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「本当にゴメンなさい!」 父が勢いよく土下座した。 会社でそれなりの地位につき、堂々と世間を渡り歩いている男とは思えないほど情けない姿だった。 「ほっんとうに、ゴメンね。のっち!」 拝み倒した父が、ちらりと目線を上げて対峙する相手を見る。のっちという、本名とかけ離れた愛称で呼ばれた娘――ほのかは顔を真っ赤にして怒鳴った。 「パパのばかーっ!」 うわーん。と泣き叫ぶ娘に、父もやはり泣きそうな顔でおたついた。もとより悪いのは父の方なので、ただひたすら娘の機嫌が直るのを待つしかない。 見かねた母親が参戦。だが、ほのかは不服そうに頬を膨らませた。本人お気に入りの愛称「のっち」ではなく、ほのかと名を呼ばれた事により、母には泣き落としが効かないことを悟ったのだ。 父、絶叫。幸村はそっと息をつくと妹の肩を叩いた。 「ほのか。父さんは大事な仕事があって行けないんだ。恨むなら家庭を犠牲にさせる日本企業のあり方を恨みなさい」 母親は(この子等の行方が不安だわ…)とは思ったが、とりあえず間違ってはいないので黙った。 「でも、にーに。パパの参加するの、どーしよ。にーにが出るの?」 「そうだなー」 首を捻った息子を母が諌める。夏に手術を終えたばかりの兄が、どれほど辛いリハビリをこなしているのか知っている妹は、賢明にもそこでぐずることはしなかった。 しかし何でも無い顔をして我慢するなど、五歳の幼子にできるわけがない。兄への気遣いと、父への不満。そして、自分の欲求を満たしたいというジレンマに陥り唇をぎゅっと噛んでいる。 「じゃあ、ほのかの好きな弦ちゃんに頼んでみようか?」 現金なもので、妹の顔がパッと明るくなる。兄の友人である真田弦一郎というお兄さんを、ほのかは殊のほか気に入っているのだ。 「パパの変わりって…」 話題からおいてけぼりを食った父が、唖然とする。先ほどまで父親が来なければ嫌だと駄々をこねていた娘は一変。それは容赦なく「パパはお仕事がんばってね」と切り捨てた。 父は情けない声を上げたが。 結局、娘との約束をドタキャンしてしまった身としては、項垂れ受け入れるしかなかった。 空は透けるように澄み渡り、白い雲が悠々と流れていく。 「やあ、おはよう真田。いきなり呼び出してすまなかったな」 昨夜の幸村からの電話では、動きやすい服装で8時に家に来てくれないか、というものだった。てっきり自主練習の付き合いだと思ってやってきた真田は、通された玄関に大きな包みや子供用のリュックなどが置いてあることに首を傾げる。そして、体操着姿で「弦ちゃんだ! 弦ちゃんおはよう!」と抱きついてきた幸村妹に面食らい、やはりジャージ姿の幸村母に「突然お願いしちゃってごめんなさいね」と笑まれて戸惑った。 「は…はあ」 とりあえず母親には礼を云い、はしゃぐほのかの頭を撫でる。ただし頭の中は疑問符だらけだ。答えを求めて幸村を見るも、にこにこと笑っているだけでいっこうに説明が無い。 ほのかは顔を紅くして、自分のリュックを背負うと急いで外に出る。真田には何が幼子の羞恥心をかきたてのかがよくわからない。それが顔に出たのだろう。 「普段は『にーに』って呼んでるんだよ」 幸村がクスクスと補足した。 「可愛い呼ばれ方しているんだな」 途端、すっと真顔になった幸村に真田は慌てる。どうやら云い方を間違えたらしい。 「似合うという意味だ」 「それよりだ。今日は一体なんなのだ? どこかに行くのか?」 まるで落ちたシャーペンを拾って貰ったかのような軽い口調だ。 「今日はいったい何の日でしょう」 またもや遠くで花火の音がした。 「おにーちゃん。早くー」 外から急かす妹に優しく答えながら、幸村は玄関先に置いてあった荷物を手に取る。 「頑張るって…。部外者のオレが出ていいものなのか?」 眉間を寄せて苦言を呈す真田に、幸村は肩を竦めた。 「確かに云いましたとも。だから、今日は頑張ってね。パパ」 荷物を押し付けると、晴れ晴れとした顔で幸村は外へと出て行く。真田に残された選択はただひとつ。 荷物を持って幸村の後を追うことだけだった。
区内の合同運動会というのは、その年ごとに会場が移動するらしく、今年は近所の小学校で開催されるのだと教えて貰った。 幸村に腕を引っ張られた。初めて参加するイベントに、思わずきょろきょろとしていた真田は人数の多さと、露店まで出ているのに驚いていた。さすがにプロの的屋ではなく、自治会で用意しているものだとは、白いテントに書かれている文字でわかる。 「盛大なんだな」 幸村の住む地区の看板が立っている場所に着くと、先に着きシートなどの準備をしていた者達がいっせいに顔を向けてきた。 「あら、精市クンおはよう」 あちこちから挨拶の声がかかり、それらを丁寧に幸村が返す。幸村母も、妹ほのかも着くなり囲まれ、この地区での幸村家の人気を垣間見た思いだった。 中学生らしい少年が三人近寄って来た。口ぶりからして小学校時代の同級生のようだ。揃って緑色のハチマキを首から下げている。 「久し振りだな」 幸村が答えると、相手三人は驚いたようだった。 「え…夏に手術したって聞いたけど本当なのか?」 「幸村の父ちゃんの友人か?」 決め付けられて肩を落とす。実年齢から上に見られるのは、何も今に始まったことではないので激高などはしないが、傷つかないかといえばそれは別の話だ。 「オレの友人」 幸村が訂正した。すると、今度は奇妙な視線を真田に寄越してくる。お前達と同じ年だと叫びたくなったが、ぐっと堪えた。 親指で示した方向にあるチームでは、力の入った応援旗に、ストレッチを始めている大人達が見えた。 そこから五人ほど小学生が走ってくると「お兄ちゃん。作戦会議するってー」と幸村の同級生達の手を引っ張る。 「じゃあな、幸村」 そうして三人は自チームに戻っていった。 残された真田は幸村をおもむろに目をやる。それを受けて幸村が説明をした。 「あいつ等、小学校の時の同級生なんだけどさ。見たとおり、兄弟が多いんだよ。だから中三になってまで参加してるんだ」 中学では体育祭は夏休み前に終ってしまうので、秋といえば文化祭のイメージが真田の中では強い。今年の立海体育祭、幸村は見学に周りアナウンス係となっていたので、競技には参加していない。一方真田は応援団長をしていた。クラス対抗縦割りだった為に、三年は一年・二年を引っ張っていかねばならない。応援団長は三年の中から選ばれるのが定例なのである。 「体育祭思い出しちゃった。カッコ良かったよね、応援団長殿」 どん、と幸村の腰にほのかが走ってきて抱きついた。 「おにいちゃーん。ハチマキもらってきたよー」 競技に参加する者だけがつけるらしいハチマキを、幸村から手渡される。 「赤がウチなんだ。競技に参加する時は額に巻くんだけど、大体みんなそれまでは首に垂らしてるね」 ほのかは自分のハチマキを差し出した。幸村は妹に向き合い、二つに結んだ髪を崩さないよう、ヘアバンドの位置に巻いてやる。 短パンのポケットの中からピンを出した。幸村はハチマキがずれないよう刺した。 「ほのか、他にピンはポケットに入れてない? 転んだ時に危ないよ」 一連の動作を眺めていた真田は、綺麗に纏まったほのかの髪型に感心する。 「ピンとは一体どこで止まるものなんだろうな。見ていると刺さって痛そうだが、痛くないんだろう? たまにピンだけで髪を上げている女性を見ると驚く」 ほのかは耳の上を指した。 「もうちょっと伸ばしたらねーフィシュボーンやってもらうんだ」 男兄弟しかいない真田には想像がつかなかった。 「あのおにいちゃんの写真みたいにしたいの」 あまりに自然に交わされた兄妹の会話に、真田は一瞬自分の耳を疑う。 「ほのかちゃんおはよー」と、友達らしい女の子達がわらわらと寄って来た。 そう、はしゃぐ子供達を横に、真田は恐る恐る問うてみる。 真田の記憶が確かならば、ワンピースとは女性のみが着用する服の名称であったはずだ。 ――なんて事を堅苦しく考えているんだろうなあ、と幸村は想像して人の悪い笑みを浮かべた。 「オレが幼稚園の時に買って貰ったワンピースがあってね。さすがブランド物なだけあって丈夫みたい。まだ取ってあったらしい。可愛いデザインでさ、きっとほのかに似合うだろうな」 裏拳を顎に入れる。真田は躰をのけぞってうめいた。 「母親の趣味だよ。オレがあんまり可愛かったもんだから、一石二鳥と、女の子の服も着せて遊んでたんだ。小学校に上がってからはさすがに止めたけどな」 首を忙しなく回す扇風機のように振る。 女装など死んでもしないと誓う真田だが、幸村が相手となると何をしかけてくるかわからない恐怖がある。ここは素直に頷いておくに限った。 「ほのかのおにいちゃんなんだよ」 ふいにほのかが兄の手を引っ張る。幼女達は幸村を見上げ、みな「かっこいいねえ」と感嘆した。ほのかは誇らし気だ。 一人が真田を指す。 (また云われた…) 何度も間違われるとさすがにへこむというものだ。なんといってもまだ若葉薫十五歳である。 「ちがうよお。弦ちゃんだよ」 どうもこの兄妹はきちんと紹介する気がないようであった。それがわざとなのか、素なのかは真田如きでは量れない。 ほのかよりも背も高く、体躯のよい少女がまじまじと真田を見つめては不躾な感想を漏らした。 「弦ちゃんこわくないよ。とーってもやさしいよ。おにいちゃんに蹴られても殴られても怒らないし。お兄ちゃんが病気になっちゃったときもだっこしてはこんでくれたりするんだよ」 真田がどれだけ優しいのか主張したい気持ちは伝わったが、いかんせん出した例が正しくない。これには幸村も慌てて妹の口を塞いだ。 妹の友人達は『殴る』『蹴る』など物騒な単語に、些か身を引いている。 「ほのか〜、あれは突込みって云うんだよ。突込み。わかる?」 保身に走りやんわりと訂正をする幸村だが、もしここに真田意外の突込み被害者(主に立海テニス部員)が居たなら、ボケるのはいつも命賭けだよ。と、それこそ命を賭けて突っ込んだ事だろう。 「ほのかちゃんのお兄ちゃんは、キレイで面白いんだね」 「うん。キレイで強いんだよー」 妹は微妙に台詞を変えたが、気づいたのは当の兄とその友人だけだった。 「でも今日はおにいちゃん出れないから、弦ちゃんががんばってくれるの。弦ちゃんも強いんだよね」 骨ばった手を小さな手が掴んだ。日頃、幼児と接点の無い真田にとって、どきりとするほど小さくて柔らかい感触。 幸村に促され、皆は己の陣地へと向かう。そこで真田の視界の端に、どこかで見たような顔が過ぎった気がした。 「……?」 確かめようと足を止めたが、見知った顔など何処にも見当たらない。考えるまでもなく、気のせいだったらしい。当たり前だ、あの男がこんな所に居るわけがないのだ。 「どうした、真田」 真田は幸村のあとに続いた。 |