ビューティフルデイズ 7話
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夜、抜け出したいんだけど一度だけ付き合ってくれないか。と、赤澤に誘われたのは二人が訪れた次の日だ。 毎日のように面会時間に来ていた観月は、唐突な誘いに面食らった。 あの雪の日からひと月が経っている。見た目には全然わからないほど、赤澤の容態は穏やかで、ふとすればこのまま治るのではないかと思う時もあるほどだ。 それでも赤澤がそういられるのは、モルヒネ投与のお陰である。外出の許可などもちろん下りるわけがない。 「どうしても――行きたい場所があるんだ。無理はしないから…」 食物が少量しか口に入れられない赤澤の躰は、驚くほど頼りなくなってきていて、この機会を逃せば、本当に二度と外出はできなくなるだろう。 観月は頷いた。 指定された時刻は始発の時間。病院の外で、厚いコートにマフラーを持って待った。やはり止めようかと、悩んだのだが、確かな足取りで病院を抜け出してきた赤澤を見た途端に覚悟を決める。 カイロも持たされて、寒さ対策を万全にされて赤澤は苦笑した。ゆっくりと冬の星座の下を黙って歩いた。駅につき、最終までの切符を買う。 どこに行くのか、とも聞かなかった。 手袋がちょっと邪魔だな、と感じつつも手を繋いで歩く。始発の電車が来た。平日とあって人は殆どいない。一車両を二人で独占しながら、肩を寄せあって座った。 がたん、がたん、と揺れが心地よい。まだ暗い世界を銀色の電車が走る。外の灯りもまばらだ。なんとなく夢の中の出来事のように、観月は感じた。こんな朝早くの電車に乗ったのは何年ぶりだろうか。 そろそろと東の空が明るくなる頃に、電車は最終駅に着いた。そこで乗り換える。切符を買って、やっと観月には行き先がわかった。 何度も隣の男に「大丈夫ですか? 辛くないですか?」と尋ねるが、決まって笑って返されて困った。 辛くない訳がないのだ。 乗り換えてからはすぐだった。『片瀬江ノ島』で降りると、ほんのりと明るい世界に、二人の白い息が鮮やかに見える。耳がじんじんと痛くなり、手袋をしていても手が悴んだ。 手は決して離さずに、そのまま海鳴りのする方へと歩いていった。 橋を越えると、目の前がぱっと開かれる。 観月は息を呑んだ。 水平線が広がる。空との間に、ほんのりとオレンジ色が差し、己の頭上に向けて紺色のグラデーションが続く。パステル画のような雲が浮かび、静かに流れていた。 「―――海に来たかったんですか」 赤澤がはにかんで、頬を赤くしている観月を促す。幅のある階段を下りて、砂浜へと踏み込んだ。 「病院の窓からだと、全然見えなくてさ」 浜辺には誰もいなかった。海にも誰もいなかった。 「もし……」 「もし、オレがこのまままっすぐ歩いていったらどうする?」 「一緒に行ってあげますよ」 「ばーか」 波が浜辺へと打ち寄せる。満潮なのか、すぐ足先まで流れてきた。 沈黙が恐くて観月は口を動かす。 「悪い。――本当なら、お前と会う気なかったから。お袋、泣いてさ、お前に大切な人がいるなら側に置いとけって言ったんだ。最初はいないって言った。――万が一お前だって知れて、オレはいいけど……お前にのちのち迷惑かけるのが恐かった」 徐々に明るさが増す。島の向こうから、真っ赤な熱が空を照らし出す。寒いのにも関わらず、その色は温もりを感じさせた。 「言えない相手なのか、って問い詰められてさ。どんな相手でもいい、側にいてもらえって凄い剣幕でさ。思わず『男だからダメだ』って言っちまった」 自販機の前で、二人で語りあったことを思い出す。頼子は気丈な母親だった。息子の前では絶対に辛い顔も、悲しみに暮れる姿も見せない。息子の恋人が男だと知っても、「誰にも愛されない人生よりかは、全然いいじゃない」と笑っていた。それが、息子の余命が幾ばくもないからの諦めなのかはわからないが、そんな「もしも」には意味が無い。 『最初に聞いた時、私は神様を恨んだわ。どうして息子が先に行かなきゃならないのよって。順番なら私の方が先じゃないって。だけどあの子――もうその時にはとても静かに運命を受け入れていたの。死なない人間なんていない。オレはたまたま予定がわかっちまっただけだって。ああ、この子は男なんだなって、その時になって初めて成長した息子をちゃんと見た気がしたわ。中学で家を出てしまってから、あんまり触れ合う機会がなくて、今毎日顔を合わせて、初めて――あの子が立派に育ったことを知ったのよ』 頼子は、そう泣き笑いで観月に自分の息子を褒め称えた。 「かっこわりいな」 陽が昇った。空に光りが放線上に伸びる。雲に陰影を落とし、そこから柱のように降りてくる。 「なんでだよ…なんでオレ…くそっ」 声が震えている。肩が、手が、全てが怯懦を表し、それが直接観月に伝わってきた。 「オレがこれからどうなるのか…おかしくならずに死ねるのか…。そんな姿だけは見せたくなかった。でも、恐い…恐いんだ。朝が来るのが、たまらなく恐い。夜眠るのが恐い。お前無しでこんな状況耐えられねえ…耐えられねえよ…」 泣いてる。赤澤が泣いている。 大きな骨ばった右手が、顔を覆った。そこから涙が頬を伝っているのが、見上げた観月には見えた。 「恐くて当たり前じゃないですかっ!」 怒鳴ると、力まかせに抱きつく。背を丸めて、嗚咽する男の頭を腕に抱え込んだ。 彼に圧しかかる重さを、少しでも紛らわせられるよう、祈るしかできないのだから。 くぐもった泣き声が、胸を震わす。 「……お前を…また、一人にさせちまう……」 砂浜にひとつになった長い影が落ちる。二人は身動きもできずに、激情が去るまで立ち尽くした。 朝焼けが広がり、太陽が空に放たれる。 朝なんて来なければいい。 時間がここで止まってしまえばいい。 そう、願いながら。 それでも二人は夜明けを望んだ。 夜を越え、輝く朝を―――確かに望んだ。 触れたところが熱かった。額に手をやると平熱をはるかに越えている。現実にいきなり戻った観月は、赤澤を守るように寄り添い。浜辺をあとにした。 一度だけ振り向くが、そこに幻想的な世界はもう無い。 刻一刻と変わる風景に、たまらない寂寥感を覚えたが、それをしっかりと確信する前に背を向けた。
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