不安だらけで終わった初日だったが、いざ日常生活が始まってしまえば早いもので暦は十月を半ば過ぎていた。当初の心配は取り敢えず横に置いておき、少なくとも表面的には順調に日々を過ごしている。

 ルドルフ学院の制服もできあがり、毎朝ネクタイと格闘することにも慣れ、集団生活にもそれなりに溶け込めていた。ただ二学年の集団の中では、秋にも関わらず新入生のように真新しい制服だとやはり少しだけ浮いてしまうが、それは淳に限ったことではなかった。他特待生のメンバーもそうだし、野球部の特待生も何名か同時期に転入してきていたのである。寮生活があまり苦痛でないのも、転入生だけなので上下関係が厳しくないことが救いだった。それまで上下関係の上の字もないようなところに在籍していたのである。先輩に服従を強いられたことなどない淳は、知らず怒らせることは必至だったはずだ。しかし上下関係が稀薄なことは居心地がいいが、変わりに観月の暴君ぶりは見事なものだった。むしろ上下関係を成り立たせないように画策している節さえある。部活動で寮でと、好き勝手振舞う観月は傍から見ているとハラハラと心配してしまうほどだ。

 基本的にわがままな人間には慣れている淳は、観月と同室でそれほど苦痛だとは思わない。だが、他の人間からすればそうは見えないらしく、よく「お前大変だなあ。大丈夫か?」と哀れまれた。

「それは木更津が無口だからだーね。黙って耐えているように見えるだーよ」

 柳沢慎也が癖のある口調で、そう評した。淳は小首を傾げる。

「そうかな」
「そうだーね」

 ユニフォームに着替え終わっている柳沢は、淳が終えるのを待っているのか可動式の椅子に座ってクルクル回っていた。

「その椅子。観月が持ち込んだヤツでしょう。勝手に座って大丈夫なの?」

 週に二回ある学校での部活動参加日。部室にはチラホラとHRを終えた部員が現れては着替えている。しかし淳と柳沢には軽く挨拶をする程度で、気安く話かけては来ない。そのようなギスギスした状況にも大分慣れた。

 ――慣れたといっても気分のいいものでもないけど……。

「観月のクラスHRが長いからまだ来ないだーよ。しかし凄い特別待遇だよな観月。職員室の教師達だってこんな立派な椅子に座ってないだーね」
「半ばテニス部顧問みたいなもんだもんねぇ」
「……顧問なわけねぇじゃん」

 ボソリ、と刺のある声が上がる。柳沢と淳が声のした方に顔を向けると、二年生部員の西川と蒲原が剣呑な視線を寄越してきていた。しばし睨み合うが、相手は鼻じろむようにして部室を出ていく。緊迫した部室内に居た堪れなくなったのか、他部員もそそくさと着替えると出ていった。

「なんだーね、アレ。感じ悪〜」

 柳沢が憤慨したので、淳が抑えに回る。

「仕方ないよ。あっちにとっちゃ観月のほうが感じ悪いだろうし」
「まあな」
「もう少し、如才ないひとだと思ったんだけどなあ」
「赤澤と決定的に反りが合わないのが原因だろう。部長と上手くいきゃ、それなりに容認されると思うけど…、あれだけ『バカ澤』って怒鳴ってちゃーな」
「だねぇ。仲が悪いとは思わないんだけど」
「それは赤澤が偉大だか、本物のバカだからだと思うぞ。相手にしているようでしてないだーね」
「それで観月がまた怒っちゃうんだよね」

 テニス部の要である部長でありエースの赤澤吉朗と、補強組を任されている観月はじめ。本来ならば手に手を取って、テニス部を盛り立てる立場にいるだろうに、寄ると触るといがみ合っていた。

 ここにきて初めて知ったことだが、元からのテニス部員は補強組というものを手放しで受けいれたわけではないらしい。昨年までは普通の部活動として、初心者大歓迎の和気藹々としたものだったようだ。そのような中、学院の経営方針でいきなり特待生をいれられ、勝利し結果を残せと重圧をかけられたのである。大人の勝手な事情に振り回され、不満を持つなというほうが難しいだろう。必要なのは仲間意識ではなく、仲間を蹴倒してでもレギュラーを奪う競争心。六角中学でこのようなことを実行しようものなら、即座に猛反発を起こされること間違いない。それがわかるからこそ、淳はルドルフテニス部員の冷たい視線を甘んじて受けていた。また自分達が初めての試みということもあるのだから、じょじょに折り合いをつけていけばいいだろうと、軽く考えていたこともある。少なくとも選ばれた者として鼻にかけるつもりは毛頭無いのだ(そもそも人違いで転入してきたということもあるのだが)。ただテニスが好きなだけで、皆もテニス好きならば、いつかはわかりあえる時がくるだろうと高を括っていた。

 しかし――問題は観月だ。

 彼は自分がここにいる理由を痛切しているようで、妥協を一切自分に許さない。

 特待生は元より、普通の部員にも強要するものだから反発が生まれる。いや、専属コーチに殆どを任せている補強組よりも、普通の部員のほうが観月の当たりがきついかもしれない。

 強くなれ、練習をしろ、もっと技を磨け、貪欲になれ。

 間違ったことは云わないし、彼の作る練習メニューは利に適ったものばかりだ。

 ただしそれは喩えるならば、偏差値の高い大学を目指しているわけでもないのに、強制的に受験勉強をさせられているようなものに近い。

(観月ももっと穏便に、強制するんじゃなくてお願いしてみればいいのに)

 ただでさえ不満を持っている部員に向かって、観月は容赦ない冷笑を浴びせ、高飛車に命令する。これで好感を持たれたら奇跡だ。

「木更津、考えごとはいいけど、さっさと着替えるだーね。観月がくるぞ」
「あ、うん」

 柳沢に急かされ、着替えたシャツを折りたたむ。そこでドアが開いた。噂をすれば影である。

「――まだ着替えてないんですか」

 三年の先輩達に小憎らしいと評判の、秀麗な顔を歪めて淳達を咎めた。

「もう行くよ。それよりも今日はいつもより大分遅かったね」
「委員の当番だったんです」

 淳の問いにそっけなく答えると、観月はまずパソコンを立ち上げるために部室の奥へと向かう。柳沢はさっと椅子から立ち上がって、避けた。じろり、と観月が睨む。

「パソコンに用ですか?」
「いいえ〜」
「じゃあ、さっさと部活に行きなさい。一般部員に示しがつかないでしょう」
「はいはい、観月姫の仰せの通りだーね」
「柳沢くん」
「先に行くだーね、木更津」

 脱兎のごとく逃げ出した。彼はこうして観月を揶揄ってはさっと逃げるのがたまらなく好きらしい。

(だけど残された者のことを考えないんだよね。ってかわざとやられてたらどうしよう)

 八つ当たりされては堪らないので、自分も部室をあとにしようと淳はロッカーに制服を押し込んだ。最初は遊びでつけていたのだが、どうにも癖になってしまった赤いハチマキもきちんと巻く。

「木更津くん」
「うん?」

 部屋を出ようとしたところで呼び止められ、恐る恐る振り向いた。観月はパソコンに向かっており、横顔だけをこちらに見せている。

「柳沢くんとの仲は上手くいってますか」
「へ? えっと…まあ、上手くやってると思うけど」

 藪から棒な質問に、淳は戸惑う。

 実際柳沢はいいヤツだ。補強組として浮いてしまいがちな学校生活でも、彼は率先して輪に溶け込み、淳の存在を忘れず気を遣ってくれた。当初観月に対しても敬語を使っていた淳に(実は先輩だと勘違いしていたこともあるのだが)『観月が二人いるみたいで息がつまるだーね。タメ口でいいじゃん。ついでのサン付けやクン付けはやめるだーよ』と云ってくれたのも柳沢である。軽佻浮薄な喋り口調と態度だが、どうしてどうして彼は押し付けがましくない気配りが上手い。

「そうですか…、ならいんですけど」
「なんでそんなこと聞くの?」
「ダブルスでのコンビネーションがどうも上手くないようですから」
「…そ、そうかな」
「標準以上だとは思います。しかし…それだけでは困る。あなた達は補強組としてここにいるんですから」
「そうだね。うん、ごめん。頑張るよ」
「是非、口だけではなく、行動で見せて下さい」

 こちらを見もしない、冷たい横顔。淳はむっとするも、観月の指摘が的外れでないことは自分が一番よくわかっていたので反論しなかった。確かに、柳沢とはいまひとつ呼吸が合わないでいる。

「こえーな、観月。もうちょっと優しい云い方ってもんがあるんじゃねーの」

 いつの間に開けていたのか、ドアのぶに手をやり赤澤が入り口に立っていた。天敵に会ったかのように観月の眉が跳ね上がると、地を這う低い声を出す。

「赤澤、あなたどうしてこんな時間に来るんですか」
「え〜HRが伸びちゃってさー」

 急降下で悪くなった雰囲気を気にした風もなく、赤澤はズカズカと入室すると自分のロッカーからユニォームを取り出した。

「あなたと同じクラスの木更津くんは、あなたよりずっと前にこちらにいるようですが?」
「…ふ、実は人生という名の道に迷っていてな」
「二年間この学校に通っていて未だに道に迷うんですか。一度医者に診て貰ったらいかがですが。ついでに入院してください。僕が卒業するまで」
「お前はどうしてそう、くらったら十分は気を失っちゃうような毒を吐くかなあ」
「できれば永遠に眠っててもらえるほどの毒が欲しいんですけどね」
「わお、それで王子様のキスで目覚めるわけ? あ、オレはお姫様希望だけどさー」
「――――お前というヤツは…」

 のらりくらりと躱す赤澤に、観月の口元が引き攣る。

「じゃ、オレ行くから」

 淳はこれから始まる大噴火に巻き込まれまいと、ダッシュで部室をあとにした。外の空気を胸いっぱい吸い込み、冷や汗を拭う。

「――赤澤は大物なのか、バカなのか」

 同じクラスにも関わらず、会話など数えるほどしかしたことのない淳には量りかねた。

(どうにかならないものかなあ〜、こう険悪な雰囲気で部活って耐えられないよ)

 観月の言葉は、刃物のそれだ。

 そして赤澤は刃物を前にして見て見ぬふりをして、紙一重で躱していく。

 傍で見ていてこれほど恐いものはないし、二人の仲の悪さはそのまま元部員対補強組に反映されてしまう。

 転入時はそれでも、観月は柔らかさを持っていたし、部員達にも友好的に接する気持ちがあったのだと柳沢から聞いていた。それらがどうしてか赤澤の前では豹変し、喧嘩腰になるものだから、他部員は自然敬遠し始めたらしい。飄々と見えて人望だけはある男なのだ、赤澤というのは。ひとつ上手く行かないとなると、ヒステリーを起こす性格の観月は途中で開き直り、今となっては取り繕うことさえ放棄してしまっていた。観月が部員に毛嫌いされる原因の八割くらい赤澤のせいなんじゃないかな、と淳は考えている。

(だけど悪いことではないような気がするから不思議なんだよね。今のところ観月が呼び捨ててるのって赤澤だけだし)

 赤澤の前だけ、観月は素の自分を曝け出している――そう思うのだが。

(…でもそのせいで、オレ達が肩身の狭い思いを強いられることは理不尽っちゃー理不尽だよ。赤澤ももうちょっとオレ達のこと考えてくれないかなぁ)

 おかげで補強組の印象が益々悪くなり、溝は深まるばかりだ。観月の言動や行動は、全て補強組全員の意向だと思われてしまうからである。

(こういうの何て云うんだっけ…。ああ、呉越同舟か? …さすがにキツくなってきたけど)

 足取りも重く、グラウンドに向かう。

 今までテニスをすることを苦痛に感じたことはなかった。六角中学でどれだけ自分が自由にテニスを楽しめていたのかを実感する。その為かオジイが云っていた言葉を、この頃よく思い出していた。


『子供にテニスを教えるのは簡単ね。でも、楽しさを教えるのは難しいのよ。時間がかかるからね。特に男の子は飽きっぽいしね。楽しいと思えるのは、基礎を覚えて、試合に出れて、緊張感やプレッシャーを克服して、その先にあるものを見つけた時なのね。勝てば楽しいでしょ。でも勝つだけが全てじゃないの。それをわかって貰う為にも子供の頃から勝つだけのテニスなんて覚えちゃダメなのよ』


 観月はテニスの本当の楽しさをちゃんとわかっていると思う。そうでなければ、あそこまでテニスにのめり込まないだろう。だけど、まだまだ子供なものだから、それを同じ子供に伝える術をもっていないのだ。本当ならば楽しさを教える立場にある大人が、子供に『勝たなきゃ意味のないテニス』を強要するからこそ生まれている悲劇。

 オジイは自分に、どこでも自分らしさを失わずにいられるテニスがあると云ってくれたけれど――日を追うごとに、何かが削り取られていくのかがわかって恐かった。

 

 
















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