ビューティフルデイズ 8話
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戻った赤澤は熱が引かず、そのままベッドから動けなくなった。 話を聞いた頼子は、厭きれて少しだけ泣いて。「キレイだった?」とだけ聞いた。 頼子以外が、観月をどう思っているのかは知らないが、来るなと言われないのならそれで良かった。 暦はいつの間にかニ月へと移っていった。 観月の病院通いは続いていたが、やはり長引くとどこか感覚が麻痺してくるもので、夜中にいきなり押し潰されそうな不安に襲われる以外は平然となっていった。赤澤もそうだった。 来る日も来る日も、二人は他愛のない話をゆっくりとする。 ただ麻薬の量が増えてくると、意識をはっきりと保つのが難しくなる。時々夢と現実の区別も危うくなるらしい。 その日は、早咲きの梅はもう咲いているらしい、と喜んで観月に話してきた。 「少しづつ春に近づいてるんだな」 「………?」 それが、最後の会話となった。 様態が急変したのは夜中だ。観月は頼子に電話で呼ばれ、慌てて病院まで走った。夜道が、信じられないほど長く遠く感じたものだ。ぶれた景色の中で、蛍光灯の下。静まり返った病室に、青白い顔の頼子が立っていた。 いつかは来ると思っていた。誰もが覚悟をしていた日が来た。わかってはいたが、誰もが無言だった。 一度、他の患者に迷惑だからと外に出された。頼子は顔をくしゃくしゃにして泣き、父親と弟はがっくりと肩を落としてソファに座っている。観月は、そこから少し離れた壁に凭れて立っていた。 いつのまにか医者が居て、淡々と説明を繰り返している。 家族控え室に移動したのは、もうどうにもならないと覚悟を決めた朝方だったか。そこで目を赤く腫らした頼子に観月は一冊のノートを手渡されたのだ。 「ずっと、書いてたみたい。あげるわ」 目だけで、何で自分に…、と訴えれば首を振られた。薄っぺらいノートが、手の中に残った。おかしいぐらいに震える手で捲ると、そこには何でもない一言日記が綴られていた。 もともと文章を書くのが得意な男ではなかったから、それは拙い走り書きが主だ。しかも三日坊主の男らしく、所々途切れていたりする。 『今朝の朝日はとてもキレイだった。ひとつひとつ、丁寧に生きてみると日々はこんなにも美しい。 立ち上がる。一番近くの公衆電話に走った。携帯を取り出して番号を呼び出し、無我夢中でダイヤルを押す。 「―――助けて下さい。助けて下さい。僕一人じゃ…耐えられません。どうか……あの人に最後の…最後の…」 受話器を持つ手が濡れているのに気づく。いつのまにか泣いていた。受話器の向こうでは、しきりなしに問い質す声。 「S医大学病院で…す」 そう答えるのが精一杯だった。 「どういう事っ! どういう事なの…っ」 二人は呆然と、観月からポツリポツリと漏らされる説明を聞いた。 木更津は頭を掻き毟る。 教えるな、と本人が言ったからとは、観月は言わなかった。言えなかった。本人の要望が無くとも、自分はきっと伝えなかったろう。 「―――最後まで、あの人を独り占めしたかったんです」 「独り占めしたかったんです。あの男の人生の殆どは僕で埋まっている。最後まで、僕のもので終る。でも――残された僕は違うかもしれない。だから、最後まで最後まで…僕も彼のものでありたかったんです」 柳沢が軽く木更津の肩を叩いた。それを合図に、観月の躰をかき抱いて泣いた。
また夜がきて、朝がきて、少しだけ容態が安定したので一人部屋へと赤澤は移された。 仕事のある木更津と柳沢は、やはり長くは休めないと去りがたくも帰っていった。仕事が終れば、また来ると強く言って。 それからまた二日経った。仕事を持っている弟と父親は昼間の間は会社に行き、病院に戻って来るという生活を始めた。観月と頼子は家族控え室に詰めている。完全看護であったが、一人部屋に移ったために夜中も側に居ることが許された。 朝と夜を含め、一日中代わる代わる仮眠を取っては赤澤を見守った。 三日目の夜中。 熱に浮かされ、悶え苦しむ赤澤の側で、まんじりともせずに観月は居た。それは周期的に襲ってきては、引くものだから引く度にぞっとする。呼吸器の音と計器の音が交互に流れ、定期的に看護師が顔を出す。看護師の間では自分の存在が謎に思われているようだが、わざわざ説明するのも莫迦らしい。 ただ四日もろくに寝ていないので、意識がぼやけ始める。小さい音なら大丈夫だろう、とボリュームを絞ってラジオをつけた。 《――…さて、次の曲です。……で、》 はっとしてラジカセに目をやる。 《――ビューティフルデイズ》 ピアノの軽やかな音色が流れ出す。何故か胸が波打った。 (これって…あの時赤澤が言ってた…曲だよな。同じ時期に同じタイトルは出ないだろうし) 興味を覚え、できる限り耳を済ましてその歌を聴いた。柔らかい女性のボーカルが、ピアノの戦慄に乗って流れる。歌詞をひとつひとつ聞いて、途中で「え」と声に出して驚いた。 想像していたような歌詞と違った。 (貴方なにを思ってこの曲を聴いたんですか) そこで次いで思い出したのは、歌詞を聞いた時の不思議な反応だった。彼は途中で「忘れてくれ」と打ち消したではないか。 「赤澤…、本当に…バカですね」 立ち上がり、髪の毛を撫でる。瞳は閉じられたまま、言葉ももう通じていない。それでも観月はずっと話し掛けていた。 光りがカーテンの間から差し込む。 ――また朝が来た。 重たい瞼をなんとか上げようと頑張る。大きく瞬かせるも、さすがに疲労が溜まっているようだ。 あれから一度だけ赤澤は発作を起こしたが、あとは静かな呼吸を維持している。 また朝を迎えられて、気が弛んだ。 椅子に腰をかけながらも、頭が傾ぐ。 霞みがかる意識からなんとか脱しようともがくが、睡魔はしつこく観月を捉えた。 閉じているのか開いているのか、自分でもわからない視界の中で赤澤の横顔が写る。薄明るくなった部屋で、白い光りに照らされた男の瞳がゆっくりとだが開いた。 少しだけ開いた瞼の下の瞳孔が、自分を見たような気がする。 (貴方の意識がなくなって、初めて貴方の声が聞けなくなることを知りました。寂しいです。―――貴方の全開の笑みが大好きだったのに、もう笑うこともできないんですよね) 聞こえているはずもないのに、呼吸器をつけていて口元はわからなかったが、目が柔らかく弛んだような気がした。 そして、それだけの動作でいやに疲れてしまったのか、またゆっくりと閉じられる。 観月は夢うつつに――ああ、笑ってくれた―――と、嬉しくなって…… 意識を手放した。 |