|
青のハチマキを手渡されて、硬直する。 何ゆえこのような場所で、このような物を手渡されるのかまったくもって理解ができなかった。 「―――不二」 あくまで問われたことにのみ答える不二に、必死で冷静を保とうと思っていた声音が荒れた。 「不二!」 朝早く、手塚家を訪れた不二は、ちょっと付き合ってくれないかな。と、強引に手塚を連れ出した。軽く運動するからジャージに着替えてと云われたっきり、詳しい説明も無いまま神奈川まで連れて来られてしまったのだ。 「まずはこの子の紹介から。自己紹介できる?」 不二の後ろに隠れるようにしていた少年が、こくんと頷く。先ほど、この学校の前で合流した子供だ。 「田辺 央です。はじめまして」 「今日はね、この子の住む区内での合同運動会なんだよ。央はそれはそれは楽しみにしていてね。リレーの選手にも選ばれたんだよ」 そして子供達の体操着までもが様々だ。色々な学校の子が参加しているのだろう。 「でさ、楽しみにしてたんだけど…。昨日、ずっと病気のために入院していた大叔父さんが昏睡状態に陥ってしまって、今日ウチの親と央の両親がお見舞いに行くことになったんだ」 緊張しているのか、ぎこちない笑みを浮かべると、不二の後ろに隠れてしまった。 「そこでお願いなんだけど」 「今日一日、央のパパになってね」 パパ? しかも何気に命令系だった。 「央だけじゃなくて、央の父親――僕にとっては叔父さんなんだけども出る競技が決まってたんだよね。しかも運動神経いいからさ。地区の期待の星だったんだって。それがいきなりキャンセルになっちゃったでしょ? 叔父さんにピンチヒッター連れてきてくれって頼まれちゃってさ」 どこまでもオレ様な不二の物云い。しかもその正しさを疑ってもいないような態度だった。 「オレならいいのかっ!」 「おはようございます。田辺です。今日はよろしくお願いします」 そしてチラリと不二の隣に立つ手塚を見て、頬を一瞬にして染める。 「あら、ステキな旦那さんですね。今日は4競技に出て貰うんでよろしく」 ――旦那って。一体どういう意味での旦那なんだろう。 「田辺さんの強力なスケットって聞いてたから、頼りにしてますよ」 町内会長直々に肩を叩かれてしまっては、手塚ももう逃げるどころではない。 「微力ながら、尽力を尽くさせて頂きます」 そう答える意外何が云えようか。 地区ごとに分かれて敷かれてある、広い青い敷物の上に不二は荷物を置いた。中には姉に作って貰った弁当が入っている。 困惑気なイトコに、不二は惜しみない笑みを向けた。既に実の弟には『兄貴』と可愛気ない呼ばれ方をしているので、お兄ちゃんと呼ばれると面映いのだ。 「あのお兄ちゃんが、リレー走ってくれるの?」 ――手塚、相変わらず不憫な。 同情するだけならタダなのでいくらでもできる不二である。そして我が人選に誤りなし、と一人頷いた。 「おーい、央」 「たいへんだぜ、央。ほのかの、よくいってた結婚するなら弦ちゃんの、弦ちゃんがきてる」 まるで重大事件でも起きたかのような、二人のやりとりが面白くて不二は聞き耳を立てた。 「あっちにいっしょにいる」 何に対しても控えめな央が、珍しくも大きなリアクションで受けた衝撃を表す。 「ほのかちゃんは、オヤジしゅみだったの」 頷くと、央は不二を振り返り「ちょっといってくる」と断って走り出した。不二はそれを見送ってから、噴出す。 地区の奥様方に捕まっていた手塚が、ようやっと不二のもとへと戻ると訝しげにその様子を窺った。 「なにかあったのか?」 不二の背後に、某有名ガキ大将が浮かんでいるのが見えた手塚だった。 央と太陽がほのかのもとへと辿り付いた時。ほのかは真田の膝の上に座り、ひとしきり甘えている最中だった。 「ほのかちゃん!」 小さく白い顔に、大きな黒い目。ふたつに結った髪型もよく似合っており(…可愛いなあーほのかちゃん)と、央は胸が高鳴る。しかしそれは一瞬にして萎んだ。ほのかが懐いている男を見たからである。央はほのかの父親の顔を知っていたので、すぐにその男が『弦ちゃん』なんだろうとわかった。 どこか目が虚ろな男の顔を、央はじーっと観察する。手が大きい、躰も大きい。顔からしても強そうだ。 しかし、しかし。 「オヤジじゃねえか!」 央は焦った。考えたことをそのまま口にしてしまったのだろうかと。 だが横に突き飛ばされるようにして、それまで立っていた場所を奪われたことにより、第三者の暴言だと気づいた。 「んなオヤジよりも、ぜんぜんオレのほうが将来ゆーぼーだしカッコイイじゃんか」 「弦ちゃんのほうがずっとずっとカッコいいもん」 突然勃発した五歳児の恋愛バトルに、仰天したのは何を隠そう真田である。 (最近の子は進んでいるのだなあ。これもテレビやゲームの影響なのだろうか) 自分自身も最近の子供である自覚が皆無な感想を浮かべていると、ほのかは少しだけ考え込むように黙ってから口を開いた。 自分を引き合いに出されたことにも驚いたが、口調がそれまでのほのかのものと一変したことに疑問を抱く。それを解決するが如く背後から「よくできました」と答えが上がった。 (――お前の教育か幸村……) 妹の頭を撫でる幸村に、兄バカの本性を垣間見た気がした。 先ほどまで小憎らしい態度だったリョウが、幸村の出現に背筋を正す。他、少年二人も同様だった。 「おはようございます」 子供にまで容赦の無い、王者立海の部長である。 「う…精市さん」 「ふ…不二」 今年より頭角を表した東京の代表校。関東大会では惜しくも破れた青学の選手の登場に、二人は驚きを隠せない。 不二はふっと、真田とその膝に乗る幼女に目をやり開眼した。 素朴な疑問が空気を凍らせた。必殺パンチを繰り出したのは、勿論ほのかである。 「そ…そ…それは…」 顔を真っ赤にして、どもる真田に、賢いほのかは『聞いてはいけないことなんだな』と納得。即座に問いを撤回した。 不二はほのかの気遣いに感心する。 「賢い子だね」 肩を竦める不二だが、その弟溺愛ぶりは全国区で有名だ。 一方不二は、央の思い人が幸村の妹だということに気づき、世間って狭いなあ、と面白がった。 「なんだ、央ってば面食いなんだな」 「お父さん並の甲斐性と弦ちゃん並の男らしさを持ったひとで、年収800万以上、海外勤務なしの、誠実なひとだよ」 しかしこの場合、可愛いのは他人の妹よりも、血を分けたイトコだ。 「大丈夫。勝てる勝てる。ウチには強力なスケットさんがいるんだから」 キラリと幸村の双眸が光る。 「聞き捨てならないのは、弦ちゃんって呼んだこと? それとも勝利宣言したこと?」 「不二…キミは案外面白いヤツなのだな」 「いっとくけど今日はウチの勝ちだからな。オレのパパは強いんだから。その弦とかにはぜったい負けないんだからな」 「もちろんお前んとこにもぜってー負けねえから!」 ここで央は意を決して、その挑戦を受けた。 「ま…負けないもん。うちだって、強いんだからー!」 火花を散らす二人の間に、太陽が割って入る。正直、この場に長居はしたくない。 「じゃあ、競技でね」 不二はにっこりと幸村の前から央の手を引いて去って行った。 真田、翻弄され呆然。 「少年たちはほのかと同じ組の子達だよ。ほら、ほのか可愛いじゃない? 今からモテモテで、兄としては心配ばかりだよ」 妹は照れたように、頬を膨らました。 「しかし…今からほのかちゃんに、変な台詞を教えるのは感心せんな。不二も変な顔をしてたぞ」 リハビリがてらに、テニス部に顔を出したことが一度ならずともある幸村だが、何度か妹も一緒だった。その理由を今更ながらに知り、真田は(妹を持つとはこうゆうことなのだろうか…)間違った認識を持つ。 「ちなみに真田、蓮二、柳生あたりを見せておきゃ大丈夫かな、とは思うんだけどね。仁王、ジャッカル、丸井はダメだ」 もはや二の句もない。 「ほら、精市。兄バカやってないで、プログラムくらい目を通しなさいよ。はい、真田クンにも」 運動会の運営委員であるという母親は、ようやく戻ってくるとプログラムをそれぞれに手渡し説明を始めた。 「真田君の出る競技には丸つけておいたから。アナウンスで一応呼びかけるけど、その二つ前の競技には集合してね」 青い紙に書かれたプログラムでは、所々で子供会の踊りや、小学校のブラスバンド部の演奏などが書いてあり。殆ど普通の運動会だった。ただ、子供から大人までの参加なので、親子で遊べる競技なども多々用意されている。 「オレが出るのは、スプーンリレー、追っかけ玉入れ、綱引き、借物競争とリレーですか」 「忙しそうだな」 「なるほど。優しい兄を持って幸せだな、ほのかちゃん」 真剣な面差しで考え込む幸村に、真田は答えを教えてやる。 やはり他人の空似ではなかったらしい。と、真田は一人納得した。 「見かけたって…なんでその時教えてくれなかったんだい?」 今までに見たことのないほど楽しそうにハンディカムを取り出す幸村を目撃し、真田はそこで初めて、不二の趣味がカメラだったことを思い出した。 真田が己の身の危険を感じていた頃、満面の笑顔で戻ってきた不二に、手塚はどこか嫌なものを覚えながら迎えていた。右手には央、左手には太陽を繋いでいるが、対照的に二人の顔色は冴えない。 「面白い人物とであったよ」 開口一番がそれだった。 「面白い…? 誰だ」 出された名前に手塚は驚く。それに気をよくしたのか、不二は声を上げて笑った。 「本当にびっくりだよね。幸村の妹の付き合いみたいだったよ。むこうもまた絵に描いたようなパパっぷりで!」 幼少のみぎりから知っている真田の、それしか浮かべられないような仏頂面でいるだろう姿を想像する。 「ねえ、手塚」 (やはり命令なのだな……) どこか諦めにも似た溜め息が口から漏れた。 「手塚の雄姿は僕が責任持って、思い出に残してあげるから」 即答するも、不二がまったく聞いて無い事は短くも無い付き合いでわかっていた。手塚が視線を逸らせば、落ち着きなく顔を動かし誰かを捜している太陽に気づく。 「ああ、すまなかった。太陽くん、お母さんは忘れ物を取りに行くとかで、一度家に戻ったんだ」 「どうした」 不安そうに少年は眉を顰める。手塚は母親がいきなりいなくなったことで心配しているらしい太陽の頭を撫でてやった。 央が首を傾げる。 「来るよ!」 途端、声を張り上げた。央がびくりと体を揺する。 「来るよ。絶対来るよ! 約束したんだもん…っ」 しかし最初の威勢はさっと身を潜め、語尾は口の中で呟くくらいのものとなっていた。まるで自分に云い聞かせるように「来るんだ」と足もとを睨む姿に、手塚と不二は顔を見合わせる。 励ますように、央が手を取った。こくんと頷く太陽と一緒に、二人は同じ地域の友達が身を乗り出している最前列へと移動する。開会式が始まったのだ。 「……お父さんも大変だねえ」 ぽつりと不二が感想を漏らした。 「仕事だとか、用事だとか子供には関係なく。一番守らなきゃいけないのが、自分との約束なんだものね」 「そうだな」 記憶の倉庫を捜している最中に、思わず古い箱を開けてしまい口に出したのが運の尽きだった。不二が興味津々と飛びつく。 《幼年の部。かけっこに参加するお子様は青の門の前にお集まりください》 |