Travels ――布石
「―――なんで?」
「顔かな?やっぱ」
「……………」
沈黙が流れた。
「悪いけど、話が飲み込めない」
「何度も言わせんじゃねえよっ!だ〜か〜ら〜火影になれっての」
「―――だから、なんで」
「だから、顔」
「――――……」
アラシは目を瞑って痛む頭を抑えた。
出逢ってから四年。浅はかならぬ年月だが、未だに目の前の相手を理解することは困難であった。アラシは骨ばった手で自分の寝癖のついた頭を摩る。困っている時の彼の癖だ。
互いに十六となった今、少年というよりも青年の部類へと緩やかに成長している途中、アラシは里でも目を惹く存在になっていた。
一番の理由はやはり容姿だろう。
アラシの背はすくすくと伸び、体も男らしい肉付きになっているので最早誰も少女と見紛う事は無いが、その分ハッとするほどの色男ぶりである。
しかも文字通り、獅子は我が子を千尋の谷に落とすが如くの自来也の教育方針により、彼は同期の誰よりも延びていた。昨日上忍に昇格したばかりでもある。
それがいきなりどうして『火影』になれという事になるのだろうか。アラシは首を傾げずにはいられなかった。自分はまだまだ未熟で、勿論里を守るためならばどんな事さえ辞さない覚悟だが、だからといって火影など大それた夢を持った事など一度たりとも無い。
一方、「なれ」と言った男は断るなどと夢に思っていないような態度で彼を眺めていた。
「……そんな戯言よりも、聞きたい事がある。なんで君は上忍審査を受けないんだ?カグラならオレよりも早く上忍になってもおかしくないだろう」
「オレのことはどうでもいいだろう」
嫌な話題だったのか、カグラは苦い顔をした。
こちらも昔と変わらず美しい容姿をしている。華があるとは彼のために使われるべきだとアラシは常々思っていた。ただ身長も自分ほどではないがあるし、顔に似合わず粗暴な態度と言葉使いを常にしているので、少女と間違われる事はなくなってはいる。誰もがその容姿と中身のギャップに落胆の溜め息をついているのだが、どうやらそれは確信犯らしいと、アラシは知っていた。
「よくない。オレに火影うんぬん言う前に、さっさと上に来なよ。里が優秀な人材を必要としているのは知っているだろう?」
「知ってる、だからお前が火影になれって言ってるんだ。三代目も日頃の激務が祟ってか、この頃めっきり老けこんでる。未だ世界が混沌とし、あちらこちらで愚かな戦を繰り返す中。新しい柱が必要だ。初代だって、すぐに次代を作り、二人でこの里を最強たらしめた事は知っているだろう?」
「熟知しているさ…だが、何故オレなんだ。自来也先生だってツナデ先生だっている…それに、次期火影候補と最も謳われているのは大蛇丸先生ではないの?」
「……大蛇丸だと?本気で言ってるのか、アラシ」
「カグラ…?」
一気に低くなった声音に、アラシは言葉を詰まらせる。それは自分でも納得できない何かを持っているからだ。
大蛇丸。
里最強、三大忍のうちの一人だが、どうにも禍々しい雰囲気を隠しもしない男であった。
カグラが昔からこの男を毛嫌いしていたのをアラシは知っている。自来也にもツナデにも懐いているのに、大蛇丸が現れた時だけ彼は誰かしらの後ろにそっと隠れていた。
同期であるが為に、何度も行動を一緒にしたことのあるアラシは過去一度だけその不敬ともとれる行動について聞いてみた事があった。が、返答は一言「気持悪いから」と言われて、心底呆れたのを覚えている。
初夏の風が二人の間に流れた。
キラキラと光りを透かし、輝く青葉の下。木漏れ日でまだらになりながら、喬木に背を預け二人はまた押し黙った。
「―――しかし、一番の実力者だ。自来也先生でも勝てるかどうかわからないだろう…アンコが言っていたけど結構優しいところもあるらしいし…」
「どうもね…あの班の子等は洗脳を受けているような錯覚を覚えるほど、大蛇丸に傾倒してないか?」
「カグラ…っ、口を慎みなさい」
「はいはい。固いよねえ、アラシ君」
肩を竦めて揶揄する青年に、アラシはあからさまに長嘆をして見せた。
「話はそれだけか」
「そうだ、火影になれ」
「―――…人の話全然聞いてないね」
「そりゃお前だろう」
「あのね、オレは明日から暗部所属になる。こうして君とゆっくり話す暇も少なくなるんだよ。友人に対して何か激励の言葉とか無いのかい?」
「生き残れ、技を磨け、誰よりも強くなれ」
「―――カグラ」
ふいに見せた厳しさに、アラシは樹木から体を起こし青年の方を伺った。
だが、それはすっと顔を背ける事で躱される。
「お前は知らないんだ。火影となる、本当の意味を」
「本当の意味?」
「魔物に魅入られた男達さ」
「あのね…もうちょっとわかりやすく説明してくれないかな」
「お前を暗部にしてくれ、と頼んだのがオレだって言ったら?」
「……なに?」
「オレが三代目に頼んだ。アラシを火影にしたい、その為にも一番キツイと言われる暗部に所属させるべきだ…って」
鳥が遠くで羽ばたいた。
風の上昇に乗り、どこまでも高く飛ぶ。
「……何を…君は何を考えているんだ」
思いもよらない告白に、アラシは唾を思わず飲み込んだ。
「断るなら断れた筈だ。選んだのはお前だろ」
「それはそうだが…頼んだ?人事に対して何故君が口出しできるんだ?どうしてオレを火影にしたいんだ…」
そう問えば、カグラはやっとこちらに顔を向けた。初めて見る大人びた表情だった。
アラシは目を眇めて、心持ち緊張しながら言葉を待つ。
「―――だから顔」
「……あのねえ」
樹木に体を預けて、ずりずりと落ちてゆく。
「誰だ?」
カグラが厳しい声音で、盗み聞いている人物を咎めた。
その時、木々の向こうからヒョイ、と女性が顔を出す。
「密会中悪いわね。私でしたー」
「ツムギ…どうしたんだい?」
現れたのはアラシの元班員で、唯一の女性ツムギであった。黒曜石のような瞳の持ち主で、少々キツイ顔立ちをしてはいるが、これもまた文句の出ない美女と言えよう。ただしセクハラ魔の教師の下で鍛えられたがために、こちらも一筋縄ではいかぬ性格の持ち主だ。
「私も特別上忍に昇格が決まったからご報告に来たんだけどさ。何やらラブってるみたいだから後でもいいわよ」
「誰が誰とラブってるんだい」
頭を抱えて溜め息をつくアラシに、カグラは肩を竦めた。
「おめでとう、ツムギ。自来也の生徒は昇進が早いな」
「ありがと、カグラ。あんたはどうも向上心が薄いわね。また昇進試験蹴ったんだって?」
「一応中忍試験までは班員全員出ないといけないから出たけど、そもそも苦手なんだよ、試験とかさ」
「――その割には人を押し上げようとするね」
「ふっ。話は聞かせてもらったわ。カグラはあれね…将来の火影婦人というステイタスを欲しているのよ!」
「……はい?」
至極真面目に突拍子も無い事を言い放ったツムギに、眉を顰めてアラシが問い返す。
「だからー自分で働くよりも、旦那元気で留守がいい派なのよ!誰だって高級取りの夫の下で三食昼寝つきの方がいいじゃない」
「あははーわかっちゃった〜?ツムギ」
「わかるわよー、カグラ」
「オレはわからないんですが」
「頑張って高級取りになってカグラを幸せにしてやってね」
「いや、そこでポンと肩を叩かれてもね……」
どこをどうすればそういう話になるのか。女性特有の勘だけで喋っているような飛躍の仕方にアラシはただ肩を落とす。
「あのねえ。君等がそういう冗談ばかり言うから里で妙な噂が流れて、オレの所に妙な男達が宣戦布告してくるんだよ…」
「え?なに、宣戦布告?」
興味津々という態でツムギがこちらに身を乗り出す。それに釣られてかカグラも目を丸くした。
「なんだ、それ。オレも初耳なんだけど」
「女性もいたけどね。ようはカグラと付き合いたい連中が、オレとできてると思って来るんだよ…頭痛い」
同期とはいえ、同じ班でもなく仲の良い自分達が他人の目から見てどう思われているかは知らないが、誤解をしている者達が多いというの確かだろう。身を持って知らされた。
男同士の友情をそうとるというのは、一向に理解できない腐り具合だが、カグラ目当ての殆どが男という時点で仕方無いのかもしれない。それが頭痛の種なのだが。
「なんだよ、人の顔ジロジロ見て」
「いや…何で君って男にもてるのかと思って…」
「そんなの人の事言え…」
ツムギが口を挟んだ途端、慌ててカグラが続きを手で塞いで止めた。
「モガー!」
「なに?なにが?」
「なんでもねえよ、アラシ。つーかそいうい輩は放っておけよ。気色悪い」
「そういう訳にもいかないだろ。変に思いつめたような奴ばかりだったから、丁重に勘違いを解いてあげたよ」
「勘違い?」
「君なんかに懸想するという勘違い」
「……なんかってなんだよ」
「なんだろうね」
すっとぼける男の脛をカグラは力任せに蹴り上げた。
「…っ」
「あら、痛いわね。大丈夫?アラシ」
涙目になってパクパクと口を動かすも、声が出てこないところを見るとよほど痛かったらしい。
「って言うか、アンタ等がデキてるって噂の出元って自来也先生でしょ?二人が初チューの相手同士だって言いふらしてるから〜」
「…あのジジイは本当にロクな事しねえな」
吐き捨てるカグラに、ツムギは今まで聞こうとして聞けなかった疑問をここぞとばかりに持ち出した。
「ねえねえ、それで本当の所はどうなのよ。アレってただの捏造?それとも事実?」
それに答えたのは意外にもアラシであった。痛みのために目尻にたまった涙をふき取る。
「事実だよ」
「はあっ?」
あっさりと肯定したところ凄い形相でカグラに睨まれ、少々息を呑んだ。
「え、言っちゃ悪かった?でも昔の事だし、それに事故じゃないか」
「違う!初めてって…お前もか?」
「ん?そうだけど…それがどうしたの」
「だ――っ!じゃあなんであん時お前は余裕シャクシャクだったんだよっ!あんまり平然としてたからてっきり…っ」
「余裕シャクシャクって…驚いてただけじゃない」
「わかり難―――っ!」
「…大体、事故じゃないかあんなの…口がぶつかっただけでしょ。痛かったことしか覚えて無いよ」
長嘆され、少々どころか負けず嫌いの気があるカグラはカチンときた。
すっと目を細めるとツムギに目配せをする。
(やるか…)
(やっておしまい!)
カグラは新米上忍相手に、見事に意表をついて頭を掴むと、自分の方へと無理矢理もってきた。
「…え」
躱す間もなく唇を勢いよく合わされる。
身長的には差のある二人だ。アラシが不自然に腰を曲げる事を強要されて苦しい体勢だった。
にも関わらず、時が止まって暫く。
「……たっぷり十秒よ、今」
冷めた声でツムギが教えてやると、「ぷは!」とカグラが唇を離した。
「バッチリか?ツムギ」
「バッチリ、バッチリ。現像はまかせてちょーだい」
二人の恐ろしい会話に、固まっていたアラシの思考もようやっと動き出す。
「なななな……」
「と、いう訳で二人デキてる説が真実味を帯びるのでした」
「なにするんだ!カグラ!つーかツムギ、その手に持っているカメラはなんだ――っ!」
真っ赤になって怒鳴るなどというアラシを見るのは、二人揃って初めてであった。
思わずクスクスと悪魔的な笑みが漏れる。
「うふふ。噂好きのくノ一としてカメラは常備でしょう」
「もう何枚でも焼き増してばら撒いていいよ。オレの男避けになるし」
「するなあああ―――っ!」
「まあ、これで他の事に頭を悩ませることなく、暗部に行って精進しておくれ」
「将来の火影の劇的激写ね、とっといたら後で色々役立つ事間違い無しだわ」
「脅す気かっ」
「脅すなんてとんでもない。だって恋人同士のチューなんか撮ったって当たり前の風景じゃない。二人の結婚式の暁には是非この写真を使って記念皿を作って頂だいよ」
「…それはさすがに趣味が悪いぞ、ツムギ」
「……あのね、君達……」
もう何も言う気になれずにアラシは脱力。
「お願いだから変な噂を流さないでよ…。オレにだって好きな子が居るんだから…」
ふざけ始めると際限を知らない二人に、無駄と思いつつも反撃を試みた。
「好きな子〜?」
よほど驚いたのか、カグラとツムギは同時に声をあげると目を見合わせる。
「居たのか、お前」
「この年だよ…居るよ…」
あまりに愕然とした表情をされて、気色ばんだ。
「とーにかく。男にもてるカグラには同情するけど、オレまで巻き込まないでよ。じゃ、受け付けに用があるから、またね」
あからさまに溜め息をつくと、アラシは早々に立ち去った。このまま残っていれば二人のいい玩具にされるのは目に見えている。
情けないとは思うが、何もそれは自分に限ってのことではない。
他の同期の男達、そして果ては自来也だってそうだ。同期のくノ一と何故かカグラも一緒になって、いつもからかわれている。
そう思い出せばカグラという存在がとても特殊なものだという事に気づく。
男なのに、女ともしっくりと溶け込む。あの容姿だ、言葉使いさえ気をつければ女性の垂涎の的になって当たり前だと思うのだが、どうにもそういう雰囲気になっている所を見た事がない。
どちらかと言えば男性に懸想されて、迫られている姿を見る方が多いのだ。
ただ本人の性格が可愛らしいとはほど遠いがために、血迷った男共は、それはケチョンケチョンにのされているのを知ってはいるのでその点は安心しているのだが。
アラシはふと足を止めると、グイッと手の甲で口を拭った。人目がなくて幸いだったろう。その顔は先ほどまでの冷静さはどこにいったのか、真っ赤であった。
一方、残された二人は小さくなっていくアラシの背中を眺めていた。
「あー怒っちゃったかしら?」
ツムギが同意を求める。
「どうかな。知らね」
「知らねって…いいの?好きな子いるってよ」
「メデタイ事じゃねえか。十二以前は知らねえけど、奴が女に惚れてるのって初めて聞くぞ」
何でもないように言い切るカグラを横目にして、少々意地の悪い事を言いたくなった。
「そうねえ。彼に惚れてる人間の邪魔を誰かさんが片っ端からしていたが為に、彼に女の影なんかなかったものねえ」
「………」
「言っとくけど、気づいて無いのは当の本人ぐらいよ?アンタは高嶺の花だから、チャレンジ精神旺盛なバカな男しかよってこないけど、あの天然タラシったら…老若男女問わずだものね」
己の容姿にとても無頓着なアラシは、柔和で優しい態度で里の人間と接する為に、女は勿論男にも人気が高い。
恋愛感情以前に、「貴方のためらならば死ねる」という気色悪い男の軍団がいるほどだ。
それらを全て一睨みで追い払っているのが、この人並み外れた美貌の持ち主なのである。
端から見れば大変わかりやすく、しかし鈍感な二人だ。同期のくノ一はやきもきしながらも彼等を四年間も見守ってきた。
「いい加減くっつきなさいよ。それが一番楽な方法じゃない。振り回される方の身にもおなり」
腰に手をあてて命令を下すツムギの目は、しかし優しい。
カグラは申し訳なく目を逸らす。
下忍となりチームを組んだ当初。同年代で少女に対してはどうにもつっけんどんは態度を取りがちな少年達と違い、優しく自然に接していたカグラは一気に少女達を虜にしたものだ。
しかし少女達の思いを、カグラはやんわりと拒絶した。だからといって彼女達に対する態度が変わる事もなく、気づけば彼女達にとってまるで同性の友人のような立場になっている。
それはひとえに、恋愛感情に敏感な少女達がカグラの思いつめた視線の先にあるものに気づいたが故なのだが。
「でもな、ツムギ」
「なに?」
「お前等が考えてるような感情で動いてる訳じゃないんだよ。オレは別にアイツに彼女ができようとも、それこそ結婚しようとも関係ないんだ」
自嘲気味に呟かれ、ツムギは鼻を鳴らした。
「アラシだけかと思ったら、アンタも激ニブだったのね」
嘲笑してみたが、カグラは彼女等の前でだけしか見せない、気弱な笑みを浮かべただけだった。
初夏の風が薫る中。蒼天をつきぬけて鳶が飛翔した。
目で追ったのちに、直線的な日差しが景色を一瞬奪う。
数度瞬きを繰り返し、そっとアラシは細く笑んだ。
真っ青な空を見るが彼はとても好きなのだ。
光りを浴びれば、それだけで体内を洗われているようで清々しい気持になれる。
特に今の季節。緑がもっとも萌え、まるで内側から輝いているようで、いつまで眺めていても飽きない気分にさせてくれる。
火影が現在いる詰め所に向けている足をふと止めては、緑豊かな里を眺めた。この暢気な性質は、昔から自来也に苦言を言われ続けている悪癖なのだが、どうにも直りそうもない。
それだけアラシはこの里に愛着を持っているのだ。
急げと言われれば誰よりも機敏に動けるのにも関わらず、常日頃は何事にもゆったりとした態度を崩さないアラシを、カグラなんかは笑って『蝸牛』と揶揄するほどだった。
「お前は荊でさえ這う、蝸牛だな」
とは、その時の台詞である。
カグラはたまに意味深な事を言っては、アラシを見て柔らかく笑うのだった。
「アイツはいつも断片的な事しか言わないからな…困った奴だ」
そう思い返せば自分はいつも試されていたような気がする。
疑問を投げかけては、それに対してアラシがどう対処するのかをじっと伺う。違うとも合っているとも言わない。
ただ、自分がどう感じ、考えるのかを見ているようだ。
その果てにきたのが「火影になれ」宣言だとすると、彼の真意は本当に計り知れないと思う。
一介の年若い中忍が、何ゆえそのような大それた事を吐くのか。
「こら、危ないわよ!」
「……?」
どこからか女性の声が聞こえたかと思うと、いつのまにか足元に幼児がよちよちと歩いて来た。
頭の方が重い幼児は、見ている者が危ぶむほどふらふらと小さい足を動かす。転ぶか転ばないかの微妙なバランスでアラシの足元にまで来ると、ガクリと体が傾いだ。
「あぶな…っ」
「…だあ!」
手を差し出すにも、相手は自分の膝に届くかどうかの小ささである。だが、幼児は玩具みたいに可愛らしい手でアラシのズボンの裾を掴むと、そこで止まった。
幼児からしてみれば電信柱のように、高い男の顔を見上げる。マシュマロのような笑顔を向けて、至極満悦そうだ。
思わず釣られてアラシもほころぶ。
「あらあら、ごめんなさいね」
母親らしき女性が慌てて走ってきて、頭を下げた。
「歩き始めたと思ったら、もう早い早い。ちょっと目を離すといなくなるんですよ」
困ったように、しかし慈愛に満ちた表情で女性は我が子を見る。そんな様子に、アラシの胸に温かいものが満ちた。骨ばった手を幼児の脇に差し込むと、一気に持ち上げる。視線が空に近づいた幼児は「きゃあっ!」と歓喜の声を上げた。
手で触る感触の、なんと柔らかく温かいことだろう。しかも驚くほど軽いけれど、手にずっしりと生きている重みが伝わる。
「はい、元気なお子さんですね」
「ええ、ありがとうございます」
喜ぶ幼児を母親の手に託すと、当たり前だが一層喜び自ら抱きつく。母親は若い忍に一礼すると、去って行った。しかし数歩してまた立ち止まる。どうやら幼児がぐずったようだ。仕方なく下に降ろすと、幼児はまたもや危うい足取りで歩き出した。
自らの足で歩く。
こんな小さい頃から、人とは前をゆくのを切望するものなのだな、とアラシは感心して見送った。
それを、自らの歩みも遅め見守る母親。
知らず、己の顔にも笑みが浮かぶ。
「……なんじゃ、こんな所で油を売っとんたんかい」
「三代目…っ」
背後から声をかけられて、アラシは慌てて振り向いた。
そこに立っていたのは、紛う事なきこの里一の権力者である。
「人事部の方でお前がまだ手続きに来ないと困っておったぞ」
「あれ?もうそんな時間ですか」
まいったな、とアラシは悪びれなく頭を掻いて誤魔化した。
「バカモン。忍たるものが時間にだらしなくてどうするんじゃ」
「そうですね。反省します」
「…どうにも、その笑顔で言われても誠意に欠けるのお」
「そうですか?すみません」
首を傾げて、自分の顔を撫でる。そんな仕草はとても惚けたもので、彼が将来を嘱望されている若者だという事に疑問を抱かせてしまうほどだ。
「さっさと行け、バカ者」
「はい…って言うか三代目」
「なんじゃ?」
「今回の人事ですけど…カグラが何か言いましたか?」
先ほどの会話で気になっていた事を、丁度良いと訪ねてみた。三代目は瞬間目を丸くしたが、すぐに一笑に付す。
「何ゆえ人事に中忍が介入するか。人事、特に今度お前が行くところは人選に慎重さを強いられるとこぞ。決定権を持つのはワシじゃ」
「……そうですよね。スミマセン、変なことを聞きました」
「――のう、アラシよ」
「はい?」
素直にそそくさと頭を下げたアラシに、三代目は憐憫の眼差しを向けた。
「今度おぬしの出向く先は、言うなれば修羅道じゃ。優しい気性を持つおぬしには少々酷なところかもしれん」
「何を仰いますか、この里を守る重要な部隊への配属。嬉しいですよ、オレ」
そっと、もう見えなくなってしまった親子へと思いを馳せる。
「あれだけ酷い大戦のあとでも、この里は焼かれる事なくある。それは全て三代目の力によるものです。その手足になり、働く事がオレの長年の夢でした」
「……アラシ」
「オレって戦争孤児でしょ?でも寂しいなんてこれっぽちも思わなかったし、なに不自由なく暮らしてきました。貴方は父親のようにオレ達孤児に接してくれた。里の大人達もそうです。そうして、この里全体で、オレ達を育ててくれた…だから今度はオレ達が、里を守り新しい命のために戦うんです」
「義務とか…そういうものを感じて貰う為に育てている訳ではないぞ」
「わかってますよ。これは自ら学び望んだことです。――オレは、この里が大好きですから」
そう言い、浮かべた笑顔には一点の曇りも無い。
「そうか…あやつの目は確かなのかもしれんな」
「え?」
「いや…、おぬしも今や家の中で守られているばかりの子供ではない、家を支える柱だと自覚して任務に励めよ。そして、決して折れてくれるな」
力強く、そう激励されて、アラシは「はい」と神妙に頷いたのであった。
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