1 始まりの光は







 創世記より続く糸仕掛けの人形劇。マリオネットたちの悲しみ。愛するものに決して手を伸ばすことの出来ない時間。そして、辿りついた神の死。
 第三次天地大戦が終わった。
 ある一部の者達は神の描いた筋書きと哀れな堕天のこどもたちの姿を見た。だが、世界は均衡を保たねばならない。すぐには全ては変わらない。天界と地獄の関係もまだ変わらない。
 戦いは終わった。いつ次の戦いが始まるかは誰にもわからない。今は休戦状態にあるが、被害はどちらも多大だった。有史以来の均衡の歴史図が変わったのだ。地獄を支えていた魔王の体が崩れ、滅亡を避ける為にサタン達は地獄をそのまま天界にぶつけた。必然、激突した層は潰れ重なり合った。地球を間に、ある程度の距離を持っていた二つの世界は密着して境界線を不確かにした。
 どこまでがどちらのものなのか、それが定まらないのはどちらにとっても不利益なこと。暗黙の了解として、仮の境界線をひき、二つの世界は再び分かたれた。
 分かたれたといえど、やはり不干渉であるのが最良の関係である天界と地獄はくっつきあったままである。ぶつかった際に壊れたのはどちらも最下、最上層と言ってもそれぞれの住人が多数いた所。これから界がどのようになるとしても、境界線に接した部分の復興をしなくていい理由にはならない。問題は山積する。天使の肉を求めて境界線を徘徊する悪魔は少ないとは言えない。
 境界近くの警邏と悪魔討伐は能天使に預かる役目。ミカエルは、大戦の折に神性界神の塔に赴き、生き残って帰還した者の一人。そして、四大要素火のエレメントを司り、能天使の長に任じられている。彼もまた大戦後も引き続きとして務めを全うすべく悪魔討伐に参加していた。
 が、彼は退屈だった。
 大戦から少し時が流れている。彼の友たるラファエルは、命を削る蘇生術の代償にコールドスリープに入り、以来一度も目を覚ますことなく眠り続けている。稀に様子を見に行っても、睫毛一つ動かさない。良くも悪くもラファエル以外、身近で対等に扱い扱われる人物はミカエルのそういないゆえに、彼を失うと途端、周りは目障りな上の連中と統率すべき下の連中しかいなくなってしまう。思い返してみれば数年会わず連絡もなく過ごしたことも度々あったが、それはどちらも問題なく過ごしているからである。相手の状態がこちらの呼びかけに応えるとわかっているのと、そうでないのは違う。
 他のこと――たとえば悪魔狩り――で気を紛らわせようとしても、彼の手を煩わせるような強さを持った悪魔は滅多なことでは現れない。手応えのない毎日に冗長な警邏を繰り返しているばかり。たまには救世使がどうしていやがるかな、などと会わぬ戦友を思って見たりもするが、そんなことはいくら考えようようともわかるはずはなく。
 暇である。
 天界自体は混乱している。長年天界を牛耳っていた白のセヴォフタルタは失墜の末死亡。次する宰相ロシエルも死んだ。指導者がいなければ大衆はまとまりにくい。そういった意味で、〈
世界の魂〉の統主ラジエルなどは、天界をまとめていくために忙殺されていることだろうが、残念ながら彼は政治に興味はない。ほとんど話は回ってこないし、回ってきたとしても無視している。趣味は戦うことだから、結局戦う相手もいなくて暇である。
 退屈だ。パトロールなど自分がいなくても部下共だけでだってできるだろう。何もしなくても暇だから警邏に参加しているというのに、ミカエルはその考えを翻してやはりカマエルに全部押し付けて形成界の自宅にでも戻ってしまおうかとも考え始めてきた。今目の前にある何もかもが面倒くさい。
 外からの回線が鳴った。
 出たくない。
 しばらく鳴りっぱなしのまま放っておいたが、うるさい。自分がここにいることは向こうもわかっているのだから、用がある限り出るまで切らないだろう。
 何かおかしなことがない限り絶対に呼ぶなといってあるというのに。自分の機嫌を損ねたらどうなるのか重々承知しているはずである。
 そのようなことを考えながら、二分後うるささの方が気に障り、仕方なく、出た。
「なんだ」
 いい終わらないうちにつんざくような声が鼓膜を突き抜けた。
「ヘ、頭――――――っ!!」
「殺すぞ」
「いや! 違うんです! 頭! とにかく来てください!!」
 回線がブツッと音をたてて切れた。
 納得いかない不愉快さを感じながら、腕も立ち、血の気の多いやつらが狼狽しているということは、それなりにおかしなことがあったのだと解釈しておく。前にこんなことがあったのは、救世使の偽者が現れたときか。
 あれくらい退屈をまぎらわせられるものであればいいのだが。


「どうした」
 部下のあわてようにどんなおかしなことが起きたのかと思いすぐに出てきたのだが、それでも部下たちは出てくる早さに驚いたようだ。
「頭、アレです――」
 彼の指示す先には、おかしなものが『あった』。
「なんだありゃ」
「頭!」
「説明しろよ」
 外で盛大に繰り広げられていた戦い。しかも能天使が十数人対相手は一人。
 それでもかなり苦戦を強いられている。
「それが……、こんなとこで一人ふらふら歩いてたんで捕まえようとしたらいきなり攻撃してきやがりまして……!」
 ミカエルはその部下を苦戦させている敵をみた。
 地表に足をつけ、八方上空から攻める部下をギリギリのところで薙ぎ払っている。天使にしては羽根を出さずに戦っているらしい。背は低い。身長よりも長い土に汚れた髪を振り乱しているせいで顔が見えず、男か女かはわからないが……。
 ふと、「敵」の奇妙さに気が付いた。
「被害は」
「今んところ負傷者が何人か出てるだけっスけど……」
「バカか、てめぇらは」
 毒づく。なぜあんなあからさまなモノがわからないのか。
「は?」
 唐突に罵られて、ぴんとこない表情をする。
「頭?」
「てめぇらはバカかっつってんだよ! 全員退け。ありゃビビって火の粉振り払ってるだけだ」
 こんな馬鹿なことに自分が出て行くのにも腹が立ったが――相手はたぶん、位としては上級に位置する天使――もしくは悪魔だ。来る攻撃は全て防ぎ、適当に反撃をする。部下達とはだいぶ力の差があるだろう。
 だがミカエルは御前天使と数えられる天界屈指の天使である。自分のほうが強い自信は存分にあった。部下が十数人がかりといってもカマエルレベルの天使が出て行ってるわけではない。
 今まで攻撃していた天使が全員周りから消え一人の赤毛の天使が前に現れ、困惑の表情をうかべる相手に、彼はためらうことなく一瞬で間合いに入り腹部を強打した。

 かくして一人の死亡者もでず奇妙な戦いは終わった。

「おい、気絶ゃしてねーだろ? 起きろ」
 うつぶせに横たわった相手を蹴飛ばす。能天使の連中に見つかる前にもこのあたりをさまよっていたのか、全身砂にまみれて髪などは元の色がわからないほどくすんでいる。ここの風は砂をはらむ。
 ぴくりとも相手は動かない。
「おい、水もってこい」
 相手が倒れたのを見て、彼らを取り囲むようにしてたっていた部下の一人に命令する。そいつは歯切れのいい返事には遠い、口の中でこもった言葉を発しながら行った。
 思い切り水を上からぶちまけると砂は泥になり、さらに色が悪くなった。
 うめき声を聞いて彼は相手の豊かな汚れた髪をつかみ上げた。ぐったりとして抵抗はなかったが、痛みは感じるのか、喉の奥から小さく悲鳴を漏らす。
「おい」
  顔で照合をとろうとおもったのだが、泥と、腹を殴ったときに吐いたのかべったりと血がついていてとても判別できそうにない。顔を洗ってやるのなら本人に聞いたほうが早いだろう。
「お前、何者だ? どうしてここにいる」
 短く訊くが相手は答えず、泥を含んだまつげの奥からくもったひとみで彼の眼を見つめる。そして呟いた。
「…………ミカエル……」
 声は、女だ。
「俺を知ってんなら、訊かれたことに答えねぇと俺がお前に何すっか、わかるだろ?」
 さらに上に髪を引っ張る。
「聖なるかな……」
 女は囁いた。たどたどしく、かすれた声で。
『聖なるかな……聖、なるかな、聖なるかな。
 《神の如し者》の名を持ちし強く猛き魂。天軍を率いる光の……王。――誰よりも神聖。誰よりも、誇り高く穢れぬ炎。天使の王、無垢なる天使。ミカエルさま』
 ひどく聞き取りづらくあったが、大体このような意味だった。
 最後に一息、ハレルヤ、と口にして女は意識を失った。
 ミカエルは頭部に血をのぼらせ、その顔面を朱に染めていた。彼の後ろに位置して顔を見ることのかなわぬものに、我慢ならずにふきだした者がいた。笑いは周りに伝染したが、ミカエルの顔が見える位置にいたものたちは青ざめた。
 ミカエルが女をつかんだ手を離した瞬間、青ざめたものたちは逃げ出した。
 逃げ出したものたちの予想は、たがわなかった。


 天使か悪魔かわからないものを、逆に天使か悪魔かわからないからこそ無闇に腹が立ったからといって殺すわけにはいかなかったのでとりあえず女は収容して怪我にかこつけてラファエルの副官に書状つきで送りつけておいた。あとは彼女がなんとでもするだろう。自分の預かり知らぬところで。
 と、ミカエルは思っていた。
 その後やはりカマエルに任を押し付けて形成界の自宅にもどり女のことはすっかり記憶の彼方に忘れ去ってしばらく経ったころ、ラファエルの副官――バービエルに呼び出された。
 女のことなどついぞ思い出しもしなかったのでラファエルがついに目覚めたかと、言われた場所ではなく直接ラファエルの眠る部屋に行った。しかし彼は眠ったまままだ起きる気配はない。
「あらミカエル様! やはりこちらにいらっしゃってましたか! 
 今日の用件はラファエル様のことではありませんのよ。一緒に来てくださいます?」
 いつの間にやら入り口の前にいたバービエルに、ミカエルは訝しげに、
「何だ?」
 訊いたが、バービエルは『まあ、まあ』とニコニコするばかりで答えない。
「ここで少々お待ちくださいませ」
 案内された部屋で通されて、バービエルはまた部屋の外に出て行く。
 向かい合わせにおいてあるソファにはさまれたテーブルの上に、湯気立つ茶が用意されていた。
「なんだってーんだ? ったく」
 乱暴にソファに腰かけお茶を飲みながらの時間が少し流れて、部屋の扉がノックされた。
「おう」
 返事をするとドアは勢い良くあけられた。
「お待たせいたしました、ミカエルさま!」
「――? なんだ? ソレ」
 心楽しげにぶ厚い封筒を抱えて飛び込んできたバービエルのその後ろに、もう一人背の低い(男としては背の低い彼自身よりだいぶ低いようにみえた)女が後ろに控えていた。 頭の上方で結んで全体の三分の一ほど三つ編みしていても床に届きそうなほど長い金髪に紺青眼、白い服に身を包んだ 幼げな女をミカエルが「ソレ」と言い表したのは、両手首をつなぐ拘束具をつけられ、額に徽を見とめたからである。
 〈杭打ちステイカー)〉だった。
「俺は〈聖巫女シスター)〉なんかに用はねえぞ」
「いいえ、あるんですのよ。さあ入って! ミカエルさまよ」
 杭打ちの少女を導いてミカエルの前のソファに座らせ自らも座った。
「その〈杭打ち〉が俺に何のようだ?」
「ミカエルさま、覚えておられませんか? 以前境界の警邏中にミカエルさまが拾って私に送ってこられた女の子ですよ」
 言われてみれば、そんなのもいたような気もする。しかし、あの時は顔なんか見えなかったし、風貌もだいぶ違う。同一のものかどうか判断はできなかったが、バービエルがそういっている以上あの女がコレなんだろう。けれど不信なところがある。
「……あの女は〈杭打ち〉の徽なんてなかったぜ」
 今はちゃんと目上で切られて二つに分けられた前髪の間からのぞく徽を、自身の額を指して示す。
 確かになかったはずだ。そんなものがあったのなら容易に身分を特定できる。
 バービエルに丁寧に言う。
「コレは検査をする際の安全弁です。彼女が敵かどうかわからない以上、拘束具をつけられない検査のために一応つけておいたのです。
 きちんと打ってるわけではないので、今すぐにでもとろうと思えばとれますが」
「んで、結果はどうだったんだよ」
 言うと、彼女は口元を指で押さえてホホ、と笑った。となりの女は静かに、伏し目がちに、折り目正しく座していた。
「あ?」
「……検査をしても、はっきりいたしませんでした。」
「どういうこった」
「この子自身がまったく記憶がないようでして」
 女の肩に手を置いて微笑む。
「自白剤や催眠術など色々試してみたのですけれど、結局記憶は戻らなくて」
「記憶喪失か。顔は?」
「名簿にはありませんでした。顔画像のない登録は、特徴に符合したものを手作業で探すにことになるので調べさせてはいますが、この特徴の――金髪碧眼の天使は多いですし、まだ時間が必要ですわね」
「ふ……ん」
 特にミカエルは興味はなかった。鼻の奥を鳴らして、どうして自分が呼ばれたのかという疑問を再び思い出していた時に、バービエルが持っていた封筒を出してその中の神をミカエルに差し出した。
「これが正式な書類になりますね」
「?」
 よくわからない表情を浮かべるミカエルが手を伸ばさないので、バービエルはテーブルの上に書類を置き、微笑んだ。
「当面の間、ミカエルさまにこの子を保護していただきます」
「……は?」
 耳から入った言葉がうまく頭に伝わらない感じとでも言うのか。確かに聞こえていて意味は取れているはずなのによくわからない。
 一瞬あとに理解して、叫ぶ。
「俺が保護する? この女を? んでだよ!?」
 その声は怒鳴ってはいたがかなり悲鳴に近かった。無理もない。彼はそも――女性が嫌いだからだ。あの、「バル」の件に気持ちの片はつけたがやはり何万年も「そう」であったものは、そうそう簡単には覆えらない。
 が、バービエルは涼しげな表情であっさりと言う。
「はい。保護し、庇護していただきます。あ、手は出さないでくださいね?」
 ご心配はないでしょうが、と付け足した。


 何故二度顔を会わせたことがあるだけの(一度目はカウントに入れてよいかどうかすら疑問でもある)少女をそのまま引き取るハメになったのかは、ミカエル自身良くわからない。
 バービエルが言うには、記憶が戻らないからといっていつまでも捕虜の扱いはあんまりだし、かといってもし前身が敵だった場合、急に記憶を取り戻して暴れられても困ることになる。天軍の中心ともいえるミカエル率いる能天使たちが圧倒されたほどの力を持つのなら、預けるにはそれ相応の力を持った天使のもとでなくてはならない。しかし先の大戦で疲弊し立て直しに慌しい天使たちの中、記憶のない少女を預かれるほど体の空いている者は少ない。それに、どの程度の強さを持ったものなら暴れたときに取り押さえられるのかもわからないし、計ることもできない。ならば、取り押さえたミカエルと同等の力を持ったものなら――だが、四大元素天使のうち、ラファエルは力を使い果たして冷凍睡眠中、ジブリールは魂が現在物質界で人間として生きており、抜け殻。ウリエルは星幽界に。遠すぎる。力があり、天界におり、そしてある程度暇で拾い主でもあるミカエルが預かるのが一番適当であろう、という結論になったと。そんなわけだ。
 なしくずしにミカエルがバービエル同伴で少女を自分の邸宅に連れて帰ってしまったのは、例によって次々に理由を話されて活字パニックを起こしている最中にうまく丸め込まれたせいだ。
「預かっていただけますね?」
との最終的な問いかけ――確認だ――に、
「あ……ああ」と、ミカエルは頷いてしまった。
 これが、ミカエルの新たな苦悩と発見、今までにない別の概念を知る幕あけとなったことに気づいたものはまだいない。


 バービエルと話している間、終始だんまりのままだった少女は、ミカエルが了承したときも、そして彼の邸宅に向かうメルカバに乗った時も、目的地に到着してその戸をくぐり応接間に通され座についた時も、やはり黙ったまま表情ひとつ変えなかった。伏目がち、定まらない焦点、開かない口、動かない頬。
 うるさい女は言うまでもないことであるが、こんな陰気な女と日夜ともに行動しなくてはならないのは苦痛以外の何でもない。みてくれはそこそこに綺麗な女ではあるのだが、そんなことに興味がないミカエルにとって連れ歩くのに共にいて邪魔にならないかならないか、不愉快かそうでないかは重要なことだった。
 少女は名前すら自らなのろうとしない。
 そんなミカエルの様子に気がついたのか、バービエルは彼女の手をとって、かんで含めるように耳の近くで言う。
「あなたからもミカエルさまにきちんとご挨拶なさって。これからはこの方の言うことをちゃんと聞いて、決してご迷惑にならないようにね」
 言われて首を少しだけ動かし、視線をずらしてバービエルを見、ゆっくり一回まばたきしたあと、よく言えば丁寧、悪く言えば鈍い動作で深く頭を下げる。
 白痴だ、これは。ミカエルがそう断定したのを読み取ったか、バービエルが彼女の名前について慌てて補足した。調べられている最中、スタッフからは『ルナス』『ルシア』
その他色々名前で呼ばれており、、『ルナス』はバービエルが髪と目の色から月をさすルナ、地球をさすアースとの混合からつけたのだが、 別の者はルシアと呼んだ。大体これで二分されている。また少数が『迷子』の意味でアリスと呼んでいる者もいたと。
「ミカエルさまもお好きお呼びになられればよろしいと思いますわ。新たに名づけても、この子はちゃんと返事をしますから」
「なあ……その女どうにかなんねーのかよ」
「どうにかと言われますと……どのように?」
「黙ったまんまでうんともすんともいいやしねえし、大体ヒトの世話になるのにテメェの口で何もなしはねえだろ」
「ああそれは――」
 ルナスとミカエルを見比べてから、ルナスの前髪をあげて見せた。
「コレで、感情の制御をしているせいでしょう。ミカエルさまさえ良ければ、お取りしますよ」
 了承すると、バービエルはルナスの額に発光した指先をあてて何事かつぶやいた。杭はひとりでに抜け出てバービエルの手の中に収まった。
「……変わらねーじゃねぇか」
「しばらくつけっぱなしでしたから……明日の朝には元に戻っているでしょう」
 いつまで預かればいいのか、という質問にはラファエルの意識が戻って力が使えるようになるまで、という答えが返ってきた。
「ラファエルさまのお力でしたら、記憶の回復も見込めますしもし回復しなくてもそのときに手を打ちますわ」
 つまり、いつまでかはまだ不明だと言うことだ。
 ミカエルが嘆息したのをみたバービエルは、ルナスの金髪をそっと撫で、彼女に微笑みかけた。


 バービエルが帰った後、ルナスに家の間取りを一通り説明して、鍵のかかっていない部屋の出入りを許可した。どれでも好きな部屋を自室として使っていい。ただし――
「ここが俺の部屋だ。鍵はかけてねぇけど絶対入んなよ」
 反応に乏しいのでわかっているのかいないのかよくわかりにくいのであるが、おそらくわかっているのであろう、うつむき気味の顔を少し上げて、口を開いた。が、何も言わずに閉じた。
 自分の口で何一つ語らない得体の知れぬ者(しかも女だ!)をこともあろうに自宅で、無期限に預からなくてはならない状況にイライラと寝室の扉を乱暴に開ける。
「俺は寝る。後は勝手にしろ」
 閉める瞬間、彼女が目を閉じて浅く会釈したのが見えた。もしかすると、『浅く』会釈をしたのではなく、深く礼をする途中だったのかもしれない。


 翌朝、ミカエルはパンの焼ける香ばしい匂いにつつまれて目を覚ました。
 半分寝ぼけたまま、その匂いの元に向かってみると、口から栄養を摂る必要のないミカエルが使うには広すぎる――つまり自分で使ったことはない厨房の一角で、髪の長い女が小さく歌を口ずさんでせわしなく動き回っている。一瞬、新しい聖巫女シスターが来たのかと思った(たまにラファエルが親切なのかからかっているのか送り込んでくることがあった)が、すぐに前日、女を預かったことを思い出した。
 長すぎる髪をまとめた三角巾が揺れ、彼女がこちらに気がついた。
 そして驚くべきことが起こった。
「おはようございます、ミカエルさま」
 と、目を細めて、笑った。
「お前……」
「はい」
 想像をしもしなかったゆっくりとした語調と柔らかい声。何をどう言ったらいいのかわからないで沈黙しているミカエルに、ルナスは微笑んだまま続けた。
「僭越かとは思いましたが……ご朝食を作らせていただきました。ご迷惑でなければ召し上がって頂けませんか?」 
 どっちともつかない返事をすると、肯定の意味にとったらしく微笑みを輝かせ、
「パンがもう少しで焼きあがりますの。すぐに支度いたしますので少々ダイニングのほうでお待ちいただけますか?」
 言われたとおりテーブルに座っていると、昨日の動作ののろさが嘘だったかのように素早く配膳をした。様々な料理に、かごに積まれた果物、焼きたてのパンが次々にミカエルの前に並べられ、ナイフとフォークが綺麗にフキンの上、最後はグラスに『どちらがお好きですか?』とミルクとオレンジジュースの選んだほうが注がれた。
「……お前の分は?」
 用意された食事はどう見ても一人分。何とはなしに聞いてみると、微笑んだまま、
「いいえ。わたくしは」
 何かありましたらお申しつけください、とつけたして、テーブルの横に彼女はたたずんだ。
 二人きりの場所で、横に人が立たれている居心地の悪さに、座るように言ったが、やんわりと断った。しばし食を進めてからやはり座るように命令すると、今度はあっさり失礼しますと向かいの椅子に腰かける。
 腰かけたからといってなにかするでもなく、ミカエルが食べているのをただ眺めているだけだったが、半分ほど彼が朝食を平らげたときに自ら口を開いた。
「そのままで、お聞きください」
 言われて視線をルナスに移すが、微笑まれて再び食事に戻る。
「昨日は申し訳ございませんでした。何度もミカエルさまに伝えようとしたのですが、どうしてもからだのほうが言うことを聞いてくれなくて。
 ……彷徨っていたところを保護してくださったこと、このたびにゆくあてのないわたくしを引き取ってくださったことを、本当に感謝しています。私は、ミカエルさまのためなら身をけずってでも力を尽くしお仕えいたします」
 ペースが落ちたのを感じたのか、ゆっくりとした言葉を切った。しかし何も言わず、籠の果物を一つとり、どこかしらに用意してあったナイフで剥きながらまた言った。
「わたくしの記憶がないのは、実は初めてミカエルさまにお会いしたときもなんです。
 でも、意識がはっきりとする前に見たとても美しい光だけは覚えています。あまりに美しくて――わたしは心の底から賛美いたしました。思えば、あの光は……」
「お前」
 ルナスの剥いた果物を口にしながら、ミカエル。
「お前、何が出来るんだ?」
 言葉を中断して、彼女は剥いた果物の種を一粒手に取った。
 手のひらに、ミカエルにもよく見えるようにのせて嬉しそうに、
「わたしは、元素の力と相性が良いようなんです」
 言う間に種が芽吹き、茎を伸ばし――数秒で、先ほど剥いた果物と寸分変わらぬものが手の上にのっていた。
「たくさん勉強しましたのでお料理はできます。お洗濯やお掃除も。そのほかにも、ミカエルさまが望まれるなら何でも出来るよう努力します。
 ……あと――」
「なんだ?」
 照れたようにはにかんで、頬を染めたルナスに続きを促す。
「唄がうたえます。記憶は全然ないんですけど、唄だけはたくさん覚えているんです」
 何がそんなに恥ずかしいのか顔を赤くしてうつむいたルナスを、最後のひとかけを口にいれて眺めながら、ミカエルは少しの間だったら置いてやってもいいかな、と思い始めていた。
 自分のために用意されたあたたかい食事は、とてもおいしかったので。

 



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