歪恋月
>坂上氏
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「姉さん、気が付いた?」
見なれない白い天井、耳になじんだアルの声。目線だけ移動すると、アルの顔が見えた。
ここはどこだ? でも、アルが傍にいる。なら、別にどこでもいい。
「もう少し寝た方がいいよ、何も心配しないで」
うなずいて、目を閉じた。体が自分のものじゃないような、妙な感じがする。
すごく眠い。そういえばこのところ、体はだるいのによく眠れなかった。
次に目がさめると、さっきよりは頭がすっきりしている。よく寝た。
徐々に意識がはっきりしてくる。腕には点滴の針が入っていた。病院? どうして。
体を起こしていると、病室にアルが入ってきた。安心したように溜め息をつかれた。
あの夜に倒れてから二日は眠り続けた、倒れるまで我慢しないでと叱られる。
自覚症状はなかったのかと聞かれた。まずは倦怠感、次に発熱があったはずだと。
よくわからないでいると、病名を告げられた。それはかつて、母さんの命を奪った病。
今は良い薬ができていて処方してもらったから、もうしばらくの入院で全快するだろうと言う。
もう少し早く薬ができていればね、とアルが寂しそうに笑った。
「もう少し元気になったら、顔を見せてあげてもいいかも」
誰か来たのか、まさかあいつがと期待するが、相手はフレッチャーだった。
待ち合わせに現れなかったので、心配して探しまわった挙げ句、入院していると知ったらしい。
それ以来、毎日毎日、花を持っては現れて、そのたび追い返したという。
毎日とは大袈裟なと笑うと、始めに気がついてからさらに三日経過していることを教えられる。
その間、他に誰かこなかったかとそれとなく聞いたが、誰もいなかった。
ばっちゃんやウィンリィには知らせていないと聞いて安心する。余計な心配はかけたくない。
……それにしても、いやに豪華な病室だ。個室だし、感染防止に隔離されているのか。
それにしては応接セットなんかもある。単にアルが奮発しただけだろうか。
やっぱり変だ。大きな病院だということを省いても、回診に現れる医者の数が尋常じゃない。
この病気は、それほど希少で医者にとっては興味深いのか?
自分では、どんどん良くなっていると思っているが、もしや逆なのか?
やけに丁寧に診察されるが、それに応対するアルの態度が微妙におかしい。
明らかに何かに怒っているのだが、理由を聞いても答えてくれない。
もしや妊娠していたかと思い聞いてみるが、検査したけど反応なかったよと言われた。
違うか。なんだろう、皆目見当がつかない。
アルへの隠し事といえば、この指輪のことか。これが左手の薬指にはまっているのが問題だ。
アルにもちゃんと弁解しておこう、と思ったところにフレッチャーがやって来た。
慌てて毛布の中に手を突っ込んで、指輪の位置を右手中指に戻した。誤解されると困る。
やっと会えた、回復して良かったと感激しまくるのを苦笑しながら応対する。
もっと大きいのにすればよかったと言いながら、充分大きな花束をよこしてきた。
別に花など興味はないが、喜ぶべきなんだろうと思って笑顔で受け取る。
数分ほど他愛もない会話を弾ませて、疲れるといけないから、これで帰ると席を立った。
帰り際、もう少しで諸悪の根源はいなくなる、その後でふたり幸せになろうと言ってくる。
そういえば、付き合うことに承諾したんだったなと思い出した。
しかし諸悪の根源とは? 寝てばかりいたから、忘れたことも多い。
あいまいな返事でも満足したのか、また明日と手を振って帰っていった。
いつの間にかアルはいなくなっていて、フレッチャーが帰るまで戻ってこなかった。
アルの言葉通り、あれからフレッチャーは毎日毎日花を持ってやって来た。
今まで研究一辺倒で、女性が何を喜ぶのか他に知らないと言った。俺は花など喜ばない。
でも、優しいこの男を傷つけるつもりはないから、毎日笑って受け取った花を誉める。
元気になったらあれをしよう、ここへ遊びに行こうと、尽きない話題で楽しませてくれた。
倒れた日から数えて二週間が経とうとしている。あいつは一度も顔を見せない。
入院したことを知らないのか、知っていても忙しいのか、そもそも、どうでもいいのか。
奴隷のように生きようと覚悟した。けれどそれは、求められることが大前提だった。
求められさえしない現状で、どう己を奮い立たせようか。何を拠り所にしようか。
指輪の位置を変えた意味は、これの送り主と結ばれろということだろうか。
それがあんたの望みなら、俺は甘受して生きていこう。俺はそうするべきなんだろう?
何も望まず生きるなら、あんたじゃないなら、相手が誰だって同じだ。
アルはやっぱり、いつの間にかいなくなっている。呼んでも返事さえない。
再度呼ぼうとすると、フレッチャーに手で口を塞がれた。シーッと、黙るよう促してくる。
気を利かせて二人きりにしてくれてるんですから、と耳元で声をひそめて言われた。
そんな馬鹿なと言おうと顔を向けると、フレッチャーの顔が間近に迫っていた。
振り払うこともできたが、そうしなかった。指輪の送り主は他でもないこの男。
息がかかる程の距離で、ふと接近が止まる。いいかと許可を求められているようだった。
動かずにいたら、そのまま唇が触れあう。そっと触れるだけで、それ以上のことはしてこない。
フレッチャーの顔は耳まで真っ赤になっていて、初めてですと照れまくっている。
今まで兄の手伝いしかしてこなかったというのは本当なのか、女の研究は未経験らしい。
無邪気に喜ぶ姿を見ていると、こちらの気分もなんだか和やかになってくる。
軽く触れるだけのキスなのに、お互いが満ち足りた気分になれるなんて、嘘のようだ。
もしかして、これが相性が良いということか。セックスなどしなくても、触れ合うだけで満足できる。
もしかして、本当に、フレッチャーとの付き合いを真剣に考えていくべきなのか。
二週間も声さえ聞かせない薄情なやつのことは、このままきれいに忘れて。
いまだ少しの迷いを残したまま見つめ合っていると、アルが新聞を手に戻ってきた。
それを機に、フレッチャーは帰っていった。することもないので新聞を読む。
見出しだけを追うが、特に大した出来事はない。平和なものだ。
こんなに平和そうなのに、それでも軍は忙しいのか? 見舞いにも来れないほど?
あれほどの情報網を持っているのに、俺の入院を知らないなんてことがあるだろうか。
やがて退院の日がきて、盛大に見送られながら病院を後にした。
頑張って、とか、何かあったらすぐ来い、とか、口々に応援してくれていた。
誰かと間違ってんじゃないかと笑ったら、間違いなく姉さんへの声援だよとアルが言う。
何を応援されなきゃいけないんだ。完全に回復するまでの自宅療養をか。
不可解に思いながらも黙って家へ帰ってきた。家はやっぱりいい、気持ちが落ち着く。
フレッチャーはどうするだろうかと思ったら、これまでと変わらず家へと通い始めた。
花はいらないと伝えると、時おりケーキを三つ持ってくるようになった。
なのに三人揃って食べたことはない。アルはいつも、狙ったようにいなくなる。
フレッチャーのことが嫌いなんだろうか。無理もない、あいつの時もなだめるのに大変だった。
将来を誓い合った仲だと説得して、どうにかあいつの存在を受け入れさせたのだが。
そうか、そんな相手がいながら、他の男の日通いを許す姉が許せないのか。
アルなりの抗議なんだろう。許されないことだというのは、よくわかっている。
だけど俺だって、幸せになれるものならなりたい。求めてくれる人に捧げたい。
……あいつとの関係は終わったと知れば、納得してくれるかもしれない。
アルに、言わなければ。それで本当に、あいつとは終わり。
アルに言わなければ。そう思い続けているのに、なかなか決心がつかなかった。
こんな形で終わりになるなんて信じたくない。いろいろ、言いたいことがある。
セックスを拒んだのは体がだるかったからで、それは病気のせいだったと判明したし。
フレッチャーはただの友達で、しょっちゅう会っていたのは単に暇だったからだし。
そもそも、たった一回拒まれたくらいで女を捨てるような根性のない男じゃないはずだし。
見舞いにこなかったのは、本当に何かとても忙しかったせいかもしれないし。
会って、いや、ただ電話で話すだけでも、お互いの誤解とかすれ違いとかは解消できるはず。
せめて、まだ俺への愛があるのか、そのことだけは確かめてから決着を付けたい。
帰っているだろう時間を見計らって、あいつの自宅へ電話をかけるが、出ない。
何日か試したが、やはり出ない。思いきって、緊急時だけと言われている軍の回線へかけてみる。
手が震えるのがわかるけれど、逃げていては何もならない。
交換手の女性に、自分の名前と相手名を告げる。女性が、息を飲むのが聞こえた。
ごめんなさい、貴方からの電話は取り次ぐなと言われているの、ごめんなさい。そう言われて切れた。
終わった。これで本当に終わった。涙も出なかった。
アルに言おうと決心した日、フレッチャーの方から先に、結婚を前提に付き合いたいと言われた。
うなずく代わりに指輪を左手の中指にして見せた。フレッチャーの表情が、みるみる引き締まる。
男の顔つきになっていく。軍服を着ている時のあいつは、いつもこんな顔をしていた。
男は社会的責任というやつで変わる。女は何で変わる? 愛情か? 俺も変わらなければ。
フレッチャーが近付いてきて、頬に手を添えられる。きっとキスするんだろう。
目を閉じて待っていると。扉が大きな音を立てて開かれ、アルが入ってきた。
慌てて離れ、何か用かと聞く前に、フレッチャーのことが好きなのかと聞いてくる。
好きだ、婚約もしたと指輪を見せる。全然似合わない指輪だねと冷たく笑った。
好きなら構わないし婚約したというなら祝福もする、だから、このまま縁を切ってくれと言う。
アルフォンス・エルリックは姉さんとはもう何の関係もない人間だと証言するように、と。
これが証明書だからと封筒を渡され、あとのことはフレッチャーに聞いてと言って背を向ける。
姉さんを泣かせたら許さない、地獄からでも蘇って、必ず殺すよ。フレッチャーにはそう言った。
アルはそのまま走って、家から出ていった。後を追おうとしたが、もう姿が見えなかった。
何が起きているのかわからない。アルと縁を切る、何だそれは。
取り乱すことさえできなくて、とりあえずフレッチャーに説明を求めた。
フレッチャーは、アルフォンスさんがこの件に絡んでいるとは知らなかったとうつむく。
この件とは何かと聞くと、知らないのかと驚いて、新聞を読んでいないのかと聞いてくる。
新聞なら毎日読んでいると、家にある新聞を出してきて見せると、フレッチャーの顔が青ざめた。
これは、正規の、売られている新聞とは違う。あの事件に関する記事が、ごっそり抜けていると。
そんな馬鹿な。毎朝アルが買いに行って、持って来てくれていた。
アルか。アルが、記事を抜いて、紙面を練成し直していたんだ。そうとしか考えられない。
あの事件とは何かと聞くと、言いにくそうに目線を逸らしながら、貴方に関することですよと言う。
十二歳の少女が特例で国家錬金術師になった件について、当時の推挙人が糾弾されている。
少女との性交渉が目的で、特別な計らいをしたのではないかと軍法会議で追求されていたのだと。
彼はそれを否定しなかった。だから今は監獄にいるはずだと言った。
新聞の紙面を目で追う。記事が抜けているということは、空いたところに別の文章が埋まっているはず。
アルからのメッセージだろう。暗号化はされていたが、すぐに解けた。
「姉さん、気付いて」、「ごめんなさい」。どの日にも、その二つが込められていた。
遠くで青い光が走る。練成反応だ、アルはあそこにいるんだろうか。
とにかく行こう、行けば、何が起きているのか俺にもわかるはず。
フレッチャーが呼び止めるのも聞かず玄関へと走ると、ドアの方から勝手に開いた。
外には見慣れた顔の軍人がふたり立っていて、敬礼して俺を出迎える。
もう何も知らせないつもりだったが事情が変わった、協力してくれと言うのでうなずいた。
更に呼び止めるフレッチャーを見て、ひとりが新聞屋の狗は黙ってろと吐き捨てた。
その一言でフレッチャーはぐっと言葉につまり、俺から目を逸らす。
その言葉がどんな意味を持つのか知らないが、それを知るのは後でいい。
掴んだままだった封筒を力任せに引きちぎってから、すっかり日の落ちた外へと走り出した。
外には軍用車が停めてあって、乗り込むと同時に急発進した。
飛ばすからしっかり掴まっててくださいよ、という注意を聞かされたのは、少し経ってから。
掴まっているにもかかわらず、角を曲がるたび車内を転げ回った。
病み上がりということを差し引いても、筋力が落ちてしまっているのがよくわかる。
組手だ組手、明日から朝と夜の稽古は欠かすまい。そのためにもアルを必ず連れ戻さなければ。
荒っぽくてごめんなさいねと、あいつの副官の女性が腕を掴んで支えてくれる。
軍内部のもめ事に、もう巻き込みたくなかったの、これはあの方の意志でもあるわ、と言われた。
詳しいことを話すには時間がないと思うから、簡単に言うわねと説明される。
クーデターを狙っていた軍の一派が新聞社を抱き込み、世論を操作して上層部の失脚を企てた。
かつての国家錬金術師制度は、彼らにとってはおいしいネタだった。
確かにイシュヴァール戦のように、命令のもと術者に人間性を無視した行動を取らせたこともある。
新聞社は、事実無根な内容もありはしたものの、多くは事実を書き暴いただけだった。
悪意をもって解釈すれば非道と言われるだろう出来事が、平和な世の中に出回った。
どれも一応は、当時の制度内では合法的なことばかりだったのだが。
そんな中に、十二歳の少女が特例で国家錬金術師になった事実が新聞紙面に載る。
身寄りのない幼い姉弟が生き抜くために、姉が国家錬金術師になった、世論はそう解釈した。
同時に、推挙人は姉弟の生活の世話をするでなく、姉を軍の狗に仕立て上げて囲った、とも解釈した。
あなたも知っているように、との女性の声で、我に返る。車のスピードがゆるんだ。
あれは完全に書類不備だったの、あなた達のところに行ったのは偶然よ、彼女は銃を取り出しながら言う。
知っているとも。あいつはしばらく俺など、まったく眼中になかったことくらい。
あいつをその気にさせるのに、どれだけ苦労したと思ってるんだ。
勝手な解釈しやがって、それこそ事実無根、ちゃんと調べろよと吐き捨てる。
そうね、きちんと調べれば誤解とわかるわ、でも調査されなかったの。言い終わらないうちに車が停まる。
話はここで一旦終わり。三人で外に駆け出すと、どこかの建物の塀に大きな穴が空いていた。
中に入ると、待ちかねたと声がかかって、三人ほどが合流した。やっぱり、見慣れた顔だった。
ここはどこかと聞くと、監獄だと教えられた。それなら、中にあいつがいるはずだ。
暗さに目が慣れてくると、ぼんやり周囲が見えてくる。憲兵が何人か倒れていた。
急いで中に入ると新たに憲兵が現れたが、軍服姿を見ると敬礼してきた。敵味方の区別が付かないらしい。
何事だと語気を強めると、侵入者がマスタングはどこだと言って奥へ行ったと喋った。
アルだろうか、壁の穴はおそらく錬金術のよるものと思うが、アルがどうしてあいつを探す?
ごめんなさい、僕がつい口を滑らせてしまって。眼鏡の小柄な軍人が頭を下げる。
ますますわからない。だが今はきっと、それどころじゃない。
奥へと走りながら、何をすればいいのか、俺はなんのために呼ばれたのか確認する。
まずは、あいつの身の安全を確保すること。ついでにアルを発見できれば連れ帰ること。
監獄にいるのに身の安全? 妙に思ったのが顔に出たか、副官が口を開く。
暗殺されそうなのよと聞かされ、え、という声が出たのは、たっぷり五秒は経ってからだった。
奥へと駆けていると、憲兵に交じって軍人も現れ、いきなり銃を構えてきた。
反応するより先に銃声が轟いて、敵が倒れる。鷹の目は健在のようだ。
数人を倒すと奥からぞろぞろ出てきたので、通路の壁を変型させて足元をすくってやる。
うねる床に悲鳴があがり、また錬金術師かと叫んで逃げる者もいた。
奥へ進むほど、床や天井が変型してはあちこちに人が倒れている。もう攻撃する気力もなさそうだ。
悪魔が来たとさえ言う者がいた。失礼な、命までは奪ってないだろう。
盛り上がった床を乗り越えると、鉄格子が連なる通路に出る。囚人は皆、檻の中に残されていた。
何があったか尋ねると、青い光と共に憲兵が吹っ飛んで、その後を金髪の男が駆けていったと言う。
とにかく一瞬のことで、なんの騒ぎか逆に聞きたいくらいだと言われたが、礼を言って去る。
アル、何をしてるんだ、俺に内緒で。縁を切れとか言って。
そろそろよと声をかけられて、緊張が走る。分厚い鉄の扉に、ぽっかり穴が開いていた。
その先にも、やはり憲兵や軍人がちらほらと倒れてのびている。すごいわね、副官の女性がつぶやいた。
確かに。アルは普段、必要がなければ虫すら殺さないのに。
今は徹底して、敵と見なした人間の意識を失わせている。おかげで俺たちはずいぶん楽にここまで来れた。あそこよ! 叫びに全員がその扉を注目した時、中から銃声が聞こえた。
扉は開いていた。中では、どこかで見たような顔の軍人がひとり、銃を持って高笑いの最中だった。
鉄格子の奥では、顔やら体やらが全体的にぐしゃぐしゃのあいつが、必死にアルを呼んでいる。
その目線の先には、右肩を血に染めたアルが床に倒れていた。あれに撃たれたのか。
俺たちの登場に焦った軍人が、銃を構え直してあいつに向けた。
てめえ、人の弟と男に何しやがる。そう思ったところまでは、おぼろげながらかすかに記憶にある。
気が付いたら両腕を二人がかりで抑えられて、足元には肉塊が転がって呻いていた。
いや、師匠の店で見ていた肉塊は、もっと美しかった。血のりが付いた雑巾でいいや。
アルの応急処置をしてもらいつつ、鉄格子をひん曲げて人が通れるようにする。
部下に両肩を支えられながら、あいつが出てきた。髭でわからなかったが、殴られたような跡があった。
来てくれたのか、小さな声で言って、すぐに意識があるのか怪しくなってがくりと膝を折る。
両手は、指さえ動かせないように包帯が巻かれ、固定されている。
練成陣を描けないように、だろう。頬がごっそり痩けて、髭だらけの顔。
当然風呂にも入ってないんだろう、すごい臭いがしている。臭い、前に食わされたチーズみたいだ。
臭い、たまらなく臭い、たまらない。体を支えてやりつつ襟元に顔を寄せて、さらに嗅ぐ。
ああ、臭い、頭の中がじんじんしてきた。ふんふんと鼻が鳴っているのが自分でもわかる。
姉さんと背後から呼ばれて、ふと我に返る。体が熱くてだるい、頭がぼーっとする。
病気の再発かと思ったが、違うのは自分でもわかっている。熱くなった場所が違うから。
アルの手当てが済んだようなので、ひとまず全員退却。入ってきたのとは別の壁に穴を開ける。
すでに仲間のひとりが車を回していた。あいつを後部座席に寝かせ、あとは二台に分乗。
追っ手も多少はあったが、すぐに捲いた。横になった体が転がり落ちないように、傍で押さえる。
手に巻かれた包帯を取ってやりたいが、こういう処置は医師に任せた方がいいので止めた。
それにしても、ひどくボロボロの姿だ。あんな所で、こんなふうになってたのか。
そりゃ電話にも出ないな、電話もしてこないな、会いにも来ないな。こんなになってちゃ。
しまった、雑巾とか肉塊とかじゃ甘かった。肉片にしてやれば、いっそ分解してやればよかった。
悔し涙が出てきて、手の甲で拭うと固いものがあたって痛かった。何かと思えば、指輪だった。
本当だ、全然似合ってない。抜き取って、服のポケットにしまった。
ごめん、本当にごめん。捨てられたと思い込んでいたとはいえ、俺、何がしたかったんだろう。
家の前まで送ってもらい、別れ際、副官以下軍人一同から奪還協力への礼の意を込めた敬礼をもらう。
副官はそっと、回復したら連絡しますと耳打ちしてくれた。早く治るといいが。
あとのことは軍内部の話だ、関わらせてもらえないだろう。心配だが彼らが上手くやってくれるはず。
それに、こちらの問題も残っている。アルとフレッチャーから話を聞かなければ。
家に入ると、フレッチャーがまだいて、無事帰ったことを喜んだ。
だが続いて入ってきたアルの顔を見ると、表情を曇らせる。アルの顔にも微妙な陰りがあった。
今夜は遅くなったし、アルの怪我のこともあるから、話は後日にしようと思い、提案した。
僕なら構わないし、早い方がいいからと言うので、三人でテーブルについた。
少し沈黙が続いたので、とりあえずアルを叱り飛ばそうと口を開きかけると、ゴンと鈍い音がする。
見ればアルがテーブルに突っ伏して、姉さんごめんなさいごめんなさいと繰り返していた。
僕が悪いんだ、僕のせいで姉さんは苦しんだ、ごめんなさい。アルは何度も何度も謝る。
僕も悪いんです、まずは僕から、全部最初から話します。フレッチャーが話し始めた。
ずっと兄の手伝いをしてきて、一念奮起してセントラルへ出てきたのは本当で、他意はありません。
新聞社に入ったのも、自分が世間知らずとよくわかっていたから。勉強のつもりでした。
見習いとして使ってもらっていたある日、記者のひとりが僕に話し掛けてきました。
僕の姓から、すぐにゼノタイムのかつての事件が調べ出されたそうです。
エルリック姉弟のことを知っているか、面識はあるかと聞かれ、会ったことはあると答えました。
それなら、と記者はある資料を僕に手渡してきました。当時の国家錬金術師に関するものです。
特例中の特例と注釈があって、あなたが生きるために軍に身を売ったのだと、僕は理解しました。
軍にというより、推挙人のマスタングに、ですね。ひどい男だと思いました。
施設へ入れるのでなく、好きなように使役するために軍の狗にしたんだと、そう思ったんです。
僕たち兄弟と会った時も、辛い任務の最中だったんだと。そう思うと、可哀相で仕方なかった。
僕はいきなり正義に目覚め、僕にできることがあれば何でも言ってくださいと、記者に言いました。
そこで言われたのは、あなたに接触し、当時の話をできるだけ聞き出すことでした。
話とはつまり、マスタングを追求できるだけの確固とした証言のことです。
偶然を装ってあなたに近付き、どうにか話をする機会が持てましたが、とても聞けなかった。
マスタングに囲われ、身も心も弄ばれていたのかとは、どうしても聞くのがはばかられた。
何よりそこをはっきりさせないといけないのに、僕には聞けなかったんです。
ちゃんと会って話したのはたった二回なのに、僕はあなたに惹かれてしまった、だから余計に。
いえ、本当のところは同情だったのかもしれない。可哀相なあなたを僕が幸せにするんだと。
あいまいな質問に、あなたは辛かったと答えてくれた。僕にはそれで充分でした。
記者には、言われているような行為が、さも事実上行われていたかのように報告しました。
すると、内緒だぞと言って、驚くほどの大金をくれたんです。何か普通じゃない空気は感じました。
でも、金はありがたかった。花って、買うと高いんですね、僕の給料じゃとても用意できなかった。
店で食事するのも、何をするにも、田舎とは大違いです。とにかく金がかかった。
それからも、あなたの話を僕に都合のいいようにすり替えて、何度も報告しては金をもらいました。
ユースウェル炭坑の話、東部過激派との特急列車での戦いの話、それらの話を全部。
それらに関するマスタングの手柄は、すべて無理に派遣されたあなたが立てたのだとねつ造しました。
贅沢したかったんじゃない、あなたにみすぼらしいところを見せなくない一心でした。
あなたはただ、旅の思い出を話してくれただけなのに。
その旅が、軍の命令だったかどうかはわかりません、ただ、あなたは本当に楽しそうに喋った。
嫌々出向いたとは思えなかったし、当時大佐だったマスタングの話にも、嫌悪感は見えなかった。
世間で言われていることは違うんだ。僕には、もうとっくにわかっていました。
でももう今さら嘘でしたなんて言えない、新聞には毎日のように記事が出ている。
なにより当のあなたから、記事に関する抗議がない。これは案外、僕が喋ったことは嘘じゃないのかも。
きっとそうなんだ、僕はあなたの代弁者だ。いつしか、そう思い込むようになりました。
結婚して、これからもずっとあなたを守っていこう。本気でそう思っていました。
すべては僕の勝手な思い込みによる、僕の頭の中にかない筋書きだったのに。
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