じっとりと手に汗が滲んでいる。滑らないように、何度も握りなおした。

 相手コートは暗い。いくら目を凝らしても、どこから球が飛んでくるのかがわからない。

 ヒュ…と、空気を裂く音とともに、足もとに球が決まった。

『0−30』

 無情にも響く、ジャッジの声。

 緊張に眩暈がする。息が上がる。鼓動が喧しいほどに、聴覚を支配した。

(――くる!)

 しかし一歩も動くことができずに、球はまたもやコートに爆ぜる。

 じりじりとした焦燥感に、唇を噛んだ。

 相手の動きが見えない。自分の体が動かない。

(どうしよう、どうしよう…っ)

 次から次に点を取られる。

 呼吸が浅くなった。泣きたいほどの心細い気持ちになった時、自分のコートにもう一人立っていることに気づく。

 見知った背中だった。

(…亮)

 確信するとともに、心が軽くなる。
 良かった、一人じゃない。亮とならば、まだ頑張れる。

 現金なもので霧が晴れるように、視界が広がった。相手のモーションから球の軌道を予測する。いや、予測というより経験からくる反射といったほうがいいかもしれない。

(このコースなら…、亮が捌く)

 だが、亮はその球を淳に任せた。

 驚きながらも、リターンする。相手側が大きくロブを上げた。亮が飛ぶ。

(え…そこでスマッシュ? いや、亮なら…)

 違う、亮じゃない。

 愕然とした。

 目の前には、赤い六角中学のユニフォームも、風に靡く黒髪もない。ライトブラウンのラインが入った白のユニフォーム姿の少年。

 混乱した。
 たった独りで闘っていた時と同じ焦りと緊張が襲う。


 ダブルスプレイヤーにとって致命的なことは何か。

 息が合わないことだ。

 背中を向けていても、相手の動向がわかる。
 背中だけを見ていて相手の思考がわかる。
 パートナーが何を考えて、どこに球を打つのか。
 どのような布陣を施し、どのように相手から目的どおりの打球を打たせるか。
 気づくこと、同じ予測をすること、読むことが大切なのだ。
 それがわからない。リズムが狂う。

(ダメだ、柳沢じゃダメだ。わからない、どう動いていいのかわからないよ…っ)

 相手のサインにじっと目を凝らすも、一瞬、一秒の躊躇いや遅れが命取りになる。

 どうしても柳沢との息が合わない。

 いや、合わないのは自分のせいだ。柳沢は自分の動きや特徴、考え方を短期間で実に覚えこんでくれている。そして、自分も実際は頭で考えるだけならちゃんと柳沢の行動を理解しているのだ。けれど、躰がどうしてもついていかない。

 頭の中にいる、双子の片割の幻影に惑わされる。

 亮だったらこう動く。

 亮だったら、こう作戦を立てる。

 ここは強引に攻め込むだろう。ここは一歩退いて立て直すだろう。

 ことごとく、慎重なテニススタイルを貫く柳沢とブレるのだ。

『ゲームセット!』

 一方的に攻められて、試合終了のコールが響く。自分が悪いのはわかっているのに、苛立ちに任せてラケットを投げ捨てた。

「どうして、そう動くんだよ!」

 憤りを表に出したしまった自分に吃驚する。頭が真っ白になって、パートナーを窺えば――

 柳沢は静かに振り返ると、悲しそうな顔をして、

「ごめん」

 謝罪した。柳沢は何も悪くないのに。

 ―――最低だ…。

 オレは最低だ―――っ!






「――本を顔に乗せてて、重くないんですか」

 バサリ、と本が床に落ちた。
 明るくなった視界に、淳は何度も瞬きを繰り返す。

「夢…?」

 リアルな感触に、掌が汗ばんでいた。心なし心音も早い。

「なんだ、寝てたんですか。邪魔をしてすみませんでした」

 首を動かせば、そこには観月が立っていた。淳は寮部屋のベッドの上にいる。

「今、何時?」
「六時五十分ですよ。あともう少しで夕食です」

 窓を見れば真っ暗だった。自分がスクールから戻ってきたのが六時頃で、夕食迄の間に机の奥から引っ張り出したテニスのマニュアル本をベッドの上で読んでいたのだが、いつの間にか寝てしまっていたらしい。
 観月は今学校から帰ってきたのか、制服のままだった。

 ベッドの上から手を伸ばして、下に落ちた本を拾う。

(厭な夢…。変な時間に寝ちゃったからだ)

 久し振りに悪夢というものを見た。が、一番始末に終えないのは、その悪夢の殆どが現実にあった出来事だということである。

 先日、学校での部活動での話だ。

 ダブルスの練習試合を普通の部員としていたのだが、柳沢とのコンビネーションが上手くいかずに負けてしまった。補強組に反抗心を抱いている者には「その程度で寄付金免除かよ」と陰口を叩かれ、観月は面と向かって自分達を罵った。赤澤は興味なしと、感心をちらりとも見せない。

 淳の中で、何かが焼き切れた。

 要は八つ当たりをしたのだ。最低にも自分の事を棚に上げて、パートナーに向かって。

 あんな風に誰かに怒鳴ったのは随分久し振りのような気がした。これが自分のことをよく知っている仲間達の間なら、簡単に日常に溶け込む些末な出来事としてあしらわれるものなのだが、ルドルフでは違う。

 柳沢の辛そうな顔が、いつまでも脳裏に残った。

(本当にオレ最低だ。柳沢だって、同じくらい厭な思いしているのに)

 罪悪感と後悔に潰されそうになって唸っていると、同室者が冷めた視線を寄越した。

「何か悪いものでも食べましたか」
「―――食べてない」

 我関せず、の観月に恨みがましい気持ちになる。

「なんで僕を睨むんですか」
「睨んでないよ。見てるだけだよ」
「男の着替えなんか見て楽しいですか?」

 部屋着に着替えている最中の観月は、シャツのボタンを外している最中だった。テニス部のくせに、まったく日に焼けていない白い肌が顕わになっていく。

「女の子だったらもっと楽しい」
「意外と健全ですね」
「なにそれ」
「いえ、深い意味はありません。そっち方面に関しては淡白なほうだと思ってたもので」

 観月の観察眼は正しい。苦手とまではいかないが、今はどちらかといえば女の子と話をするより、男同士でバカをやっているほうが楽しくて好きだ。

「ねえ、観月」
「なんですか」
「観月はなんでルドルフに来たの?」
「なんでって…以前説明しませんでしたっけ」
「されたけど、それでも疑問に思う。だって関東からきたオレ達はともかく、観月は山形でしょ? よほどのことがないと来れない距離じゃない?」
「そうでもないですよ。東京駅からなら大阪より近いですから」
「そうなんだ」
「停車駅によりますけど、二時間半ほどですかね」
「東北って行ったことないな。一回行ってみたい」

 何もないところですよ、と観月は低い声で呟くと、顔を上げた。

「――きみはどうして、ルドルフに来たんですか?」
「え……」
「六角、少し調べれば特殊な状態のテニス部であることがすぐにわかりました。知っていたなら、スカウトには行かなかった」
「どういうこと?」
「公立では考えれないことですが…小学校から中学まで、一貫してテニスを教え込まれるようですね。内部にヒエラルキーは存在せず、部員の殆どが小学校からの幼馴染だとか」
「まあね。自由というか…自由すぎるというか…」

 きっと観月だったら半日で発狂するだろう。想像したらおかしくなった。

「何笑っているんですか」
「いや…、こことは随分違うよ。うん」
「あなたは…それに加え、お兄さんがいたでしょう。だから、どうしてここに来たのかなと思いまして」
「不二みたいに、別に妥当兄貴に燃えてるわけじゃないよ」
「わかってますよ」
「なんだろう…。色々理由はあるけど、決定打は観月の一言だったかなあ」
「僕の?」
「僕は僕の目で見たものしか信用しません。ウチにはあなたが必要だと僕が判断しました。――そう云ったんだよね。覚えているかは知らないけど」

 観月はシャツを羽織る途中で、びっくりしたように止まった。

「覚えてます…けど。僕の一言で、きみはここに来たんですか?」
「うん」
「そうですか…」
「あ、でも決めたのはオレだし。ここで悪かったなんて思われても困るんだけど」
「思いませんよ。あなたは大切な戦力ですから」
「なってると、思う?」
「あなたは――何も云わな過ぎるんですよ。言葉が少なすぎるから、何を考えているのかわからない。僕達には別にそれでもいいんですけど、もう少し柳沢くんと話をしてみてはいかがですか?」
「オレ、無口?」
「ええ、最初の頃も思いましたけど」
「無口かな。初めて云われた」
「では、まだこちらに慣れていないからかもしれませんね」

 淳はこれまでの学院生活を反芻し、熟考する。そして、確かに言葉少なめだったかもしれないと思った。

 六角の頃はどうだった…? そうだ、オレの考えていることや云いたいことは全て亮と半分ずつだったからだ。説明するのも、頷くだけや、補足するだけで充分だった。聞いている方も、自分達をよくわかっていたから、それで充分に意思の疎通はできていた。だけど――ルドルフでは自分だけだ。土台が無い。ゼロから自分という人間をわかって貰えるよう努力しなければいけない。

「柳沢と…話してみる」
「そうですね」

 着替えている観月をぼんやりと眺めていると、自分は彼ともちゃんと話をしなければいけないのではないだろうか、という気持ちになった。観月の云い分も訊かずに、ただ非難するだけならば他の部員と変わらない。少なくとも自分は彼を頼ってこの学院に来た時から一蓮托生の身なのだ。

「観月はさ、今ひとりで凄い頑張ってると思うんだけど…テニス部をどうしたいの?」

 ボタンを留め始めていた手を、臍の下あたりで止めると観月は瞬きを繰り返した。淳は続ける。

「勝たなきゃいけないのも、その為にオレ達が来たのもわかるけど…、オレ達は特別扱いして貰ってるよね。それ以外の部員にまで、オレ達と同じプレッシャーを与えても、簡単には納得できないんじゃないかな…と」

 いつまでも六角時代の影を引き摺っている自分が、観月に説教なんてできる立場でないことはわかっていた。ただ、訊いてみたかった。観月が何を目指して、何を求めて、部活内に摩擦を起こしているのか。

「――あなたも同じことを聞くんですね」

 観月は冷たく笑った。

「あなたも? えーと、赤澤くん?」
「なんで赤澤だとわかりました」

 云ってから、しまったといった顔を観月がする。

「だって赤澤くんしか…想像できなかったから。観月に向かってあっけらかんと訊いてる姿がこうありありとわかるというか」
「確かに…あっけらかんとしてましたね。僕こそあの男の訊きたいですよ。お前はどうしたいんだって」
「訊いたんじゃないの?」

 即座に返すと、観月の愁眉が険しく寄った。厭そうに口篭もる。

「――ようこそ、聖ルドルフ学院へ。そう云ってきました」
「はあ? え、あれ? 観月ってここに来たの二学期すぐだよね?」
「そうですよ」
「凄い今更なこと…な気が…」
「気じゃなくて、実際今更なんですよ。どこまでボケた男なんだか」
「いや、まあでも。そうか、赤澤くんオレ達のこと認めててくれたんだね。てっきり面倒な存在くらいにしか思われてないかと」
「反対ですよ。あの男はテニス部を強くすることしか考えてません」
「え? そうなのっ?」

 酷く驚いた淳を、観月は呆れたように見た。

「あなた、赤澤をどう思ってたんですか? 一応アレでも部長ですし。それにあなた同じクラスでしょう」
「や…それはそうだけど。オレ赤澤くんとあんまり話をしたことないし。話かけられたこともなかったから」
「そういう気遣いには疎い男です。僕に今更、さっきのような台詞をかますぐらいですからね」
「そっか…やっぱりオレから話しかけなきゃ、始まらないんだな」
「放っておくと必要最低限のことしか云いませんよ。慣れたら慣れたで今度はくだらないことしか云ってきませんけど」
「よくわかってるんだね、赤澤くんのこと。毛嫌いしていると思ってたけど、意外に仲いい?」
「どこが! 見たまま、その通りですよ!」
「ってか仲良くする気ない? そうすれば少しは部員とも距離が縮まる気がするんだけど」
「縮めてどうするんですか。馴れ合いはごめんですよ」
「どうして?」
「仲間意識なんて邪魔なだけです。甘えられても困りますし」
「仲間意識と甘えるって同じことなの?」

 舌打ちでもしそうな顔で、観月は着替え終えた制服をハンガーにかけるために淳に背を向ける。

「今日はよく喋りますね」
「話したほうがいいって、観月が云ったんだよ。解せないよ、どうしてわざと敵役になってるの。普通はどうあれ円満に人間関係って進めたいものじゃない。嫌われるって恐くない…?」

 ここまで喋っておいて、今更ながらに後悔した。今の質問は自分の不安をぶつけたものだからだ。誰にも嫌われないよう、当り障りない態度でいる。自分をここに誘ってくれた観月の悪口を、部員がしていても訂正もしなければ諌めることもできないでいる己の曖昧さを転化したに過ぎない。内面の葛藤を知ってか知らずか、彼は凍りついた湖面のような静かさで答えた。

「――僕は、あなたと違って帰る場所が無いんです。ここで僕が媚を売る相手はテニス部員じゃない。学校なんだ」
「――――」

 淳は絶句する。

 目の前にいるのは同じ年の少年だ。

 あまりに堂々と大人とも渡り合っている姿を見ていたから、今の今まで気づかなかった。

 これが観月の本当の声ならば、彼はなんて不安定で、脆く、危うい所に立っているんだろう。
 その足場は、踏みしめればひび割れてしまうものなのではないか。

(なんで? なんでそんな風に云うの。学校に雇われた大人でもないのに…。観月は何を一人で抱え込んでるの?)

「…僕の話はともかく。あなたは自分のことをまず考えるべきじゃないんですか。いつまでもウッドラケットなんか振ってるのもどうかと思うんですけど」
「なんかって何さ。あれは、あれじゃないとオレは」
「そんなんだから――」
「なに」

 話題転換のために愛用のラケットを嘲笑され、淳は知らず観月を睨みつけた。

「そんなんだから、柳沢くんとの息も合わないんですよ。ここに来るのを選んだのはあなただ。いい加減六角を切り捨ててくれませんか。どっちつかずな態度が、傍で見ていて大変見苦しいですよ」

 自己嫌悪のど真ん中を容赦無く突かれ、淳はカっとなってベッドから起き上がる。そのまま立ち上がろうとして、ぐらりと視界が揺れた。

(やば、立ち眩みだ…)

 踏みとどまろうとしたが、観月に肩から思い切りぶつかってしまう。持っていた本が、相手の横腹あたりに当たった。

「―――っ」

 小さい悲鳴が耳に届く。

「ごめんっ」

 体制を持ち直して、淳は慌てて眩む頭を抑えた。

「角ぶつかっちゃった? 痛かった?」

 タイミングの悪さに、故意だと思われることを畏れる。

「立ち眩んじゃって…」いい訳しようと観月に目をやり――硬直した。

「みづ…き?」

 相手は蹲るようにして、手を脇腹に当て、瘧のように震えていた。顔は青褪め、目の焦点が合っていない。

「観月、痛いの? どこぶつかった?」

 尋常でない様子に面くらい、慌てて淳は膝を折った。びくり、と観月の肩が大きく跳ね、後ろに逃げる。観月のベッドに背中があたり、そこで止まるも、尚も逃げようと足を床に滑らしていた。手を伸ばせば、身を強張らせて頑なに拒絶する。

「観月…」
「だ…だい、じょうぶです。ちょっと…びっくりして」

 歯の根が噛み合っていない。観月は明らかにショック状態にあり怯えていた。痛みにではなく、自分が差し出した手を畏れている。

 彼の掌はずっと、脇腹に当てられたまま。

「あまり…大丈夫に見えないんだけど…、そんなに強く本の角当たっちゃったかな」

 どうしていいのかわからず、うろたえた。誰かを呼んでくるべきか、それとも様子をもう少し見るべきか。

「寮母さん呼ぼうか?」

 提案をすると、懇願するように「止めてください!」と悲鳴にも似た叫び声が上がった。

「その…本当に…大丈夫ですから。あと、少しで収まり、ますから」

 そう気丈にも続けるが、顔は紙のように真っ白でどう見ても普通の状態ではない。淳は尚も困惑していると、ふっと観月の抑えている箇所にある疵のことに思い至った。
 着替えの時や、大浴場で何度か目に入った疵。手術痕かと、いつだったか訊ねたことがあった。観月は曖昧に答えていたが…。

 それは降ってきたような閃きだった。

「刺された…疵?」

 一際大きく、観月の躰が戦慄く。その様子を見逃さなかった淳は確信した。

 ざわりと、肌が粟立つ。

 刺された痕を、自分が本で――躰ごとぶつかったことで、思い出させてしまった―――?

「違います!」

 必死の形相で、観月が否定した。

「違います! な、何を…っ」

 けれど両手は左脇腹を固く抑えたまま、接着されたかのように離れない。

「し、暫くすれば…。ひとり…にしてください…」

 搾り出された苦し気な声。

 混乱した。淳の手に余る状況だった。

 言葉を探しても、自分の中にはぽっかりと穴が開いていて何も見つからない。頭が動かない。声が出ない。

 結局―――逃げ出すしかできなかった。

 





 

 

 

 

 ふらふらと屋上に出た。

 シャツ一枚だけだと、ぶるりと震えるほどには寒い。だがその寒さが頭を冷やしてくれそうで、淳は冷たい空気を胸一杯に吸い込んだ。つきんとした痛みが走るも、それは精神的なものなのか、北風によるものなのかの区別がつかない。
 昼間は洗濯物がところ狭しと揺れている屋上だが、夕刻過ぎともなれば裸の物干し台だけが寂しげにあるだけだ。物干しの台座に座ると空を見上げる。藍色の空に数えきれる程度の星が瞬いていた。

(海の音が聞きたいな)

 ここではいくら耳を澄ませても、車やバイクのエンジン音しか聞こえてこない。

(ヤバイ…なんか、マジでホームシックかも)

 たった一ヶ月しか経っていないのに、六角中学の仲間達や、その喧騒が恋しくて堪らなくなった。

(上手くいかない部活動の人間関係。合わないパートナーにロクに話さない部長。…謎だらけのマネージャー)

 脳のメモリがいっぱいいっぱいだ。

(なんか悩みが六角時代より増えてる。しかも重い)

 自分は選択を間違えたのだろうか。あのまま、皆と一緒にいたほうが良かったのではないか。
 悶々とした悩みは、誰にも打ち明けることができずに、澱のように奥底に溜まっていく。

(亮ちゃんにブチまけたい。ああ、でも携帯は部屋だ)

 どこまでも要領の悪い自分に泣きたくなった。携帯を取りにだけ、あの部屋に戻るのは気が引ける。多分、観月は今急いで自分を取り戻しているだろう。そして自分に対するいい訳を考えているに違いない。

「あああ〜、どうせいっつんだ」

 わしわしと頭を掻き毟っていると、ドアの軋む音とともに「木更津いる〜?」と野村拓也が顔を出した。

「いるよ」
「おおー、どんぴんしゃ」
「何が」
「なんだよう〜、機嫌悪いなあ」

 同じ補強組の中で、柳沢と1、2を争う能天気さで、元からの部員にも溶け込んでいる野村の登場に、理不尽にも苛立つ。

「夕食の時間だから呼びに来てあげたんじゃん。部屋にいったら観月しかいないし。そしたら観月がここにいるだろうって。ってかケンカでもした?」

 空気が読めないのか、それとも単に気にしないだけなのか。普通なら訊き難いだろう質問をあっさりとした野村は、好奇心丸出しで淳に寄った。

「してない」
「そう? 観月みたいなヤツと同室で、ケンカしないほうが不思議だと思うけど」
「云い過ぎじゃない?」
「ごめんごめん。別に悪口のつもりで云ったんじゃないけど」
「つもりでなくったって、そう聞こえたら同じことだと思う」

 いつになく攻撃的な淳に、野村は瞠目する。

「ふうん、そっか。そうだね。でもオレは誤解をちゃんと解くよ。木更津は? 云いっ放しだったら、それが真実になるよ」
「え……」
「話変える。今、柳沢が皆に謝り倒して、リビングのテレビを食事前まで独り占めしてるの知ってる?」
「柳沢が、またなんで」
「今日だけじゃないよ。ここずっとなんだけど…知らないよね。木更津は寮に戻ると食事時間まで部屋から出てこないから」

 暗に非難されていることを感じるも、意味がわからずに眉を顰めた。

「それが、な…」
「ビデオ見て研究してるんだよ。木更津のクセとか、きみのお兄さんとの試合運びを」
「……!」
「観月に頼んで、観月はコーチのツテを利用して、六角中の試合でビデオに残っているものをかき集めたんだって」
「なんで」

 いつの間にか、野村の顔から気安さが消えている。

「なんで? それを木更津が聞くの? あのさ、きみ達の試合見てて思うけど、なんで柳沢が一方的にきみに合わせなきゃいけないのかな」
「そんな事は」
「うん、わかる。木更津だって新しい環境で慣れるの必死なんだよね。いきなりコーチ付きってのも、プレッシャーだと思う。だけど、それはみんなそうなんだよ」
「…うん」
「なんかさ、オレもこういうお節介ってどうかと思うんだけど、でもただでさえテニス部内がバラバラなのに、数少ない補強組の中でバラバラだったら――次に入ってくる後輩が厭な思いすると思うとさ」

 野村は歯痒そうに、言葉を続けた。

「柳沢の家って病院経営してるんだって。そこのひとり息子だから、将来は決まったようなものらしいよ。現に中学は有名進学校だったしね」

 初めて知った柳沢の家庭の事情に、淳は後ろめたい気持ちになる。確かに、元は進学校に在籍していたことは観月から知らされていたが、どうしてせっかく入ったそこを辞めてまでルドルフ学院に来たのか、今まで興味さえ覚えなかった。

「それがなんでここに? 確かにここも大学附属だけど」
「そんなの、テニスがしたいからに決まってるじゃない」

 きっぱりと野村は答えた。

「進学校だからさ。勉強勉強で、部活なんて片手間で、真剣にやるだけ無駄って思ってる奴等ばかりだったんだって。だけど柳沢は、テニスが好きだったんだ。力いっぱい、テニスをしたかったんだって。それでスクールに通ってた所、ルドルフにスカウトされて来たんだ。団体戦や全国大会に憧れてたって云ってたよ」
「そんな事情があったんだ…」
「親を説得するのも大変で、それでもなんとか転入を果たせたんだって」
「柳沢も……戻る所無いんだね」

 観月の台詞が耳に蘇り、一緒になって自分を責めた。

 いや、責めているのは誰でもない、自分の声だ。

「うん。柳沢が必死なの、わかってやってよ。オレが云うのもおかしいんだけど。しかも勝手に人の事情喋っちゃったっし」
「ねえ、野村は? 野村はどうしてここへ」
「オレ?」

 いつものひょうきんな態度に戻ると、両肩をすぼめて「単純に都内に出たかっただけだよ」と笑い「夕飯食いっぱぐれちゃうから、もう行こうよ」と淳を促した。

 淳はそれに素直に従った。

 野村がルドルフに転入してきた理由は、勿論別にあったわけだが、ここで語らなかった優しさに気づくのは、もっと大分あとのこととなる。

 





















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