さらさら。かたっ。かたかたかた……。
執務室に、仕事の音が響いている。 
仕事をしているのはこの国…周、の軍師とその片腕。 
向かいあわせで席に付き、休む間もなく筆を走らせている。 
…否、何時の間にかそうしているのは蒼髪の道士だけで…軍師は、ぼうっとその仕事振りを眺めていた。 
「……なんだかのう……」 
その呟きに気がつき、道士…楊ゼンは仕事の手を止めた。 
「どうかしましたか?太公望師叔?」 
「いや…何、大したことではないのだが…」 
そう言うと太公望は軽く自分の胸に手を置き、ため息をついた。 
「ここら辺が、こう……」 
そのまま手を置いて、何か考え込むように眉根を寄せる。 
「胸の辺り、ですか」 
楊ゼンも自分の胸に手を当てる。 
「胸ともちと違うが…まあ、その辺りだな」 
「ここがどうかしたのですか?」 
ぽん、と軽く自分の胸を叩き、そのまま手を離しながら楊ゼンは言った。 
「むー……何というかのう…」 
呻くように言い、くたりと卓の上に上半身を預ける。 
そこにあるべきはずの書簡は無く、きちんと横に積み上げられていた。 
「…いつの間に終わってたんですか…」 
楊ゼンは感歎の言葉を隠さずに伝えるが、それに対し太公望は首を横に振った。
「……まだ手をつけておらぬ」 
「師叔!?」 
楊ゼンの叫びの後に当然続くであろう非難の言葉を、太公望は手を上げて遮った。 
今は今日明日にも朝歌への進軍を開始しようとしている重要な時期である。 
つい先日には元スパイとその父親らが周に帰順し、軍全体の士気も高まっていた。 
そういうときに何故…と言いたい楊ゼンの考えは誰よりも太公望がわかっている。 
仕方無さそうに口を閉ざす楊ゼン。 
顔を彼に向けないままで、太公望はとりあえずの理由を口にした。 
「……集中できぬのだ」 
「どうして……」 
そう言い掛け、楊ゼンははたと気がつく。 
その様子にちらりと目を向け、太公望は身を起こした。 
再び胸の辺りに手を置き、またため息をつく。 
「何だか、すっきりとせぬのだ」



さわさわ。がやがや。 
外からは風の木を揺らす音や兵士の訓練の音が聞こえてくる。 
遠くからは元スパイの自称美少女が愛しい相手を追い掛ける声。



「すっきりしない?」 
「むかむかするというか……」 
その言葉に、心配そうに眉をひそめる楊ゼン。 
「…具合が悪いのですか?」 
「…うーむ…そういう訳では無いし…」 
「食べ過ぎでお腹壊したとか」 
真顔のままで言う楊ゼンを軽く睨み付け、太公望は口を尖らせる。 
「…だあほ。それでは腹が痛くなるであろうが」 
ここだぞ、ここ…と殊更に手を置いた場所を示す。 
「じゃ、お酒の飲みすぎでしょう?」 
あっさりと言い返してくる相手をもはや睨む気力も無く、太公望はまた卓に身を伏せた。 
「おぬし……人のことを何だと思うておる…」 
「桃大好きの大酒飲み。違いますか?」 
「うう…否定できぬ……」 
躊躇い無く言い切る楊ゼンから逃げるように、太公望は首を倒して外の様子を眺め遣る。 
そこではようやっと想い人を捕まえた蝉玉が幸せそうに笑っていた。 
まるでぬいぐるみを抱き締めるような遠慮の無い力に、抱かれている土行孫は少々白目加減になっていた。 
その様子を回りの人々が呆れたように見ている。 
「よく飽きぬのう……」 
何のことかと太公望の視線の先を見た楊ゼンが納得したように頷いた。 
「ま、それは人の好き好きというものでしょう。…で、まだ治らないのですか?」 
「うむ…」 
むう、と唸りながら太公望は未だ卓に伏せていた。 
額を押しつけるようにごろごろ頭を往復させ、しかも時折ため息が聞こえてくる。 
彼なりに悩んでいるのだろう…このままではどうも仕事をやりそうにない。 
困ったように…いや、実際困っているのだろうが…楊ゼンは太公望に尋ねた。 
「いつ頃からです?」 
その問いに太公望は頭を動かすのを止める。 
彼が思い出そうとしているようなので、それ以上楊ゼンも何も言わない。 
そして訪れるちょっとの沈黙。 
…その間、楊ゼンは何となく空を眺めていた。 
所々に白い雲が流れていく…見慣れてはいるがいつ見ても飽きることの無い青空。
上空を鳥が輪を描くように飛んでいる。 
そうしている内に思い当ったのか、太公望が口を開いた。 
「ついさっき。おぬしと仕事始めた頃からだが」 
「…何だか僕が原因みたいな言い方ですね、それって」 
かくりと肩を落とす楊ゼン。 
心配しているのにひどい言われ様である。 
「さあ…?そういうことになるのかのう?」 
わからぬー…とまた太公望は呻きだす。 
そんな太公望を見ながら、楊ゼンはため息をつくしかなかった。 
「…一体何なんですか」 
「わしの方が聞きたいわい」 
「変な方ですねぇ、師叔は」 
ため息をつきながらのその発言に、少しむかつく太公望。 
「おぬしにだけは言われたくないな、その台詞は」 
「どういうことですか」 
「何でもないわい…ほれ、わしの分も仕事頼むぞ。どうやらわしは病人らしい」 
どうにも、仕事に手を付ける様子が見られない。 
ごろごろと机の上でだれている太公望を見ながら、楊ゼンは途方にくれるしかなかった。


◆◆◆



それから数日、太公望の様子も落ち着いてきた。 
今だに楊ゼンを見ては、ぼーっと考え込むときもあるのだが…何とか仕事のペースは普段通りになったのである。 
そんなある日のことであった。



朝歌への進軍中のことである。 
その日の行軍を終え、兵士たちは宿営地を作るために忙しく働いていた。 
もちろん、軍師である太公望やその仕事の補佐をしている楊ゼンは兵士たちへ指示をする必要があるのだが……進軍当初から比べると、それも随分と少なくなっていた。 
宿営地をつくることでは、細かな命令を必要としなくなったせいだろう。手際よく作業を進めている。 
二人はその作業の様子を確認し、時折やってくる兵士の報告を聞き、必要なことを指示するだけだった。 
ばたばたと右往左往する人々を眺めながら、楊ゼンは深いため息をついた。 
横に立っていた太公望が、何事かと楊ゼンを見る。 
普段から小憎らしいくらい完璧に立ち振る舞う楊ゼンである。
そんな彼が、白昼堂々、誰が見ていてもおかしくない状況で、物憂げな表情を隠そうともせずにいるのだ。 
太公望ならずとも、不審に思って当然である。 
「…どうしたのだ、楊ゼン?」 
「師叔……」 
太公望のかけた声に、横を向く楊ゼン。 
身長差のせいで、少々見下ろすのは仕方のないことだが…そのせいで、さらに影を深めたように感じる。 
また大きなため息をついて、楊ゼンは言った。 
「どうやら、あなたの病気が移ったようです」 
「ほお?わしの病気?」 
「といっても桃依存症やアルコール中毒ではありません」 
そのことばにかくりと肩を落としながらも、太公望は楊ゼンを睨み付ける。 
もちろんそれは自然と上目遣いとなった。 
「…おぬしわしを何だと思うておる…」 
「申し上げた通りですが」 
どこか間違っていますかいないでしょう……と言わんばかりの真顔でそう言われ、反論する気力をなくす太公望。 
諦めて視線を前に戻すと、陽が傾きかけてきているのに気がついた。心なしか、影も長くなってきたように感じられる。 
宿営地が完成したとの報告を告げる兵士に労いのことばをかけ、二人はゆっくりと歩き始めた。 
食事の準備や、夜間の見張りが誰なのか確認をしている兵士たちを眺めながら…ふとした違和感を太公望は感じた。 
考えるが、その違和感の正体は思い当らない。 
そんなに重大なものでもない気もするのでそれは放っておくことにして、変わらずに歩を進めた。
そんな太公望の一歩後ろを、楊ゼンは歩いている。 
誰もが見た瞬間に…まあ一部に例外はあろうが…美形だと認める彼である。 
均整のとれた身体、眉目は秀麗、長い蒼髪が歩に合わせ背で揺れている。 
ただでさえ人目を引き付け、女性を虜にしてやまないその姿が……今また、「憂い」という化粧をつけて歩いているのだ。 
一見、普段と何ら変わりがないように見えるが、時折出るため息や、無意識……そう思わなければ単なる自己陶酔……のうちに前髪を掻き上げる仕草は、否応無しに人々の視線を集めた。 
とにかく目立つのである。そして絵にもなっている。 
進軍中、ということで女性の姿ははっきりいって少ないが、これが周城などであったら影から女官たちの歓声が聞こえてくることだろう。 
その代わりに…いつものように飄々と歩く軍師と、その片腕の異様な雰囲気に気がついた兵士たちが次々と声をかけてくる。 
それぞれに適当に応えを返しながら、二人は揃って宿営地を離れた。



「はあ……」 
「だから何なのだその病は?」 
彼らは宿営地を見下ろせる、小高い丘の上に移動していた。 
ここなら、万が一宿営地に異変が起こったときでもすぐに戻れる。付け加えて、 
「あんなにため息をつきおって…兵士たちが不安に思ったらどうする!?」 
「そう仰られても……」 
兵士たちの無用な混乱を避けることができる。 
「全く……皆、おぬしの妙な様子には気がついておるわい。…ここ、二日ばかりか?」 
「そうなんですか?気がついたらこうなっていたのですが……」 
楊ゼンの様子がおかしかったのは何も今日だけではなかった。 
ふとした拍子にため息をつく。
軽くうつむいたかと思うと次の瞬間ぱっと顔を上げる。
会議中にどこか遠くを見る。
……………数え上げるときりがない。 
太公望が気がついたのは二日前…だが、者によってはもう少し前からと証言しているものもいる。
「……で、どんな症例が出ているのだ?その病は?」 
丘の上にどっかりと腰を下ろし、ちょいちょいと手招きして楊ゼンも横に座らせて、率直に尋ねた。
「…症例、と言われましても…ですから、あなたと同じなんです」 
「ほう」 
「こう…ここら辺が…」 
そう言うと楊ゼンは、胸の辺りに手を置いた。 
「…もやもやするんです。あなたを見ていると」 
「ほお?確かにわしのと同じだのう!」 
「やはりそうですか?」 
「うむ。他にはこう…締め付けられるような感じがするとか」 
「ええ、鉛でも入っているように重く感じたりとか」 
「かと思えば何となく暖かくて……」 
そこまで言うと、二人は揃ってため息をついた。 
「…何なのでしょうね、この病は」 
「不思議だのう…わしもおぬしも解らぬとは…」 
仙人界でそれなりの修業を積んできた二人である。疾病の知識も十分得てきている筈なのだが…その中には、今二人が直面しているような症例に該当するものはなかった。 
「…ところで師叔」 
「何だ楊ゼン」 
「…僕とあなたの症例が一致しているとすると…」 
「うむ」 
…ところで…彼らは実は、先程座り込んだときから、一度も視線を合わせてはいない。 
お互い、前の宿営地を見据えたまま、ことばを交わしていた。 
…監視にしては、少々度が過ぎていよう。 
「…今、身体の左側が熱くなってませんか?」 
「残念だがわしは右だ」 
ちなみに、楊ゼンの左側に太公望は座っている。 
もちろん、太公望の右には楊ゼンが座っていることになる。 
「…新しい症例だな」 
「ええ。対象側の体温が上昇……こんなの、ありですかね?」 
「わからぬ…ときに楊ゼン」 
「何ですか?」 
ぎぎぃっと身体を楊ゼンの方に向け、太公望は口を開いた。 
「症例が同じならば……今、動悸がおかしくはないか?」 
「全くその通りです……」 
二人で心臓の辺りを押さえて軽く俯く。 
「……やばくないか?これは…」 
「心搏数の増加ですか……確かに、由々しき事態ですね」 
「どうするか……?」 
「しかし、不思議なことに…嫌悪感を感じません」 
「うむ。それもわしと同じよ」 
そうしてまた二人でため息をついた。 
「…今のところは様子をみよう。下手に動くとまずいかもしれぬ」 
「そうですね…。実害は出ていませんし」 
「幸運なことに、不快感はないしな」 
「…しかし、不思議ですね…」 
「うむ……」 
本格的に傾いてきた陽が二人を照らしている。 
二人の顔が赤いのも、きっとそのせいに違いない。





黙って夕陽を眺めている二人を、遠くから見ていたものたちがいた。 
「……それって……」 
「……いわゆる……」 
「お医者さまでも……ってやつじゃないッスか…?」 
白くて丸い影がそう呟くと、その場にいるほとんどががくりと頷いた。 
……何故か全員とも黒眼鏡をかけている。 
「ええっ!?お医者さまでも治せない病気なんですか!?」 
「ちょっと違うさ…。安心しなよ、命に関わりはしないさ」 
黒眼鏡をくいっと直し、くわえた煙草をぷかりとふかしながら…疲れたように一つの影が言う。 
「…ま、本人たち自覚なくても大差なさそうさ」 
「そうね…。ほうっときましょ。馬に蹴られて死にたくはないし。ね、ハニー?」 
しっかりと結い上げられた三つ編みを揺らしながら手元の丸い影に幸せそうに問い掛ける少女の一言を最後に、全員深々とため息をついた。 


◆◆◆


 
ちょっと時間はさかのぼる。 
「小兄さま」 
「んあ?何だ、旦?」 
周城の執務室で、この国の王と王弟が務めをこなしている……といえば聞こえはいいが、実際には王弟しか仕事に手を付けてはいない。 
王はその仕事振りを見つつ、あくびをかみ殺すのに精一杯、といったところ。 
まあ、逃げ出さないだけましかもしれない…と自分を慰めつつ、王弟…周公旦は兄王へと声をかけた。 
珍しくこの部屋にはその二人しかいなかった。…でなければ彼のことを「兄」の名で呼ぶことはない。 
「…近ごろ、どうもおかしいのです」 
「何が?」 
「彼らが仕事をこなす量が…ここしばらく減ってきているのですよ」 
「彼ら?」 
「太公望と楊ゼンさんです」 
手元の書簡に目を通しながら、不思議そうに首を傾げる。 
「仕事の完成度などは以前と変わりありません……ですが…」 
「以前よりは遅いってか。いいんじゃねぇの?あいつら働きすぎてた気もするし…」 
「小兄さまが怠けすぎなのです」 
「ぐ……」 
ずばりと言われて、思わず口篭もる。 
このできた弟にはかなわないことを今になって思い知らされている姫発であった。 
「…確かに度を過ぎた勤務はいくら仙道とはいえ身体に良くありませんが…」 
「つまりはこうなった原因を知りたいんだな?」 
「まあ、そういうことです」 
かたん、と書簡を手元に置き、ふうとため息をつく。 
「軍師とその補佐の調子がおかしいのです。この国の将来そのものに関わる危険性もあります」
「ちょっと考えすぎって気もするけどな……よし!そうと決まったら話は早い。どうせ暇な奴がたくさんここにはいるんだ……」 
「小兄さまはお暇ではないことをお忘れなく」 
「…ダメか?」 
「駄目です」 
政務から逃げるよい口実を奪われ項垂れる姫発を尻目に、周公旦は早速部屋の外に控えている官吏に声をかけた。 
そして収集された数名に任務を与えたのである。


◆◆◆


 
そして今。 
支給された黒眼鏡をかけた面々が、こんなことをどう報告すればよいのかと頭を悩ませているのであった。





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