ビューティフルデイズ 1話


 最初観月は何を言われたのかわからなかった。



  何度か頭の中で言葉を反芻してから、目を見開く。
 鈍痛を訴える躰を、ムリヤリ起こして相手を見た。

「―――なんて…言いましたか、今」

 搾り出した声が、想像よりもずっとか細く、しかも震えていたのに自分で驚いた。上体を起こしたために、肩から羽毛布団が滑り落ち肌が露になる。部屋の外気は意外に冷えていて、途端鳥肌が立ったが、そんな事は気にも止めずにただ相手を見据えた。
 ドアに凭れていた男は困ったように宙を睨み、暫くして疲れたようにベッド上の観月に顔を向ける。
 ドキリ、とした。
 長い付き合いだが、初めて見る表情だったからだ。
 どこか気だるげに、そしてこの男には似つかわしくない病んだ雰囲気を醸し出す眼差し。
 そしてゆっくりと、薄い唇が開いた。

「―――もう、ここには来ない。別れよう」
「――――……」

 噛んで含むように放たれた言葉は、まるで矢のように観月の心臓を貫く。息が止まるほどの衝撃を受けた。
「…な…」
 なんでですか? と聞こうとして、失敗した。出ない声に青褪め、己の咽もとに手をやる。すっかり外気に体温を奪われたそこは、自身でないかのようにひんやりとしていた。
 混乱している頭を必死に動かす。この男は一体何を言っているのだろうか。

「―――赤澤」
 かろうじて出た言葉。

 赤澤は、苦い顔で俯いた。

 

 

 赤澤と観月は中学時代からの付き合いであった。最初に出逢ったのは互いに十四歳の夏。
 二人の母校である聖ルドルフ学院中等部で、赤澤はそのテニス部の部員であり、テニス部強化のために他校からスカウトされてきたのが観月だった。元々それなりにテニスでは名を馳せていたルドルフ学院だったが、当時は弱体化していた。赤澤が二年の夏も都大会で終ったのが、強化選手加入への決定打となり、観月を始め五人の学生が編入してきたのだ。
 初対面での印象はずばり『最悪』なもので、のちにお互いが語りあったところ苦笑が漏れたほどだった。
 赤澤から見た観月は『キレイな顔をしているが、性格悪そうな奴』だったし、反対に観月は『チャラチャラとした恰好をしたバカ』だった。
 観月は小作りで整った容姿に、常に笑みを浮べていたものだが、そこが赤澤からしてみれば胡散臭かったらしい。対して観月は、長身で良く焼けた肌に肩まで伸ばされた髪の男が、いかにもちゃらんぽらんに見えていた。

 そんな二人がいきなり寮で同室にされた。異分子を送り込んだ学園側の配慮である。とにかく強化選手と元からの部員との間に亀裂が走るのはよろしくない、ならば強化選手のリーダー格である観月と次期部長として決まっていた赤澤を同じ部屋にし、親睦を深めさせようと目論んだのだ。
 結果的には、部長とマネージャーとして、部の骨格を確かなものにしたのだから良かったのだろう。
 だが、第一印象最悪な二人が突然朝も夜も一緒に居ることを余儀なくされたのだから、当事者としては甚だ不本意な決定であった。几帳面で細かい性格の観月と、絵に描いたような大雑把な赤澤では部屋の使い方ひとつとっても不満ばかりが溜まっていく。
 暫くは表面上穏やかに二人の仲は周りに映っていただろう。寮に入った時点で、気の合わない者と同室になるかもしれない場合もあるということは誰もが覚悟するものだ。
 観月は鉄壁の外面を崩さず、赤澤は無視を決め込み、お互い必要最低限のことしか喋らなかった。
 しかしその不安定な生活は、一ヶ月で見事破綻した。

 部員を駒のようにしか見ていない、冷徹というより、冷酷無比な思考を持つ観月に赤澤が切れたのだ。
 胸倉を掴み怒鳴り合う二人に、他の部員が慌てて止めに入るほどで、すわ、これで部は分裂するのか、と誰もが青褪めた。それほど二人の言い争いは容赦が無かった。
 観月が声を荒げ、頭ひとつ高い赤澤を睨みつける。
 この時点でおかしい、と気づいたのは同じ強化組の木更津だった。大きな猫を誰の前でも脱がなかった観月が、感情も露に怒鳴っているのだ。慌てて二人の間に入った途端、観月は倒れた。
 部内は騒然として、誰もが驚愕する中。木更津と赤澤だけは観月を抱き起こして、なんとか頭から落ちるのを阻止した。

 観月は九度近い熱を出していたのだった。
 慣れない寮生活に、常に気を張っておかねばならない相手が同室。尚且つ勝たねばならぬ、というプレッシャーに潰れたのである。そこはまだ、観月も中学生だったという事だ。
 医師にそう診断されたのを聞いた赤澤は、根が正直なだけに自分の今までの狭量に気づき落ち込んだ。
 同じテニスが好きで、同じ部活で、一緒に勝利を目指す仲間なのに追い詰めてどうするのだ、と――――彼はその日一睡もせずに自分を責めたらしい。
 勝利に形振り構わず拘る観月の姿はある意味正しく、だからこそ相容れぬこともある。
 ならばきちんと、それを口に出し、お互いの意見を言い合えば、少なくとも妥協点は見つけられるかもしれない。
 そう、結論付けたのだ。

 それからというもの、二人の仲は劇的に変わった。信頼と呼ぶには頼りなく、友情と呼び合うには捻くれ過ぎて――けれど、言いたい事を率直言い合える。
 そんな仲になっていった。
 観月は自分のわがままを平気で押し付ける。赤澤はそれが度を過ぎると、思い切り跳ね除ける。
 それが―――いわゆる恋愛感情まで発展していったのは、お互いが最大の謎だったりする。

 中学三年の時になんとなく自覚しあい、高校に進級すると決定打となった。

 二人は世間で言う『恋人同士』となったのだ。

 だが若くして出来上がってしまった二人である。それからも色々と問題はあった。
 一時期別れたこともある。けれど―――初めての出会いから十四年。

 赤澤と観月の間には、愛と呼べるものが、そして信頼と呼べる絆が確かにできていた――はずである。
 一度別れ、再び付き合い始めてからも小さな喧嘩はたくさんあった。わがままな自分に最後の一歩は妥協を許さぬ赤澤。それは当たり前だろう。
 当たり前すぎて―――まさかそれが別れ話に至るものだとは思いもつかなかった。
 二週間前に喧嘩をした。それはとても些細なもので、観月は結局何が原因だったかなんて覚えてもいない。
 ただ、それ以前から赤澤がイライラとしていたのは知っていた。

 彼は大学を出ると、そのなりに似合わない実直さと熱意で大手のスポーツ会社へと入社を果たした。だが花形である営業に配属されたのはいいが、営業と言えば企業の最前戦である。何かといえば国内、外国問わず遠くへ出張を余儀なくされ、半年間新潟に赴任なんてこともあった。テニス関連の部署に回されて、契約したプロと一緒に大会を回る。土曜も日曜も無い。それでも赤澤は好きなテニスに関連する仕事ができて嬉しいと頑張っていた。

 だが仕事を優先すればするほど、恋人である自分との距離は遠くなったり離れたり。
 観月は情けないと思いつつも、無理難題を押し付け、そしてそれを通すことでしか自分の重要度を確認できなかった。
 しかし―――いつもその手の喧嘩は決まって赤澤が折れて、観月はそんな男に心底ほっとしながらもおくびに出さず、許すという形で仲直りをしていた。

 今回もいつも通りだったはずだ。
 少し冷却期間が長くて焦ったのも事実だが、赤澤は訪ねてきてくれた。

 現在観月は一人でマンションを借りて暮らしている。そろそろ同居も考えないでもなかったが、なんとなくこの年まで来てしまった。まあ、近くに住んでいる事もあるし、逃げ場が欲しかった観月の弱気を赤澤が容認していた結果でもあった。
 喧嘩しての仲直りはもう何度も繰り返され、セオリー化していた。観月の大好きな紅茶の葉を、赤澤が選んでくるのである。それがいつのまにか二人の仲直りの儀式となっていた。
 今回もそれを持って(しかも『ファンタジー』という名の紅茶なのには笑わせて貰った)赤澤が現れた。少々期間が長かったことが観月には気にいらなかったが、その分安堵したのも事実で、部屋に招き入れ、当然として行為になだれ込んだ。
 ……までは良かった。

 暫くぶりのセックスにも関わらず、終れば赤澤はさっさとベッドから出て服を着込む。明日も平日なのでそれも仕方ないことだ、と自分では謙虚に納得していたところに暴言を吐かれたのだ。

 そこで――――現在に至る。

 躰は気だるさと共に充足感を味わったままだ。
 男に貫かれてもそこまで平気な躰にしたのは何を隠そう赤澤である。
 その男が今なんて言った?

「別れるって……本気で……」
 やっと言えた。咽は相変わらずカラカラだったが、今はそれどころではない。

 ――――ザッ。

 玄関から大きな音がして驚く。新聞が配達されたのだ。早い配達の地域が、この時ばかりは恨めしく感じた。

「―――もう……お前の側に居るのが辛いんだ」
「赤澤!」
 苦々しく呟かれた言葉を、脳で理解する前に言葉で拒絶する。
 がんがんと頭が鳴った。信じられなかった。理解したくなかった。
 しかし赤澤は結論を出す前に、さっと上着を羽織るとそのままドアを開いて出て行ってしまう。

「あかざ……っ」

 最後まで名を呼ばせても貰えなかった。

 バタン、と無情にも閉じられるドア。大またで歩く音に、玄関の鍵が開かれ、出て行った音が響く。
 しかも律儀に外から鍵を締めると―――ドアにある新聞入れから何かを落としたのか金属的な音が聞こえた。
 それがここの合い鍵だという事に気づく。
 この部屋は三階だった。急いで階段を下りていく足音が、静かな明け方の住宅街に木霊する。
 最後の階段を下りた。
 そこで、一切の音は途絶える。

 ベッドの上で未だ動けずにいた観月は呆然と音を追っていた。しかし、いくら耳を澄ませどそこから先の彼の行動を表す音は聞こえてこない。

「―――――嘘……」

 やっと出たのはそんな呟きで。

 ベッドを這い出られたのは、それから三十分もあとだった。 

 

 









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