| バレンタインと君とチョコ。 幸村はゆっくり微笑を浮かべた。 「オレじゃないよ」 それはもう花開くという形容に相応しい笑顔でもう一度、 周囲は一斉に、ツンドラ気候の世界に叩き込まれた。 のちに丸井は語った。 「オーロラが見えた」 のちに柳生は語った。 「タイタニックが沈没した原因の流氷とは、ああゆうものなのかも知れません」 その笑顔の原因となった台詞を吐いたジャッカルに至っては、数分の記憶が飛んでいた始末だ。 誰もが身を竦ませるほどの痛い沈黙を破るったのは、やはり笑顔の幸村である。 「―――男のオレが、どうしてチョコをそんな風にコソコソと渡さなきゃならないんだ?」 そして、噛んで含むように、 「―――真田に」 倒置法まで使われ、気温はますます氷点下を下回る。 三人は走って逃げ出さなかった自分達を誉めた。いや、そもそも逃走を計るにしても、足が凍って動かなかったとうのも一端だ。 「お前等、ちゃんと柔軟をしろ。寒いからといって、さぼっていたら後輩に示しが付かないだろう」 呆れたような口調で、ラケットを片手に立ち話をしている四人の前にやってきた。隔離された世界の時間が、どっと動きだす。大袈裟でなく、丸井と柳生、ジャッカルはそう感じた。 「そうだな! 部活部活! 幸村部長失礼しました!」 「そうですね。このような話を今することは無いんですよ。反省したまえ、桑原君」 「ごめんなさい。オレが悪かったです。ごめんなさい。ごめんなさい」 頭上に曇雲を立ちこませたジャッカルは、まるで何かに取り憑かれたように頭を下げる。 「さあ! 気を取り直して、楽しい部活にレッツらごー!」 とにかくこれで話は終り、と逃げ出そうとする丸井の向かう先で、レフリーだと安心していた柳にカウンター攻撃を食らった。 「なんの話をしてたんだ? 幸村」 「この面子で幸村にピンポイントで訊くのかよ!」 「ああ! 丸井君、このお莫迦! 突っ込んでないで逃げるべきなんですよっ! アデユー!」 その隙を突いて、逃げ出そうとした柳生の首にラリアートが決まった。 「なんか楽しい悪巧みでもしてるんか?」 腕を振り回して現れたのは仁王で、結局二年のレギュラーの殆どがこの一角に集まってしまった。 「〜〜〜仁王君っ!」 「おお、すまんすまん。なんかのう。向かってこられると、いい具合に技が決まるというか…」 「この格闘バカがっ! いっそのことプロレス研究会にでも入ってろっ」 ギリギリと相手の首を締めながら、柳生はハッと我に返った。 「私としたことが、取り乱しました」 「お茶目やのう、柳生よ」 「いや、殺されかけといて、朗らかに笑うとこと違うと思うよ。仁王」 心なし顔色が悪くなってえづく仁王を、心配してジャッカルがその背を撫でた。 「誰だよ、お前に紳士なんてつけたの……」 「お父さんが紳士服青山の店員なんじゃよ」 「勝手に人の父親の職業を決め付けないで下さい!」 丸井の正直すぎる感想に、仁王が真面目な顔で答える。半ば信じかけた丸井が「違うの?」と首を傾げた。 「父は医者です」 「金さえ払えば、どんな患者も診るという」 「お母さんはもしかして成長できない女の子か?」 「いつ誰がブラックジャックによろしくしましたかっっ!」 手塚治虫ぐらい知っている、とジャッカルは遠くを見つめた。 「一年! さっさとコート内に入れ!」 「うわっ」 いつの間に移動していたのか、幸村は一年達を集めて指示を出している。慌てたのは丸井達だ。これではまるで(まるでではなく、実際そうなのだが)サボっているようではないか。 「長い立ち話ですっかり体が冷えたんじゃないか? もう一度温めておいで。――三十周」 ぴしゃり、と命令されて、五人は反論もできずにすごすごとコートを出た。 「ああ、桑原はいいよ」 「え? なんでだ」 呼び止められて、ジャッカルは戸惑いがちに振り向く。 「お守りなんて酷いっすよ〜!」 黒いもじゃもじゃ髪の一年が、ぷうっと頬を膨らませた。ジャッカルは顔を引き攣らせる。この一年との練習試合は、はっきりいって命懸けだ。ちょっとでも隙を見せると、容赦無く弾丸のような球を顔面めがけて叩き込んでくるのである。 手を叩かれて、皆が動き出した。嬉しそうな赤也に引っ張られて、ジャッカルは端のコートへと移動していゆく。 「売られていく小牛のような目をしていたな」 「目を合わせてはいけませんよ、丸井君」 「柳とオレはとんだ飛ばっちりじゃな」 「オレはともかく、お前は自業自得だ」 触らぬなんとかに祟りなし。幸村の機嫌の悪さを察知した、仁王と柳も黙って校庭に出る。だが、何もただ走るためだけに、素直に従ったわけではない。丸井に並ぶと「結局、原因はなんだ」と尋ねた。 「オレじゃねえよ、ジャッカルだよ。今日さ、二月十四日じゃーん」 「ああ、現在獲得数。仁王、二十三個。柳生、二十二個。ジャッカル、十二個。丸井、三十五個だな」 「オレが一番か〜!」 「君の場合は餌付けに近いでしょうが。と、いうよりどうして柳君はそこまで的確に存じているのですか……」 「蛇の道は蛇だ」 「使い方大分間違ってますよ」 平走する二人のすぐ後ろを、柳生がつく。 「そーゆう柳はいくつ貰ったんじゃ? 言うてみい」 「拒否する」 次いで近寄ってきた仁王に、柳はにべも無い。柳生は名が上げられなかった他のメンバーが気になった。 「他に、幸村君のデーターがありませんね。いくつ貰ったんですか、彼は?」 「あいつなら聞けばあっさり答えてくれるぞ。部活前だけで三十七個だ。内、十五個は男からで、本命の確率百パーセント」 苦い顔をする柳生と仁王に、丸井がけろりと「でも男から貰ったって、チョコの味は変わんねーじゃん」と入ってきたので、二人は一斉にギョっとした。 「さてはお前も貰ったなっ! 大丈夫なんかい。断れたかっ? ちゃんと断れたかっ?」 「まさか呼び出しなんかくらってないでしょうね? ダメですよ! いくらゴティバのチョコをくれるって言ってもついていったらダメですからねっ?」 「なんだよう。チョコ貰いに行くだけだもん。他に意味は無いって言ってたもん」 「アホかあぁっ! どこに呼び出されおったっ」 「恥ずかしいからって体育館裏」 「丸井君。あとで是非、その腐れヤロウの名前を教えなさい」 「まったくもって危機感ゼロですね、君は」 「わかった。じゃが、行く時は一緒がぞ。一人では行くなよ」 途端、嬉しそうに跳ねる。 「オレさ、一度でいいから高級チョコ、箱一杯食ってみたかったんだよなあ〜」 「安い貞操ですね。丸井君……」 「まあ〜のう……」 「それは美人局だ!」 「うおっ! いきなりなんじゃ、柳っ」 「いつ突っ込もうか、待ちわびたじゃないか!」 「ええっ? なんか逆切れ? しかもオレはまだそこまでボケてないがぞっ」 「ついて行って、影から見守って、襲ったところを激写してから助ける算段だろう確率九九パーセント」 「あとの一パーセントはなんぞ?」 「柳生に踏み込まれて終り」 「その場合は、ザッ修羅場。の見出しで校内新聞じゃな」 「なあなあ、ツツモタセってなに?」 「どうしてそこでわたしに聞くんですかっ! 知らなくていいんですよ、丸井君…」 「美人局とはな――」 「柳君も冷静に答えようとしないで下さい!」 「…で、結局原因はなんだ。どうしてそう脱線するんだ、お前等は」 止めもしなかった柳の台詞に、丸井は理不尽がることもなく話を続けた。 「んとな。さっきジャッカルが下駄箱の前を通りかかったら、真田の靴があったんだ」 「どうにも要領を得ない話し方だな。弦一郎なら生徒会の仕事で遅れるのは皆知っているだろう」 テニス部副部長である真田は『副』なのにも関わらず、運動部部会会長なのである。実際は幸村に回ってきた話なのだが、いつの間にか真田が担うことで話がついていた。ようは態よく押し付けられたのだ。 「うん。で、その上にチョコの箱が置いてあったんだって」 「違うぜ。なんでか『あれって幸村かなあ』って言ちゃった所、背後に幸村が立っていたんだよねえ」 重い空気が四人の間に立ち込めた。暫く無言で走りに集中する。 「――なんてタイミングの悪いヤツじゃ……」 「ヤツには勇者の称号を捧げよう」 仁王と柳は、心底その場にいなくて助かったと、胸を撫で下ろした。 「ねねっ! でもさ、さっきのに真田の獲得数も無かったけど、真田はいくら貰ってんの?」 興味津々と、丸井が柳を振り返った。 「あいつは…オレが知る限りそれで一個目だ。女子には恐がられるからな。例え、アイツを影で見守る女子が居たとしても、見守るだけで終るだろうし」 「あ〜そんな感じ。真田へのチョコって本命っぽい。しかもあーゆーのに限って美人系がきそう……」 「弦一郎に彼女か……」 柳のその一言は、予想していてもよさそうな内容なのに、何故か口に出した本人でさえ直後に身震いした。 またもや、どうしようもなく暗雲とした沈黙が落ちてくる。 惚れた相手が男だと気づいた時には、既に遅く。 真田はめでたく、それまでやったことも無いテニスの世界に足を踏み込む嵌めに陥っていたのであった。 あくまで本人の知らないところでだ。 それこそ、公然の秘密というやつだった。ちなみにこちらは口外すれば、楽しいスクールライフがそこで終る代物である。 「なんかさあ。当事者であるはずの真田だけがノホホンと過ごしていることに異議がある」 何度か幸村に命を削られる思いをさせられた丸井は、理不尽だとうめいた。眼鏡を掛け直しながら、呆れたように答えたのは柳生だ。 「面と向かって本人におっしゃい」 「どっちにだよ」 「お好きな方をどうぞ。どちらにしろ、末期の水はとってあげますから」 「寒い…寒いぜ。ちくしょう」 「男から高級チョコを嬉々として貰う、君にだけは言われたくないでしょうよ」 「お、真田じゃ」 仁王の声に、全員が視線を校舎に向けた。生徒会会議が終ったのか、校舎からスポーツバッグを肩にかけた生徒がのっそりと出てくる。すぐに部活に行けるようにか、真田はジャージ姿だ。こちらに気づいて足を止めた。 「なんだ、まだ走ってるのか」 訝し気に問われて、柳はさらりと「もう終る」と答える。 「お前もさっさと着替えて走れ。お前がいないと全体の士気が落ちる」 「たるんどるな。オレがいてもいなくても、頑張るのが当たり前だ。まあ、すぐにアップして加わる」 男らしい眉を潜ますと、真田は踵を返してコートへと向かって行った。その後ろ姿を見守りながら、丸井は青褪める。 ぎょっとなって、皆の視線が真田の手元に集まった。 そこには確かに四角い小さな箱があり。ご丁寧に白いリボンが可愛らしく揺れている。 「大きさ、包装。どれをとっても義理に非ず」 「柳君! 冷静に観察している場合ではありませんよっ。このまま行くと――…っ」 「テニス部の別名が増えるのう」 わなわなと震える柳生の背後で、仁王が不気味に呟いた。 「死神の里」 全員一斉猛ダッシュ。 「真田君! その箱をしま…っ」 制止の声を上げた柳生だが、それは歌舞伎役者のごとく『ちょいと待たれい』の形で、おっとっと。と足を止める嵌めになった。 「ひぃぃいい――ッ! 地雷、踏まれましたぁあ!」 丸井も焦って止まり、両手で顔を覆う。 「やあ、真田。遅かったね」 玲瓏たる声が、かろやかに幸村の口から発せられる。 (ああ、このバカっ。鈍感!) (見てます、見てますよ。幸村君の厳寒眼差しが、手元に注がれてますよ!) 丸井は耐え切れず柳生の背に隠れた。 「――呼び止められたって…それのことかな……」 「うむ? ああ、これか…」 真田は手に持っていた、チョコの箱を掲げる。 (あれほど幸村の絶対零度オーラにも気づかないか! 大物だな、弦一郎っ) (おいば、尊敬しちょおよ。――お前は立派な漢じゃった) 「お前にだそうだ。生徒会役員の女性全員から」 「オレに?」 幸村は拍子抜けしたように目を丸くして、それを受け取った。 「隊長――っ! 不発しましたぁあっ!」 「ちぃ。運のいいヤツめっ」 「キャラが変わってるぞ! 丸井、柳生っ!」 「そいゆう柳も落ち着きんしゃいっ!」 ナイスボケをかまされた四人は、緊張の糸が一気に切れたこともあって操状態に陥る。おかげで幸村の冷たく光る双眸が、こちらを向いていることに気づくのが遅れた。 「――お前達はそこで何をやっているんだ? 終ったのか」
部活終了後。 テニスコート内には、まるで屍のようにレギュラー部員が転がっていた。 死神の鎌――もとい、テニスラケットを片手に、毅然と立つ幸村が「今日はここまで!」と、ようやっと終了を宣言。 一般部員に限っては、隅っこで固まって声さえ出せないでいる。 ジャージの上を肩に羽織っただけの幸村は、悠然とそれを翻し去って行った。なんとも優美で絵になる図ではあるが、地べたに転がっている人間からしてみれば悪魔にしか見えない。 「――あの人は化け物っすか……」 息も絶え絶えの赤也は、隣でなんとか上体を起こしたジャッカルに尋ねる。 「恐い…恐いよう。日本には鬼がいるよう」 「泣かないで下さいよ、先輩。オレだって…オレだって…」 総当たり戦だったはずだが、何故か部長総当り戦となり全員がコテンパに敗れた。しかも、コート内を否応なく端から端へと走らされた挙句に、ちょっとでも集中力が途切れたとわかるや否や、鋭い打球が腹に決まるのだ。 ただし、真田が人並み外れた体力の持ち主だったから、と言うだけで扱いが別格だったわけではない。 「お前等、早く退かないと一年が整備できないだろう」 威厳ある声音だが、そう言う真田だとて立っているのがやっとというような状態だった。 それを合図に、全員がのろのろと起き上がる。 「ううう〜、仁王、背負ってくれい」 「金とるぞ、丸井」 圧し掛かる少年を、押しのける力もなく、仁王は重い足を引きずってベンチまで移動した。 息も絶え絶えと座り込むレギュラー陣を前に、真田はさすがに異変を感じたようだった。 「今日は有意義な部活だった。――が、何だか幸村の機嫌が少しばかり悪くなかったろうか」 まったくもってわからないと、首を傾げられて、二年全員が真田に殺意を抱いたのは言うまでもない。 「弦一郎よ…」 「なんだ?」 腹に据えかねたのか、珍しく柳が剣呑な表情を浮かべて真田を睨んだ。 「ずばり聞く。下駄箱にチョコがあったな」 「は? チョコ?」 「しらばっくれるなよ、真田! 幸村に渡した物以外にあるだろう? まさか生徒会役員が下駄箱に置いたなんて言うなよっ」 丸井が憤慨して食って掛かる。先ほどの地雷は確かに不発だったが、幸村がそれで誤魔化されるはずがないのだ。 「下駄箱…なんで知っているんだ? と、いうかあれの中身はチョコレートなのか?」 「はあっ?」 「落ち着きたまえ、丸井君!」 コート内で、幸村に散々虐められた丸井は、泣き出しそうな顔で切れた。慌てて柳生が窘める。 「何を怒っているのかは知らんが、あれは人違いでオレの下駄箱に入っていたものだ。持ち主に返すためにも、あとでカードにあった待ち合わせ場所に行くつもりだ」 これには全員二の句が告げなかった。 がくりと脱力する二年をおいて、まだ何も知らない赤也が素っ頓狂な声を上げる。 「カードに宛名は無かったんすか?」 「無かった」 「でも、真田副部長の下駄箱にあったんすよね?」 「オレには貰う所以が無いものだ。間違えたに決まっている。まったく、下駄箱に食い物を置く神経がわからんな」 ――いや、お前の神経のほうがわからない。 全員が心の中で突っ込んだが、惜しいかな。誰も声に出せるほどの気力が残っていなかった。 「と、言う訳で悪いがオレは先に上がる。食べ物なら尚更、早く返さねばな。あとはよろしく頼むぞ」 ラケットをバッグに仕舞うと、真田は片手を上げて颯爽とでて行く。残された面子は、再び地に倒れ伏した。
「お帰り、柳」 幸村は膝に部誌を乗せ、シャーペンを走らせている。 「…寒いから、閉めてくれないか?」 「ああ、すまない」 逃げ出すことを諦めて、柳は戸を閉めた。 (どうしてこういう時に限ってカギ当番なんだ……) 己の運の悪さに長嘆しながら、柳はロッカーを開ける。 「幸村はまだ帰らないのか?」 「――ああ、オレが部室を閉めて帰るからいいよ」 もしもの時も考慮して、カギは部長も随時預かりになっている。 柳は大きく息を吸い込むと、幸村に向き合った。 「一緒に帰るか? 部誌ももう書き終わるだろう」 「いや……真田を待ってるんだ」 「さ…真田は帰ったんじゃ……」 「うん。でも今日一緒に帰る約束をしてたから…先に帰っててくれとは言われたんだけどね…待ってるよ、って無理を言ってみた」 ポキ。 ポキ。 ポキポキポキポキポキポキ。 (なんか凄く折れてるぞ! 幸村!) 「ああ、柔な芯だな。今度からHBにしよう……」 「そう言う問題なのか!」 「――――何がだ?」 ひやり、と問われて、柳は顔面蒼白になって口を手で抑えた。 「あいにくと心の中の声は聞こえない」 「そうか…今度、HBの芯をプレゼントするよ」 「柳よ……」 「なんだ?」 寒さのためでなく震える手で、なんとかネクタイを結ぶと、セーターを被る。 「オレを野暮天だと思うか?」 「約束に厚いだけだろう」 「真田の好みって、知ってるかい?」 話を逸らそうと試みるも、どうやら逃がしてはくれないらしい。柳は腹を括って、向き合った。 「知ってる。お前だ」 「顔はね」 「中身もひっくるめてだ」 「性別さえ、女ならね」 そこで会話は途切れた。お前みたいな女がいたらそれこそ驚異だ。とは、常々考えている柳である。 「……いつになくナーバスだな」 「真田だって男だ。思春期真っ只中。女性や、女性の体に興味を示すだろうし、セックスだってしたいだろうなあって思うとね」 「――中身はまだ幼稚園のレベルだと思うがな。婚前交渉なんかしようものなら切腹モノだろうし、付き合うなら結婚を前提としてから、と真顔で言うようなヤツだ」 「―――――………」 「今は部活が楽しい時期だろうし、副部長になり、全国三連覇を期待されている。そんな中、女性と交際などとありえん。心配するな、幸村(と、言うか当たるな。頼むから)」 「ごめん。ちょっと、近頃色々あってね。――わかってはいるんだけどさ。そうなると…もしオレがテニスできなくなった時。真田にとってオレの価値ってあるんだろうかって思ったら、やるせなくなった」 「幸村?」 「――ふふ。例えば、だよ」 何気なく、幸村は柳の戸惑う視線から逃げた。 「幸村、お前本気で……」 遠くから近づいてくる足音が、静かな室内に響く。軽快な駆け足は、ドアの前で止まった。 「すまない! 遅れたっ」 寒さのためか幾分頬を赤くした真田がドアを開けた。 「なんだ、柳も居たのか」 一人だけだと思っていた室内に、柳を見つけて少しばかり安堵の息をついたようだ。 「カギ当番だからな」 幸村の側に行くと、その手から部誌を取り上げた。 「もう、書いてあるんだろう?」 「え、ああ――」 ばつ悪気に、幸村は頷く。 「オレが顧問に出しておくから」 「――すまない」 柳の気遣いに、幸村は立ち上がって椅子を片付けた。そしてコートを羽織る。 「真田はもう…そのいいの?」 「ああ、待たせてすまなかった」 いつもと変わらぬ真田の様子に、幸村はホッとして肩から力を抜いた。 「じゃあ、先に帰る。ありがとう、柳」 「雪が降りそうな空模様だ、早く帰れよ」 「ああ、二人も気をつけて」 寄り添うように出て行った二人を見送り、柳はなんともいえない気持ちになった。 どちらも大切な仲間であり、友人だ。 (―――このままでは、いけないのだろうか) 人と人は出会い。別れを繰り返す。 それでも、神様というのは随分な酷なものだ。 変わらなきゃいけないものだとしても、その先にあるものが優しい未来であるよう、心から祈るしか、自分にはできない。 『――オレ達ずっとパートナーでいような。二人で組めば、いつか世界だって相手にできる』 懐かしく、耳に蘇る。変声期前の、親友だった少年の高い声。 首を振ると、柳はコートを着込んだ。 「…そう言えば、あいつ。三十個以上のチョコをどうしたんだ?」 不思議に思い、部室を見渡すと紙袋が片隅に置いてあった。 ひらり、と羽毛のようなそれが肩に落ちてくる。 息は面白いぐらいに真っ白い。吐き出すと、空を見上げた。 手を差し出す。手袋についた結晶は、溶けるまでに間があり。降り出し始めの雪の形を、綺麗に留めてくれる。 「綺麗だな…降り始めの雪って…」 幸村がまるで幼児のように、頬を緩めるさまが可愛くて、真田は自然と笑みが漏れた。 「天気予報が当たったな」 「傘、持ってるのか? 真田」 「折りたたみなら。差すか?」 「まだいいよ。ねえ、雪が花弁のようだ」 顔を真上に上げて、嬉しそうに魅入った。頬に赤みが差し、濡れた長い睫が光っている。 「こら、ちゃんと前を向いて歩け。転ぶぞ」 「だって、勿体ないよ。今年初の雪じゃないか」 危なげな足取りで、前を歩く幸村があまりに楽しそうで。真田は転ばないように、目を配りながらも止めようとは思わなかった。 「機嫌、直ったな」 「悪かった。月曜に皆に謝るよ」 八つ当たりした自覚はあったようだ。甘えたようにふて腐れる。他のメンバーの前では決して見せない表情だと、真田は知っていた。機嫌の直った幸村に、ほっと胸を撫で下ろし、今ならいいだろう、とバッグから袋の包みを取り出す。 「え? なに、また誰かに頼まれたのか?」 いい気分に水を差されて、幸村は愁眉を寄せた。 「いいや、オレからだ。こういうものを買ったことなどなかったからな。買うの恥ずかしかったぞ」 「―――は?」 門までの道のり。蕾がつき始めた桜並木の下で、幸村は立ち止まった。大分遅い時間なので、辺りに人気は無い。 まるで二人を覆い隠すように、雪が強まった。 「そこのコンビニでこれを買ってたから遅くなってしまった。すまないな」 「ちょ…ちょっと待ってよ。真田が…買った? チョコ…だよね」 白と青の和紙に包まれ金色のリボンのかかったそれは、どこからどう見ても、この時期あちこちで見かけるバレンタイン用のチョコレートだ。案の定、真田は頷いた。 「あの、真田。今日ってなんの日か知ってる?」 「それが…先ほどまでまったく知らなかったのだ。まさか二月十四日にそんな意味があるなどと…」 照れ臭そうに、帽子を被りなおす。幸村はますます困惑した。 「先ほど…って、誰になんて聞いたんだ」 「うむ。下駄箱にあったチョコレートの箱の持ち主だ。貰う理由が無いと言ったら、その女生徒――実は、先日不貞の輩に囲まれている所を助けた先輩でな。『お礼』だって言うのだ」 「そんなことあったんだ。で、バレンタインって言うのはどういう日だって教えて貰ったわけ?」 「前々から気になってはいたのだ。この時期になると、何故か皆チョコレートを持っていたり、あげたりしているのは知っていたのでな。しかし自分には関係の無いことだと思っていた。それで、先輩に尋ねてみたのだ。この時期のチョコレートには一体なんの意味があるんですか? とな」 「―――はあ」 幸村はその見知らぬ先輩に同情を覚えた。まさか今時、このような天然記念物クラスの野暮がいるとは考えもしなかっただろう。テレビはNHKのニュースぐらいしか見ず。雑誌といえばテニスか剣道、あるいは書道の類。あとは新聞だけで、世情を知る真田である。 (しかし、バレンタインを知らなかったとは……) 呆れを通り越して感心してしまう。本当に俗世に疎い、修験者のような男だ。 「そしたら、こう教えて貰った。お世話になった人に、ありがとうの気持ちを込めて送るものだ――と」 チョコレートを上げた本人を前に、まさか『女性からの愛の告白をする日』とは言えなかったらしい。 (当たり前だよな…) 隣を盗み見れば、照れ臭そうに笑って返された。 「そのような行事があるとは知らなかった」 本当のことを教えるべきか、迷う。その先輩とやらも、きっと今頃罪悪感でいっぱいになっていることだろう。 (――顔を真っ赤にして、焦って買ったんだろうから。それも仕方ないか) 躊躇していると、その手を真田に捕まれて、手渡された。 「だから、オレに?」 「うむ。その…」 歯切れ悪く、俯く。 雪のためだけでないだろう。精悍な頬に朱が広がった。 「ありがとうの、気持ちを込めて」 「―――――っ」 ドクン、と鼓動が知らず跳ねた。 胸の奥から堰を切ったように、熱いものが込み上げてくる。 「どうした、幸村? その、迷惑だったか」 急に顔を歪めた自分に気づき、真田は包みを持ってうろたえる。 焦ってお礼を言おうと、口を開いて――言葉にならないことに気づいた。 その帽子のツバを、手で掴んで下に引く。 取られまいと、無意識に頭を下げる真田の、太い首に力いっぱい抱きついた。 「幸村?」 顔にかかる雪が、熱で溶けて水になった。 「あり……」 声にならない。詰まったのは、冷気で咽がやられたから。 そう、あとで言い訳をしようと、片隅で考えながら。 あと、もう少し。 もう少しだけ。 この温もりを、どうか独り占めさせて。 静かに降り注ぐ、雪に願った。 |