性相近し 習い相遠し 一話
|
多摩川を越えれば住宅街が続く東京。都心といえば都心なのだが、川を越えただけの神奈川に構える校内はまるで森の中に建っていた。緑溢れるといえば聞こえはいいが、建物以外は全て林で、毎年春になると新入生が迷い込んでは出られなくなるなどという逸話まである始末だ。 そのような広大な敷地の奥に建っているのが『望星堂』である。立海大附属高等部剣道部の道場だ。 元は大学の敷地であったのだが、キャンパス拡大につき神奈川の奥地へと移転したのちに、高等部と中等部が併設された。築四十年とも言われる『望星堂』は、そんな大学時代の名残で、高等部に継がれた武道場だ。大学時代には別の名がついていたのだが、それは移転先の武道場に付けられたので、高等部に渡ったさい、立海大が所有する船『望星丸』から名を貰ったのだそうだ。 立海大はそもそも最初の頃は学業での成績が芳しくなく、ならばスポーツで名を馳せるべしと力を入れていた。剣道もしかりである。特に大学での成績は素晴らしく、高等部、中等部ともその名に恥じてならぬと上から順に圧力がかかってくる始末だ。 剣道部顧問は代々OB会から排出されることからも、重圧のひとつになっている。高等部にその立派過ぎるほどの重厚な、剣道部専門の武道場があるのも一端だ。 しかしやはり剣道部顧問は立海大学剣道部OB会出身で、中学時代から脈々と伝統を叩き込んでいくのであった。 所謂青田買い。優秀な人材を見つけては、スポーツ特待生として押し上げ、決して他校には渡さない。 今では私立であることで財力を惜しまず、学力さえ追いつき名門のひとつに数えられるようになった立海大だが、未だに過去他大学の面々に飲まされた苦渋と屈辱を忘れえず、語り継がれていた。 語り継がされていくほうはたまったものではないのだが、そこは運動部の奇妙な所で、連帯感からか、上の意思は絶対だった。そして何も知らない中学生からの刷り込みが、その意識を決定づけていくのである。 月に一度。離れてはいるが、同じ敷地内ということも手伝って、高等部と中等部は合同練習を行う。 先輩の胸を借りる、と言えば聞こえはいいが、大学に入る前から厳しく上下関係を躾られるというわけだ。合同練習日の中等部剣道部員の緊張は並ではない。全員がしゃちほこばり、ガチガチに緊張して高等部剣道部員の顔色を窺う。 特に一年のプレッシャーは計る術もないだろう。高校三年と中学一年の体格差とくれば、もはや大人と子供と言っても過言ではない。 しかも普段使用している中等部武道場と違い、新緑の木漏れ日差し込む静かな場所に建立されている年代物の武道場だ。回りは静かで生徒のざわめきなどとは縁遠い。 普段ならそれでも打突音と気合の声で賑やかな道場だが、今は静まり返っていた。壁にはずらりと厳しい顔付きの高等部員と、ガチガチに固まっている中等部員。 「中等部一年、真田弦一郎。高等部三年、川口啓二」 高等部顧問が審判となり、声を上げる。水を打ったような静けさの道場の中、一段とそれは響いた。 「礼! 蹲踞!」 皆の視線が道場中央に集まる。対峙する二人の気迫がびりびりと伝わってきた。 見守る方も同じく緊迫する。何故ならこの試合には特別な意味があるからだ。 一年である真田。三年である川口の試合など、普通ならこのような春先に行われることなど無い。しかも川口は副主将だ。 「始め!」 電光石火。まさしくそれが相応しい早業。 「お胴!」 がたり、と高等部の剣道部員が腰を浮かせる。 「――胴あり! 勝負あり! 中等部真田!」 心なしか審判の声も震えた。 見入る間もなく副主将川口は、真田の竹刀に吹き飛ばれ、壁に激突していたのだ。 静かだが、驚愕の嵐が吹き荒れる。誰もが我が目を疑い、尊大に立ち尽くす長身の一年を見た。 「か、開始線に戻れ…川口」 驚きを隠せないでいる顧問が呼びかけると、川口は少しだけ躊躇い、起き上がって開始線に戻り、礼をした。 中等部からは羨望の眼差し。高等部からは驚異の眼差し。 先輩に思わず勝ってしまった真田は、そこで己の浅はかさに気まずくなる。だが、そこでわざと負けてやるほどの恥知らずではない。世渡り下手と言われればそれまでだが、勝負ごとは常に真剣でなければ、それこそ剣に申し訳が立たぬと思っている。 そこは、いかめつい顔。百八十近い長身に、がっしりとした体躯。どれをとっても中等部ではなく、高等部に相応しいナリだが、正真正銘の十二歳だ。 何かを謝罪したほうがいいのか、とりあえず謙遜したほうがいいのか。言葉が見つからず、困惑して皆の視線を受け止めていると、途端、剣道部主将と顧問が凄まじい形相で詰め寄ってきた。 「君…君、真田君!」 代わる代わる感心したように称えられ、真田はおもいきり退いた。二人の興奮に引き摺られてか、周囲のざわめきも酷くなる。 新入生である真田は、年齢制限のこともあり一級止まりだ。他にも中等部には一級の者がいるが、それらを差し置いて高等部の副主将との対戦が設けられたのには、もちろん訳がある。 真田の兄である大樹なる人物が、立海大剣道部が日本一に輝いた時の主将なのだ。大学剣道部の熾烈に強豪ひしめく中。いくら力を入れているからとはいえ、優勝などにはほど遠かった立海大が成し遂げた快挙は、それはもう大学どころかOB会までも狂喜乱舞せしめた。 そんな男の弟が、今年立海大附属中に満を持して入学してきたのだから、放っておけるわけが無い。 真田にしてみれば、確かに尊敬できる兄ではあるが、十三も年の離れた人間と比較されても困ってしまう。大体兄が大学を卒業して、剣道の腕を買われ警察に引っ張っていかれてからもう四年も経っているのだから、名を忘れられているだろう、と軽視した真田が甘かった。 いきなり高等部の武道場に連れて来られたかと思えば、副主将との試合である。 伝説にまでなっていたとは、入る前に知っていれば考えたものを…… 苦味潰した顔で返しても、勝手に盛り上がっている高等部の者達は気づかない。 「―――あの…申し訳無いのですが」 「ん? ああ! もう年甲斐もなく興奮してしまってすまないね。どうだい? 君だけでも高等部の練習に週一…いや、週二でも!」 手を握らん勢いで、四十代の剣道部顧問に迫れて、真田は尚も退いた。及び腰で、胴着を外す準備にかかる。 「違います。オレはこれからテニス部のミーティングとやらに出なくてはならいので、ここで失礼させて頂きます」 「テ…テニス部?」 「はい。オレはテニス部員なんです」 「―――へ?」 はっきりと言い切った真田に、一気に道場内が静まり返った。中等部の顧問は「あちゃー」と、顔を手で覆い天を仰ぐ。同じく主将はガクリと膝をついた。 が、途端背後から組み付かれて、勢い倒されるところをぐっとふんばる。 「なんだってーっ?」 「ど、どういうことだい! 真田君!」 「あの…あのですね!」 腰に顧問、腕に主将と抱きつかれた挙句、他剣道部員がごぞってすがりつくような目で近づいてきていた。振り返りぎょっとする。 「オレはテニス部なんですよ!」 振りほどこうともがくも、猛者達の腕はそう簡単には外れてくれない。 「あの小さい黄色のボール打ち合うヤツだろ?」 目敏くもその不自然な態度に気づいた高等部顧問楠が「柴田ぁあ!」と、怒鳴る。いくら年が離れていようとも、OB会の上下関係は絶対だ。同じOB同士。先輩である楠に名を呼ばれ、柴田は泣きそうな顔で「はい」――答えた。 「どういう事だっ? 真田君の弟がテニス部とは冗談だろっ?」 「正気かぁ! 真田! お前は剣道をやるために産まれてきた男だろっ? 立海大剣道部の明日を担うために門を潜った男だろうっ!」 常軌を逸した楠の雄叫びに、真田は倒れそうになる。が、ここで倒れたらきっと目覚めた時には剣道部部員になってかねない。 「もうテニス部に届けを出して受理されたので、オレは正式なテニス部員なんですよ。掛け持ちはしません」 「テニス歴は四月からです。ですからまだラケットも振らせて貰っておりません。剣道は好きですが――」 「球遊びでナンパとは言ってくれるじゃないか。チャンバラごっこ部と言われても構わないらしいな、進藤」 ざわり、と人の波が左右に別れてその人物が顕わとなる。 主将の顔が劇的に剣呑なものへと豹変した。 「西城……」 にっこりと、言い放った青年はスラリとした長身の優男である。しかしよく見れば、細いが引き締まった躰。バネのある筋肉などがわかるだろう。長髪を後ろで纏めて、特性ジャージに身を包んでいた。しかし真田の視線が釘付けにされたのは、その青年の隣にひっそりと立つ小柄な少年だった。中等部の男子用制服を着用しているので少年とわかるが、外見はたおやかな少女のそれに近い。 真田の視線を受け止めて、静かに笑んで返した。 「チャンバラごっことはなんたるいいザマだ!」 「西城、一体ここに何の用できたんだ? テニス部部長が油売ってる暇はないだろう」 「この子、テニス部期待の星。強いよー。幸村君て言うんだ」 綺麗な所作で頭を下げる少年に、真田はふと「こいつも何か武道をやっていたのか」と関係のないことを思った。 いや、もしかしたら茶道とか華道とか――そちらの方を連想させてしまうほどの、柔そうな少年である。 「そんなモヤシみたいなのがホープだ? これだからテニスってやつあ」 朗らかに言ってのけたのは、なんとも強気な発言だが、実力がそれだけあるのだ。去年、おととしと成績の芳しくない剣道部は押し黙るしかない。 「さあ、真田君とやら。ぼうっとしてないでさっさと来なさい。迎えに来てくれている幸村君にも失礼だ」 見た目にそぐわず、えらい尊大な男に促され、真田はきっちりと礼をして道場を出た。 背後では「裏切りものおぉぉぉおお――っ!」と、凄まじい雄叫びが上がっている。 道場を出たところで、西城は腹を抱えて笑いだした。 「ひーっ! もうマジで進藤って最高ー! 高三であの性格は天然記念物並だぜ」 ばしばし、と自分よりも背の高い後輩の肩を不遠慮に叩く。 「お前、剣道すんげー上手いんだろ? なんでテニス部にきたのか知らねーけど、名に恥じないようガンバレよ! じゃ、オレ部活あっから」 怒涛の勢いで、言いたいことだけを言って、西城は陽気に去っていった。隣を通り抜けるさい、耳元にピアスを見つけて、真田は多少悪印象を抱く。 「ありがとうございました」 だが幸村が隣で頭を下げたので、理不尽なものを感じながらも、真田もそれに倣った。 溢れる緑の森に取り残された二人は、自然顔を合わせることになる。 「―――わざわざ迎えに来なくても……」 先ほどまでの笑顔はどこへやら、真顔でぴしゃりとやられて、真田は返答に窮する。 「そんなことは…無い。オレはテニス部に入ったんだから」 「――見てたのか」 ほとほと困ったように手ぬぐいで顔額を拭いた真田に、幸村が噴出す。 「本当、オレ剣道部に恨まれるな。ねえ、いいのか? テニス部で」 白い道着から伸びる筋肉質な二の腕に、幸村の手がかかった。 「これも何かの縁だものね」 腕に絡みつき、わざとらしく見上げてみれば、瞬間湯沸し器の比喩に相応しく真田の顔色が真っ赤に染まる。 「ばっ――! その! 中等部に戻るぞ!」 さり気無くとは、この無骨な少年にはできない。慌てて腕を幸村から取り戻すと、頭から湯気が出ているんじゃないかと疑うほど赤い顔のまま、足早に中等部への道のりを行く。 残された幸村は、払われた腕を見て「ふーん」と、意味ありげに口端を上げたが、真田が気づくはずもなかった。 |