生活はおおむね平穏に過ぎていった。
というのも、ミカエルは特に誰がいようと自分のペースを崩したりはしないし、ルシアはルシアで極力、ミカエルの目障りにならぬように努めて行動している。
ミカエルがメルカバや機械の改造をしたり、能天使たちと交信をとったりと日々を過ごす中、ルシアはひとりで唄を口ずさみながら日がな一日、掃除をしたり庭をいじったりと、許可された中で何かをしながら時間を使っていた。彼女のいじった庭は直線的に整ってはいないものの、木が果物を成らせ、花が咲いた。掃除に至っては、彼女が膝をついているところを見たことがないのにもかかわらず、汚れが細部まで拭い去られていた。言いつけを犯したりすることもなく、ミカエルの寝室や鍵のかかった部屋は
決して立ち入っていない様で、扉の表面だけが磨かれていた。
庭で種を植えているところや、掃除用具を持って歩いているところはかろうじて目撃できるが、そのほか――作業の途中はいつの間にこなしているのかと思うほどだ。
いくらか経つと屋敷の掃除などは一通り終わったらしく、バービエルから与えられていた本を読んで小さく復唱しているところが見かけられた。文字通り全ての記憶を失っているため、一般知識に乏しいルシアは見聞きすることがみな新鮮で面白みがあるものらしく、
機会あれば喜んでミカエルの話を聞きたがった。
時折バービエルからの使者がきて、いつか身分が証明されたときのため、『勉強』をしに彼女の元へ行く。安全弁としてなにかしら投薬もされているようだ。
そうやって、ミカエルがルシアのいる生活に慣れてきたころ、朝早くにミカエルの寝室の通信機とスクリーンが急にONになった。
『あら? いけない――お休み中かしら。でも回線は開いているし――ミカエル様? ミカエル様! ミカエルさま!』
「…………あ゙ぁ?」
耳に障るだんだん上がってきたボリュームに、わけもわからないまま寝台から裸の上体を起こす。
スクリーンはバービエルのバストアップを映していた。
『あら、すみません、やはりお休み中でしたか』
「………………。
うるせぇよ」
一言呟いて再び寝台に身を倒し、通信のOFFスイッチに手を伸ばした。
『あ、ミカエル様! 待ってください』
「……何だよ」
寝る前に幾日か起きっぱなしだったので、まだ充分眠らないだるい時間に起こされて気分がいいはずもなく、ミカエルは機嫌が悪い。
『早くに申し訳ございません。ルナスに用があるので、今から訪ねたいんです』
「……ルシアに用……? んだってこんな朝から来るんだよ」
『すみません。今日はこの時間しか空いている時間がなかったものですから』
「じゃあ今度にしろよ。多分あいつだってまだ起きちゃいないだろ」
『そこをどうにか……しばらく時間を空けられるめどが立ちませんの』
そこに。
ビ――ッ!
……玄関のベルが鳴った。
『こういうことなものですから』
「………………」
前にラファエルに対して彼自身も同じことをしたが――。
気分が如実に表情を彩っているのが、バービエルの様子から見て取れた。
この怒りをどこにぶつけようか。
「申しわけございません、ミカエル様」
渋々出ては行ったが、彼の機嫌の悪さは最高潮。ラファエルの副官でなければ殴ってるところだ。
彼の後ろを歩く、ひとかかえのケースを両手でもったバービエルが汗をかいているのは、ミカエルの機嫌が悪いからばかりでなく、そのせいで周囲の気温が上がっているからでもある。もちろん、ある程度意識的にミカエルがやっているのだが。
苦く笑いながら、バービエルは
「用が済みましたらすぐに帰りますので。
ルナスの部屋は、どちらになりますか?」
訊かれて、考える。ルシアの部屋?
彼女はミカエルが朝起きるとたいてい厨房にいる。他は……広間で腰掛けて本を読んでいるか唄っているか何か編んでいるか。庭にいることもある。わざわざ探したことはない。自室を訪ねたことはない。足を止める。
「そういやァ、どこだろうな」
「……はい?」
「そー遠くにゃいねえと思うけど」
バービエルは少し間を取った。
「ミカエル様……ええともしかしなくても――ご存知、ない……?」
「俺、別にあいつに用ねェもん。探さなくても俺が起きてるあいだはどっかにいるし」
小さく、んもう、と呟いて、バービエルは笑った。奥下に言い知れぬ深みを持たせて。
「ミカエル様? 保護観察中の身であるあの子の居場所を、一応身元引受人であるミカエル様、貴方が知らないとは一体どういうことですか?」
静かに怒るバービエルを背に、ミカエルは平然と受け流した。
「しゃーねぇだろォ? ラファエルじゃあるめーし、いちいち女の居場所がどこだか把握してるほどヒマじゃねーんだよ」
「それにしても、部屋の場所さえ知らないのはあんまりじゃありませんか。見当くらいはつきますの?」
「あー……庭か、厨房の近くか? いるとしたらいつもそのへんだ。
んじゃ、俺は寝るから後は自分で探せ。あの辺は部屋もたいしてないからすぐ見つかんだろ」
ヒラヒラと手を振ってその場を去ろうとするミカエルの肩を無言でつかむバービエル。うるさげに振り返ったミカエルに早口でまくしたてた。
「探せと言われましても、わたくしには厨房の位置はわかりませんし、ミカエル様もルナスの使用しているお部屋がどこなのか、きちんと把握しておいたほうがよろしいと思いません? 思いますわよね? それにもしルナスがミカエル様知らぬ自室で悪に目覚め屋敷を破壊して逃亡した後
難民多きラキアなどの人の集まる地域に攻撃でも仕掛けたら被害も大きくなりましょうし、それによって責任問題にもなってミカエル様のご名誉がお傷つきになられても面白くないことではありませんか? それはミカエル様の睡眠時間も大切なことではありますけれどもわたくしが帰ったあとでもまたお眠りになることも出来ますしわたくしとしてもこの後予定が立て込んでいますのでミカエル様が案内していただければ時間の節約にもなってとてもありがたいことなのですが断るとおっしゃられるなら自分で探しますけれどミカエル様は四大元素炎の守護天使であらせられ先の第三次天地大戦でも救世使とともに戦った英雄でもある偉大な方ですものそんなにお心の狭い人であるはずもございませんよね? さ、行きましょうミカエル様。お心当たりの部屋ほうまで案内してくださいませ!」
……特に案内してやろうと思ったわけではないのに、何故か気がついたらバービエルと一緒にルシアを探して各部屋を開けたり閉めたりしていた。
ルシアがいた部屋は予想に反して、それほど厨房の近くではなく、長年放置されていた部屋の一つ。どのようなレイアウトをしてあったのか、ルシアがそれをいじったのかさえミカエルにはわからなかった。小さなテーブルのうえに花を生けたのは彼女であっただろうが。彼の部屋に比べればだいぶ簡素で狭かった。他に広い部屋はいくらでもあるのだが、彼女が気に入っているとすれば広さはどうでもいいことだ。ただ、ルシアが自室として使っているとしたら寝台がないことだけは解せないところである。
ルシアは部屋のはじにいた。床に、長く、長すぎる金髪を方々に散らせてうつぶせに横たわっていた。普段着ている上級の〈聖巫女のような白いロングドレスではなく、胸の開いた青の長袖に、揃い色で惜しげなく足を見せた、裾が付け根までしかないショートパンツで裸足だった。
タイルの床は冷たいであろうに、ルシアがそこに横たわっていなければならない理由は見れ知れた。
こめかみに近い額から、出血している。
「ルナス!」
荷物を置いて駆け寄ったバービエルより遅れて、ルシアのそばにミカエルが到った時にはバービエルが治療を終えようとしていた。それほど深い傷ではなかったらしい。タイルを汚していた血はもう乾いている。
呟いた。
「どしたんだこいつ?」
「わかりません……ルナス、ルナス? 起きられる?」
額と前髪の一部にパリパリの血をこびりつかせぐったりとしたルシアを、バービエルは揺すらずに呼びかける。
幾度か呼びかけられて、ルシアは身じろぎもせず唐突に紺青の瞳を開けた。
何を考えているのかよくわからないが、目に映っただろう二人に微笑んで、
「おはようございます。ミカエルさま、バービエルさま」
バービエルがいることには何の疑問もないらしい。
「おはようございますじゃないわ、ルナス。あなた、額から血をだして倒れていたのよ。一体なにがあったの?」
「……? ……あ、昨夜、蹴躓いてそこの本棚の角に頭をぶつけてしまったんです。驚いて体が動かなくなったので、夜でしたからこの際と思い、そのまま眠ってしまったのですが……ご心配をおかけしてしまったようで、すみません」
やはり最強にボケた女だった。頭おかしいんじゃないか。
バービエルはそのボケは見なかったことにしたらしい。
「そう……よかったわ。頭は痛くない? 大丈夫?」
「はい。平気です」
傷のついていた額に触れて、柔和な返事にバービエルも安心のためか息をつく。
「ルナス、その服はどうしたの?」
「これは、少し前にバービエルさまのところへ伺ったとき、スタッフからいただいた服の中にありました。ミカエルさまがいつも着ていらっしゃるお洋服と、似ていたので真似てみました」
変でしょうか? というルシアの問いに、バービエルではなくしばし黙考していたミカエルが、そのほうがいいんじゃねえの、といった。
「あの長ぇスカートやら何やらは〈聖巫女みたいで気分ワリィんだよな。ベールかぶってないだけマシだったけど。いつもそーゆう格好してろよ。ついでに髪も長すぎだろ、切れよ」
ルシアは笑顔をより深めて、胸の前で手を組み合わせる。
「はい。そうします。でも……この髪は、幾度か試みたのですけれど、気を抜くとすぐに伸びてしまうんです」
「お前、 『設定』されてんのか」
ふと疑問が浮かぶ。
四大元素天使や一定の上級天使の容姿が自然(あるいは神)によって予め設定されていることはよくある。というか大抵の上級天使はそうだ。だが、こんなチンケなガキにが『設定』されているというのもおかしな話しだ。
でもまあ、別にいいや。元素の奴らが何を考えてこのチビを『設定』しているのかなんて考えて分かるはずもないし、問いかけたら教えてくれるとは夢にも思わない。
しばしミカエルが考えている合間にバービエルが尋ねる。
「ルナス、 あなたこの部屋を使わせていただいているの?」
ミカエルから視線をバービエルに移して、
「いえ?」
「じゃああなた、この部屋で何をしていたの」
「この部屋には読んだことのない本があったので、読ませていただいておりました」
やや嫌な予感がしつつ――バービエルは言う。
「あなたの部屋に案内してくれる? あげたいものがあるの。今日はそのために来たのよ」
「え……と、私、特定の部屋は使わせていただいていません」
「んじゃ、お前いつもどこで寝てんだよ?」
割って入ったミカエルの言葉にルシアは、
「夜は――何かしながら寝入ってしまうので。あまり決まっていないです」
厨房だったり、広間のソファだったり、と続ける。
バービエルはあきれたように、
「それじゃ、ここに来てから一度もベッドで寝ていないってこと? ……ルナス、いくら多くのことをしようとしても、ちゃんと休養の時間くらいはとらなくちゃ駄目じゃないの。
ミカエル様、ベッドのある部屋を一ついただけます? もう、常にうたた寝をしていたなんて。
……ミカエル様?」
「……ちょっと待て」
ベッドのある部屋、と言われてミカエルに思い当たることが何もなかった。屋敷は広かったがさすがに自分の家である。細かく覚えていなくとも、大体はわかっているはずだ。
「俺の部屋以外に、ベッドなんてあったっけか」
『あ! ミカエルさまのご朝食を作らなくちゃ!』
唐突にひとつ手を打って、ウキウキとどこか(おそらく庭、果物を取りにだ)へ向かおうとするルシアの頭の(中身の)心配を改めてバービエルがした後、彼女は持ってきたケースをルシアに渡し、
『数日中には寝台の手配をして届けさせますので、それまでは何か対処しておいていただけますか』
と、ミカエルに頼み、帰って行った。
『バービエルさまはああ仰いましたけど、気になさらないでくださいね。私は、あまり不便を感じていませんし……』
検査を受けていたころから、寝台で眠ることはほとんどなかったらしい。
『ミカエルさまのおそばにいれば、元素が補給されて元気になりますもの』
その日一日、ミカエルは自室にこもって、ガタ、だとか、ガラガラガラ、といった音をさせていたのだが、夜になってふてくされた顔をして出て来、広間のソファで作りかけのタペストリーを編みながらうつらうつらしているルシアを、
「あら……ミカエルさま。どうなさいま……きゃっ」
有無を言わさずかつぎあげて歩いていき、寝室の扉を蹴りあけて、奥の寝台にルシアの小さな体を放り投げた。
投げられるままにベッドの上で一回転して、やおら起き上がる。
「ミカエルさま? ここは、えと、よろしいのですか、私……」
「黙れ」
目の前に指を突きつけられてきょとん、とするルシア。
ミカエルは靴を脱いで、ルシアの横にあがって座る。面倒と困惑の中間くらいの顔で彼女の頭を軽くたたいた。
「いいから黙って寝てろ。あばれたら追いだすぜ」
ミカエルのベッドは大きく、標準より小身体な二人が並んでも十分な広さがある。
掛け布を一枚渡し、彼はさっさと明かりを消して彼女とは逆をむいて眠りに入った。
慣れない弾力の上、ルシアは少々所在なさげに座ったまま、あたりを見回した。探し物でもしてたのか、泥棒でも入ったかのように床に物が散乱している。机の引き出しは全て閉まりきっていないあげく物がはみ出して、スクリーンやコンピュータをつなぐ種々のコードが複雑に絡み合っていた。腰を浮かしかけたルシアは片付けでもしようとしたのだろうか。しかし、隣のミカエルを見て、うつむき、体を動かしてベッドに落ち着かせた。
ミカエルの部屋。
ボーっとしばらくそのままいたが、ミカエルの寝息を聞きつけて、彼の背中と赤い髪、目を細めて見つめいる。
夜半にはあまり顔を会わせぬため、滅多に言わない言葉を囁く。
「おやすみなさい、ミカエルさま。よい夢を……」
彼や向き直った膝を月明かりが照らした。
夜に映える月色の髪をまとめて肩にかけ、結ぶ。ミカエルの眠りを妨げぬよう端によって横になり、掛け布をかぶった。
翌朝、ミカエルは昨日の作業の続き――部屋中をひっくり返し、ものを荒らし、『どこやったんだ、クソ』と毒づく――をしていた。
「失せ物ですか? お手伝い……」
「てめぇは黙って座ってろ!」
ルシアはベッドのふちに腰かけて、言われるままにちまっとしていた。
絶対にこの部屋にあるはずなのだ。移動した記憶はない。されど肝心、どこにしまったものかがさっぱりわからない。絨毯すらもひっくりかえした。
部屋中すでに物だらけ。歩くたびなにかを踏まずにいられぬほどに、収納されていたものはすべて床に散っている。探してないところなどほかにない。
頭をかきむしって記憶の糸をたどる。どこにやったのか……。
なんとなくルシアを見ると、髪を指に巻きつけてはひっぱってほどく、という動作を暇そうに繰り返し遊んでいる。ミカエルの視線に気づくと目を少し見ひらいて、頬をそめ両手を膝に寄せて身をかたくした。
アレをどこかにおいてから、何度か癇癪を起こして周辺を溶かしたことがある。その時に溶かしてしまった可能性も高い。……だが、その際のことを考えて保管場所を決めた気もする。この部屋にないのなら、どこに置いたのかは見当も付かない。生来忘れっぽい性分であることは自覚していたが、こんなに探しても見つからないのは腹が立つ。
ようするに、俺以外のなんかが俺の行動を逐一覚えてりゃいいんだよな、と無茶なことを思いながら、雑多に散らばる物の上を歩き回った。
「あのー、ミカエルさま?」
と、ルシア。
「休憩しませんか。朝からずっと探し続けてお疲れでしょう? お茶を淹れて参ります」
「……ああ、そーだなー。頼む」
ベッドから立ち上がろうとして、ルシアは困惑していた。……歩くスペースがない。
「いーよ、踏んで歩け」
そうするよりほか仕方あるまい。
それでもなるべく物の少ないところを跳ねながら進む。と、目測を誤ったのか単に鈍くさかっただけなのか、着地にすべってルシアは後ろに倒れこむ。
「なァにやってやがんだよ、バーカ」
「ごめんなさーい」
すんでのところでミカエルが彼女の腕をつかまえ、転倒を避けさせた。
「大丈夫か?」
「はい」
幾度か口にしたあとに初めて気がついたのだが、ルシアは料理のみならず、お茶も非常に美味しく淹れる。しかも、評したわけでもないのに好みがわかるのか、胸中うまいと思っていた茶っ葉をよく使う。
頃合いを見計らって出て行くと、思ったとおりティートレイにカップを二つ、ポットを一つ、レモンのスライスやミルク、蜂蜜をのせて歩いてくるところ。テーブルで飲まれますか、との問いに
ああと答える。
テーブルにつくと、ルシアは陶器のカップに熱いダージリンをそそぎ、甘い蜂蜜をたらす。ミルクの量は彼女に任せている。
差し出す紅茶を受け取り、すすりつつもアレの在り処を考える。
「お前、物探したりする能力ってないのか?」
スライスをカップに浮かべる彼女に一応訊いてみる。
彼女は視線を上にやり、考えた。
「……純粋な元素に近いものなら、感応するかもしれませんけれど。でもそれでしたら、ミカエルさまにも同じことができるでしょうし……何をお探しですか?」
「いや、いいんだ。なんでもねェ」
「そうですか……。
そうだ、きのう、クッキーを焼いたんです。召し上がってくださいな」
席を立ってどこからか皿に並べたクッキーを持ってくる。器用なもので、ココアとバニラのチェックやら星やらトランプの模様といった形色々のクッキーに、あるものには砂糖がぬってあったりする。
勧められるままに食べる。と、
「ミカエルさま、このかたち、ミカエルさまのお部屋のシャンデリアに似ていません?」
ルシアが持って示すクッキーは周りがギザギザで確かに似ていると言えば似ていた。
「シャンデリア、ねぇ」
シャンデリア、シャンデリア……と反復する主人に、ルシアは不思議そうに小首をかしげた。カップを傾けて残っていた紅茶をすすろうとした時、
「あ」
ミカエルは思い出したように呟いて、ガタッと乱暴に席を立ち走り去る。
それを見届けたルシアは、しばらく動かず戻ってくるのを待った。少しして、空になったカップを洗おうと厨房の方にひっこみ、水に浸す。
「おう、ルシア! ちょっと来い」
「え?」
飛び込んできたミカエルは鍵の束を手にし、空いているほうの手で引きずるようにしてルシアの手をつかんでひいていく。
ミカエルよりさらに10センチ以上背が低いので、歩幅も違い、大またで早歩きをされると必然的にルシアは小走りにならざるを得ない。何とかペースをつかみ、やや足下はこころもとないがロングドレスをやめたおかげで転ぶことなくついていく。
広い屋敷の中心ほどに、ルシアの立ち入りが許可されなかった――鍵のかかった部屋がある。
物々しい雰囲気をかもしだす二枚の扉の真ん中には十字架をかたどった紋章が彫りこまれ、開くと二つに割れる設計で、片方ずつに付けられたノブの周りにも、古いエノクが刻まれる。ミカエルの部屋の扉に似ているが、傷がない点が異なるか。
ミカエルは束になった鍵の中から色々と試し、三本目で錠はようやく開封の音をあげた。そうして何万年かぶりに扉は外界との空気をさえぎるのを、やめた。
「入れ」
ミカエルに促され、ルシアは部屋の中へと押される。
彼女が息飲む後姿をミカエルは満足げに眺めた。
長らくの沈黙に埃っぽいが、立派に設えられた空間は、天蓋のついたベッド、部屋の角にそって並んだ天井に届くまでの本棚は三つ、隙間もなく本が詰まり、カーテンを開けばいっぱいに日の差し込む大きな窓はそこから庭に出られ、古い木で作られた机やチェスト、クロゼットも完備されている。
「ここ使えよ。なげー間放置しといたからちっと掃除しなきゃなんねーけどな」
得意分野だろ、と言いかけた瞬間、視界からルシアが消え、全身にどん、と衝撃がはしる。倒れないように足を一歩後ろに下げてから、首と頬をくすぐる金髪に、彼女が抱きついてきたのだと気づいた。
「ミカエルさま……!」
ぎゅっと首に手をまわされて、ミカエルは頬を掻く。
「とにかく」
ルシアを引き離して、仕切りなおす。
「ここなら文句ないだろ。寝られるし、てめぇの好きな本もあるし……あぁ、こんなかのどれかが隣の書斎のカギだ。読みたきゃ入って読め」
差し出すと、彼女は震えた手で鍵の束を受け取った。目じりに涙をにじませているのを見て、苦労して鍵を探してやったのにも、悪い気はしない。
鍵を強く握りしめ、目元を指でぬぐうルシア。
「本当に、ありがとうございます……私などのために!
過ぎるくらいです、こんな、立派なお部、屋…………」
止まる。うつむいていた顔をあげ、夢から覚めたような瞳で彼を見上げた。
気づいたらしい。
「あー……。気にすんじゃねぇよ」
「でも……このお部屋……」
「ただの部屋だろ」
誰がコレに説明したんだろうか。つくづくいらないことをする。
「私、使えません。こんな、図々しいことは。ミカエルさまのお気持ちは、痛みいります。とても、言葉になどならない。嬉しいと思います」
「そう思うんなら素直に使えばいいだろ。このカギ探すの苦労したんだぜ」
「でも、待っていらしたのでしょ? お帰りを。だから、そのままにしておかれたのでしょう?」
何を馬鹿なことを、と怒るほどに否定しただろう、以前なら。しかし、今は違う、と言い切れなかった。あの時何を考えてこの扉を閉ざしたのか、もうよくは覚えていない。
「わたくしは馬鹿ですが、それくらいのことは、わかります」
兄が裏切ったのは創世神の筋書きで、あんなに誰をも映さぬ瞳はそのせいに違いなくて、きっと、自分の裏切りで傷つけさせぬために、人の心を遠ざけていて。
真実を知ったいまなら、それがわかる。
けれど、あの時はひたすら憎んでいた。
何を考えていただろうか。あの時鍵をかけた感触は、まだ手に覚えているのに。
「いーんだよ。あいつは、どうせ帰って来やしないしねぇんだから」
もしかしたら、案外彼女の言う通りなのかもしれない。
まだなにか言いたげに、ルシアは上目に覗き込んでくる。
「わァーかったよ、じゃあこうだ。お前変にその辺のものいじったりしないで寝るときだけこの部屋使って、兄貴が帰ってきたらいつでも別の部屋に移れるようにしとけ。それでいいだろ」
嫌だっつっても聞かねー、とそっぽを向く。
納得したかどうかはわからないが、ルシアは引き下がり、尋ねるようにして、あたりをまわりはじめる。
帰ってこない主人を待っていた部屋は、新たな住人を歓迎するだろうか。
全てを知ったあとにも、すっかり忘れていたこの部屋を開く気にさせたのは、あの女なのだから、まあ、いいだろう。おそらくは。
ルシアはしゃがんだり立ったりと、意味のわからない行動をしている。
掃除を始めるようだ。出て行こうとして、自分の部屋の荒れようが脳裏に浮かぶ――
「……ルシア、後で俺の部屋も片付けとけ」
絨毯に人差し指を突っ込んでいたルシアはこっちを向いて、
「私が片づけてしまってよろしいんですか? 大事なものとか、あるのでは――」
「お前が何をどこやったか全部覚えてりゃいいだけの話だろ」
得心したらしい。うなずく。
「そうですね」
窓を開ける音がする。相当汚れがたまっていたのかうめく声を背にしつつ、ミカエルはダイニングへ戻った。たぶん、クッキーがまだ残っていたはずだ。
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