「本当にゴメンなさい!」

 父が勢いよく土下座した。

 会社でそれなりの地位につき、堂々と世間を渡り歩いている男とは思えないほど情けない姿だった。

「ほっんとうに、ゴメンね。のっち!」

 拝み倒した父が、ちらりと目線を上げて対峙する相手を見る。のっちという、本名とかけ離れた愛称で呼ばれた娘――ほのかは顔を真っ赤にして怒鳴った。

「パパのばかーっ!」
「のっち…パパも辛いんだよ〜」
「いっつも仕事仕事! パパはのっちより仕事のほうがだいじなんだー!」
「そうじゃないよー。のっち〜」

 うわーん。と泣き叫ぶ娘に、父もやはり泣きそうな顔でおたついた。もとより悪いのは父の方なので、ただひたすら娘の機嫌が直るのを待つしかない。

「こら、ほのか。パパを困らせるんじゃないの。ママとにーにが行くんだから、それでいいでしょ?」

 見かねた母親が参戦。だが、ほのかは不服そうに頬を膨らませた。本人お気に入りの愛称「のっち」ではなく、ほのかと名を呼ばれた事により、母には泣き落としが効かないことを悟ったのだ。

「でもでも、パパ。こんどこそ来てくれるっていったもん。勝つっていったもん。みんな、パパが来るもん」
「パパだって行きたかったよー」

 父、絶叫。幸村はそっと息をつくと妹の肩を叩いた。

「ほのか。父さんは大事な仕事があって行けないんだ。恨むなら家庭を犠牲にさせる日本企業のあり方を恨みなさい」
「きぎょうのトップは頭のかたいボケジジイばかりー!」
「そうそう」

 母親は(この子等の行方が不安だわ…)とは思ったが、とりあえず間違ってはいないので黙った。

「でも、にーに。パパの参加するの、どーしよ。にーにが出るの?」

 優しい兄が大好きなほのかは、涙を引っ込めて、黒目がちな瞳を向ける。

「そうだなー」
「ダメよ。精ちゃんはまだ本調子じゃないんだから。ママが頑張るからそれでいいでしょ?」

 首を捻った息子を母が諌める。夏に手術を終えたばかりの兄が、どれほど辛いリハビリをこなしているのか知っている妹は、賢明にもそこでぐずることはしなかった。

 しかし何でも無い顔をして我慢するなど、五歳の幼子にできるわけがない。兄への気遣いと、父への不満。そして、自分の欲求を満たしたいというジレンマに陥り唇をぎゅっと噛んでいる。
 年の離れた妹を溺愛していると云っても過言ではない幸村は、そうだ、と提案をした。

「じゃあ、ほのかの好きな弦ちゃんに頼んでみようか?」
「弦ちゃん! 弦ちゃん来てくれるの!」
「弦ちゃんなら、パパの代わりになれるよ」
「うん!」

 現金なもので、妹の顔がパッと明るくなる。兄の友人である真田弦一郎というお兄さんを、ほのかは殊のほか気に入っているのだ。

「パパの変わりって…」

 話題からおいてけぼりを食った父が、唖然とする。先ほどまで父親が来なければ嫌だと駄々をこねていた娘は一変。それは容赦なく「パパはお仕事がんばってね」と切り捨てた。

「そんな〜」

 父は情けない声を上げたが。

 結局、娘との約束をドタキャンしてしまった身としては、項垂れ受け入れるしかなかった。







 その手を伸ばして・・・






 空は透けるように澄み渡り、白い雲が悠々と流れていく。

 文句のつけようもない秋晴れの中。真田は笑顔を満面に浮かべた幸村とその家族に出迎えられ、呆気に取られた。

「やあ、おはよう真田。いきなり呼び出してすまなかったな」
「…いや、それは構わないのだが……」

 昨夜の幸村からの電話では、動きやすい服装で8時に家に来てくれないか、というものだった。てっきり自主練習の付き合いだと思ってやってきた真田は、通された玄関に大きな包みや子供用のリュックなどが置いてあることに首を傾げる。そして、体操着姿で「弦ちゃんだ! 弦ちゃんおはよう!」と抱きついてきた幸村妹に面食らい、やはりジャージ姿の幸村母に「突然お願いしちゃってごめんなさいね」と笑まれて戸惑った。

「は…はあ」
「お礼と云ってはなんだけど、お弁当おばあちゃんと一緒にたくさん作ったのよ。お昼は力いっぱい食べてね」
「ありがとう…ございます」
「弦ちゃんいっしょにおべんとう食べようね!」
「ははは…?」

 とりあえず母親には礼を云い、はしゃぐほのかの頭を撫でる。ただし頭の中は疑問符だらけだ。答えを求めて幸村を見るも、にこにこと笑っているだけでいっこうに説明が無い。
 遠くでパンパンと、花火が上がる音がした。今年五歳になる幸村の妹は大きな瞳を見開き、嬉しそうに飛び跳ねた。

「はじまるね、おにいちゃん」
「……おにいちゃん、なんだ。真田の前では」
「お…にいちゃん…だもん」

 ほのかは顔を紅くして、自分のリュックを背負うと急いで外に出る。真田には何が幼子の羞恥心をかきたてのかがよくわからない。それが顔に出たのだろう。

「普段は『にーに』って呼んでるんだよ」

 幸村がクスクスと補足した。

「可愛い呼ばれ方しているんだな」
「――悪かったね」

 途端、すっと真顔になった幸村に真田は慌てる。どうやら云い方を間違えたらしい。

「似合うという意味だ」
「や、似合うと云われてもそれはそれで困るんだけど」

 ほのかは外に出て行き、母親は家の奥にいる祖母に呼ばれてリビングの方へと消えていった。そこでやっと真田は疑問を口にする。

「それよりだ。今日は一体なんなのだ? どこかに行くのか?」
「うん、そう。説明が遅れてすまない」

 まるで落ちたシャーペンを拾って貰ったかのような軽い口調だ。

「今日はいったい何の日でしょう」
「今日…体育の日だが」
「そうそう。んで、今日は運動会なんだよ。町内会の」
「運動会」

 またもや遠くで花火の音がした。

「おにーちゃん。早くー」
「今行くよ」

 外から急かす妹に優しく答えながら、幸村は玄関先に置いてあった荷物を手に取る。

「頑張るって…。部外者のオレが出ていいものなのか?」
「町内会のイベントだしね。本当は父が出るはずだったんだけど仕事で不参加でさ。オレが出れればいいんだけど、あんまりムリするなって母に止められて。――まあ、お遊びの運動会に出るくらいなら平気かなあとは思うんだけど」
「何を云う。手術してからというもの、お前は自分の躰に負担をかけすぎだと思うぞ。夏が終れば一度ゆっくりと休ますと云っていたじゃないか」

 眉間を寄せて苦言を呈す真田に、幸村は肩を竦めた。

「確かに云いましたとも。だから、今日は頑張ってね。パパ」
「パ…っ?」

 荷物を押し付けると、晴れ晴れとした顔で幸村は外へと出て行く。真田に残された選択はただひとつ。

 荷物を持って幸村の後を追うことだけだった。

 


 

 区内の合同運動会というのは、その年ごとに会場が移動するらしく、今年は近所の小学校で開催されるのだと教えて貰った。
 青空に花火の煙が白く風に流れている。
 神奈川で十位内に入るという広さのグラウンドでは、沢山の子供達やジャージ姿の親達が集まっていた。トラックの周囲にそれぞれ看板が立っており、地区の名前が記載されている。

「あっちだ、真田」

 幸村に腕を引っ張られた。初めて参加するイベントに、思わずきょろきょろとしていた真田は人数の多さと、露店まで出ているのに驚いていた。さすがにプロの的屋ではなく、自治会で用意しているものだとは、白いテントに書かれている文字でわかる。

「盛大なんだな」
「そうだね。この区全部集まっての体育祭だからな」
「区民全員参加なのか?」
「まさか。子供会や自治会だよ。だから小学生や幼児が殆どだろ? 中学くらいになれば出てこなくなるからな。たまに、オレみたいに兄弟がいれば引っ張られてくるんだ。それと、ウチは母親が地元の道場で合気道を教えてるから、繋がりが深い」
「なるほど。こういう場で地域ぐるみの付き合いをしていいくのだな」

 幸村の住む地区の看板が立っている場所に着くと、先に着きシートなどの準備をしていた者達がいっせいに顔を向けてきた。

「あら、精市クンおはよう」
「よう、K地区の期待の星。おはようさん」
「おはようございます」

 あちこちから挨拶の声がかかり、それらを丁寧に幸村が返す。幸村母も、妹ほのかも着くなり囲まれ、この地区での幸村家の人気を垣間見た思いだった。
 しまいには他地区からわざわざ挨拶に顔を出す者までいる。

「幸村、久し振りー」

 中学生らしい少年が三人近寄って来た。口ぶりからして小学校時代の同級生のようだ。揃って緑色のハチマキを首から下げている。

「久し振りだな」
「家が近くてもやっぱ中学違っちまうとあんまり会う機会ねえもんな」
「去年はお前にしてやられたけど、今年のウチは強いぜ。なあ?」
「おうよ。見とけよ幸村」
「ふふ、お手柔らかに。でも、今回はオレ出場しないんだよ。応援だけしに来たんだ」

 幸村が答えると、相手三人は驚いたようだった。

「え…夏に手術したって聞いたけど本当なのか?」
「そうだよ。だから今回はパス。変わりにスケット連れて来たから、コッチの方が手強いよ」

 真田の腕を掴むと、紹介するように引き寄せる。三人は長身の真田を見上げるとポカンと口をあけた。

「幸村の父ちゃんの友人か?」

 決め付けられて肩を落とす。実年齢から上に見られるのは、何も今に始まったことではないので激高などはしないが、傷つかないかといえばそれは別の話だ。

「オレの友人」

 幸村が訂正した。すると、今度は奇妙な視線を真田に寄越してくる。お前達と同じ年だと叫びたくなったが、ぐっと堪えた。

(幸村――せめて同級生と付け加えて紹介してくれまいか)

「ふうん、ま、いいけど。今年こそウチのチーム勝つぜ。もう、オヤジ共が盛り上がって仕方ないんだよな」
「まあ、最終目的はこの後の飲み会だろうけどよ」

 親指で示した方向にあるチームでは、力の入った応援旗に、ストレッチを始めている大人達が見えた。

 そこから五人ほど小学生が走ってくると「お兄ちゃん。作戦会議するってー」と幸村の同級生達の手を引っ張る。

「じゃあな、幸村」

 そうして三人は自チームに戻っていった。

 残された真田は幸村をおもむろに目をやる。それを受けて幸村が説明をした。

「あいつ等、小学校の時の同級生なんだけどさ。見たとおり、兄弟が多いんだよ。だから中三になってまで参加してるんだ」
「そうか」
「優勝候補でもあるよ。あっちの地区は巨大団地があるから、子供の数が半端じゃないんだよね。あと大人のヤル気も」
「地区は全部でいくつあるんだ」
「5つだ。単純に得点の多い地区の勝ち」
「オレは何をすればいいんだろう」
「難しいことは何もないよ。幼稚園児から大人までが参加だから、単純な競技しかないし。途中で仮装を競うとか、そんな遊びも入ってるからね。メインはやはりリレーだな。幼稚園部門から始まって足の速い順であとは決まるんだ。本当、体育祭じゃなくて運動会って感じ」

 中学では体育祭は夏休み前に終ってしまうので、秋といえば文化祭のイメージが真田の中では強い。今年の立海体育祭、幸村は見学に周りアナウンス係となっていたので、競技には参加していない。一方真田は応援団長をしていた。クラス対抗縦割りだった為に、三年は一年・二年を引っ張っていかねばならない。応援団長は三年の中から選ばれるのが定例なのである。

「体育祭思い出しちゃった。カッコ良かったよね、応援団長殿」
「お前はウグイス嬢などと呼ばれておったではないか」
「それは女性に対して使う言葉だ。男だと烏って云うらしいよ」
「カ…カラス? 似合わんな」
「や…だから似合う似合わないではなくて…」

 どん、と幸村の腰にほのかが走ってきて抱きついた。

「おにいちゃーん。ハチマキもらってきたよー」
「ありがとう。はい、真田」

 競技に参加する者だけがつけるらしいハチマキを、幸村から手渡される。

「赤がウチなんだ。競技に参加する時は額に巻くんだけど、大体みんなそれまでは首に垂らしてるね」
「おにいちゃん、のっちのも巻いて」

 ほのかは自分のハチマキを差し出した。幸村は妹に向き合い、二つに結んだ髪を崩さないよう、ヘアバンドの位置に巻いてやる。

「はい、できた。あとピンがあったら崩れないんだけど」

「あるよ」

 短パンのポケットの中からピンを出した。幸村はハチマキがずれないよう刺した。

「ほのか、他にピンはポケットに入れてない? 転んだ時に危ないよ」
「もってないよ。ありがとう、おにいちゃん」
「――器用なものだな、幸村」

 一連の動作を眺めていた真田は、綺麗に纏まったほのかの髪型に感心する。

「ピンとは一体どこで止まるものなんだろうな。見ていると刺さって痛そうだが、痛くないんだろう? たまにピンだけで髪を上げている女性を見ると驚く」
「そうだねー。男にはわからない世界だよな、あれは。でも、コツを掴むと簡単だと思うよ。オレもほのかの髪だったら編み込みぐらいできるし」 
「編み込み…」
「んとねー、ほのかは髪がまだみじかいから、こっからじゃないと三つ編できないの」

 ほのかは耳の上を指した。

「もうちょっと伸ばしたらねーフィシュボーンやってもらうんだ」
「ははは…お兄ちゃん練習しないとな」
「フィッシュボーン? なんだそれは」
「四つ編」
「四っつ…?」

 男兄弟しかいない真田には想像がつかなかった。

「あのおにいちゃんの写真みたいにしたいの」
「そうか、あれか」
「おにいちゃんのワンピース。このあいだママにもらったんだ」
「まだあったんだ」

 あまりに自然に交わされた兄妹の会話に、真田は一瞬自分の耳を疑う。

「ほのかちゃんおはよー」と、友達らしい女の子達がわらわらと寄って来た。
「きょうはがんばろうね」

 そう、はしゃぐ子供達を横に、真田は恐る恐る問うてみる。

「幸村…、お前のワンピースとはいったい」

 真田の記憶が確かならば、ワンピースとは女性のみが着用する服の名称であったはずだ。

 ――なんて事を堅苦しく考えているんだろうなあ、と幸村は想像して人の悪い笑みを浮かべた。

「オレが幼稚園の時に買って貰ったワンピースがあってね。さすがブランド物なだけあって丈夫みたい。まだ取ってあったらしい。可愛いデザインでさ、きっとほのかに似合うだろうな」
「幸村・…」
「うん?」
「お前は昔女だったのか?」
「アホ」

 裏拳を顎に入れる。真田は躰をのけぞってうめいた。

「母親の趣味だよ。オレがあんまり可愛かったもんだから、一石二鳥と、女の子の服も着せて遊んでたんだ。小学校に上がってからはさすがに止めたけどな」
「男に少女の服か? …まあ、お前なら似合ったんだろうが」
「今度写真見せてあげようか。あ、でも仁王達には黙ってろよ。喋ったら文化祭の企画でお前を女装させるからな」
「喋らん」

 首を忙しなく回す扇風機のように振る。

 女装など死んでもしないと誓う真田だが、幸村が相手となると何をしかけてくるかわからない恐怖がある。ここは素直に頷いておくに限った。

「ほのかのおにいちゃんなんだよ」

 ふいにほのかが兄の手を引っ張る。幼女達は幸村を見上げ、みな「かっこいいねえ」と感嘆した。ほのかは誇らし気だ。

「こっちはほのかちゃんのパパ?」

 一人が真田を指す。

(また云われた…)

 何度も間違われるとさすがにへこむというものだ。なんといってもまだ若葉薫十五歳である。

「ちがうよお。弦ちゃんだよ」

 どうもこの兄妹はきちんと紹介する気がないようであった。それがわざとなのか、素なのかは真田如きでは量れない。

「弦ちゃん…このひとが弦ちゃんなんだあ。へえーほのかちゃんってこわそうなひとが好きなんだね」

 ほのかよりも背も高く、体躯のよい少女がまじまじと真田を見つめては不躾な感想を漏らした。

「弦ちゃんこわくないよ。とーってもやさしいよ。おにいちゃんに蹴られても殴られても怒らないし。お兄ちゃんが病気になっちゃったときもだっこしてはこんでくれたりするんだよ」
「ちょ…ちょっと待ったほのか」

 真田がどれだけ優しいのか主張したい気持ちは伝わったが、いかんせん出した例が正しくない。これには幸村も慌てて妹の口を塞いだ。

 妹の友人達は『殴る』『蹴る』など物騒な単語に、些か身を引いている。

「ほのか〜、あれは突込みって云うんだよ。突込み。わかる?」
「うん。わかるよ」

 保身に走りやんわりと訂正をする幸村だが、もしここに真田意外の突込み被害者(主に立海テニス部員)が居たなら、ボケるのはいつも命賭けだよ。と、それこそ命を賭けて突っ込んだ事だろう。

「ほのかちゃんのお兄ちゃんは、キレイで面白いんだね」

 好意的な意見を、友人の一人が述べた。

「うん。キレイで強いんだよー」

 妹は微妙に台詞を変えたが、気づいたのは当の兄とその友人だけだった。

「でも今日はおにいちゃん出れないから、弦ちゃんががんばってくれるの。弦ちゃんも強いんだよね」

 骨ばった手を小さな手が掴んだ。日頃、幼児と接点の無い真田にとって、どきりとするほど小さくて柔らかい感触。

「ああ、ほのかちゃんのために頑張るぞ」
「わーい」
「そろそろ戻ろうか。真田の出る競技と時間も確認しとこうよ」
「そうだな」

 幸村に促され、皆は己の陣地へと向かう。そこで真田の視界の端に、どこかで見たような顔が過ぎった気がした。

「……?」

 確かめようと足を止めたが、見知った顔など何処にも見当たらない。考えるまでもなく、気のせいだったらしい。当たり前だ、あの男がこんな所に居るわけがないのだ。

「どうした、真田」
「いや…なんでもない」

 真田は幸村のあとに続いた。

 

 

 

 










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