彼は不機嫌だった。 空を見ていたかったのにまた弟が現われ、遊びに付き合わされたからだ。 しかも何が楽しいのか、数人の同族との闘い……彼一人対同族数人……という形で今日は遊びたいと言ってきたのだ。 弟はその闘いを面白そうに横で見ているだけだった。 いかに同族が束になってかかってきても、彼は部族の中でも一、二を争う程の力の持ち主であるから負けることはなかった。 それでも半日は過ぎ…ようやく最後の一人を倒す。 いつのまにか移動していた森の中で、その背を蹴って川へと落とした。 落としたあとで、少し後悔する……せっかくの川の流れが汚れてしまう。 しかし彼がいつも身を清める場所とは違うので、まあ良いかとも思う。 全てを倒したそのときには彼もかなりの重傷を負っていた。 気がついたら弟の姿もなく……彼は身体を引きずるようにしていつもの場所へと向かった。 ざぶ、と川に身を投げ込むようにして入ると、さすがに傷口が痛む。 ぼうっとしながら……水面に浮かぶ月を見た。 ゆっくりと空に目を転ずる。段々と見えてきた綺麗な餅月や星々がその目に止まり、彼は少し機嫌を直した。 もちろん、彼の弟が一人の輪人を殺していたことなど、彼は知りもしない。 暗くなってきたとはいえ、慣れた道をミコトは走っていた。 すぐに泉の元となっている小川を見付ける…… すると森が乱れているのにミコトは気が付いた。 辺りの木々は倒れ、誰かが争ったような形跡がある。 そして、小川に倒れ付している人影を見た。 「大丈夫か!?」 声をかけて近付き、俯せに倒れているのを仰向けにしてやる。 腹が真横に切り裂かれ、内腑がえぐれ出ているその姿に嘔吐感を覚えつつも、恐怖に凝固した顔を見る。 しかしそれは輪人の中で見たことのある顔ではなかった。 衣服も輪人のそれとは異なり、露出した腕には黒い入れ墨がある。 止め所なくその骸から流れ出る血が、川を染めていく。 赤い流れはこれだったのか…とミコトが考えていると、ふと森の乱れが目に付いた。 道無きところに無理遣り通ったような、そんな跡がある。 そして地面には赤い点が続いている。 ……この手の中の骸が異境からの旅人だとしたら、必ずや連れがいるに違いない。 恐らく彼らは異形に襲われて散り散りに逃げたのではあるまいか。 もしかしたらこの先で、傷つきながらも逃げおおせた人がいるのかもしれない…… ミコトは骸に申し訳なく思いながら、一先ず陸に引き上げはみ出ている臓腑を適当に詰め込む。 枝葉を数本近くの木から頂戴して、その身体の上にかけてやってから、ミコトは森へと入った。 血が点々と続いているから、その後を追うのは簡単である。 鬱蒼とした下草や枝葉などが妨げる道を、急いて走る。 肌に傷が増えていくが、それにも構わずに走り続ける。 滴っている血はそれなりの量で、先にいる人は大怪我をしている可能性が高いと思うと、自然足は早くなった。 彼はしばらく川岸でぼうっと夜空を眺めていたが、腰を上げていつもの草原へと寝転がった。 その方が広く、楽に夜空を楽しめるからだ。 その頃には彼の機嫌は、大分直っていた。 まだ少し痛む傷があるが、それもあまり気にならなくなっていた。 日は完全に暮れ、辺りは闇に包まれ始めていた。 こうなると完全なる闇が辺りを包むのに時間はそうかからない。 手がかりとなる血も段々と見えなくなっている。 絶望的な思いを抱えながら、どれだけ走ったか分からなくなってきた頃……ミコトの視界の先が開けてきた。 暗く生い茂る森が薄くなり、先に夜空が広がるのが見えてくる。 最後の枝葉を避けると、そこは軽く開けた草原になっていた。 そして、月の光の中で横たわっている人がいるのを見た。 next→ novels top |