空はいつだって無邪気に晴れていた。
辛いことがあった日は特にそう感じた。
こんなに辛いのに悲しいのに苦しいのに痛いのに、どうして空はこんなに気持ちがいいほどすっきりとしているんだろう。
見上げるたびにそう思った。
ひどいときなんかは雲一つ無いのだ。
そんなときは空の果てのちっぽけな雲の欠けらを見付けては安堵した。
そうでもしないと吸い込まれそうだったから。
空に。
嫌味なほど透き通ったあのあおに。
+first
朝八時。
晴れ上がった朝の空気を胸いっぱいに吸い込んで、雄介はバイクに乗り店で使う食材の買い出しに出掛けた。
いつもはもう少し余裕をもって購入しておくのだが、どうもおやっさんが忘れていたらしい。
空になっている食材置場を指しておやっさんに聞くと、
「……お前が手伝わないから忙しくて忘れてたの!」
「おっちゃん、五代さんのせいにするなんてひどいわ!」
叔父と姪の二重奏が聞こえてきて、それを後に聞きながら雄介は俺行ってきますと叫んで飛び出してきたのだった。
……確かに、雄介は昨日店を手伝わなかった。
例のごとく、未確認が出現したからだ。
しかも…………
「……やっぱり」
信号に捕まって、雄介はメットの中で小さく呟いた。
どこもかしこも、車がいつもより混んでいる。
雄介はバイクだからまだいいものの、自動車に乗っている人などは大変だろう。
・・・・昨日起こった未確認生命体事件の弊害で交通機関には大きな影響が出ている。
夜間の決死の復旧活動にも関わらず、一部ではまだ交通規制が解かれていない。朝のニュースでは電車にも影響が出ていると言っていた。
復旧していない信号機、迂回路を回ろうとする自動車、混乱した情報………。
様々なものの相乗効果で、この異常な渋滞が発生したのだろう。
「……桜子さん来る時間までに戻れるかなぁ」
きっと今日も徹夜明けの彼女に、熱いコーヒーをブラックで。……それともまだ暑いからアイスコーヒーの方がいいだろうか?
そんなことを考えていると、いらついたドライバーのクラクションがメットごしにも響いた。
ふと近くの歩道を見ると、昨夜配られた号外が散らばっていた……必要最小限だけを伝えようとする、大きな見出しと簡潔な文章。
そして穴埋めとしか思えない一番有名な未確認の写真。
『都心で謎の大爆発』
『未確認生命体による犯行か?』
通勤を急ぐ人が、その上を無造作に歩いていった。
+++
「ゆーすけ、コーヒーいれて」
「はーい」
ちょうどお客さんがひけて、片付けも終わって……手持ち無沙汰になったそのときにおやっさんが休憩を告げる。
奈々は劇団の都合で午後からの稽古が入り、店内にはおやっさんと雄介の二人のみ。桜子は朝にコーヒーを飲みに来たが、今日は手伝いをせずに家に戻った。
今朝のこと。
「……五代くん」
「んー?」
仕入れてきたものを片付けている雄介の背中に向かって、桜子は呼び掛けた。
途端にテーブルを整頓していた奈々から何か視線が飛ぶがそれには気付かずに雄介は振り向く。
「どーしたの、桜子さん?」
「…………」
いつものように笑む雄介を見て、桜子は一瞬息を止める。
そして、そ、とおやっさんや奈々に視線を飛ばして、
「………ううん……頑張ってるな、と思って」
ことばを選ぶように言って、笑った。
「だろー?だって桜子ちゃん、コイツ昨日もさぼったんだよ?」
まったくぅ、と愚痴をこぼすおやっさんをまぁまぁ、と雄介は宥め賺す。
そんな彼のようすを桜子は心配そうに見ながら、まだ熱いコーヒーを口にした。
雄介はのんびりとアルコールランプに火を点けた。
おやっさんは朝刊片手にテレビをつける。
「……ワイドショー?」
とくとくと水を入れながら雄介は朝刊を覗き込んだ。
予想どおり、テレビ欄を表にしておやっさんは真剣に局を選んでいる。
「んー」
ようやっと気に入った局を見付けたのか、おやっさんは新聞を閉じた。
「……奈々にゃあ悪いけどな」
「ま、仕方ないっしょ」
四号の熱烈なファンであるおやっさんだが、姪が未確認によって演劇の先生を亡くしてからは彼女の前ではそれなりに未確認関連の記事集めは抑え気味だった。
こうして、彼女が席を外しているときはまあかなり以前の通りなのだが。
ぼー…と二人でテレビを眺めていると、不意にテレビの中が慌ただしさを増した。
どこからか手渡された資料をもとにアナウンサーが緊張しながら喋りだす。
《先程行なわれた記者会見の模様を……》
「キシャカイケン?」
「けーさつのに決まってるだろ、ゆーすけ」
「あ、そっか」
画面が変わり、フラッシュライトに包まれた会場が映る。
緊張した面持ちの警察の高官らしき方々が、手元の資料に時折目を落としながら話しだした。
発生した時刻、場所、現在分かっている被害を次々と述べ……
《……この爆発は未確認生命体四号の独断によるものであり、警察は一切関与しないものであります》
そう言った直後、フラッシュが一斉にたかれた。
次々に記者からの質問が飛び、重苦しく答える高官の表情がアップされ……おやっさんはチャンネルを変えた。
「んー……どこも同じかぁ」
「そりゃねぇ」
こぽこぽと沸騰しはじめた水をぼんやりと見つめて雄介は言う。
「こういうのって、どこも同じでしょ?」
「まぁなぁ」
それでもぽちぽちとチャンネルをいじると、そのうちどの局もCMに変わった。
「………うーん」
おやっさんは不満げにテレビから新聞に目を落とし、一面の記事を見る。
朝から何度も見ていて、いい加減見飽きてもおかしくはないのにまた見ている彼を見て雄介は笑った。
「おやっさーん…新聞に穴空いちゃうよ?」
「いーの、あとで保存版買いに行ってもらうから」
「………俺に?」
「そ、お前」
そんなぁ、と言いながら雄介は出来たコーヒーをおやっさん専用のコップに注いだ。
雄介も自分のコップを持ってその新聞をまた覗き込む。
『奇跡の人的被害ゼロ』
「……良かったぁ……」
「何がだ?ゆーすけ??」
「んー……」
ひょい、と手をのばしてその小見出しを指差す。
「おお、流石は四号ってとこだな」
「……そうだねぇ」
「でもなぁ……」
ず、とコーヒーをおやっさんはすする。
「ちょっと今回のはおやっさんでもびっくりだな」
まさかここまでやるとはねえ、四号。
そう続けたおやっさんの呟きを聞きながら、雄介もコーヒーをすする。
「…あっつ」
軽く、舌を火傷した。
+++
記者会見もとりあえず終わり、マスコミの方々が穏便に退散した頃に丁度一条の仕事は一段落した。
本部員たちは皆、黙ってデスクに向かっているように見えるが……内心いらついているものが多いのは用意に想像がつく。
原因は先程行なわれた記者会見……もちろんその前から情報は来ていて、口裏を合わせる必要性も熟知している。
世間に対する警察のマイナスイメージの増加を防ぎ、以後の事件での協力…つまりは迅速な避難など…を仰ぐために………
………それでも、だ。
新たな書類をめくりながら一条はその情報を聞いた瞬間の杉田の複雑な表情を思い出した。
「……悔しいもんだなぁ」
俺たちには何もできないんだな、こういうとき。
そう小さく言って杉田は一条の肩に手を置いた。
…もしかしたら一条は杉田以上に複雑な表情をしていたのかもしれない。
だが彼は軽く俯いていた顔を上げて杉田を正面から見た。
「でも……」
「?」
「でしたら、できることをするだけです……今まで通りに」
迷い無く言った一条を見て杉田がどう思ったのかは分からないが、
「……そうだったな」
と言って力強く首肯いた。
一つの書類を見終わって次の書類に手をかけようとしたとき……携帯の着信音が鳴る。
回りに頭を下げながら廊下に出て携帯を耳にあてると、彼にとって聞き間違えようの無い声が聞こえてきた。
「…どうしたんだ?」
『どうしたもこうしたも……おい、五代はどうしてる』
「……………どうしてると言われても」
店で働いているんじゃないか?としか一条には分からない。
そう答えるとしばしの沈黙の後に椿は言った。
『……お前、今暇だな』
「…暇じゃない」
『いーや暇だ。今すぐ暇になることで貸し一つ消しておいてやる』
「………たった一つか」
『まだまだ残っているから覚悟しておけよ……とにかく、アイツを速攻連れてこい。身体の隅々までじっくり調べてやる』
「………分かった」
ピ、と通話を切る。
……主治医として、患者の容体が気になるのは分かる。
特に昨日の一件の後でもあり、きちんとした検査をしたいというのも首肯ける。
それは分かるのだが……
「あんなに嬉しそうにされると、な……」
本気で解剖されそうで恐い。
冗談で無くそう考えて、一条は軽く頭を振った。
+++
頭を下げまくって何とか数時間早めに仕事を切り上げた一条は、すぐにポレポレへと電話をかけた。
聞き慣れた声でいつもの口上が聞こえたので用件を伝えて了解を得る。
急いで関東医大病院に向かい、駐車場に車を止めて外に出る………秋の気配を一つも見せない日差しが、寝不足気味の身体には少々辛かった。
静かな廊下を歩いていつもの場所につくと、もう既にベンチに雄介が座っていた。
「あ」
足音で気付いたのか雄介は一条を見て笑う。
「……早いな」
「だってそりゃ、バイクですもん……道、混んでたでしょう?」
「……そうでもなかったが」
何せ朝よりは空いていた。
そう思ったが一条はそのことばを飲み込んだ。
雄介はよいしょ、と立ち上がり、一条と並んで椿が待っているだろう診察室へ向かった。
「………で、どうなんだ」
「………」
ガラスの向こうで着替えの許可を得た雄介が視界から消えるや否や、一条は椿に問う。
「……まあ、そう焦るな」
まだ結果は全部出ていない。
そう言って椿は苦笑った。
「……予想はついているけど、な」
「予想?」
「昨日の打撲箇所は完治……全治五ヵ月ものがな。後は右足……」
深く、息を吐く。
「……右足の筋肉組織の強化…ってところだな」
「………」
二人は揃って重い息を吐いた。
…昨日の異常事態の原因の一つと考えられるものがそこにあるのだから、何も変わらずに済む訳がない。
………………もしかしたら、もっとひどく。
「……ところで一条、お前肩は大丈夫なのか?」
ふ、と椿が一条を見る。
「……肩?」
「動きがぎこちないぞ」
俺を誰だと思ってる、と椿は鼻で笑った。
短いとは言えない付き合いの友人の観察眼に一条は諦めて白旗を上げる。
「……少し、痛めただけだ。そう大したものじゃない」
「……本当か?」
「ああ」
はっきりと首肯く。
それに椿が何か言い掛けたときに、ぱた、とドアが開いた。
二人分の視線を集めて、雄介は戸惑いつつ笑う。
「……どうかしました?」
「……どうもこうもあるか、ほら、結果は明日までに出しておくからさっさと帰れお前ら」
犬を追っ払うかのように椿は手をしっしっと振った。
「えー、お茶出してくれないんですか?」
不満そうに唇を膨らませて雄介が言う。
「……いつ俺がそんなことをしたんだ、おい」
「桜子さんが言ってました。聞きました一条さん?」
「嫌、知らないが……」
不思議そうに一条は首を傾げて、
「……お前な」
軽く険のある顔で椿をにらんだ。
「……いいだろうが、別に」
椿はたじろぎながらも、冗談でも何でもない真剣な眼差しを二人に向けた。
「あの鎖骨をあきらめる気は無いぞ、俺は」
「………」
「……つ、椿さん……」
そんな友人を見て……いかにも仕方がない、といったふうにため息をついて一条は雄介に注意した。
「……沢渡さんには言うなよ、五代」
「は、はい……」
軽くあっけにとられながら、じゃ失礼します、とドアに雄介は向かう。
その途中でぴたりと止まって振り向いた。
「あ、そうだ椿さん」
「…何だ?」
「……蝶野さん、どうしました?」
その名前に一条は驚いて立ち止まる。
「……蝶野潤一か?」
確か、23号のときの。
事情を知らない一条に分かるように軽く昨日のことを話してから、椿はこう言った。
「……あれからちゃんと通院しているそうだ。何、昨日も元気に帰ったよ」
「そっか、良かったぁ……」
ふー、と、雄介は安心したように笑った。
じゃ俺店戻って手伝いますね。
病院を出るともう日は暮れていて、それでも雄介はそう言うとバイクに乗った。
「あ………」
メットをかぶる寸前、ふと思い出したように雄介は一条を見て、
「一条さん!……肩、お大事に」
そう言って笑顔を見せる。
一条は何も言えずただ黙って首肯いた。
どうも意外と怪我をしているのは誰でも気付いていたのかもしれない……それとも相手が古くからの友人や……彼、だからだろうか。
「じゃ、お仕事頑張ってくださいね」
そう言うとかぽ、とメットをかぶって去っていく。
その姿が見えなくなるまで見送って、一条は車に乗った。
+++
「…そーだ」
ポレポレへと向かう帰り道で、雄介は目に入ったコンビニエンスストアに寄った。
おやっさんに頼まれた朝刊数部を手にとってレジに並ぶ。
すると前にいる客の会話が自然と耳に入った。
「……ったく、今日は参ったよなー」
「でもさ、おかげで学校遅れても文句言われなかったじゃん」
「ま、そりゃそうだけど」
いっつもこうだったらいいのにな。
高校生風の男子が二名、そう言って笑った。
「いらっしゃいませぇ、次のお客さまどうぞー?」
「あ、はいすみません」
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