幼年の部、小学生の部と徒競走が恙無く終った。ほのかは二着でゴールし、どこかばつ悪気に兄の下へと戻って来た。

「二等だったよ…負けちゃった」
「でも僅差だったじゃないか。よく頑張ったね、ほのか」

 頭をかいぐりかいぐりと撫でる。

「でもくやしいよお」
「だったら次頑張ろう。悔しいって気持ちは大切だよ」

 最近では手を繋がせた状態で走らせたり、走らせても順位をつけなかったりする幼稚園などがあるらしいが、根っからの体育会系の幸村からしてみれば『何をアホなことを』をといった悪態しか出てこない。
 極端な話となるが、運動で順位をつけるのが差別ならば、テストで知能の優位を決めるのは差別ではないのだろうか。個々の能力を伸ばし、個性を尊重すると云いつつ、差別はいけない何事も平等に接するべきといった教育をする。この場合の『平等』とは、同じ教育や指導を全ての子に『押し付ける』といった意味だ。矛盾甚だしい。

 ――悔しいといった気持ちは何も悪い感情ではない。そこで相手を嫉む。己を卑下するといった感情だけに支配されないよう、周囲がフォローして、次に繋げるようにすればいいだけなのだ。

「でも、ほのかが頑張ったのはちゃんとわかってるから。えらいえらい」
「えへへー」

 そこでほのかはキョロキョロと、真田の姿を捜した。

「あれ、弦ちゃんは?」
「次の競技のために並んでるよ。ほら、あっちにいる」
「スプーンリレーだね。応援しようよ、おにいちゃん!」

 見学者を掻き分け、トラックの前まで出て行く。トラックを囲んでロープが張っており、そこから身を乗り出すようにしてほのかは声を張り上げた。

「弦ちゃんがんばれー!」

 ハンディカムを片手に、幸村は真田の姿を捜し。ズームして笑みが漏れる。

「手塚との対決が早くも実現か」

 二人揃ってしかめっ面、しかも仲良く並んで立っていた。
 隣に並んだ相手が真田だと気づいた時、手塚は心底嫌そうな顔をし、挨拶もなしに「なんでお前が居るんだ」といきなり口にした。

「それはこっちの台詞だ。一体誰の父親なんだ、お前は」
「お前にだけは云われたくない」

 年齢に関しては何度も苦渋を飲まされている同志だ。そこを突くのは互いに得策ではなかった。
 真田はげんなりと、用意されているラケットに目をやった。

「こんな所でお前と戦うことになるとはな。しかもラケット持って」
「あのガットの緩さはなんだ? まったく整備がなっていない」
「まあ、テニスをするわけじゃないからな」

 スプーンリレーとは、ラケットにテニスボールを載せ、それを落とさないようにしながら走るという競技だ。バランス感覚を必要とされるのだが、真田や手塚からしてみればラケットに球が乗っていたら打ちたい衝動に駆られて仕方ない。

「なあ手塚よ」
「なんだ」
「スタート地点で、遠くに打って。走って受け取ってゴールは反則なのだろうか」
「…反則かは知らんが…顰蹙を買うとは思うぞ」
「そうか。やはり地道に走るか」

 並ばされている集団に目をそれとなくやれば、若い父親や中年にさしかかった父親などがヤル気満々でいた。真田は困惑気味に手塚に耳打ちをする。

「手塚…もしかしなくとも、中学生なんてオレ達くらいじゃないか?」
「だろうな…」
「その…全力出していいものなのだろうか」
「オレは悪いが勝たせてもらうぞ。不二がえらく勝ちに拘っているんだ」

 どこか顔色の悪い手塚が、そっと指し示した箇所に視線をやれば、不二がにこやかに手を振っていた。

「…いいか真田。ウチの大石の胃痛の原因。7割はアイツだ」
「ウチの赤也も大分恐怖を植え付けられたみたいだからな。心中察する」

 察せられた手塚だが、他校の生徒に云われると少しばかり腑に落ちないのは何故だろうか。

 ――パンッ!

 スタートの合図を知らせるピストルの音が響いた。第一グループが走り出す。会場に流れる音楽も《天国と地獄》に変わり、一斉に声援があちこちから上がった。

 一応見た目の年齢順で並ばされており、どうやら中高年から走っているようだ。とりあえず最後のグループに並ばされたことにより、手塚と真田はそっと安堵の息をつく。

 五十代らしき男性陣が、ラケットを手に球を落とさぬよう四苦八苦しながら走る図は、本人達の必死さをよそにどうしても笑みが漏れてしまうものだった。数歩走っては球が地面に転がり、それを追いかけてはコースから外れる。しかも、一度落ちた球は手で拾ってはいけないルールで、普段ラケットなどを持っこともないようなオジサン達は、もはやラケットの先で転がしてゴールを目指していた。

「……ラケットが壊れるぞ」
「不二が出たがらない理由がわかった」

 手塚は朝の会話を反芻する。

『じゃあ、手塚は僕にオヤジどもと一緒に競技に参加しろっての?』

 必死になっているお父さん方には悪いのだが、若者の動きと何が一番違うといえば、機敏さに著しく欠けるのである。それだけで思春期の子供からしてみれば、目を逸らしてしまいたくなるような羞恥心を覚えてしまうのだ。――忘れられがちだが手塚と真田は思春期真っ只中である。

「…この中でオレ達が入るのはやはり反則な気がするな」
「ああ…」
「おいおい、青組みさんと赤組さんは余裕だなあ」
「んなに自信あるんっすか? 云っておくけどオレも負けないっっすよ」

 隣に並んでいた他チームのお父さん達が、苦笑しながらも二人を睨んだ。緑のハチマキをしているのは、見事に日に焼けた浅黒い肌に、盛り上がる筋肉を持つ二十代半ばの男で、白いハチマキをしている方は、三十代近いがすっきりとした身のこなしの男だった。

「オレ外の仕事だからよ、体力には自信あんだよね。しかもこの中では絶対一番若いっすよ。ウチの娘がすげえ応援してっから負けられないんっすよね」

 浅黒い肌の男が、にやりと笑う。真田と手塚は絶句した。

(……娘持ちで中学生より若いわけあるか!)

(この中で一番若いのはオレだ。まだ十四だぞ)

「若けりゃいいってもんでもないですよねえ。オレは趣味がテニスで、未だに時間見つけてはコートに立ってますよ」

 今度は白組の男が同意を求めて、二人に向かって口端を上げる。

(若いというよりまだ子供の年齢だ)

(同意を求められても頷けられるわけがない)

「お、そういやウチの息子が云ってましたけど、赤組の強力スケットってあなたですか?」
「息子さん?」
「リョウって云うんです。どうやらおたくの組の女の子が好きなようでね。今日はいい所を見せるんだって張り切ってるんですよ」
「ああ、リョウくんのお父さんですか」

 真田に威勢良く啖呵をきった少年を思い出した。自慢の父だと云うだけあり、確かに三十代といえども引き締まった体をしている。
 挨拶を交わしている最中にも第二、第三と走者はゴールし、真田達の番が回ってきた。ラケットと硬球を手渡され、スタート線に立つ。

「がんばれー!」

 子供の甲高い声援が、ざわめきの中に際立った。央の声だと気づいた手塚が目をやれば、少年を抱き上げた不二が手を振っている。

「…奥さん若いっすね」

 緑組の男が感心したように、不二を凝視し「しかも可愛い」と評した。手塚は一瞬誰のことを云っているのかわからなく、考えあぐねていると「よーい!」審判の声が上がり、慌ててラケットに球を乗せる。

「スタート!」

 乾いた音が空気を裂いた。

 一斉に走り出す。ラケットの球を落とさないように注意しながらなので、全力疾走はまず無理だ。

 ――が、真田と手塚は違った。

 声援が歓声に変わる。

 一緒にスタートしたはずの他の父親たちは、あっという間に小さくなっていく二人の背中に唖然とした。

 勿論、真田と手塚だとて全力で走っているわけではない。だが、そもそも手元など見なくとも球など落とさないで走れるのだから、速いに決まっているのだ。
 手塚と真田の一騎打ちとなった。ほのかと央がここぞとばかりに声を張り上げる。
 ゴール寸前まで並んだ二人だが、真田のガットがあまりに緩すぎたせいで、球が意図せず後ろに弾んでしまった。ゴールテープを切った瞬間の出来事だった。急に止まれるわけもなく、勢いそのままゴールしてしまう。そして球が飛んで来たことに、手塚は反射的に腕を伸ばしその球をラケット上でキャッチ。二つの球を器用に操ってゴールした。

 ゴールテープを持っていた審判が目を丸くする。二人も遅まきながら、戸惑いがちに目を合わせた。

「…お前がオレの球を持ってゴールしてどうするんだ」
「思わず…」

 次いで白、緑、黄といった順でゴール。口々に「凄いな、アンタ達」「速い、何かやってるのか?」などなど健闘を称えられる。

 それらを曖昧な笑みで躱しながら、話し合いを続けている審判達の判決を待った。

「えー判決ですが、ゴール上にてボールが跳ねたのを踏まえ、同率一位とします」

 青組と赤組から、わっと拍手が起こる。

「次は負けないっすよ」
「白も簡単には負けないからね」

 他の組の二人と別れ、真田と手塚もそれぞれの陣営へと足を向けた。

 途中で応援をしてくれていた幸村とほのかと合流。ほのかは興奮に頬を染め、飛びついてきた。

「弦ちゃん、カッコいい!」
「アバウトな判定で助かった」

 決まり悪そうに答える真田に、幸村は口に手を当てながら「お遊びの運動会だもの」と笑う。

 そのまま二人連れ立って、赤組の陣営に戻れば拍手で迎えられた。大人達に期待に満ちた眼差しを向けられ、改めて負けられないなと追い詰められた真田だった。

 一方、手塚の方も似たり寄ったりで、唯一違うところと云えば、奥さん扱いを受けた不二まで羨望の的になった所だろう。

「あのう…僕は……」
「ねえねえ、旦那さん一体なんのスポーツなさってるの?」
「まだお子さんいないんでしょ? 新婚なの?」

 どんなに若くとも、子供を持つ母親たちの勢いは、若者のそれとは違う強引さがある。

(ヒトの話聞いちゃいないね)

 どうせこれから付き合っていかなきゃいけない人たちでもない。不二はさっさと諦めて、適当に相槌をうちつつ濁した。

「ねえねえ、手塚さん! すごいね! 速いね!」

 いつも誰かの影に隠れて窺っていた感のある央が、嬉々とした表情で手塚のジャージの裾を掴んだ。

 兄弟もなく、幼子との付き合いなどあるはずもない手塚は、その小さな手がとても不思議なもののように感じた。柔らかく温かい。同じ生き物とは思えない。
 腰を落として目線を同じくすれば、キラキラとした眼差しをまっすぐ注がれる。自然、笑みが口元に浮かんだ。

「次も頑張る」
「うん!」

 それらの遣り取りを目敏く観察していた奥様方は、うっとりとしながら「早くお子さん欲しいんじゃない」などと不二に勧めた。不二は力無く「はあ」としか答えられない。

 自分が嵌めたはずなのに、何故だかドツボに嵌った気分の不二だった。





















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