三話






 一緒に行くというサクラを振り切って、ナルトはある家を訪れた。
 深呼吸を繰り返してから呼び鈴を押す。

 中から出て来たのは昔からちっとも変わらない笑顔のイルカであった。
 アカデミー時代の恩師というべき人物だが、ナルトの中にはそれ以上の感慨の方が大きい。親とか兄とか、名など付けられぬが、『家族』というのならば彼が一番に頭に浮かぶ。

 それほど信頼し、心を砕いている相手だ。今の自分が居るために欠かせない人物であった。
 いきなり訪れたにも関わらず、イルカはすぐに家の中へと招きいれてくれた。

 女性姿で、尚且つ思いつめたようなナルトを訝しく思っているだろうが、問い質すこともそれを顔に出すこともしない。
 イルカとは自然体で優しい人間なのだという事をナルトは改めて知った。幼い頃はそんな包むような大きい優しさに気づきもせずによくはむかったものである。

「おや、珍しいな。ナルトがここに連絡もなく来るなんて」
 通された居間には、これまた恩師と呼べる人物が新聞を広げて茶を啜っていた。

 暢気な声をかける男は、惚けた雰囲気とは裏腹に、肩書きだけは滅法物騒だ。

「カカシ先生。暗部の方はいいのかよ? こんな平日の昼間からゴロゴロしてるってことはさ」

 軽く挨拶代わりの嫌味にも、堪えることなくカカシは茶を片手に「いいのいいの」と無造作に振って返す。
 スリーマンセル時代の上官でもあるカカシは、初めて受け持った生徒が中忍に上がると同時に暗殺戦術特殊部隊部隊長に就任して現在に至っている。
 里でも指折りの実力者であり、権力者と言えよう。
 そんな男がアカデミーの一教師であるイルカの家に居座ってもう何年だろうか。
 ずるずると何時の間にか居座り、気づいたら同居していたので、誰も何も言えずに今に至っている。

 ここはナルトの数少ない避難場所でもあった。

 さすがにもう悩みを包み隠さず言える立場でも年齢でもないのだが、ここに来ればただ笑って迎えてくれる。言葉などなくとも、ナルトがいくら『なにか』をしでかし苦悩していても、彼等の態度は変わらずそこあった。

「ナルト、座りなさい。お茶入れるから。葵屋の羊羹もあるよ」
「ありがとうってば」

 イルカはナルトに座布団を薦めると、温めた湯のみに良い香りのする茎茶を注ぎ出してくれた。それを受け取るとちょっとだけ口をつけて放した。

「夕飯食ってくか?」
「うーん。今日は帰るってば」

 そうか、と少々寂しそうにイルカが応じる。申し訳無い気持ちになったが今のナルトはほとんどの物が食べられない状態だった。

 いわゆる『つわり』だ。

 当初は眩暈と少々気持ち悪くなるだけだったのが、体とは正直なもので、妊娠とキチンと発覚した時点から、食べた物を遡って吐くというとてつもない苦しい試練が訪れた。体が吐くモードになっているので水も飲めない。
 今は大分治まっているのだが、やはりお茶をガブ飲みする事は控えた。ここで吐いてなんていられない。
 視点定まらずそわそわするナルトに、さすがに心配になったイルカが口を開いた。

「ナルト、なんか話があるのか?」

 心配気に問われて、決意も新たに顔を上げて恩師二人を見た。
 そのただならぬ気配にカカシも新聞を畳む。

「あのってば…オレ…うん、話っていうか報告があって…先生達って親代わりみたいなものだし――ちゃんと言っとこうと思って…」

 しどろもどろだが語り始めたナルトに、恩師二人は顔を見合わせた。なんとなくなんとなくだが――

「まるで結婚の報告みたいだの〜…ナルト」

 ガチャン。

 サラリと突っ込んだカカシの発言で、イルカとナルト二人の湯呑が音を立てた。イルカの方は中が零れてしまっている。慌てて布巾で拭う。

 ナルトといえば、仮にも上忍のくせにおもいっきり顔に羞恥を表して紅潮した。

「け…結婚するのか…ナルト……」

 平静を装うとしながらも声に動揺を隠せないイルカは、ぎこちない笑みを浮べている。
 二十歳。早いと言えば早いが、そんな話が無いとも言えない年だ。

「ち…違うってばよ……」
「違うわりにはなんか慌ててなーい? っていうかさーこの頃お前裏で事務処理ばっかしてるよね? オレが知ってる限りずっと女の方の姿で」

 惚けているわりには鋭い指摘に冷や汗が止まらない。なにやらカカシは全部お見通しのような気がしてくる。

「お前が――女の性も持っているのは知ってるよ。大体お前の母親もオレ知ってるし……」
「え? カカシ先生オレの母さんも知ってるってば?」

 父親の方がカカシの恩師だという事は聞いていたが、母親の方まで面識があったとは初耳であった。
 ちなみに自分の性質については、初潮のあった時点でこの二人に相談しているので熟知されている。

「知ってる…かな?」
「微妙な返事だってばね」
「まあそれより…なんでずっと女な訳? お前普段から女でいた試しないじゃん。オレは男だーっって」
「まあ、そうなんだけど……」
「男に戻れなくなったのかい?」

 ずばり、と聞かれナルトは焦ったが、ここが正念場だと口を開いた――が、

「まあ、羊羹でも食べて…あ、お茶熱いの入れようか? なんだ全然飲んでないじゃないか」

 いきなりイルカが割って入ってきた。
 なにやら雲行きの怪しい話に合の手を入れたくなったのだろう。
 羊羹をずい、と出された。それを目にした途端、口の中で味を想像してしまい、嘔吐感が一気に込み上げてくる。

「―――っ!」

 手で慌てて口を抑えると、そのまま立ち上がりダッシュでトイレに駆け込んでいった。
 バタン、と勢いよく閉じられた音を聞き、イルカの顔は真っ青に。カカシは「あらら〜」と呆れ顔で額に手をやった。

「ナ……ナルト―――っ?」

 イルカの悲痛な叫びが、家に木霊した。
 それからすぐに、あとを追う。
 確認をとってからトレイのドアを開けたイルカは、苦しそうにうめきながら吐く女の背を慌てて摩り。
 なんとか治まったと同時に、抱えて居間に戻ってきて寝かせた。
 部屋はしんと静まり返って、痛い沈黙だけが場を支配している。

「―――ごめんね……先生達……」
「気分悪いなら喋らなくていいぞ。ゆっくり休め」

 虚ろな表情のナルトの頭を、イルカは優しく撫でてやる。目を閉じてその感触を堪能すると、小さい声でもう一度「迷惑かけてごめんってばよ」と呟いた。

「――――何ヶ月目だい? ナルト」
「カカシさん!」
「―――八週目」

 はっきりと、ナルトは答える。それは肯定の意味だ。

 瞬間、イルカの百面相は見物であった。

 まるで雷に打たれたかのような驚愕を表したかと思うと、青くなり赤くなり―――苦い顔で俯く。

「病院行ったのか?」

 そんなイルカにお構いなしに、カカシの質問は淡々と続いた。

「今日の朝早くに……赤ちゃん…エコーで見せて貰ったってばよ」

 恥じらいを浮べたその顔は、今までカカシが見てきたどんな表情よりも柔らかくどこかしら慈愛に満ちていた。
 どこが変わったとは言えないが、ナルトの中で何かが確実に育みはじめているのが見て取れる。
 カカシは一度だけ笑みを浮べると「そっか」と頷き、次いで真剣な顔で「―――で、どうするんだ?」と聞いた。

「産むってばよ」
「ばっ! ナルトっ!」

 やっと声を出す事に成功したイルカが、枕下に詰め寄った。

「産むって…そんな簡単に…っ!」
「産まなきゃ、どうするってば」
「う……っ」
「イルカ先生落ち着いて。ナルトを責めてもしょうがない。こいつの顔を見れば生半可な決心で言った事じゃないこと――わかるでしょう」
「それは…っ…すみません。まだ混乱しているようです」
「はい、深呼吸深呼吸」
「すーはーすーはー…」

 素直に応じるイルカの背を、ぽんと叩く。

「はい、言いたい事をどうぞ」

「相手は誰だ――――っ!」

 イルカ、本日第二の叫びはナルトとカカシ二人の鼓膜を震わした。思わず揃って首を竦めて、同時に恐る恐る伺う。

「そ…それは秘密だってばよ」
「秘密ってなんだ! ナルトっ! 言えない相手なのか? と言うか――相手はお前が妊娠したことを知っているのか?」
「――――……」
「何で目を逸らすんだ。ちゃんと答えなさい!」

 もう気分は「ウチの子に限って」なイルカであったが、ナルトの妊娠を受け止めると同時に、現実的なことに頭が動き出したらしい。

「言ってない…ってば」
「言えてないの間違いじゃなーい?」
「カカシ先生は黙ってて下さい。ナルト――ちゃんと答えなさい。言ってないってどういう事だ? お前はそいつとキチンとするつもりはあるのか?」
「キチンと…」
「結婚だ。お前は子供を産むと言う。ならば、父親もいて当たり前だろう」
「―――結婚は…考えてないってば」
「じゃあ、どうするつもりだ」
「一人で…産んで…」
「ふざけるなっ!」

 久し振りの怒声に、ナルトが体を震わした。

「どうして一人で産もうなんて考えてるんだ? 相手に言ってもいないのに」

 イルカを制してカカシが質問を切り替える。

「言うのが恐いか? ナルト。血を残したくない、と言う身勝手な男には言えないか?」
「―――カカシ先生……」
「でもそれは早計というものだろう。妊娠っていうのは当たり前だが一人ではできない。常識的に言えば二人で責任を取らなければならないものだ。アイツにも負わせてやれ。――それともアイツには悩む権利も与えないつもりか?」
「悩む権利……」
「もし、万が一お前を傷つける返答をしたなら、オレが責任持って――事の重大さを身に染みて教えてやるから」

 まあ、そんなバカでも薄情でもないでしょ。と締めくくる。
 ナルトの心中は複雑なままだ。

(―――サスケ……)

 知ったならどうするだろう。アイツはオレが女である事さえ知らないのだ。それをいきなり妊娠しました、責任とって下さいでは詐欺である。
 だが、カカシの言う通り。そんな自分勝手な理由で、新しい命の父親を蔑ろにもできぬ。

 サスケにも知る権利、知った上でどう判断を下すかの権利があるはずだ。

 そこでサスケがどんな憤りを見せようとも、自分は受け入れなければならない。
 ただ己が傷つきたくないからと、黙って逃げ出すのは卑怯だ。

「―――ちゃんと…言う」
「そうだね。それがいいよ。――それに、ほらお前って複雑な立場だし…」
「うう…それもあった…」

 頭痛の種ばかりで居た堪れなくなる。
 だが、それなりの結論は出た。
 話が一段落したと同時に、イルカが立ち上がる。奥の部屋に消えたかと思うと、物騒な物を手に戻ってきた。

「イ…イルカ先生っ?」

 ナルトが大きく目を見開いて、その勇ましい姿に仰天する。
 手に持っているのは日本刀。鞘からスラリ、と抜くと眩い光を放った。凛と反り返る刀身は触れるだけで切れそうなほど鋭利だ。
 それを確認すると、また鞘に戻す。にっこりと爽やかな笑みを呆然と自分を見る二人に向けた。

「ちょっと、用事を思い出したので出かけます。すぐ戻ってくるので気にしないで下さい」

「する――っ! 超気にするってばっ! つーかしないほうが無理!」
「イルカ先生っ! ちょっと早まりすぎですよ!」
「いやだなあ〜。二人共何を焦ってるんだ? オレはちょっと話あいにだな」

「いや、話合いに刀はいらないってばよ!」
「大丈夫。切れ味いいから、痕は残らないよ」
「切る気満々だってばよ――っ!」
「抑えて、抑えてイルカ先生! 仮にも相手は上忍ですよ!」
「一太刀ぐらいは浴びせられます!」
「サスケにまだ言わないでってばっ!」

 そこでイルカの動きがピタリ、と止まった。肩から力を抜くと、苦い顔で振り返る。

「―――やはり、サスケか。相手は……」

「あっ!」

 最後まで黙っているつもりだったのに、つい口に出てしまった。と、いうかカカシが知っている風だったのでイルカも分かっていると思っていたのだ。
 だが、どうやら今自分は嵌められたらしい。
 見ればカカシも、やれやれと嘆息を漏らしていた。

「サスケ…サスケかあ…。いや、薄々そうじゃないかとは思っていたが――」
「イルカ先生…」
「いつから付き合っていたのかは聞かないがな…。少なくとも出会って八年だろう。だったら…やはりちゃんと話合いなさい」
「―――うん」
「アイツなら…まあ、そんな悪い展開にはならないと思うけどな――。でも、カカシさん」
「わかってます。お灸はキチンと据えますから」

 暗い笑みを浮べあう二人に、ナルトは震え上がった。思わずサスケの安否を気にしてしまう。

「あ、あのさ! カカシ先生オレの母親のこと知ってるんだろ? どんな人だか教えてくれってばよ!」

 不穏な空気を変えようと、賢明に話題を提供した。

「うーん…母親……」
「なんでそこで悩むってば」
「どうして聞きたいのさ、ナルト。今まで一度も聞いたことなかったじゃない?」
「それは…誰も知らないと思ってたから…。ただ、そのほら、オレも親になる訳だし――似るのかなあと思ったら」
「似ない方がいいんでないかなあ〜」
「は?」
「あ、いやなんでも……」

 ぽりぽりと顔を掻くと、カカシは視線を彷徨わせながら「凄いひとだったよ」と苦し紛れに言った。

「凄い?」
「うん。いろんな意味で凄い」
「へー強かったん?」
「強かったんじゃないでしょうか」
「微妙な返事ばかりするってばね」

 訝しがるナルトに、イルカも首を傾げてなんとか記憶の断片を呼び起こした。

「えらい…美人だってことは覚えているな…。それ以外は、オレまだ十二歳だったし、奥様と直接話した事は…一回だけあったか」
「会ったの?」
「うーん…親に連れられて…あの時は火影様に挨拶に行ってたのかな? 親が謁見をしている最中に、一人で中庭に居た時にお菓子くれたなあ。なんかたくさん持ってたっけ」
「お菓子たくさん? 子供好きだったのかな」
「そうかもしれん。優しい人だったよ。チョコをたくさん貰えて嬉しかった」
「そっか〜」

 ほのぼのと母親を想像し微笑みあう二人に、カカシは感じなくてもいい罪悪感で一杯になって、会話には参加しなかった。

「ナルト。今夜は泊まっていけ。そんな体のお前を一人にはできんよ」

 かけてあった毛布をイルカが掛け直す。

 ナルトは素直に頷いた。

 

 

 

 




 

 結局その後、部屋を移って寝ていたナルトの目が覚めたのは翌朝であった。
 昨夜寝たのが九時になるかならないかだったので、かなりの時間寝ていた事になる。

「…げ、十時間も寝てたってば?」

 妊娠すると眠くて仕方がなくなるものだ、とサクラに聞いてはいたがここまでとは思わなかった。
 のっそりと起き上がる。まだ眠たかったが、自宅でもないのに朝寝はできない。
 律儀に布団を畳むと、廊下に顔を出す。
 早起きのイルカならとっくに起きている時間なのだが、どうにも静まり返っており、人の動いている気配がない。
 まだ寝ているのだろうか…、と首を捻るが、ふと昨夜のイルカの乱心振りを思い出し青くなる。
 だからといって、まさか寝室を覗く訳にも行かず。迷った末に居間へと行ってみた。

 襖を開けてギョッとする。

「―――げ…っ」

 目の前に広がる惨憺たる光景に、ナルトは二の句が告げない。
 まず目にしたのは、一升瓶を抱えて寝ているイルカで、その近くでは器用にコップを持ったまま座り、寝ているカカシだ。そうして畳には酒瓶に酒の空き缶がゴロゴロ転がっている。
 呆然と立ち尽くしていると、気配に敏感なカカシがふっと顔を上げた。

「あれ…? ナルト……朝か……」
「―――ぐげえっ!」

 カカシが言い終わらぬうちに、ナルトは顔を真っ青にすると口を抑えて走っていった。すぐに、トイレのドアの開く音が聞こえる。

「ナルト!」

 こちらはナルトの事に敏感なイルカである。がばり、と起き上がると素晴らしい勢いで走り出そうとする。それをカカシがすかさずタックルで止めた。
 勢いあまって、畳に倒れる。

「な…! 何するんですか、カカシさん!」
「今のアンタが近づいたら逆効果ですよ。その匂いどうにかしないと……」
「えっ? ああ、あああ!」

 そうなのだ、部屋には日本酒の独特の匂いが充満しているし、朝方まで飲んでいたイルカだって酒臭い。

 二人は申し訳ない気持ちで、窓という窓を開けた。

 

 



「すまん、ナルト…っ!」
「いや…大丈夫だってばよ……。でも先生達どれくらい飲んだってば……」

 平謝りするイルカを見ているナルトの目は虚ろだ。気だるげに座椅子に凭れている。動きもどこか緩慢だった。

「あのあとイルカ先生が荒れちゃってねえ。飲まずにいられるかーっ! ってなって五時ぐらいまで飲んでたんだよねえ」
「カカシさん……っ」
「いででででで!」

 あっさり恥をばらされたイルカが、男の太股を容赦なく抓り上げた。

「仲いいってばね。先生達……」
「オレ達のことはどうでもいいんだ、ナルト!」
「どうでもなんて酷いなあ〜。イルカ先生の痛い愛に耐えるオレであった」
「なんでナレーション調なんだってばよ」
「ナルト、この人は放っておきなさい。そんな事よりも……」
「今度は放置プレイですか?」
「―――昨夜の刀は何処に置いたっけ……」
「ここだってば」

 あっさりとナルトが手渡す。

「あ! ナルト酷いっ」
「いや、カカシ先生なら今更傷のひとつやふたつ、関係ないでしょ?」
「なんだよー、サスケはダメでオレじゃ良いってなんだよー。差別だよー」

 いじけ始めたカカシに、ナルトはげんなりとイルカを見た。

「この人まだ酔ってんの?」
「だから放っておきなさい。それよりも! お前その体で一人暮らしはキツイだろう。ウチに来なさい。ウチに」
「うーん……そう言ってくれるのはありがたいけど…取り敢えずサスケに報告する」
「そう―――だな。うん、なるべく早い内がいいだろう」

 一晩ヤケ酒を飲んで、イルカはいくらか冷静に事態を受け入れられるようになっていた。できてしまったものを、無い事にはできないのだから即座に行動に出ねばならないだろう。

 それにはまず、相手の意思の確認だ。
 狭い里内のこと。ナルトの体の異常はすぐに誰かしらの目に止まり、人の口に上るだろう。
 その前に打つ手は打たねばならない。余計な中傷の的にされるのだけは避けたい。

(―――もしヘタな事態になったら、それこそ素顔晒して歩けなくしてやるぞ。サスケ……)

「イルカ先生。口に出ちゃってますよ、考えが…」
「え? 何か言ってました…オレ…」
「ナルトがそこで撃沈してるじゃないですか……」
「うわ、ナルト!」

 見れば本当にナルトは畳に倒れていた。

「イルカ先生…気持ちはありがたいけど…これは二人の問題だから……。サスケをミイラ男にしないで……」

 切れ切れのナルトの悲痛な声に、「でも…」と言いかけてカカシに止められた。

「ナルト、今日言うのか? 体調はどうなんだ。もう少し安定してからでも遅くないと思うが」
「今日言うって決めたから言う。あーもう昼過ぎだってばね…」 そう言うとよろよろと起き上がった。カカシが手を貸そうとしたが「病気じゃないんだから」と断られる。

「ちょっと行ってくるってばよ」

 最後ににっこりと笑って、ナルトは出ていった。
 強がりが目に見える分、二人は何とも言えない気持ちで見送る。

「……ついて行ったらダメなんですよね」
「ダメでしょ。それはプライバシーの侵害以外なんでもありませんよ、イルカ先生」
「わかってはいるんですが……」

 最後は溜め息で終った。顔中に「心配」と描いてあるイルカに、カカシは苦笑して―――仕方ない。と、口を開く。

「大丈夫ですよ。あの子はなんせ、とんでもない両親の落し種ですからね。なにがあろうとも、絶対大丈夫ですって!」
「―――とんでもないって…。四代目は素晴らしい人格者ですし、奥様もお綺麗で優しい方じゃないですか」

 瞬間、カカシは酸っぱい顔をして天を仰ぎ、唸り声を上げた。

「あの〜…昨日も思ったのですが…どうも奥方について大分美化してませんか?」
「美化? しかしチョコレートを貰ったのは事実ですよ?」
「―――多分、それはパチンコの景品です。自分じゃ食べないから目についた人間に片っ端から押し付けてたんです。実際オレも貰いました……」

 ここでカカシは大分言葉を選んだ。もういない人間とはいえ、影口みたいに言ってしまえば祟りが起きる気がするのだ。それほどまでの恐怖心…もとい、影響力のある人だった。

(いらない、って言った途端に「ガキが遠慮すんじゃねーっ!」ってムリヤリ口に突っ込まれたんだよねー)

「パ…パチンコですか? あんな綺麗な人が?」
「見た目に騙されてはいけません…。オレはあの二人のせいで早起きが絶対にできなくなったトラウマを持ってるほどです」
「はあ?」
「あ、信用してませんね! その目は!」

 カカシの法螺は有名だし、遅刻魔なのは怠慢なだけとしか思えない。
 だが、カカシは目を細めると真剣な面持ちで、語り始めた。

「―――この話は今まで誰にも言った事がありません。言ったら殺されると思ったからです…しかし…今、貴方にならやっと告白できます…」

 玄関を閉めると、イルカの肩を抱いて居間へと促した。

「あれはオレがまだ、四代目―――先生の下でスリーマンセルとして務めていた頃です」

 

 下忍の頃のカカシは、幼い内からエリートとして扱われていた為に足元を見られぬよう完璧に努める事を信条としていた。任務ともなれば、誰よりも早く集合場所に行くよう心がけていたのもその内のひとつである。特別扱いされる子供というのは、同年代からは厳しい目で見られる。ちょっとした事で揚げ足を取られるのは彼のプライドが許さなかった。
 その日の任務は朝七時集合だったのだが、体を温める時間も欲しかったので、五時半には家を出た。
 里内を目的地に向けて走っていた時である。住宅街の一角でとんでもない物を発見してしまったのだ。

 その時の光景を思い出すと今でも、恐怖に震えてしまう。

 当時カカシは五歳だ。いくら実力に長け、大人びていたとはいえ、見つけてしまった物を凝視したまま、立ち尽くすしかなかった。

「―――いや、アレは多分今見てもきっと立ち尽くすしかできないと思います…」
「……な…何を見たって言うんですか」
「素っ裸の男が、サンダルと額当てだけで縛られ、猿轡を噛まされゴミ捨て場に捨てられていたんです」
「―――はあっ?」

 まさしく「はあ?」な状態であった。

 ゴミ捨て場には夜捨てに来る住人もいるらしく、黒いゴミ袋が何個か積まれていたのだが、それに埋まるように『そんな状態の男』が居たのだ。

 幼いカカシは、幼くない頭で『SMプレイのしすぎで死んだのか?』と考え、でも死体かどうか確かめるべく近寄った。
 男は生きていた。気を失っているだけである。

 どうしようか、と迷っていると、朝もやの中、カラスが不吉な鳴き声をあちこちから上げ、白じんだ空が太陽の光で赤くなってしまった。
 人が起き出してしまう。カカシは焦った。

「見ちゃったんだね…カカシ君……」

「―――ひっ!」

 絶叫するかと思われた口を、背後から大きな手で塞がれる。

「お子ちゃまが見ちゃはダメー」

 そう言うや否や、ぐるりと体の向きを変えられた。背後で口を塞いだ男と対面して、目を見開く。
 そこに居たのは―――自分の担当教官である、のちの四代目アラシであったのだ。

「暫くそっち向いてなさい」

 この状態でもノホホンとした口調を崩さない教師に、カカシは固まったまま頭を疑問符だらけにした。
 驚愕が冷めると「先生!」と、やっと声に出す。

 振り返り教師の姿を確認すると、また絶句した。

 カカシの強靭な精神は、その時に作られたとしても過言ではないだろう。

「な…なななななななな……」
「まったく君は朝早いねえ。これからも早いのはいいけど、決してこの道だけは通ってはいけないよ」

 よいしょ、とさほど力の入ってない掛け声と共に、アラシは黒いゴミ袋を肩に担いだ。それは先ほどまでは無かった。
 ―――と、いうか裸の男の姿も無い。

「何してるんですかーっ!」
「朝早いんだから、静かに…」

「うるせーっ!」

「ぎゃっ!」

 頭上から罵声が飛ぶと同時に、ガラガラと戸が開けられ、何かが投げられた。それは見事カカシの頭にヒットしたのである。
 クワンクワンする頭で足元を見ると、文庫が一冊落ちていた。投げつけられた物らしい。次いで、見上げると、綺麗な容姿を怒りて歪ませた男が「けっ」と捨て台詞を残してピシャリと窓を閉めた。
 その顔には覚えがあった。アラシと同期の男で、つい先ごろ特別上忍の地位を得た人物だ。お祝いを言いに行ったアラシに付き合わされて、その時に紹介されたのだ。

「あーだから言ったのに〜。大丈夫? アイツってば寝ている所をムリヤリ起されると、火影でも殺しかねないんだから気をつけなきゃー」

 そう忠告されても、その男がここに住んでいるなんて初めて知ったのである。

「あの…よくわからないんですけど…その男どうする気なんですか?」
「うん? ちゃんと家に届けるよん。オレってばボランティアでゴミ屋さんやってるの」
「なんで! なんで男が裸で転がって、それを先生が持ち帰るんですか…はっ」
「あ、なんか変な想像したね? 簡単に教師を変態サンにしないように」
「変態だ…変態なんだ…」

 がたがた震える少年を前にして、アラシは頭を掻いた。

「違うってー。あのね、この男は上忍さんなのよ。しかも腕っぷしに自信のあるね。それが何をトチ狂ったか、先ほど吼えてた男の元に夜這いをかけちゃったわけ。つか――実はこの男だけじゃなくてね、けっこう多いんだよ〜。んで奴ってば容赦ないからねー、片っ端から返り討ちにした挙句、こうして捨てちゃうわけ。―――まさか地位も名誉もある男が全裸でゴミ捨て場に居るのを見過ごすわけにはいかないでしょう」

 爽やかに笑って言う内容に、カカシは目の前の教師共々、その友人にゾッとした。

「じゃあ、くれぐれも内密にねえ〜」




 

「―――と、言って四代目は去っていったのです」
「――――………じ…実話ですか」

 話終えたカカシも、聞いてしまったイルカも、気づけば咽がカラカラになっている。

 二人はしばし押し黙った。

「あとになって知ったのですが…、その夜這いをかけられていたのが、のちの奥方で―――当時は勿論誰もが男と思っていた人物なのですが、どうにもその手の誘いが多かったらしくて…しかもかーなり容赦無く乱暴な気性でしたから……」
「でで…でもですね。裸にサンダル、額当てのみって…しかも縛り?」
「二度とアホな事を考えないようにする為の制裁だったらしいです。…いや、単にあの人の趣味な気がしないでもないですが…。やはり上忍がそんな姿を見られたら自殺モノですし、過剰防衛だと言われても仕方ないようなやり方ですから…見かねた四代目が収拾してたそうなんです」
「では…、そうされてしまった上忍は、そうされたと知らない内に家に戻され解放されてたのですね?」
「甘い、甘いですよイルカ先生! 四代目に夢見すぎです! オレだってそう思って、感心して四代目に問うた事があります……」

 その時アラシは、きょとんと目を丸くして、

『なんでオレがそこまで面倒みるのさー。あのまんま、ゴミ袋を家に置いてくるだけだよ。上忍なんだから、気がつけばアッサリ抜けられるしね』

「―――って、最後は善人顔で微笑んだんですよーっ! あの人はああ――っ!」
「ひいぃぃいいいい―――っ!」

 劇画調で絶叫した二人は、そのまま肩を上下させる。

 イルカは、崩された四代目と奥方への思慕に涙した。

「オレはあの日以来、決して早起きはするまいと誓いました」
「―――ナルト…あれだけ良い子に育ってよかったですね」
「ええ……」

 最早それ以外の感想はなかった。











四話

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