八話








 いきなり目が覚めた。

 数度瞬きをし、部屋を見ればまだ暗い。
 ナルトは汗ばんでいる己の額に手をやった。どうやら酷く寝汗をかいたらしい。
 何か夢を見ていたような気がしないでもないが、それは瞼を開けたと同時に霧散した。時計を見ればまだ四時過ぎで、どうりで暗いはずだと身を起こす。

「――――うわ」

 突然振動を感じて、慌てて腹に手をやった。そこはふっくらと膨らみを見せている。

「……起しちまったな。わりぃ」

 五ヶ月を過ぎたあたりから、腹部がわかるほどに膨らんできた。それと同時に胎動も感じ始め、日々成長する我が子が愛しいやら不思議やらでナルトはなにやら複雑な気分になる。

 ―――どうしてこんな中に命が入ってるんだってば?

 愛しげに摩りながらも、子供のことを考えれば同時に憂いも生ずる。既に安定期には入った。しかし、いまだナルトは大社から出ることなくここにいる。

 波の国から直接神殿を尋ねたナルトだったが、綱手から話が通っていたのか、待ち構えていたかのように出迎えられた。
 そもそも十五の年で巫女と認知されて以来、年に一度ある火の国地鎮祭には必ず呼ばれ、巫女舞の奉納を義務付けられていた。それは、巫女としての自覚の足りないナルトが、唯一己の責任の重さを弁えていた事柄でもある。
 奉納舞とはすなわち、血継限界の者達の鎮魂際でもあった。

 なので、社務の者達とは一様に顔見知りではある。ちなみにその際、他の国の巫女もお忍びで来るものだから、本来なら交友の無い国の巫女とも顔見知りになる場所でもある
 だがその事柄については、一切の黙秘事であり。
 相手が火影と言えども、漏らしてはならぬ事情だった。
 例えば戦中の国同士の巫女であっても、人間の争そいごとなど関知すべきことではないという、暗黙の掟が存在しているからだ。


 社の奥にある神殿に務めているのは全て巫女で、神主といえども男が入ることは許されていない。その更に奥の部屋をナルトはあてがわれていた。随分上等な部屋だったので、最初通された時には身構えてしまったほどだ。

 身の回りのことをしてくれる巫女を五人もつけられ、何かといえば年齢不詳の巫女頭が世話を焼く。その上にも下にも置かぬ歓迎ぶりに、雑草育ちのナルトはどう対応していいのやら困ったものだったが、慣れてしまえばそう気を張ることもなくなった。

 つわりの頃は、朝酷くて起き上がれなかったり、眩暈が酷かったりしたもので、誰かしらが付き添って心配してくるのはありがたかった。
 普通の妊婦が実家に戻って産むという理由が、ほんのちょっとわかった気がする。
 寂しかったり不安になることも勿論あったが、そんな時は何を察してか巫女頭が茶道具を持って現れ、のんびりと話し相手になってくるのだ。そして、出産育児についての知識を分けてくれる。頼れる母親や親戚のいないナルトには、本当に嬉しいことばかりだ。それに各国の巫女の特徴とその歴史。表には出てこない裏の歴史なんてものまで細かく学習させられた。それが中々衝撃的だったために、ずるずると居座ってしまったが―――そしてそれを巫女達は勧めるのだが―――やはり気は塞ぐ。

「―――サスケ、心配してるよな」

 寝所を出て寝汗に濡れた寝巻きを着替えた。
 ふと長い渡り廊下を歩いていくる気配を感じた。見回りの者だろうか、と首を傾げたが、ナルトの部屋の前で止まる。襖の向こうからそっと声がかけられた。

「―――いかがしましたか、姫様」
「村雨さん」

 声の主は巫女頭のものであった。村雨という、男のような名前だが、れっきとした女性だ。本名ではなく受け継いできた号なのだそうだ。刀匠の家系の出だそうで、本来なら女性がなることは許されない刀打ちを、無性となることで継ぐことを許されたのだそうだ。そして、火の神殿で唯一女性の守り刀を打てる人物でもある。

「村雨さんこそ、どうしたってば?」

 襖を開ければ、灯りを手にした女性が立っていた。白金のふさやかな髪を肩に垂らし、柔和な表情も優しく、たおやかで美しい女性だ。女性にしては中々背も高い。

 白の小内に赤茶の袴姿で彼女は現れた。

「姫様がこのような時間に動いていたようなので、なにか体調が芳しくないのかと思いました。大丈夫ですか?」
「あれ、煩かったってば?」
「いいえ、貴女に異変があればわかるものですから……」
「そうなんだってば?」
「何もなければ、お邪魔して申し訳ありません」
「や、こっちこそごめんってばよ。なんか、夢見が悪かったのか目が覚めちゃって……」
「心配ごとでもおありですか? ここに来て初めてのことですね」

 小鳥のように首を傾げられた。

「大丈夫だってばよ。起こしてごめん」
「いいえ―――でも、何かお悩みなことがありましたなら相談してくださいね」

 薄暗い中、不安がじっと湧いてきて、ナルトは思わず口にしていた。

「……あのさ。オレの腹の中に九尾が居るじゃん」
「おりますね」
「赤ちゃん…大丈夫かな。なんかこの頃……九尾が大人しくてさ」

 村雨の表情が曇った。腹に巨大な化け物を封印されている者など滅多にいないのだから、聞かれたとて答えがないのはナルトだとてわかっている。ただ、どうしても気になっていたのだ。

「ごめん…どうしようもないってばよね。うん。忘れてくれ」
「いいえ、ご不安はごもっともです。そうですね…何か温かいお飲み物でも用意いたしましょうか」
「や、そんな悪いってばよ」
「お気になさらず。年寄りは朝が早いんですよ」

 くすくすと笑われてナルトは困ってしまう。見た目はどう見ても二十代後半なのだが、たまにこうして実年齢のわからない発言をされるのだ。

 どうも彼女は、ナルトの母親も、その母親もよく知っているらしい――と言うか、それ以上に年上のような物言いをよくしている。
 綱手を知っているだけに驚くことはないのかもしれないが、まさかこのような可憐な女性を「ババア」呼ばわりはできない。そして困っていることのもうひとつが、彼女が自分を『姫』と呼ぶことだ。それこそ何度も「止めてくれ」とお願いしているのだが、にっこり笑って「わかりましたわ、姫様」ときている。
 三ヶ月も過ぎれば諦めた。

「じゃあ…ちょっと頼もうかな」
「はい。では……あら?」
「どうしたってば?」

 村雨が怪訝な表情で宙を睨む。暫くすると、ふいと穏やかさを戻した。

「今、私が張ってます結界が破られました。姫様に来客のようですね。朝餉の用意、追加して参りますわ」
「来客?」
「今度からは玄関から、ちゃんと昼間にいらっしゃい。と、伝えてください」

 朗らかに笑むと、村雨は出て行った。

「――――!」

 知った気配に気づき、ナルトは部屋を出て中庭に降りる。
 東の空は白々と仄かに光り、鳥があちこちから飛び立ちはじめる。青白い世界の中。ナルトはつっかけで、樹齢百年を越える喬木へと急いだ。

 さわさわと、風に揺れては朝露が降って来る。その雫ひとつひとつがとても清々しく、辺りは静謐に満ちていた。

 その根元に男が座り込んでいる。

 近寄るにつれて、ナルトの足が鈍くなった。かすかに血の匂いがする。神域は穢れを嫌うのだから、この状態で結界を破ったとなるとかなりの力を使ったに違いない。
 その為か、ケガの為か、男はぐったりとして動かないでいた。

 あと数歩という所でとうとう足を止めてしまう。

 ナルトはぐっと息を詰めた。

「―――サスケ……」

 近くで見れば満身創痍のその姿に、何事かと尋ねたかったが、今更何を言えばいいのかわからずに口篭もってしまう。
 なんとも言えない空気が、二人の間に流れた。

 頭上に光の粒が落ちてきて、ナルトの髪や衣服をしっとりと濡らした。朝露と思ったそれは、ぱらぱらと降る雨だった。
 空を見上げれば、青いものが覗き、白い雲は朝日にぼんやりと輝いている。

(―――天気雨?)

「―――オレは……」

 はっとしてサスケを見た。彼は肩膝を抱えた姿勢で、地に視線を落としたままだ。

「オレは、ずっと復讐を誓って生きてきた。その為なら悪魔に魂さえ売っただろう。それ以外の生き方なんて…両親の死をこの目で見た時から考えられなかった」
「―――――………」
「強くなりたかった。ただそれだけを望んだ。アイツを殺す力を、うちはの誇りを取り戻すためにも、オレは余所見もせずに突っ走った。立ちはだかる者、邪魔な者を殺すことさえ躊躇わない。躊躇うことは許されないと――思っていた」

 サスケの髪から雫が落ちる。ナルトの頬にも雨が伝った。

「何処から…違ったんだろうな。死んだ者でも、名誉でもなく。オレは護る者を見つけた。そしてそれがジレンマの原因にもなった。馴れ合うことで、非情にも冷徹にもなれなくなって…オレは弱くなっていくと思ったんだ。その度に、お前やサクラを恨んだ。まっすぐ強くなっていくお前を間近で見て…恐くなった。弱い自分が許せない、弱い自分を認めるということは、そのまま死ねと言われたに等しいから……」

 己を嘲笑う、サスケの姿は弱々しい。

「だけど…冷徹でも非情でなくても、お前は強いんだもんな。オレの求めるものが何なのか――イタチがオレでなくお前を欲したことで見失ってたんだ。そして思い知った。オレは――イタチに認めて貰いたかったんだ。強さを、存在を、アイツに知らしめたかった。……ただ、それだけだったんだ」

 サスケが顔を上げた。立ち尽くす、ナルトに紺青の瞳を向ける。

「―――アイツが死んで、オレは何も残ってないことに気づいた。この己に流れる血さえ疎ましかった。あとに残ったのは充足感でなく――本当の孤独だった」
「それだけか? 本当に残ったのはそれだけだったってば?」

 堪りかねて口を挟めば、男はゆっくりと表情を和らげた。

「いいや――お前がいたから。後ろにお前がいて…手を差し伸べてくれたから。一人じゃない、って教えてくれたから……」
「サスケ…っ」

 飛びつくように抱きつく。大きく骨ばった手が、ナルトの頭を撫でた。

「オレはお前がいないとダメなんだ。そうしたのはお前だし…ずっと一緒にいてくれるって言ったのもお前だろう。約束破るなよ……」
「うん。うん。一緒に居るって…一人じゃないって言ったってば。オレも…一人じゃないって……。オレが強くなったのは、お前がいたからだってばよ。ただ…お前に認めてもらいたかっただけだって……」
「一緒にいよう。ずっと、ずっと共に生きよう。オレがお前を護る、里を護る。それはお前だけのためじゃない。オレのためだ。オレの幸せのためなんだ……」
「サスケ」
「お前と共にあることが、オレの幸せなんだ」

 声が掠れている。抱きついた躰が震えている。

 それらを感じて、胸のあたりが絞られるように痛み。熱の固まりが込み上げてくる。顔を上げれば、目元がうっすらと赤い、感涙に潤んだ双眸がじっとこちらを見ている。

 ごちゃごちゃと考えていたものが、躰中を縛り付けていた柵が、一斉に霧散した気がした。

 勢いに任せて口づける。相手の唇は冷たい。何度か繰り返すうちに、熱を帯びていった。
 サスケは、ナルトを力任せに抱き寄せようとしたのだが、振動を感じて思わず身を退いた。

「―――あ。ああ、そうだな。お前を忘れちゃいけないってば。サスケ、二人じゃないってばよ。もう」

 いきなり挙動不審になったサスケに、ナルトは微笑み返す。その手を取って、己の腹へと当てた。

「な、パパ?」

 言葉が出てこない。サスケの視点は膨らんだ腹に注がれたままだ。初めて、実感した子供の存在。手から伝わる温もりと振動に、恐れ多いものでも触れているかのように緊張した。

 ―――ゴロリ。

「…っ! う…動いた!」
「うん。もうそろそろ六ヶ月近いし」
「動いた」
「生きてるんだから、当たり前だってばよ」
「オレの…子だよな?」
「……殴っていいか?」
「………………」

 突然、ボタボタとサスケの目から大粒の涙が零れたものだから、ナルトはぎょっとした。

「サ…サスケ?」

 それはあとからあとから流れ出た。びっくりして、手で拭ってやるも追いつかない。

「ナルト……」
「うん」
「オレ、お前に見捨てられないよう、強く在り続けるから…」
「うん」
「結婚してくれ…ください」
「お前…時々本当に…可愛いよな」

 破顔すると、ナルトはその頭をよしよしと撫でてやった。

「強い人間だからって好きになるわけじゃないじゃん。オレはお前だから、好きになったんだってばよ」

 陽がまっすぐと差込み、葉の間から零れる。

 朝日が昇ると、緑色の空に、七色の橋が綺麗に円を描いていた。

 

 

 

 

 










九話

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