、ゴーグルについた制御装置に触る。これで反動はこなくなるらしい。
「もっと高度なモードにして動き回ると場所の入力がされて次々敵の出方も変わるし、あっちも撃ってくるのをなんとかしなくちゃいけないし、後ろからだって来るし、当たるとちゃんと痛みを感じるようになってる。ちゃんとエネルギーを装填すれば、普通の銃とし て使える優れものよ。その場合、グラスにでる標準は補正を行ってくれる。
 新機種がでてるけど、一つ前の型のほうが評判いいね。これは二つ前のやつだけど」 
 スタートさせてみる。このモードは射的感覚で、敵というより浮かんでくる的を撃つものらしい。適当にあわせて引き金を引く。重いので、両手で支えながらも数分に一回は休まなくてはならなそう。
 かち、かち、と撃ってみて、ためしに向きを変えると出しっぱなしのスクリーンが目に入る。
「使わないんだったらかたしなさいよ」
 重い銃を膝の上に載せて休む。
 今度はドラ猫が餌をとられまいとする鳴き声。
「使うよ。使うよ。使うよ。でも、嫌なんだもん」
「早くやっちゃえば、そうやって嫌がってる時間が短くて済むのよ」
 ごもっとも、とシャルは言う。
「でも嫌なんだ」
「それにしちゃ、コレの送り主、彼だったみたいだけど」
 がん。
 シャルは額をデスクに打ちつけた。
「だって、あいつの友達にこういうのの改造うまい人がいるんだもん。いーじゃんそのくらい」
「責めてるわけじゃないわよ」
「けっ、けっ、いーわよいーわよ。やればいいんでしょ、やれば。いつか絶対これがセクハラだって世間に認めさせてやる」
 立って、スクリーンの前に立ち尽くすシャル。しばらくそのままでいた。おもむろに蓋を閉める。
 出来るだけ顔を見たくない気持ちは、よくわかる。
 出てくる的を撃っているうちに、グラスの下方にポイントが加算されていってるのに気づいた。たまに雪が降るように掠めていく的に当たると点が高いらしい。
 電話受付の声がする。
「もしもし。力天使長ラファエル副官バービエル下のシャル。あいつ出して。……うっさいばーか早く死ね! ああ、うん」
 重たい。
 休む。きっと、これは自分のようなタイプの天使が使うためではなく、この銃の重さをものともしない軍人たちが戯れや時間つぶしに行うモードなのだろう。
 と、我憚ること世になしのでっかい声が部屋に響いた。
『おお、シャル! どうした? とうとう俺に純潔をあけわたす気になったか? ああ、その前に俺に電話かけてくるたびにあいつに「早く死ね」って言うのやめてくれないか?』
 アリエルは、認める。
「あんたの部下が毎回くだらないこと言うのをやめたらあたしだって言わないわよ!」
『ははは。そうか。じゃああれだ。俺はいつでもいいぞ。場所はどうする?』
「ふざけんなこの色ボケ野郎!」
 彼に連絡をとるようシャルに言うのは間違いなく、
『なんだ……シャルぅ、俺、お前のために結構律儀に禁欲してるんだぜ? そろそろよくないか?』
「殺すぞ」
『そんなそそるカワイー声で物騒なこと言ってくれるな。ちぇ、早く諦めろよー』
 セクハラだ。
「声のことは言わないでって言ってるでしょ! 用件聞く気があるの!?」
『あるぞ。
 いくらお前でも俺に字ィ書かせるなら金取るぜ?』
「払うわよ」
 シャルは即答する。
「いくらでも払うわよ。だから早くして」
『説明しな』
 シャルはこれまでの経緯と展開、事情と思惑を細かく言った。
 やや間があって、ペンが最後の文字を結ぶ気配と共に、
『OK、大体わかった。でもさ』
 彼の声がやや翳る。
『これさ、ミカエル様のためのものだろ? ……シャルが彼のために俺に頼むの?』
「なによ」
 むー、と鼻を鳴らす音。静かな声で、
『火の天使は敵だ∞ミカエル様はあたしたちの敵だわ≠チて泣いたのは、シャルじゃないか』
 シャルはきっぱり言い放つ。
「ミカエル様のためじゃない。あたしの親友のため」
 ひゅう、と息を洩れる。
『OK……やるよ。ジブリール様には借りがあるんだ。同じ四大天使のよしみでな。情報の天使≠フ名にかけて、お前の希望通りに世論を動かしてみせるさ。
 ひとつ貸しだからな、シャル。今度のシャリオの花代はお前が出すんだぜ』
「……ありがと。頼むわ」
 通信が切れて、シャルはへたり込んだ。
 アリエルは痛くなってきた腕でゴーグルをとり、冷めかけた紅茶を飲む。二つ目のパイを口に運んだ時、
「疲れた」
「でしょうね」
 疲労の色が濃いシャルに相槌をうつ。
「アドレナリン持ってない?」
「ない。薬物に頼るの、よくないわよ」
「知ってる」
 シャルも紅茶をすすって、残りのケーキをたいらげに向かう。
 無言で食している途中、彼女は出し抜けにアリエルに尋ねた。
「ねぇ。初めてラファエル様に抱かれたとき、どんな気分だった?」
 吹き出しそうにになった。
「怖かった? 痛かった?」
 冗談ではないらしい。好奇心でもないだろう。彼女の場合。
「そりゃあ、ちょっとは、怖かったし……痛かったわよ」
 正直に答える。
「『もうすぐ夜の帳がすべてを覆い隠す。君の瞳が俺の腕の中で俺だけを映し出すのを確かめたい』とか言われて寒いと思わなかった?」
 かちゃん、と音を立ててカップを置く。
「ねえちょっとなんであなたが知ってるのよ!?」
 シャルは動じもせず陰気な調子で、
「……ラファエル様の秘密の検診とか私生活の女関係をいちいちバービエル様に報告してたの、誰だと思ってんだ」
「あなたなの!?」
「そうだよ」
「っどうやってよ!?」
「それのメンテ頼んだ人にさあ、日常的なものに偽装した盗聴器の限界に挑戦してくれないか、って言ったら勇んで作ってくれた。あとはラファエル様に『白衣のボタンとれかかってますよ、直しておきますわ』 とかって」
 裁縫にも堪能なシャルは寸分疑われずに白衣を預けられたろう。
「裏切り者ーっ!」
「いやぁ待て待て」両手のひらを見せる。「お前の時は最中での報告しなかったし、何度も回数ごまかしてたんだよ。さっきのセリフのときにバレたのはあたしのせいじゃない」
「に、したって、そんな」
「いいじゃん。ラファエル様のお世話係決めるとき、残りの枠争ってグレイセルと喧嘩したの仲裁していれてやったでしょ」
 べた、っと机に伏すシャル。それ以上は言い合うつもりもないらしい。
 アリエルも、言葉が出ない……。
「そうか」
 突っ伏したままでシャルは言う。
「怖いし、痛いのか」
 やっと気づいた。シャルの言わんとするところ。
 複雑な気分になる。
 つとめて、そっちのほうの意識はしないようにしていたのだが、まあ……求められれば、ほぼ、そうなるだろうなー、とは、思い行き着く。
 現実、そうなるかは抜きとして。あの子はまだ子供だ。『そういうこと』ができるようになるのはまだ少し先だろう。
「るっちゃんには、そんな思い、して欲しくないな」
 同意するのも癪なので、黙って残りの紅茶を飲み干す。
 よだれをすする音がして、シャルは少々眉をしかめながらフィルのもとへいき、ハンカチをだして口の周りを拭ってやる。
 なんだかね、とアリエルは苦笑した。


 このやけに、友人想いの隣人が――泣き叫ぶことになるのはたった数刻後だった。

          *

 何も憎まずにいられた時代だってあったのだ。
 しかしそれはいつだって幼く生まれてまもない頃のことで、生きるたび、歳月を重ねるたび、世界が広がっていくたびに憎まなくてはならないものが増えていく。
 それでも、何も憎まずにいられた時代だってあったのだ。
 誰しも。
 あのヒトも。
「ぁあああああぁぁー……」
 メルカバのある一室 。ロッカーと背もたれもない簡素な長椅子だけが設えられている。支度部屋なのでほかに必要なものもない。殺風景な窓は余裕がないため、真昼間でも電灯をつける必要がある。しかしすべての明かりをつけてもなお薄暗い感が否めないのは船の作りが悪いからでも安っぽいからでもない。隊の所有であるメルカバは乗・戦闘両用の、形あるものすべてそうであるように使っていれば多少の不便もあるが難癖はつけにくい優良な船である。
 哲学的な長いため息が吐かれる。一緒にタバコの煙を吐いたならどのくらいの筋になるだろうか。気分で吐く息の量を決められるならばきっと部屋中を覆って余りある。
「シケたため息ついてんじゃねーよ。ブラックとられたのがそんなにショックか」
 と、ロッカーによっかかったクレスがうんざりした面持ちで言う。
 アキエルは窓の下に座り込んだ体勢からバンダナで隠していない右目で睨む。
「ちげーボケ。あんなもんまた買うわい。
 がー……もうオレ帰るわ、腹痛ェってことにしとけ」
 反動をつけてだらけながら立ち上がる。
「おいアキエル何考えてんだ。もうすぐだぞ」
「だってよー……やる気でねえよ」
 引き止めるトエルに頭を横に折る。
 ここしばらく、彼らは折々の討伐隊や別の仕事のとき長たるミカエルが連れて来る、ある子供の面倒を見てやっていた。親切からでもあるし、ただの稀有な暇つぶしでもあったことだが、新規の隊員か後輩と同じように、乞われるごとにあれこれと戦い方や武器の扱い方、時には賭け事も教えてやっていた。
「あれだけ親切に面倒見てやっててお前らは気落ちもせんかね」
 数日前のことである。
 前回の討伐で、ミカエルは彼女を連れていなかった。彼が預かっていると知ってからは、なかったことなのでどうしたのか思わず尋ねると、
『政府の研究所から引き渡し要請がきたから渡した』
 鬱屈そうに言った。
 政府の研究機関。通常『白い部屋』と呼ばれる。まともな天使なら知らない奴は一人としていない。ただし良い意味でではない。禁の字がつく、およそ話題にすらあげるのもおぞましい場所。目をつけられたなら、それでその天使はおしまいだ。
「するけどよォ」
 クレスが視線を床に落とし、目元を掻く。
「どうしようもねぇべ。ミカエル様がそう決めたんだからよ」
「はくじょーもんが」アキエルは悪態をついてどっかと床に腰を落として壁に背をもたす。「タバコ」
 言うと、部屋の反対側から靴を留めていたサザフェルが放ってきた。指先で火をつけると紫煙が細く上がる。くわえてフカす。
「あぁー」
「落ち込みすぎだっつの。いい加減諦めろよ、もうン日前のことじゃねぇか」
 床でかかとを叩き調子を整えたサザフェルが言外に今までに何人仲間から戦死者を出してきたのかと言っている。首を振る。
「うっせ。お前らにオレの気持ちがわかるか」
 部屋の仲間はいっせいに顔を見合わせた。
 誤解を悟ってアキエルはつけたす。
「ボーケ、勘違いすんなよ。下層にいた頃に、面倒見てた妹が、ちょうどあんな感じだったんだ」
「妹?」
「妹分。いっぱいいたが……そんなかのひとりにな。一次ン時に死んじまったけど」
 思い出す。金髪なことや背の高さ、目の色は違ったが覚えている声も。歌が好きだったこと、こうと決めたら一本気で、やりたいことは熱心に繰り返し繰り返し、目的を達成するまで励むような気質とか。生まれ変わりだと言われたら信じられそうなくらい。
 だからアキエルは特に気にかけてやっていた。もし生まれ変わりだったら、今度は幸せになって欲しいと願いもこめて。
 我ながら感傷的だと自嘲気味に感じていたので極力素振りにはださなかったが。
「へえ」
「そいつが……」
 言いかけて、やめる。あまり死人を語るものじゃない。口止めもされているのだった。
「とにかく、似てたんだよ。それがよォ、またこんなことになっちまって」
「ミカエル様もなんだって、なァ」
 と。トエル。
「そういうヒトじゃあないと思ってたんだが」
「喧嘩でもしたにしちゃ、やりすぎだよな」
「しねぇだろ、喧嘩なんか。どうやってすんだよ」
「頭が勝手に切れてるってのはありえるぜ?」
 ああ、そりゃ。
 再び、アキエルは言いかけてやめた。
(どうも、この手の話は苦手だね)
 アキエルが気落ちしているのは、脳裏にもたげる可能性があるからでもある。
 ひょっとすると、自分のせいだったりしないか?
 最後に連絡をとったのは、ミカエル以外ではおそらくアキエルだっただろう。どこかの船からかコールしてきてわんわん泣きながらどうしたらいいのか教えてほしい、と頼まれた。
 度抜けて泣くので焦って冗談混じりのアドバイスをしたのだが、彼女は真面目に言われるがまま実行したに違いない。
 それが原因だったらかなり笑えないぞおい。
 が、だとしたら大分支離滅裂だ。ありうることじゃないと思う……。
 息を吐く。煙は筋にならず、濛々と分散して辺りに溶ける。
「なんなんだ頭は。納得いかねーよ」
 とサザフェル。アキエルは煙を撒いて皮肉に笑う。
「吐きゃあがったな」
「そらそうさ」
 アキエルが気にかけてやれば流れ的にこのチームの近くにいることになる。別段嫌がる奴はいなかったので、口では色々いいながらもからかいながら可愛がっていた。野良も三日飼えば情がわく 。よく面倒見てたならなおさらだ。能天使には珍しい(別に彼女は能天使ではなかったが)女だったこともあるし、ガキでもそれなりに顔がよかったし、性格もひねこびていたりしなかったし、すこぶる 、自分の居場所を気に入っているようだったし。
 能天使は戦闘を主とする軍。むろん快く思ってない手合いもいたが、長の預かりものにあえて表立って非難がましくするものもない。
 体技の物覚えはよくはなかったが、それも愛嬌だ。さっさと覚えられても教えるほうがつまらない。
 初めて実銃を撃たせたときには壁まで吹っ飛ばされて(その場の全員で盛大に笑った)、むきになって飛ばされずに撃てるようになろうと体勢を試しては転んで、頭打って血を出して、後ろで誰ぞが支えて指導して、やっと倒れないようになった。もう少し小さなやつから始めればよかったことに気がついたのは転ばなくなってからで。
 片手で撃てるようになった(それも一番ちっさなヤツ)ときの喜びようといったら甚だしい。所々痣をつくっていたのも気にせず、疲れて顔を紅潮させて。 褒めてやるといっそう狂喜してミカエルに蹴られていた。
(腕立て伏せも一回も出来なかったからなァ)
  記憶がない頃に強かったのは本人も釈然としないところらしい。あの時使っていたのは筋力ではなくアストラル力だったから、合点がいかないこともない。アキエルも戦ったうちのひとりだったが、攻撃がほとんど届いていなかったと思う。なんらかの技で遮断していたのだ。
 なんもかんも忘れ、アストラル力もろくに扱えずに体を一から作り始めたにしては、努力はしたほうだろう。
 実のところ、まずまずできるようになってからミカエルには秘密でこっそり実戦に参加させたこともある。
「頭もよォ、何考えんだか」
 クレスがうなる。
「諦めろよ……もう生きちゃ会えねぇだろ」
 そういう本人も諦めきれていない表情で、サザフェル。
 「元が素性不明のあいつじゃな」
 『白い部屋』とは、そういうところだ。一天使にはどうしようもない。
 死んだとして、そのことを知ることすら叶わないであろう。研究員がいちいち死んだ実験体を丁重に弔うわけがない。区別すらしまい。死体も開いて刻んでデータを取って、あとには結果を書き込まれたディスクだけが残るのみ。それも膨大な資料に埋もれていき、やがて無いも同然の存在になる。
 生と死の境すら曖昧だ。すべての終わりに屠殺をまぬがれたとして、脳だけにされてそれは生きていると言えるか? NOだ。が、死んでいると言えるのか……。
 悼むことすらできない。
 ケリのついた話なら整理もまだしも易いものを、宙に浮いたままのものをなかったことにできるほどアキエルは器用に生きられない。
「助けに行ったら、クビかな」
 応えもないまま、短くなったタバコの火を壁にこすりつけて消し、窓から投げた。この辺りは避難区域に指定されているため悪魔以外に生き物はあまりいない。また彼女のような奇抜なのがふらふら歩いていない限りは。
「バク転、せっかく出来るようになったのにな」
 誰かが呟いたセリフは、妙に、部屋に響いた……。


 

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