「景姫」(字編)


「もう逃げられないぞ、景麒」
 突然陽子に走れといわれ仕方なく命じられるまま駆けると追いかけられた。始まりと同じく唐突に止まれと命じられたので足を止めると、悠々と追いついた陽子にしっかりと腕を掴まれ、そして出てきた言葉がこれである。麒麟というと優雅な生活をしていると思われがちだが、これで中々大変なのである。最も、自国は特に個性的なのかもしれないが。

「もっと追い詰められた顔をしてみてくれ」
「は?」
「これじゃつまらん。景麒の困った顔が見たい。悪代官ごっこがやりたい。もっと真剣に走れ。麒麟はこの世で一番速い生き物じゃないのか。かといって本気で走られても追いつけないから困る。程ほどに追い詰められた様子を演出しつつ、なおかつ私が捕まえられる程度の速度で逃げろ」
「そんな、ご無体な……」
 景麒が溜め息混じりにそう漏らすと、陽子は目を輝かせて嬉しそうにはしゃぎだす。
「景麒、お前意外に才能あるじゃないか。それはこういう時に使ってこそ真価を発揮する台詞だよな」
 恐らく景麒には永遠に理解できないであろう何かに、陽子は満足そうに頷いている。
「私は今すごく気分がいい。だからお前に字をやろう。『景姫』だ。言葉が出ないほど喜んで貰えて嬉しいよ」
 景麒は乾いた唇を舐めた。しかしまだ声が出ない。もう一度舐めてみた。自分の鬣も幾筋か口に入ってしまったものの、今度は大丈夫そうだ。
「主上……どうか、今一度、できれば十年ほど、ゆっくり考え直して下さい」
 景麒はこの字を大変気に入った――りする訳はないので、自分は麒で、雄なのだと主張を試みることにした。たとえ結果は変えられなくとも、やらなければならない時が麒にはあるのだ。
「せっかく夜も八時間くらいしか寝ないで考えた、お前にぴったり愛情もたっぷりの字なのに」
 陽子の不敵な笑みは、景麒に不安しかもたらさなかった。どうやら今回の悪ふざけは本気らしい。陽子の愛情表現は個性的過ぎるため、景麒の想像力の限界を毎回毎回超えてくれるのだ。主に愛されて嬉しくないわけはないが、それとこれとは別問題である。もっと違う形で愛されたいと思うのは、我侭だろうかと景麒はぼんやり考える。
「……お気持ちだけで結構です」
「気に入って貰えて嬉しいよ、景姫」
 かくして景麒は、愛する王から半強制的に字を賜ったのであった。王に愛された末に字を賜った麒麟は過去多く存在しただろう。しかし、嫌がる麒麟に無理矢理字をつけた王など、かつて存在しただろうか。ちなみにこのやり取りは、後日大幅に美化されて伝えられることになる。

05/10/01
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とりあえず、かるーいギャグから……
読みは景姫(けいひめ)です!

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