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一時間後。観月は鎌倉に居た。
閑静な住宅街の中。年季の入った日本家屋の前で、じっとインターホンを見る。
覚悟を決めてインターホンを押そうとした、その時。玄関から上品な中年の女性が出て来た。手には大きな荷物を持っている。真っ黒な髪に、真っ黒な瞳は、とてもあの男に酷似していて、初めて会ったようには感じなかった。
女性は玄関の前で立ち尽くしていた観月に、一瞬だけ不審な目を向けたが、すぐに戸惑いながら声をかけてきた。
「……何か御用でしょうか?」
「あ…あの…私は赤澤君と中等部から同級生で…観月と言います。初めまして」
慌てて頭を下げた観月に、女性は目を見開く。
「吉朗のお友達ですか? それはまあ、こんな遠くまでよくいらっしゃいました」
「いえ、突然訪れてすみません。あの、吉朗君引っ越して、会社も辞めてしまったみたいで連絡が取れないもので…こちらに戻ってはないかと思ったのですが……」
ここは観月の一か八かの賭だった。もしかしたら家族に知らせずにいなくなっている可能性も考えていたのだが、悲しいかな、観月にはここが最後の心当たりなのだ。
どうか当たってくれますようにと、中々自分でもしつこいのを承知で祈った。
赤澤の母親は複雑な表情で、玄関から出てきて観月を見上げた。
「―――観月さんって、テニス部のマネージャーだった?」
「…は…はい」
「やっぱり。キレイな顔をしたマネージャーがいるんだけれど、とてもテニスも上手いんだって、いつも吉朗が言っていたのよ。話はよく聞いていたから、お会いできて嬉しいわ」
「そんな―――ことを言ってたんですか……」
「遠くからなら何度か拝見したんですけどね。全国には応援に行ったりもしたから…でも間近で見ると本当にキレイな方ね」
「え…あの…その……」
唐突に顔をまじまじと覗き込まれて焦る。一体あのバカは何を親に言っているのかと恥ずかしくてたまらない。
うろたえる観月に、母親は微笑を浮べて頭を下げた。
「いつも吉朗がお世話になっております。住んでいる場所も近いのよね? 一度ちゃんと挨拶したかったのよ。吉朗の母です」
何度か写真で見た顔が、その通りにほころんだ。名は頼子だと、聞いている。
「いえ、こちらこそいつもお世話になってます」
再び頭を下げながら不安が胸を刺した。なにやら言い回しに意味を感じるのは自分の穿り過ぎだろうか。まさか、自分達の関係をそのまま親に報告しているとは思いたくないが。
「お出かけになるんですよね? お呼び止めしてすみません。…で、吉朗君は……?」
母親の顔が曇る。一度伏せると、そのおもてを上げて観月をまっすぐ見た。
「吉朗は、ここにはいないの。今から会いに行くんだけど、時間があるのなら一緒に来る?」
「ここには…居ない」
「どうする?」
戸惑いながらも、観月はしっかりと頷いた。
「行きます」
車窓から見た空はどんよりと重く、陽の光りを届かせない。なんとなく薄汚れて見える世界が、それだけで外の寒さを想像させた。慌てて出てきたために、コートしか着ていない観月はぶるりと躰を震わせる。
「雨―――降りそうね」
「そうですね」
電車に乗ってから一言も喋らなかった頼子が、流れる景色から眼を離さずに声をかけてきた。観月は小さく頷く。
聞きたい事はたくさんある。
一番は、今から何処に行くのかとだ。だが、彼女の重い沈黙が質問を拒絶しているように思えて聞けない。いや、ただそう思い込むことで、聞くのが恐い自分を誤魔化しているだけかもしれない。
―――――恐い。
電車に揺られてそろそろ一時間。
―――――戻って来たし……。
観月が鎌倉に行くための経路そのまま、地元へと戻って来ていた。あと三つで、乗ってきた駅に着く。
そしてそれを過ぎれば多摩川を越えて、東京に入る。
しかし、手渡された切符はそろそろ終る値段のもので、案の定「次で降りるの」と彼女は言った。
その駅は今乗っている田園都市線と南武線が交差する駅で、てっきり乗り換えるものだと思っていたのだが、そこから今度はバスだと言われた。
外に出た途端、身を切られるような寒さに首を竦める。
「あら…どうりで……」
隣に立った彼女が空を見上げた。つられて顔を上げると、ひらひらと灰のように落ちてくる白いものに目を丸くする。
「雪…珍しいですね。この時期に……」
「本当にね…、積もらないといいわね」
「雪は嫌いですか?」
どちらかと言えば雪が積もって当たり前の場所で生まれ育った観月は、何気なく聞いてみた。
「いいえ……ただ、ここに通えなくなるのが困るから…ウチからだとどうしても電車に頼らずには来れないしね。車だとここまで結構一直線なんだけれど、私免許持ってないし」
そう答えるとバス乗り場へと足を進める。
「通ってるんですか、赤澤の…吉朗君の所に」
「ええ」
バスターミナルでは、ここが始発だからか既に止まっていたバスに乗り込むことができた。そこから十分して『S医大病院前』のアナウンスを聞いてから、頼子は停止ボタンを押す。
下車すれば、降っていた雪は大粒となっていて、植木の上などには早々に積もっている。
二人は無言で病院の門を潜った。
「――――本当はね。誰にも言うなって言われてるの。特に観月君にはね……」
「―――――………」
ぼそり、と言われて、観月は雪のためでない寒さに震えが止まらない拳を握りこむ。
頭の中はもうぐちゃぐちゃだった。やっぱり、と感じている自分と、まさか、と否定する自分。
走って逃げ出したい、ただそれだけがぐるぐると回るのに、実際は黙って頼子のあとをついていくだけだ。
平日とだけあって、正面受付には待ち人で溢れていた。大きな大学病院だから当たり前の光景だろう。それを横目にしながら、頼子は迷わずエレベーターに乗る。そして四階で一度降りて、別のエレベーターへ。
入院患者病棟だった。パジャマ姿で、片手に点滴を押して歩く人達の姿が目立つ。ナースステーションで一度だけ立ち止まり、知り合いらしい看護師に頭を下げ、そのまま奥の部屋へと歩む。
六〇八号室。
開かれているドアにかかった名札には四人の名前があった。
そのひとつに『赤澤吉朗』と見つけて、ここまで来て頭をハンマーで殴られたような衝撃に目の前が真っ暗になる。
「吉朗、今日はちょっと遅れちゃったわ」
名札の前で立ち尽くす観月を置いて、頼子はさっさと中に踏み込んだ。窓際の奥のベッドへと話し掛けている。こちらからではカーテンで邪魔されて見えない。
「雪降ってるしな。…ってか別に毎日来なくていいぜ? 書道教室どうしたよ」
「今は月水金だけにしてるの。小学生がメインだから、夕方からだし平気よ」
「でも、さっきラジオで言ってたけど、この雪けっこう降るらしいぜ。明日はいいから……」
「嫌よ。洗濯物が溜まるじゃない」
「そんな理由かよ」
「今日他の方達は?」
「今みーんな検査に行ってる。暫くはオレだけだな」
聞きなれた声が、聞きたかった声が、カーテンの向こうから聞こえる。
いくら待っても病室に入ってこない観月に、頼子が顔を向けて手招きした。
しかし衝撃が収まらずに、観月の足は動いてくれない。
同じく頭も動いてくれなかった。
ただ、入院しているだけだ。病名だって、まだわかっていない。 それなのに最悪な想像だけが、目の前に真っ黒な紗をかける。きちんと聞いて、それが杞憂だと、数分後には笑っている自分を想像するも、恐くて動けなかった。
「――――誰か来てるのか?」
赤澤が訝しげに問い掛けている。
行かなくちゃ、と何とか気を奮い立たせて足を向けた。
その時だ。こちら側に引かれていたカーテンが開く。
ベッドに腰掛けていた人物と、ばっちり目が合った。
「観月――……」
「―――――………」
咄嗟に俯く。ばつが悪かった。
嫌な顔をされると思ったのだ。
彼は自分に別れを告げて、何も言わずに消えた。それがのこのここんな所に顔を出したのである。
しかも母親と一緒に。
何しに来たのかと、嫌悪されても仕方がない状況だろう。
「観月、寒かったろう。こっちにヒーターがあるから来いよ」
「あ…赤澤……」
「こっちにいらっしゃい、観月君。私はちょっと花瓶洗って、水変えてくるわ」
コートを脱いで身軽になると、頼子は窓際に置いてあった花瓶を二つ持って出て行った。
二人きりにされて、観月は仕方なく赤澤のベッドへと近寄る。
「わざわざ来てくれたのか。悪いな」
優しく笑ったような響きに、観月は驚いて顔を上げた。近くで見る赤澤は、少しどころか顔色が悪い。腕には点滴のチューブがついていて、その手首には骨が目立っていた。
痩せた―――と、感じる。
何も言えないでいるのを察して、赤澤は大きく息を吐き出してから笑った。
「お前にだけは…知られたくなかったんだ。ごめんな…最後あれはなかったよな。傷つけちまったよな」
「何を…何を言ってるんですか。貴方から別れ話なんて冗談じゃありませんよ。しかもあれじゃヤリ逃げじゃないですか。あの時追いかけていって殴らなかったことをどれだけ悔やんだことか…」
「ヤリ逃げって…すげーこと言うな……。まあ、そうなるのか。マジで悪かったって」
「本当に…追いかければ良かった」
「――――追いかけられたら、オレ泣いてたぜ」
「……………」
「泣いて…きっと、縋りついてた」
「縋りつきなさい! 縋りついて撤回しなさい! 別れるなんて……冗談じゃないっ」
感情的になって、声が大きくなった。また自分は赤澤を困らせていると、わかっていても止められなかった。
縋りつきたいのは自分の方だ。
「――――オレさ……」
ゆっくりと間を持って、赤澤が喋る。骨ばった手が、前髪を掴んでそのまま俯いた。
観月は睨むように、後頭部を見下ろす。
「もう、こっから出られないんだ」
搾り出された内容が耳にのろのろと届く。
「出られないんだよ。お前のもとには―――帰れない」
どくどくと耳鳴りが酷くなった。あまりの喧しさに耳を塞ぎたい衝動に駆られるも腕が動かない。
「何を…言ってるんですか」
「気づいた時には手遅れで、手術もできなかった」
「赤澤?」
「夏に―――半年って言われて……」
「赤澤!」
悲鳴に近い声を上げる男に、赤澤は意外にも静かな双眸を向けた。
「胃癌。末期だ」
「………っ」
観月は胸元を掻き毟るように掴む。
何を言われたのか理解できなかった。そんなことを淡々と喋る赤澤に怒りを感じて、そんな事を言わせた自分を消したかった。
「若いからさ…進行が早くて…。忙しさにかまかけて会社の健康診断も受けてなくてさ。もう…本当にオレバカみたいだ。最初なんの冗談かと思ったぜ。健康だけが取り得な男だからさ、全然信じられなくて…」
「――――……」
「腹水が溜まっちまって、胃から出血が止まらなくなってさ。倒れてそのまま入院。ぎりぎりまで居た会社もとうとう辞めるはめになってよ」
「裕太君から…聞きました」
「そっか…アイツも知っちまったか。―――ここに居ることは内緒にしててくれよな。そろそろ年明けに全豪だろ? 心配かけたくねえし」
「何を…言ってるんですか」
「本当に…誰にも知られたくなかったんだ」
「僕にもですか」
ああ、バカなことを言った。口の中に血の味が広がる。唇を噛み切ってしまったようだ。
「そうだよ。困る、困るよ、オレ。もうここには来るな観月」
「来ます」
「観月……」
「来るに決まってるでしょう! 何度だって来ます。来ます…」
「――――………」
「すみません。頭冷やします――また…明日来ますから」
早口にそれだけを言うと、踵を返した。赤澤はもう何も言わない。部屋を出る間際、一瞬だけ振り返る。赤澤はこちらを見てはいなかった。白く曇る窓から、雨のように降りつづける雪をじっと見つめていた。
足が速くなる。その際戻って来た頼子とすれ違ったが、目もくれずに走り出す。最後は駆け込むように、丁度来たエレベーターへと乗り込んだ。四階に着くと、また別のエレベーターへと勢いよく入る。もとから乗っていた中年の男が驚いて隅っこへと躰を寄せたのがわかった。観月は荒くなる息を整えることに必死で、閉じたドアに手をついた。
「―――うっ……」
どうしても止められない。止めようと焦れば焦るほど、息が荒くなる。目頭が熱くなって、躰全部に熱が広がった。面白いように震える指を口元に持っていって噛むが、歯の根がガタガタと鳴るのが止まらない。
「うっ…うっ…」
背後で男がたじろぐ。わかってはいたが、どうにもならない。
どこもかしこもが自分の言うことを聞いてくれないのだ。
エレベーターが止まった。転げるように、飛び出すと走って待合室を抜ける。人が溢れていたので、何人かとぶつかってしまい批難の目を向けられたが、下しか向けない観月はおざなりに謝罪を口にしてなおも外へと急いだ。
自動ドアが開くと冷たい冷気が躰を包む。
吹きすさぶ雪が、容赦なく顔に当たった。
どうしようも無かった。
止められなかった。
「う…うあ…うわぁああ……っ」
ぶわり、と涙が溢れては、顎を伝って落ちる。嗚咽が響き、息を吸うのもやっとの状況で、ふらふらと歩き出す。
周りにいた数人が、ぎょっとして泣き出した男を見たが、誰もなにも言わずに遠ざかっていく。
「―――う…ぇ…うっうっ……」
肌がさらされている部分が、刺すように痛む。雪は横なぶりで、目に入ってきたが、そんなことはどうでもよかった。
叫びだしたい。
なにがどうなっているのか、問い詰めたい。
よくわからない。
よくわからない。
ただ、雪で曇った窓をじっと見つめていた赤澤の後ろ姿だけが、どうにも胸を締め付けていた。
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