家族
>687氏
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いつになったら結婚するのかと思われていた上司が、子連れ結婚したのは先月のこと。
相手は前々から噂というか既成事実のあった女性なので、それには驚かなかったが。
子供が生まれてから結婚なんて、どうしてそんな番狂わせをしたのか、一時話題になった。
子供をだっこさせてもらったこともある。奥方に、髪の色から目の色から、そっくりだった。
まあ、そういうこともあるのだろうと、深く考えはしなかった。
先だっての内乱を収めた上司は、あれよあれよという間に人も羨む地位につき。
そのおかげで、表立って悪口を言う者はいない。だが逆に、陰口をきく者が多かった。
妻の弟が同居しているというのも、皆の興味を引くらしい。
かつて最年少で国家錬金術師の資格を得た女性とその弟には、知る人ぞ知る深い事情がある。
それを知る者には、いまだ二人が一緒にいることに、何の違和感も感じないのだが。
知らない者には異様に見えるだろう家族であることは、残念ながら否定できない。
上司は地位と収入のわりには、こじんまりとした家に暮らす。
曰く、建て替えが面倒、広いと掃除が面倒、今は狭くて困ることはないから、らしい。
単に面倒くさがりなだけだが、悪意ある者は、庶民派ぶったいやらしい演出と見る。
そんなに言うならお前あの人の側で一日働いてみろ、と後輩を連れていったこともある。
終業後、自分が間違ってましたと、書類整理でへとへとになった奴が詫びに来た。
普段の上司は、誤解されやすい面倒くさがりの気のいい大人しい腹黒い人だ。
だからみんな騙される。
最近、動物が媒介となる皮膚疾患が流行っている。発疹が出るらしい。
まったく深刻ではない、動物に触ったら手を洗いましょう、くらいのことだ。
子供がかかると若干程度がひどいらしいが、それでも良い薬があるとか。
我が職場には愛称ブラハ号という、銃で躾けられた肝の座った犬がいて、皆に可愛がられている。
そいつの頭を撫でる上司に、しっかり手を洗って帰ってくださいよと声をかける。
それだけのことで、何の問題もないと、いや問題があるとすら思わなかったのだが。
ある日、上司の軍服に、わずかな動物の毛が付いていたことから事件は起こった。
廊下ですれ違い様、内乱を運と家柄だけで生き残った旧時代の俗物が、それを見咎めた。
上司の家には猫がたくさんいる。義弟が大事に飼っていて、ずいぶん数が増えたらしい。
気を付けていても猫の毛はどこにでも紛れ込み、家族3人で掃除しているという話だったが。
「おや、確か赤ん坊が生まれたばかりと伺いましたが」
「ええ、まだ一ヶ月です」
「そんな大事な時期なのに、家には動物がいるのですか」
「ええ、以前から飼ってますので」
「処分なさらないと、いやいや、これは驚きましたな」
「……」
「我が子より動物が大事なのですか、やはり若くして出世されただけのことはある」
「どういうことですか?」
「我々とは感覚が違うと申し上げておるのです、いやいや、理解できませんな」
「……」
「情が移ってということなら、代わって処分して差し上げましょう」
その煩い口に押し付ける用の煙草に火を付ける。横では銃の安全装置を外す音がした。
あの内乱では、いい人がたくさん死んだ。それなのに、どうしてこんな奴が。
厳罰減給もしかしたら懲戒免職の覚悟はできた。あとは飛びかかるだけ。
「それとも、あの噂は本当ですかな?」
「噂?」
「貴方の実子ではないという噂ですよ、生まれた子は金髪金目だとか」
「……」
「自分の子でないから、どうなっても構わないという訳ですな」
「……」
「平然とした顔で恐ろしいことをなさる、やはり我々とはどこか違うようです」
「……」
「他の男の子供を婚前に身籠るようなふしだらな女を、平気でめとるんですからね」
限界だ。飛びかかる一歩を踏み出そうとした時、上司の手が目の前に広がる。
そしてそのまま、指が打ち鳴らされた。
ドンと腹に響く音がして、廊下全体が揺れる。窓のガラスも振動で鳴った。
だが、あるべきはずの爆風がほとんどない。この近距離、巻き込まれても仕方ないと思ったが。
「私の家族にけちをつけないでもらおうか」
久々に聞く重低音。前にいる上司の顔は見えないが、表情は容易に想像できる。
奴は床に倒れて痙攣している、口からは血なのか真っ黒いものを吐き出している。
錬金術のことはよくわからないが、上司は火花ひとつで爆発を操る人だ。
「猫の子一匹に至るまで、すべて私の家族だ、侮辱は許さん」
ああ悪い、聞こえないか。上司は楽しげにそう呟いて、そのまま歩き始める。
音を聞き付けた連中が集まってきているようなので、放っておいて上司に続く。
聞こえないとはどういうことかと尋ねると、鼓膜が破れただろうからと言った。
何をしたのか尋ねると、呼吸時に体内に入った空気を火種にしただけだと言った。
こんなに怖い人なのに、普段はまったくそれを感じさせないから、騙される。
まあ、猫の処分を任せると言わなかっただけ優しいとも言えた。
奥方とその弟の手にかかれば、それこそ奴は生きてはいないだろう。
いや、いっそ死んだ方がましと思うくらいの目に合わせられるのは間違いない。
この一件以来、上司の家族について、陰であれこれ言う者は格段に減った。
奴はしぶとく生きていて、入院先で相変わらず陰口をきいているらしいと聞いたが。
家柄しか取り柄がないから、やがて払拭されて消えるだろう。
上司は初め、自分からは決して子供の話をしようとしなかった。
やはり気にしているのかと気の毒に思っていたのだが、違った。
それは恐るべし自制心の成せる技だった。本当は話したくて仕方がないらしい。
亡き親友のかつての姿を思い出し、なるべく周囲に迷惑をかけまいとしていたようだが。
つい我々部下が気を使って話題を振り続けたのが間違いだった。
最近では、聞きもしないのに写真を見せられたり、話題にされたりする。
他人の子供の寝返りの回数など、本当にどうでもいい。
奥方によく似たその外見の成長ぶりにだけは、ほんの少し興味があるが。
夜泣きするとかで、上司は奥方に付き合って夜通し起きているらしく、昼間寝ている。
以前から溜める癖のあった書類だが、最近は手に負えなくなってきた。
怒り心頭に達した上司の副官が、ついに奥方に連絡したらしい。顔なじみはこんな時に便利だ。
するとすぐに職場へ直通電話がかかってきた、顔と声からして相手は奥方だ。
仕事が終わるまで家に帰ってこなくていいと言われたらしく、上司は沈んだ。
それはもう地の底まで沈んで、そこから猛然と飲まず食わずで書類と格闘し始める。
残業していたが、我々にとってはまだ序の口の時間に、見事終わらせて帰っていった。
今度からはこの手ね、と上司の副官が満足そうに笑った。
普段の上司は、誤解されやすい面倒くさがりの気のいい大人しい腹黒いけど身内を愛する人だ。
だからみんな付いていく。
おわり