「景姫」(後宮編) ※頂き物です。 声がした。 「けいひめ」 景麒が書卓で書面をひろげ、頭を悩ませていると、見慣れた主の顔がひょいと面前に現れた。先日、陽子より賜ったのは、長年持ち得なかった己の字。陽子はそれをさも自然に口にして、その美しい容を綻ばせた。 「ねえ、景姫」 その微笑は本当にお美しい…のだが、そうはあっても、どうしてもその主から賜った字に対して、拒否反応がおさまらない。 景麒は、その呼び名が、親愛を込めて陽子の口から飛び出すたびに、異常な窮屈感を感じなければならなかった。 そして、更に問題は重ねて起こるものだ。 「景姫、あの件、考えてくれたか?」 「……」 景麒は押し黙る。己の唯一たる主に対して、無視などするべきではないのだが、言葉にならないほどいろいろな感情が鬩ぎ合っていた。そして景麒はさらに俯いて、口を閉ざした。 あの件とは、先日金波宮の補強と増設の日取りを、主従で話し合っていた時のことだ。赤王朝が開いてから、一切使われることのなかった後宮について、話が展開した。 「お使いにならないのでしたら、後宮を完全に一時封鎖致しましょうか。維持費もかかりましょうし」 「―――、その事なんだけど。ここ、つかえそうじゃないか?」 陽子は、首を傾げてみせた。すると、わからない、と言った顔で同じように景麒も首を傾げる。 「お前は知ってるはずだけど。私が悪代官ごっこにはまってるってこと。後宮って、そういう遊びにはぴったりの舞台じゃないか、いままでうっかりしてて気付かなかった!やはり、後宮は閉められないな」 「主上?…し、しかし、お言葉ですが、主上にはそのようなお相手はいらっしゃらないはずでは…」 うむ、と独りでに頷いて陽子はくすくすと笑う。 「もちろん、入内するのはお前だよ、ああ、心配しなくても、私が飽きるまでだからそんなに長くは続かないから平気だよ、まあ考えておいてくれ」 (何が平気なのですか…?) 断固拒否し、抗議の声をあげたにも関わらず、勅命をちらつかせた絶対的な言葉に抗う術を麒麟は持たない。晴れ晴れとした陽子とは対極的に、景麒はその日途方に暮れた面差しで、仕事が一切手に着かなかった。 そんなわけで、話は冒頭に戻る。 「なあ、景姫、聞いているのか?け、い、ひ、め」 陽子は、景麒の座る向かい側に座り、頬杖をついた。 それは右からみても左からみても、たとえ逆さから読んだとしても、女性を表すことばだ。なぜ、陽子がそう字を名付けてしまったのか、後宮に麒麟を入れようなどと目論んでいるのか、思いつきであれ、確信的であれ、今となってはどうでもいい。いまさら、勅命の名の下に、終わったことを蒸し返すことも憚られるし、既に景麒も諦めている。 そうして先日の一件も含めて、悶々と頭を悩ませているうちに、傍にいた主の機嫌が損なわれていることに、景麒は気づけなかった。陽子は景麒の袖をつい、と引っ張って、低く言葉を紡ぎ出す。 「おい、さっきから返事もろくにしないで、何か不満でもあるのか?」 「いえ…別に」 「眉間に皺がよってる。経験上、お前の眉間に皺が三本よった時は、私に不満がある時だと決まっている」 「はぁ…」 どんな統計だと内心思いながらも、景麒は相づちとも溜息ともとれない返事をする。 「なんでも御座いません、」 「もしかして、後宮のことか?あれ、嫌だった?」 「―――、…いいえ」 「だったら、字?」 「――――、いいえ」 実際、不満は大ありなのだが、それでも今回の事件については、敬愛すべき陽子の個性的な好意であると景麒も理解している。それを無下にすることなどできないし、とにかく、もう諦めているのだから今更悩んでも仕方がない。 「主上に対して不満などありません。ほんとうに、別件で多少疲れているだけです、ご心配には及びません。ですから主上もお気になさら」 ず、と言う前に陽子が言う。 「私が原因ではないなら、なぜ、なにが原因でそんなに辛そうな顔をする?もしかして、瑛州担当の官吏たちと上手くいってないのか?…まさか、仁重殿で女官たちにいじめられてるとか?」 「主上……」 景麒は目元をおさえた。何故、麒麟が女官にいじめられるなどという発想が生まれるのか。息をついた景麒をみて、陽子は続けて言う。 「何かしらあるんじゃないか?遠慮せずに全部私に話してみろ、これでも一国の王だから、お前くらいは助けてやれると思う」 あまりに強く言いくるめられて景麒は呆然として、微笑む陽子を見つめる。こういうときに、ふと見え隠れする彼女の誠実な覇気に、惚れ惚れして心揺さぶられることもある。だがその笑顔に気を許してしまったら、後々、痛い目にあうということを景麒は忘れていた。 「いえ、本当に…いかほどのことも御座いません。ただ、最近すこし疲れているだけですから」 「そうなのか?…詳しく教えて」 「…草案が、先月よりおしておりまして、ここ数日、あまり床でゆっくり休むことができず、苛立っていただけでなのです。なにぶん、部下が仁重殿まで押し掛けてくることも間々ありまし」 「それは駄目だ…!」 そう叫ぶなり、いきなり、陽子は立ち上がった。景麒は主の突然の起立に、がたりと椅子を引いて仰け反った。 「そんなことじゃ、景麒がいつ倒れるかわからない。よし、わかった。お前、このまま仁重殿で寝泊まりしてたら、いつ部下がやってくるか気が気じゃないだろう?だったら、いっそのこと、誰にもばれないような場所に、寝床を移動すればいい。そうすれば、誰にも邪魔されず、ゆっくり眠れるはずだ!」 そう、陽子に気を許せば、痛い目にあうことを忘れていた。唖然とする景麒をみつめて、陽子はにっこりする。 「だから、今夜から、後宮で生活しなさい。やっぱり、これしか手はないように思う。昼間は外で仕事をしてもいいが、夜は後宮に戻ること、いいな? ひと気がなくて寂しいだろうけど大丈夫、私がときどき遊びにいってやるから」 貴女、やっぱり悪代官ごっことやらがやりたいだけでしょう!?という麒麟の叫びは声にはならず、景麒は有無を云わさぬ勢いの陽子に手を引っ張られ、後宮への道のりの間、回廊を半泣き状態で歩んでいったのであった。 陽景祭TOP ←前へ 次へ→ キツさんより頂いた、景姫〜後宮編です。 景姫と名付けられた挙句後宮入りまでしてしまった景麒の運命やいかに……なんて萌えるシチュエーション……! そして、ナチュラルに似合いすぎな景姫がいいv |