青のハチマキを手渡されて、硬直する。

 何ゆえこのような場所で、このような物を手渡されるのかまったくもって理解ができなかった。

「―――不二」
「なにさ」
「訊ねるが」
「うん」
「ここは何処だ?」
「神奈川県だよ。電車に乗って多摩川越えたじゃない」
「それはわかる。だが、ここは何処で一体なんのイベントなのかと聞いているんだ」
「〇〇小学校の校庭で、今日は運動会だよ」

 あくまで問われたことにのみ答える不二に、必死で冷静を保とうと思っていた声音が荒れた。

「不二!」
「あー怒らないでよ。ちゃんと説明するから、手塚」

 ね? と、可愛らしく首を傾げる相手に、眉間の皺が深くなるのは何も今に始まったことではない。常日頃から何を考えて生きているのかさっぱりわからない生き物を前に、諦めにも似た溜め息が零れた。

 朝早く、手塚家を訪れた不二は、ちょっと付き合ってくれないかな。と、強引に手塚を連れ出した。軽く運動するからジャージに着替えてと云われたっきり、詳しい説明も無いまま神奈川まで連れて来られてしまったのだ。

「まずはこの子の紹介から。自己紹介できる?」

 不二の後ろに隠れるようにしていた少年が、こくんと頷く。先ほど、この学校の前で合流した子供だ。

「田辺 央です。はじめまして」
「僕のイトコだよ。五歳なんだ。可愛いでしょ」

 云われてみれば、確かに不二と顔立ちが似ている。ただし、こちらは人見知りが激しいらしく、ちらちらと手塚を仰ぎ見ては顔を俯かせた。

「今日はね、この子の住む区内での合同運動会なんだよ。央はそれはそれは楽しみにしていてね。リレーの選手にも選ばれたんだよ」
「ちょっと待て連合運動会? 小学校の運動会じゃないのか」
「この子まだ幼稚園児だよ。今日は地区対抗の、子供から大人までを交えた運動会なんだって。会社の運動会に近いかもね」
「そうか、それで年齢様々な参加者が居るんだな」

 そして子供達の体操着までもが様々だ。色々な学校の子が参加しているのだろう。

「でさ、楽しみにしてたんだけど…。昨日、ずっと病気のために入院していた大叔父さんが昏睡状態に陥ってしまって、今日ウチの親と央の両親がお見舞いに行くことになったんだ」
「それは大変だな。お前はいいのか?」
「まあ、大叔父だし。それに遠いんだよ、泊りがけじゃなきゃ無理だから。まあ、僕はいいよ。姉さんもいるし、一人で留守番できない年でもないから。でも央は違うじゃない?」
「そうだな、五歳じゃな」
「でもリレー頑張るために練習までして、とっても楽しみにしてたんだって。だからさ、央をウチで預かって今日は保護者代わりに付き添いなんだよ。運動会を見守って、そのままウチに今日は泊まるんだ」
「そうなのか…。がんばるんだぞ、央くん」
「うん」

 緊張しているのか、ぎこちない笑みを浮かべると、不二の後ろに隠れてしまった。

「そこでお願いなんだけど」
「そうだな。そこでお前の話が終わる訳がないんだな」

 手塚の精一杯の嫌味も、不二は軽く笑んで流す。

「今日一日、央のパパになってね」
「―――は?」

 パパ? しかも何気に命令系だった。 

「央だけじゃなくて、央の父親――僕にとっては叔父さんなんだけども出る競技が決まってたんだよね。しかも運動神経いいからさ。地区の期待の星だったんだって。それがいきなりキャンセルになっちゃったでしょ? 叔父さんにピンチヒッター連れてきてくれって頼まれちゃってさ」
「ちょっと待て。お前が、頼まれたんじゃないのか?」
「あははは。僕じゃ子持ちに見えないって」
「いや、そういう問題か? 別に父親に見えなくったって変わりにはなれるだろう」
「問題あるよ。じゃあ、手塚は僕にオヤジどもと一緒に競技に参加しろっての?」

 どこまでもオレ様な不二の物云い。しかもその正しさを疑ってもいないような態度だった。

「オレならいいのかっ!」
「溶け込めるよ。その為の人選だもの。タカさんと手塚。これでも悩んだんだよ。タカさんならきっと喜んで手を貸してくれるだろうなあーとか」
「だったら河村に頼め」
「でもタカさん、休日は店の手伝いで忙しいみたいだから。邪魔はできないよ。その点手塚は、休みの日なんてテニスしてるか勉強してるかでしょ」
「なんだその二者択一は」
「じゃあゲームしたり、秋葉原を散策したりするわけ?」
「だからなんなんだ、その二者択一は!」
「あーもー、とにかくここまで来てグダグダ云わないでよ。ほら、挨拶に行くよ。近所付き合いの第一印象は大切にね」

 渋る手塚の腕を掴み、央の住む町チームの陣地へと引っ張っていく。

「おはようございます。田辺です。今日はよろしくお願いします」

 人の良さそうな婦人が「ああ、央くんの。おはようございます。話は聞いてますよ。私は町内会長の高梨の妻です」と朗らかに相手をしてくれた。

 そしてチラリと不二の隣に立つ手塚を見て、頬を一瞬にして染める。

「あら、ステキな旦那さんですね。今日は4競技に出て貰うんでよろしく」
「よろしくお願いします」

 ――旦那って。一体どういう意味での旦那なんだろう。

 不二と手塚、揃っていやな予感がしたものの、改めて否定する機会を逃してしまっていた。央と同じ幼稚園だという、子供達の親が「今日は勝ちましょうね」と口々に健闘を称えにきたからだ。

「田辺さんの強力なスケットって聞いてたから、頼りにしてますよ」

 町内会長直々に肩を叩かれてしまっては、手塚ももう逃げるどころではない。

「微力ながら、尽力を尽くさせて頂きます」

 そう答える意外何が云えようか。

 地区ごとに分かれて敷かれてある、広い青い敷物の上に不二は荷物を置いた。中には姉に作って貰った弁当が入っている。

「周お兄ちゃん」

「なんだい」

 困惑気なイトコに、不二は惜しみない笑みを向けた。既に実の弟には『兄貴』と可愛気ない呼ばれ方をしているので、お兄ちゃんと呼ばれると面映いのだ。

「あのお兄ちゃんが、リレー走ってくれるの?」
「そうだよ。手塚って云うんだ。中学テニス界のトッププレイヤーだ。足速いよ」
「え…ウソ」
「嘘じゃないよ」
「中学生なの…あのお兄ちゃん」
「ああ…うん。そうだよ」

 ――手塚、相変わらず不憫な。

 同情するだけならタダなのでいくらでもできる不二である。そして我が人選に誤りなし、と一人頷いた。

「おーい、央」
「陽ちゃん。おはよう」

 陽ちゃんと呼ばれた少年が、いやに真剣な面持ちで央に突進してくる。

「たいへんだぜ、央。ほのかの、よくいってた結婚するなら弦ちゃんの、弦ちゃんがきてる」
「え! どこにっ」

 まるで重大事件でも起きたかのような、二人のやりとりが面白くて不二は聞き耳を立てた。

「あっちにいっしょにいる」
「ど…どんな子なの?」
「んと、こわい顔したおっちゃんだったよ」
「おっちゃん!」

 何に対しても控えめな央が、珍しくも大きなリアクションで受けた衝撃を表す。

「ほのかちゃんは、オヤジしゅみだったの」
「かもしんねー。いっしょに見にいくか」
「うん」

 頷くと、央は不二を振り返り「ちょっといってくる」と断って走り出した。不二はそれを見送ってから、噴出す。

 地区の奥様方に捕まっていた手塚が、ようやっと不二のもとへと戻ると訝しげにその様子を窺った。

「なにかあったのか?」
「いやいや。五歳児の恋愛も大変だなと思ってね」
「五歳児の恋愛?」
「大変だよ手塚。キミ、このままいくと五歳児以下だ」
「―――説明する気がないんだな」
「して欲しいならしてあげる」

 不二の背後に、某有名ガキ大将が浮かんでいるのが見えた手塚だった。

 

 

 



 央と太陽がほのかのもとへと辿り付いた時。ほのかは真田の膝の上に座り、ひとしきり甘えている最中だった。

「ほのかちゃん!」
「あー、央くんと太陽くんだ」

 小さく白い顔に、大きな黒い目。ふたつに結った髪型もよく似合っており(…可愛いなあーほのかちゃん)と、央は胸が高鳴る。しかしそれは一瞬にして萎んだ。ほのかが懐いている男を見たからである。央はほのかの父親の顔を知っていたので、すぐにその男が『弦ちゃん』なんだろうとわかった。

「ほのかちゃん。その人だれ」
「弦ちゃん。かっこいいでしょ。足もはやいんだよ。ぜったいウチが勝つんだ。ねー弦ちゃん」
「はは…頑張るとも」

 どこか目が虚ろな男の顔を、央はじーっと観察する。手が大きい、躰も大きい。顔からしても強そうだ。

 しかし、しかし。

「オヤジじゃねえか!」

 央は焦った。考えたことをそのまま口にしてしまったのだろうかと。

 だが横に突き飛ばされるようにして、それまで立っていた場所を奪われたことにより、第三者の暴言だと気づいた。

「ほのか、おまえ趣味わりーぜ!」
「いきなりなに、リョウくん」

 仁王立ちで現れた少年は同じ幼稚園のリョウである。央とは正反対の性格で、同じ組のほのかに好意を寄せているライバルでもあった。

「んなオヤジよりも、ぜんぜんオレのほうが将来ゆーぼーだしカッコイイじゃんか」

 その自信は果たしてどこからくるのだろうか。胸を張って宣言するリョウに、ほのかはとても冷めた目を向けた。

「弦ちゃんのほうがずっとずっとカッコいいもん」

 突然勃発した五歳児の恋愛バトルに、仰天したのは何を隠そう真田である。

(最近の子は進んでいるのだなあ。これもテレビやゲームの影響なのだろうか)

 自分自身も最近の子供である自覚が皆無な感想を浮かべていると、ほのかは少しだけ考え込むように黙ってから口を開いた。

「ほのかの理想は、お父さん並の甲斐性と弦ちゃん並の男らしさを持ったひとだもん。」
「ほ…ほのかちゃん…?」

 自分を引き合いに出されたことにも驚いたが、口調がそれまでのほのかのものと一変したことに疑問を抱く。それを解決するが如く背後から「よくできました」と答えが上がった。

「うんー。ほのかはね、年収800万以上、海外勤務なしの、誠実で妻ひと筋の夫をもつんだよ」
「ほのかは賢い子だね」

(――お前の教育か幸村……)

 妹の頭を撫でる幸村に、兄バカの本性を垣間見た気がした。

「あ、お兄さんおはようございます」

 先ほどまで小憎らしい態度だったリョウが、幸村の出現に背筋を正す。他、少年二人も同様だった。

「おはようございます」
「おはようございます」
「おはよう。――それよりリョウ君。オレは君のお兄さんになった覚えはないよ?」

 子供にまで容赦の無い、王者立海の部長である。

「う…精市さん」
「それより、もう始まっちゃうよ。それぞれの場所に戻りなさい」

 幸村は優しく微笑んで、妹にたかる悪い虫を追い出しにかかった。そこに「央、始まっちゃうよ」と、一人を迎えに来たらしい呼びかけが届き、真田と幸村はぎょっとする。迎えに来た顔に見覚えがありすぎたのだ。

「ふ…不二」
「あれ…真田と幸村なんでこんなとこに居るの」
「それはこっちの台詞だ」

 今年より頭角を表した東京の代表校。関東大会では惜しくも破れた青学の選手の登場に、二人は驚きを隠せない。

 不二はふっと、真田とその膝に乗る幼女に目をやり開眼した。

「……やはり真田は年齢を偽っていたんだね…」
「アホか! オレは正真正銘の十五歳だ! 十歳で子供が産ませられるか!」
「子供って産ませるものなの? どうやって?」

 素朴な疑問が空気を凍らせた。必殺パンチを繰り出したのは、勿論ほのかである。

「そ…そ…それは…」

 顔を真っ赤にして、どもる真田に、賢いほのかは『聞いてはいけないことなんだな』と納得。即座に問いを撤回した。

「いいよ。小学校いったら習うとおもうから」
「う…うむ」

 不二はほのかの気遣いに感心する。

「賢い子だね」
「オレの妹だ。ほのかっていうんだ」
「幸村の? そうか、可愛いね。ウチは弟しかいないから、羨ましいよ」
「弟も可愛いんだろ?」
「まあね。でも、ウチは年子だからさ。近頃はまったく可愛気がなくなっちゃった」

 肩を竦める不二だが、その弟溺愛ぶりは全国区で有名だ。

「それで、央くんとは?」
「僕のイトコだよ」
「央くん、不二のイトコだったんだ」

 好きな子の恐いお兄さんと、自分のイトコが知り合いだったことが判明してからというもの、央はオロオロと視線を泳がせっ放しだ。

 一方不二は、央の思い人が幸村の妹だということに気づき、世間って狭いなあ、と面白がった。

「なんだ、央ってば面食いなんだな」
「周お兄ちゃん…!」
「ねえ、ほのかちゃん。ほのかちゃんのタイプってどんなのだい?」

 余計なお世話を承知で、不二はほのかに問い掛けた。単に幸村の反応が見たかっただけなのだが、隣では可哀想なほど央が真っ青になっている。
 ほのかはもう一度、兄に教わった台詞を復唱した。

「お父さん並の甲斐性と弦ちゃん並の男らしさを持ったひとで、年収800万以上、海外勤務なしの、誠実なひとだよ」

 予想意外の徹底兄バカ教育ぶりに、不二は幸村を見つめる。気持ちはわからなくもない。

 しかしこの場合、可愛いのは他人の妹よりも、血を分けたイトコだ。

「そうかー具体的だね。でも、ウチの央もけっこうお買い得だと思うよ、ほのかちゃん」
「央くん?」
「そう。今日のリレーでも頑張るから応援してやって」
「んー。でもリレーには弦ちゃんでるし。弦ちゃん応援するよ」
「そうか…」ふむ、と一考。央の背を力強く叩く。
「弦ちゃんに勝てばいんだ。央」
「え…!」

 央は失神しそうなほど顔色を失った。

「大丈夫。勝てる勝てる。ウチには強力なスケットさんがいるんだから」
「……聞き捨てならないね。不二」

 キラリと幸村の双眸が光る。

「聞き捨てならないのは、弦ちゃんって呼んだこと? それとも勝利宣言したこと?」

 前門の虎、後門の竜。間に挟まれてしまった真田は魂が抜けかけた。二人の間に散った火花で、火傷しそうなほどの緊迫感が渦巻く。

「不二…キミは案外面白いヤツなのだな」
「ふふふ、初めて云われたよ」

 雷に打たれたように硬直する少年達だったが、リョウだけがふてぶてしい態度を復活させる。

「いっとくけど今日はウチの勝ちだからな。オレのパパは強いんだから。その弦とかにはぜったい負けないんだからな」

 そして幸村と不二の顔を見ないようにして、今度は央に躰を向けた。

「もちろんお前んとこにもぜってー負けねえから!」

 ここで央は意を決して、その挑戦を受けた。

「ま…負けないもん。うちだって、強いんだからー!」
「うちだって強いやい!」
「なあーもう戻ろうぜ。始まっちゃうよ」

 火花を散らす二人の間に、太陽が割って入る。正直、この場に長居はしたくない。

「じゃあ、競技でね」

 不二はにっこりと幸村の前から央の手を引いて去って行った。

「――強敵が現れたね」
「…いったいなんなんだ」

 真田、翻弄され呆然。

「少年たちはほのかと同じ組の子達だよ。ほら、ほのか可愛いじゃない? 今からモテモテで、兄としては心配ばかりだよ」
「えーそんなんじゃないよーおにいちゃん」

 妹は照れたように、頬を膨らました。

「しかし…今からほのかちゃんに、変な台詞を教えるのは感心せんな。不二も変な顔をしてたぞ」
「不二はとりあえず置いておけ。いいか? 来年には小学生だよ。どこで変な男に引っかかるかわからないじゃないか」
「しかしな、反対に、お前の結婚相手をそのように決め付けられたら嫌だろう?」
「押し付けてるわけじゃなくて、今の内に見る目を養ってるんだよ。養った上でほのかが選んだ男なら、断腸の思いで認めるとも」
「見る目って…」
「とりあえずウチの部にはそれなりに見目イイのが揃ってるからな。会わせては理想を高くしてやるんだ。あははは」
「幸村」

 リハビリがてらに、テニス部に顔を出したことが一度ならずともある幸村だが、何度か妹も一緒だった。その理由を今更ながらに知り、真田は(妹を持つとはこうゆうことなのだろうか…)間違った認識を持つ。

「ちなみに真田、蓮二、柳生あたりを見せておきゃ大丈夫かな、とは思うんだけどね。仁王、ジャッカル、丸井はダメだ」
「酷いことを云うな。まあ、仁王、丸井あたりはわからないでもないが」
「ジャッカルも別に悪いヤツじゃないんだけど、外国人と結婚して、外国在住になったら寂しいじゃないか」

 もはや二の句もない。

「ほら、精市。兄バカやってないで、プログラムくらい目を通しなさいよ。はい、真田クンにも」

 運動会の運営委員であるという母親は、ようやく戻ってくるとプログラムをそれぞれに手渡し説明を始めた。

「真田君の出る競技には丸つけておいたから。アナウンスで一応呼びかけるけど、その二つ前の競技には集合してね」
「はい」

 青い紙に書かれたプログラムでは、所々で子供会の踊りや、小学校のブラスバンド部の演奏などが書いてあり。殆ど普通の運動会だった。ただ、子供から大人までの参加なので、親子で遊べる競技なども多々用意されている。

「オレが出るのは、スプーンリレー、追っかけ玉入れ、綱引き、借物競争とリレーですか」
「そうなの。ちょっと多いんだけど、そんなに大変な競技でもないから、普通に楽しんでね。ちなみに追っかけ玉入れはほのかと一緒だから」
「ほのかちゃんと?」
「籠を背負った子供を背負って、その籠に玉を入れるの。沢山相手チームの子供の籠に玉が入ったら勝ち。玉は色分けしてあるのよ」
「じゃあ、オレはほのかちゃんを背負って、逃げたり敵に近づいたりするわけですね」
「そうそう。面白そうでしょ? んで精市。アンタもせっかく来たんだから手伝いなさい。昼休みが終る前に、そこの昇降口から中に入って、一年三組の教室に来るのよ」
「え…何すんのさ」
「あ、開会の挨拶始まっちゃう。じゃあ、またあとでね!」

 幸村母はダッシュで本部へと走り去っていった。

「忙しそうだな」
「ああいうのが好きな人なんだよね。おかげで、オレか祖母が付いてこないと、ほのかが一人っきりになっちゃうんだよ」

 幸村の母は幼い頃から合気道を嗜み、今では段持ちの上指導員の資格も会得している程の腕前だ。そのような猛者とは思えない程可憐な容姿の為、若い頃はそれこそ寄って来る男を千切っては投げ千切っては投げの青春時代を過ごしていたらしい。そんな彼女は根っからの体育会系だった。幼い娘は兄に任せておけば安心と、イベントの裏方を嬉々としてこなしている。

「なるほど。優しい兄を持って幸せだな、ほのかちゃん」
「うん!」
「しかし…気になるよね。不二、スケット頼んだとか云ってたくらいだから、他にも青学が来てるのかな」

 真剣な面差しで考え込む幸村に、真田は答えを教えてやる。

「手塚だろう」
「え…なんで?」
「さっき見かけたから」

 やはり他人の空似ではなかったらしい。と、真田は一人納得した。

「見かけたって…なんでその時教えてくれなかったんだい?」
「いや、確信が持てなかったのだ。すぐに見失ったし」
「……そうか、手塚か…。手強いな」
「テニスではそうかもしれんが、子供背負って玉入れだぞ?」

 はっと、幸村は顔を上げると、母の荷物を漁り始める。

「それは、思い出を残しておかないとね」

 今までに見たことのないほど楽しそうにハンディカムを取り出す幸村を目撃し、真田はそこで初めて、不二の趣味がカメラだったことを思い出した。

 真田が己の身の危険を感じていた頃、満面の笑顔で戻ってきた不二に、手塚はどこか嫌なものを覚えながら迎えていた。右手には央、左手には太陽を繋いでいるが、対照的に二人の顔色は冴えない。

「面白い人物とであったよ」

 開口一番がそれだった。

「面白い…? 誰だ」
「立海大附属の真田と幸村」

 出された名前に手塚は驚く。それに気をよくしたのか、不二は声を上げて笑った。

「本当にびっくりだよね。幸村の妹の付き合いみたいだったよ。むこうもまた絵に描いたようなパパっぷりで!」

 幼少のみぎりから知っている真田の、それしか浮かべられないような仏頂面でいるだろう姿を想像する。

「ねえ、手塚」
「なんだ」
「負けないでよ」

(やはり命令なのだな……)

 どこか諦めにも似た溜め息が口から漏れた。

「手塚の雄姿は僕が責任持って、思い出に残してあげるから」
「遠慮しておく」

 即答するも、不二がまったく聞いて無い事は短くも無い付き合いでわかっていた。手塚が視線を逸らせば、落ち着きなく顔を動かし誰かを捜している太陽に気づく。

「ああ、すまなかった。太陽くん、お母さんは忘れ物を取りに行くとかで、一度家に戻ったんだ」
「おかあさんが…?」

 小さい体が強張った。

「どうした」
「あの…戻ってくるんだよね?」

 不安そうに少年は眉を顰める。手塚は母親がいきなりいなくなったことで心配しているらしい太陽の頭を撫でてやった。

「当たり前だ。すぐに戻ってくるさ」
「………うん」
「陽くん、きょうは陽くんのパパも来ないの?」

 央が首を傾げる。

「来るよ!」

 途端、声を張り上げた。央がびくりと体を揺する。

「来るよ。絶対来るよ! 約束したんだもん…っ」

 しかし最初の威勢はさっと身を潜め、語尾は口の中で呟くくらいのものとなっていた。まるで自分に云い聞かせるように「来るんだ」と足もとを睨む姿に、手塚と不二は顔を見合わせる。

「そうか、早く来るといいね」

 励ますように、央が手を取った。こくんと頷く太陽と一緒に、二人は同じ地域の友達が身を乗り出している最前列へと移動する。開会式が始まったのだ。

「……お父さんも大変だねえ」

 ぽつりと不二が感想を漏らした。

「仕事だとか、用事だとか子供には関係なく。一番守らなきゃいけないのが、自分との約束なんだものね」

「そうだな」
「ねえ、手塚はあれくらいの時どんな子供だったの? やっぱりお父さんに駄々こねてたりしてた。想像つかないけど」
「――いや、ウチは祖父が厳しいからな。あまり甘えた記憶はない…あったな」
「え、なになに。どんなことで?」

 記憶の倉庫を捜している最中に、思わず古い箱を開けてしまい口に出したのが運の尽きだった。不二が興味津々と飛びつく。

「別にたいした話でもない。小学校の頃に、山登りの約束を父としていたんだが、やはり仕事で反故になったことがあってな。忙しい父だから、そのようなことはそれまでも何度かあったんだ。だが…何故かその時は許せなくてな」
「第一次反抗期ってヤツ? で、どのような報復に出たわけ」
「報復…。そんな事するか。そういうお前はどうなんだ」
「僕? ないよ、昔から大人しい子供だったし。父親も外国と日本行ったり来たりの忙しいヒトだもの」
「昔から……?」
「そう昔から。それに、どちからというと弟の反抗期の方が早くてね。僕はいつも宥めるほうだったんだよ」
「なるほど」

 頭上からアナウンスが降ってきた。

《幼年の部。かけっこに参加するお子様は青の門の前にお集まりください》

 

 

 









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