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休日とあり、閑散とした校舎内なのに、生徒達の騒がしい声が響き渡っている。それは校庭でボールを蹴っている者達であったり、体育館でバスケットボールをしている者達であったりとするのだが、ひときわ楽しそうな声は屋上から聞こえていた。 行き場の無い寮生のためにと、休日でも仕事で来ていた幾人かの教師の監視の下、校庭、体育館、屋上のプールが解放されている。屋上にあるプールは、本日水泳部が使用していたのだが、飛び込みで勝手に寮生も混じっていた。しかも、部活動が午前中に終るとともに、校庭や体育館で遊んでいた連中まで混じり、疲れた顧問が職員室に戻っている間に、その騒ぎようは頂点に達していった。 「一番柳沢! いっきまーす!」 「いいい行かないだーね! 止めるだーね!」 「いっせーの!」 せ! という掛け声とともに、柳沢の躰が宙に舞った。次いで、盛大な水飛沫が上がる。 一斉に、爆笑が巻き起こった。 「次は誰だ!」 「赤澤―! 笑っているお前だあっ!」 第二の生贄と、赤澤に数人が群がると、両脇と足を持ってプールに投げ込む。またもや盛大な水飛沫が上がった。 投げ込まれた赤澤は、空を映したかのように青い水の中で体制を立て直す。飛び込んだ時に発生した気泡の固まりで、視界が塞がれていたが、それを避けて水中を見渡した。丁度そこに、先に水面へと上がったはずの柳沢が、慌てたように水中に戻ってきていて「ん?」と首を傾げる。柳沢はふぐのように顔を膨らませて、必死に反対の縁へと足をバタつかせて移動していくではないか。 何をそんなに焦っているのか。 赤澤はとりあえず、水面へと顔を出した。 (な、なんだあっ?) もう一度顔を出すと、また容赦無く頭を叩かれて、水を飲み込んでしまって噎せた。 「げ…ほっ! がぼげっ! げほ!」 理由がわからずもがいていると、頭上から冷ややかな声が注がれる。 「涼しそうですねえ。赤澤部長」 「げっ… ぼへみ…むき…っ」 燦々と照り付ける太陽を背に、縁に立っている少年を確認して赤澤は青くなった。プールサイドに仁王立ちしているのは、同室者であり、同じ部活の頼りになる相棒であり、鬼の寮長代理――観月はじめだったのだ。 そんな観月が満面の笑顔で、片手に持っている箒を容赦無く振り落としてくる。 「がほっ!」 急いで水中に戻ると、一足先に逃げた柳沢を見習って、反対側のプールサイドへと逃亡を図った。 手をかけて、一息で体を水から引き上げる。そのまま走って逃げてやろうか、とよからぬ選択をしていた所、後頭部に固い物がスコーンと音を立てて当たった。 「いってーっ!」 「逃がしませんよ!」 振り向いて対岸を見れば、観月が箒を起用にもバッド変わりにして、消毒用の塩素の固まりを打ってくる。見事な的確さで、赤澤に当ててきた。周囲の生徒まで青くなって「うわー! 観月それはヤバイってー!」と止めに入り、まさにプール場は阿鼻叫喚の有様だ。 「ええい放しなさい! あろうことかあの男は全ての掃除を放り出して、こんな所で遊んでたんですよ! そんなに潜るのが好きなら一生沈んでればいいんです!」 「そんなに肺活量持ちませんわ! 観月姉さま!」 「的確にはっきりと死ねと言ってるんだっ!」 今度は箒が飛んできて、急いでプールから這い出て避けた。そこで、日よけ用のパラソルを盾にして、状況を見守っていた柳沢を見つけて「一人だけ逃げてんじゃねっつの!」奪い取ると、そのまま羽交い絞めにされている観月目掛けて突進して行く。 「あ! 待つだーね」 「ええい! しゃらくさい!」 周囲の少年達を振り払うと、観月は突撃してくる赤澤に向かって塩素を投げた。それを器用にパラソルで避けると、至近距離で投げ捨てる。 「では、観月さんもご一緒に!」 「わっ? ちょっ! 濡れるでしょうが!」 濡れた躰で抱きつかれて、長袖のシャツと珍しくもジーンズ姿だった観月は目を剥いた。 二人分の重さをえて、上がった水柱は軽くニメートルを越え、陽を吸ってキラキラと宝石のように輝いた。 柳沢は思わず「わお!」と口笛を吹く。 観月のヒステリックな性格を知っている寮生達は顔面蒼白となり、知らない一般の生徒達は歓声を上げた。そのまま一緒になってプールに飛び込み、あちこちで水柱が起こる。 真っ白な光が瞳を焼く。 「ぶはあっ!」 「あは…あはははは! すげえ顔っ!」 水を少し飲んでしまったために、噎せていると、間近から男のバカ笑いが聞こえて、ぼやけた視界の焦点を必死で合わせた。 両脇に赤澤の腕が回って沈まないように掴んでいるので、必然とすぐ目の前に能天気な男のアップがある。観月の怒りは頂点に達した。 「こ…の! バカ澤あっ!」 重い手を振り上げて顔を殴るも、対した威力が出ない。 「お! やるかあっ?」 何がそんなに面白いのか、顔一杯で笑うと、観月の腰を掴んだまま勢いをつけて潜った。 「…!」 まさか引っ張り込まれるとは思ってなかったので、息つぎも満足にできないまま沈められた観月は、苦しさに赤澤の胸を力なく叩く。ごぼり、とたくさんの白い玉が視界を塞いだ。 また赤澤が引っ張り上げたのだ。 「げほ…っ。はあ、はあ、はあ」 「日頃の肺活量がモノを言うんだぜ、観月」 能天気にもほどがある台詞に、反論したいがとにかく息を吸うのに必死で言葉が出てこない。プールの水が目に染みて涙まで出てくる。足が着かないために、ぐったりと赤澤に捕まっていると、さすがに悪戯が過ぎたと思ったのか「おい、大丈夫か?」声に心配そうな色を含ませて、様子を窺ってきた。 その隙を逃さず、意趣晴らしに赤澤の背に手を回す。そのまま力をいれて爪を立てた。 「いってえぇえええ――っ!」 縦に引っ掻くと、痛がる赤澤に蹴りを入れて離れ、岸までの短い距離を他の少年達を避けて泳ぐ。手すりに捕まって、プールからやっと出た。浮力から解放された身体に、どっと水と己の重さが戻るのを感じて、そのまま膝をついて咳き込んだ。 「大丈夫か? 観月」 恐る恐ると、柳沢が駆け寄る。 「―――お〜の〜れ〜」 「ひっ!」 濡れた前髪から、光る双眸を目の当たりにして、柳沢は後ずさった。 「赤澤! 新庄! 田中! 岸本! 二瓶! 田所! お前達は、本日寮の廊下全てを雑巾掛けだ! それと食堂の水拭き! 玄関と風呂場の掃除!」 目敏く寮生全てをチェックしていた観月の命令に、全員が「えーっ?」と不満の声を上げた。 「喧しいっ! 寮母には僕がきっちり報告するからな! 掃除サボって遊んでたクセに不満そうにするな!」 「み…観月落ち着くだーね」 「勿論、寮長もですよ。うふふふふふ」 「うわあ〜い」 暗く笑む少年の不気味さに、柳沢は諸手を上げるしかできなかった。 わがままでも、真面目で一分の隙も無い模範生の観月だ。寮母の覚えもめでたい。しかも意外と後輩に慕われるタイプでもあった。 渋々とそれぞれ「わかりました〜」と、プール中から返事を上げる。それを全員分確認して、観月はやっと満足した。 いや、一人だけ足りない。あとからあとからと、絶え間なく落ちてくる水滴を拭いつつ、首を巡らすと目的の人物はいつの間にか背後に立っていた。 「いって〜。絶対ミミズ腫れになってるぜ。ちょっとは容赦しろよ、観月」 長い黒髪を掻き揚げながら立つ、堂々した体躯。中学生とは思えないほどしっかりと筋肉がついている躰は、どんなに鍛えても中々肉のつかない己のコンプレックスを刺激するには充分過ぎる。 「それだけで済んで感謝して欲しいですよ! あなたは僕を殺す気ですか!」 「ちょっとしたオチャメじゃんか。んなに怒るなよう〜」 「何がオチャメだ、このバカ! こんなにビショビショになってどうやって寮まで帰れって言うんですかっ! しかももう害虫駆除始まってる時間ですよっ?」 「んー。どうっすかなあ」 「………っ」 「うむ。首を締められると…苦しいなあ…」 「待つだーね! 観月人殺しはダメだーね! 赤澤も素直に締められてるんじゃないだーね!」 柳沢は間に割って入り、二人を引き離そうと必死になった。 「死んでも治らないの間違いだーね!」 「あははは〜、死んだおじいちゃんが川の向こうで手を振ってるよ〜」 「赤澤しっかりするだーね! 傷はまだ浅いだーね!」 「柳沢…、オレが死んだら…お腹の子は一人で…育ててくれ」 「ああ〜! 吉朗さんっ。あなたの分までこの子と共に生きるわ!」 安らかな笑みを浮かべると赤澤と、目をキラキラさせてシナを作る柳沢の不気味な会話に、観月は鳥肌を立てて手を放した。 「ふ、天国からお前と子供を見守っているぜ……」 「吉朗さん! 私だけを置いていかないでえ〜」 身を横たえた男に、「よよよ」とすがりつくのも男。 「おっちねえいっ!」 気味の悪さにたまりかねて、観月は二人をプールに蹴り落とした。 肩を上下させるほどの荒い息を吐き、一瞥。息の合ったどつき漫才に、見ていた全員が湧いたのだった。
不本意ながらも全身ずぶ濡れになった観月は、赤澤の用意していたバスタオルを奪い取りむっつりと更衣室の長椅子に座っている。 「観月、上ぐらい脱げよ。夏とはいえ風邪ひくぜ?」 「誰のせいだと思ってるんですか! 脱いで五時までいろって言うんですかっ?」 悪びれなく声をかけてくる元凶に、観月の眉は益々跳ね上がった。触れれば噛み付く。まるで小型犬のような剣幕に、赤澤はやれやれと頭を掻いた。ちなみに赤澤は勝手に柳沢のバスタオルを使って水気を取り、既にTシャツとジーンズという姿になっている。ただ、やはり途中で、それに気づいた柳沢にバスタオルを奪われたので、髪の毛からは水滴が落ち、シャツに染みを作っていた。いつもの観月なら気になって仕方なく、無理にでも拭いてやるところだが、今は自分こそがどうにも堪えがたい状況だ。 「オレのユニフォーム、部室にあるから持ってくるよ。服も屋上で干してりゃ乾くだろう」 「ユニフォームだあ?」 「なんだ、その凄い嫌な顔は」 「洗ってあるんですか?」 不審な眼差しをここぞとばかりに寄せられて、赤澤は鼻白む。 「洗ってあるよ。試験前になっちまうけど」 「試験前…一週間前ですか…」 「いいじゃねえか! 乾くまでのちょっとした間だよ!」 「しかもあなた、あの部員全員がごちゃごちゃと出す洗濯物の中に突っ込んで、下級生に洗わせたヤツでしょう」 テニス部では洗濯物置き場なるものがあって、そこに溜まったものは後輩達が順番で洗っているのだ。が、そんな他の人間の洗濯物と一緒くたにして洗うなど、潔癖な観月には堪えがたい。一人で、寮に持ち帰っては自分で洗っていた。 「いいじゃんか。洗ってることには変わりねえんだし」 「あのですねえ…。ユニフォームまで洗わせているのはあなたぐらいのものですよっ? ズボラもいい加減にしなさい!」 「ごちゃごちゃ言ってねえで待ってろ! お前に風邪ひかれるわけにはいかねえんだから!」 「…夏風邪ならひくのは赤澤でしょう」 「はいはい。どうせオレはバカですよ」 手をひらひらと振り、軽く流すとそのまま更衣室を出て行ってしまう。観月は、嘆息を漏らした。 「観月〜、服が透けて色っぽいことになってんぞ〜」 「うわ!」 背骨を指先で辿られて、総毛立つ。慌てて振り返ると寮生が勢揃いしていた。観月に触れたのはバスケット部キャプテンの二瓶だ。 「気味の悪いことをしないでください!」 「オレ達さ、これからカラオケ行くんだけど。いつもの所に居るって赤澤に言っておいてよ。お前も暇なら来ればいいし」 「ボクは遠慮しておきますよ。こんな状態ですから」 「ユニフォーム着るんだろう? 別にかまわねえと思うけどな」 「冗談。赤澤のですよ?」 「ぶかぶかになるだーね。必見だーね」 「さっさと行きなさい、柳沢」 想像して噴き出すテニス部員の足を、観月は容赦無く踏む。それこそ絞められる鶏のような声を上げて、柳沢は逃げた。 「凶暴だーね。嫁ぎてが無いだーよ!」 「あいにくと嫁に行く気はサラサラありません!」 「まあまあ。じゃあ、赤澤に伝言よろしくな。カギここに置いておくから、最後閉めて職員室に戻しておいてくれよ」 二瓶に宥められても、観月はふて腐れた態度を崩さない。何で僕が閉めなきゃならないんですか。と、口には出さないが、不満を感じているのは一目瞭然だ。 「お前が撒き散らした塩素と、箒。片付けたんだから、頼むな」 「わかりましたよ!」 それぞれ「風邪ひくなよー」と、声をかけながら、全員更衣室を出て行く。 ぽつんと残された観月は、 「えーい! 忌々しい!」 タオルを投げ捨てたのであった。 柳沢達が校舎を出たところで、部室棟から走ってくる赤澤とかち合い、皆は足を止めた。 「早いだーね。赤澤」 「おう。早くしねえとそれこそヘソ曲げちまうからなあ、ウチの姫さんは」 「もう戻るのに三日はかかるほど曲がってるだーね」 「ははは、確かに。帰ったら皆で雑巾掛けだな」 「嫌なこと思い出さすんじゃねえよ」 二瓶を含め、他の者達が一斉に渋面を作る。 「オレ達先にカラオケ行ってるわ。お前もあとで来いな」 「あー悪い。オレは観月の服が乾くの待ってるから、パス」 「そうか」 「おう。これでほっぽって行ったら、それこそテニス部壊滅の危機だ」 あっけらかんと、言い放つと赤澤は「じゃあな」と校舎の中へと消えていった。見送った面々は、狐に包まれたように目を丸くしている。 「――なんだか。テニス部ってすげえよな。アレが部長で、アレがマネージャーだ」 「アレアレ言わないで欲しいだーね!」 肩を竦める二瓶に、愛部精神を持つ男。柳沢が口を尖らせて否定した。 「悪い意味じゃねえって。オレも特待生だからさ、不思議でたまんねえんだよな」 二瓶の台詞を、岸本が頷いて引き継ぐ。 「わかるわかる。オレもサッカー部の特待生だから。秋から入っただろう? やっぱ元から居た部員とは、今でもそれなりに溝があるもん」 「確かになあ。なのにテニス部って特待生の観月があれほど好き勝手やってさ、元々普通に部活動で頑張って部長にまでなった赤澤が寛容というか、ノホホンとしているというか…なんか見事に噛み合ってるよな…。あーなんかいい言葉がここまで出かかってるんだけど…っ」 二瓶は咽を掻き毟るような動作をすると、頭を抱えて考え込み始めた。 「つうかテニス部ぐらいじゃねえか? 特待生と元々の部員との仲が凄く良いのって」 口々に疑問を出されて、柳沢は腕を組んでどう答えるべきか迷った。 「むう〜。でもなあ、別に最初から上手くいっていたわけじゃないだーね。最初はそれこそ観月の独壇場で、才能の無い者は切り捨てって感じだったから。険悪だっただーよ。しかも観月は赤澤嫌ってたし……」 「今でも嫌ってるじゃん」 「いや、あれはあれで観月なりに懐いてんだーね」 「わ…分かり難い愛情表現だな」 手加減無く赤澤の背中に赤いスジをつけていた観月を思い出して、岸本の頬がひくつく。柳沢は今更ながらに肩を竦めた。 「オレからしてみれば、赤澤の方が謎だーね。バカはバカはでもひと筋縄ではいかないような」 「うん。あいつはバカだけどバカじゃねえよな。よくわからんが、度量があるっての? 許容量が多いっての?」 やはり寮生の三年で赤澤と同じクラスでもある田中が、首を傾げつつ漏らした。 「後輩に熱烈な人気持ってるよな。女子にもさ」 「あーそれは言えてる。アイツ軽そうだけど、中身はしっかりしてるよな。下手に浮ついた所が無いというか」 「観月もさ、考えてみれば転入当初って寮でも浮いてたし、諍いも絶えなかったけど、五月に赤澤が入寮してきてから雰囲気が柔らかくなったと思わねえ?」 それには観月と同じクラスの新庄が答える。 「わかるわかる。つんけんしてた所が無くなったよな。あの頃なら箒持ってプールまで来ないって」 「――なんか、お前等同級生の野郎を口々に分析してて恐いだーね。まだ女子の話をしていたほうが建設的な気がするだーね」 咽を抑えて、気持ち悪いとアピールする柳沢を無視した形で、ずっと黙って考えこんでいた二瓶が「思い出した!」と、声を上げた。 「ズバリ。――破鍋に綴蓋」 一瞬の間が空いたあと。 全員が「お〜」と、手を叩いた。 階段を段抜かしで駆け上がってきたために、汗だくになる。やっと屋上の更衣室まで来ると、勢いよくドアを開けた。一人で長椅子に座って待っていた観月がビクリと体を揺らす。 「いきなり開けないで下さいよ!」 肩からかけていたタオルの下は裸で、ジーパンだけという姿の観月が、顔を真っ赤にして怒鳴った。 「んだよ。ジーパンも脱いでりゃいいのに」 「そんなみっともない恰好ができますかっ」 「ほら、ユニフォーム。さっさと着替えろって」 差し出したが、観月はそれを睨みつけるだけで手に取とうとしない。 「だからさあ〜汚くないって」 頑な態度に呆れて、赤澤は尚も押し付けた。 「いえ…その、そうじゃなくてですね……。上はともかく、下が穿けないじゃないですか……」 「なんで?」 「ほっんとうに考え無しですよね。僕は濡れてるんですよ?」 「だから、脱いで着替えろって」 ここまでくればさすがに赤澤も何を観月が考慮しているのかがわかったが、白磁の頬を益々紅潮させていく様が面白くてすっ呆けた。 「だから! いいんです! 着れません!」 「パンツも脱げばいいじゃんか」 「―――っ!」 途端、観月の掌が赤澤の顔面を押し退けた。 「ふが! お前〜! 鼻が潰れるっつーの!」 「信じられない! なんてデリカシーの無い男なんだ!」 「デリカシーもクソもねえだろう。あとで洗濯すりゃ許す!」 「嫌です! 気持ちの悪い!」 「四の五の言わず脱げ!」 「うわあっ!」 長椅子に押し倒すと、その体を押さえつけてジーパンのホックを外し始める。観月はあまりにも非常識な男の行動に、目を白黒させてその身体を押し戻そうと必死にもがいた。 片手で肩を抑えられ、片手でジーンズを下ろそうとする。赤澤と違い、未だ成長途中で頼りない身体を晒す観月は、力で退かすこともできずに悲鳴を上げつづけた。 「イヤですーっ! 重い! 退きなさい! 退けって!」 「さっさと素直に脱げばいいんだっつーの」 なんだか小学生のじゃれあいみたいだ、と赤澤は段々楽しくなってきた。大体これがガタイの良い青年だったら、とてもじゃないが吐き気が込み上げてくる体制も、少年のように細く白い観月の身体だと嫌悪感は湧かない。 (――体育会系のクセに本当に白いよな……) 夏でも長袖着用の観月の腹部分など、それこそ眩しいぐらいの白さだ。感心しながら、下の方へと視線を向けると、わき腹のところにうっすらと傷跡を見つけて、知らず指でなぞる。 「うひゃあっ!」 「うわあ! なんつー声出すんだよっ」 耳元で奇声を発せられて、赤澤は腕立て伏せの要領で頭を持ち上げて離した。 「あ、あなたが変な所を触るからでしょう!」 「変な所って。これ、なんの傷だ? 左側のこんな位置だから盲腸とかじゃねえよな?」 箇所を指すと、観月の顔色が変わった。 「もう、本当にふざけてないで退いてください。夏ですから、このままでも大丈夫です」 「――――……」 納得いかない様子の赤澤に、観月は焦ったように再度、その身体を押し退けた。 「それとも、そんな趣味がおありですか? 僕は男に押し倒されるのは大嫌いなんですけど」 「ねえよ!」 そこまで言われれば、悪ふざけも終了するしかない。起き上がって隣に座り直すと、ゆっくりと観月も身体を起こした。 「――ってか。押し倒されたことあんのか?」 「ありますよ。今、あなたに」 「そりゃ失礼しました」 気だるげに、顔にかかった髪を掻き揚げる仕草に、なんだか酷いことをしてしまったかのような気分になってくる。気まずい沈黙が二人の間に流れ(さて、どうしようか)と、赤澤は首を巡らした。更衣室は空調が少しだけだが効いているので、蒸し暑いということはない。こうして座っていると丁度いいぐらいだ。 最初は肌を刺すような沈黙も、二分も続けばどうでもよくなってくる。大体、沈黙が耐えられないようなら、寮で同室になどなれない。 壁にかかった時計はまだ三時を回った所で、あと二時間は寮に帰れない。濡れて着替えのない観月と一緒に、何処で時間を潰そうかと考えあぐむ。 ぐらり、と傍らの影が揺れた。 「観月?」 訝しく隣を見れば、瞼を半分閉じた少年が舟を漕いでいるではないか。 「おい、眠いのか?」 さっきの今でよくよく感情の移り変わりが早いヤツだと、赤澤は半ば呆れてその肩を支えた。 「――騒ぎ…過ぎました……大体…今日は掃除で……」 うつらうつらとして、目を擦る姿が幼稚だ。そのまま、横に置いてあったユニフォームを、赤澤の膝に乗せると、次に小さな頭を乗せた。 「――おい」 「枕変わりぐらい…して…く……」 よほど水の中で動き回ったのが疲れたのか、重そうに瞼を閉じると、しばらく膝の上でもぞもぞと動き、収まりの良い場所を見つけて深く息をついた。 そのまま、肩甲骨がゆったりと、規則正しい上下を繰り返す。 骨の目立つ背中を見て、赤澤は手だけを動かし、落ちてしまっていたバスタオルを上半身にかけた。 「子供か…お前は……」 まあ、まだまだ子供な年なのだけれども。 眠る姿を見るのは何も初めてではない。だが、ここまで無防備なのは初めてだ。 空調機の音だけが、静かに場を満たしていく。 (なんだか気位の高い猫に懐かれた気分だなあ……) ぼんやりとそんな事を思った。 最初の頃の関係なんかそれこそ絵に描いたような険悪さで、部活内で対立なんてざらにあった。勝つ為ならば手段を選ばない観月に、反発する部員はあとを絶たず。そんな部員達の不満を一身に受けて、対処しなければならなかったのが赤澤である。自然、観月との争いは避けられなかった。 最初はそれこそ相手にもされず。軽く躱されていたのだが、段々と赤澤がただのお飾り部長でないとわかるやいなや、その毒舌は留まることを知らずに、辛辣さは刺の如く。大分へこまされたものである。 だが何度か大きな言い争いをする中で、赤澤は観月の中にある確固たる勝利への執着、それに伴う決意を知り、考えを改めるに至った。 お遊びテニスのために、観月達は来たのではない。勝つ為に、この学院へとやってきたのだ。元から居た部員達にはその意識が欠落していた。まずは、その役割を皆に納得させなければならなかったのだが、観月達には前提のことだったために、意思の疎通がままならなかったのだ。 観月は確かに頭がいい。言っていることも確かだ。 ―――ただ、不器用なだけ、損をしている。 それに気づいたからこそ、赤澤は観月という少年に賭けてみようと思った。足りない部分があるなら、できる分だけ自分が埋めてやればいい。 孤高奮闘する姿に、どうしようもない寂寥感を覚えたのもその頃だった。後ろから支えて、独りじゃないんだ。と言って聞かせたかった。言って素直に聞くような少年でないために、骨を折ったが。 家庭の事情で、突然五月に入寮した時。 人数の問題で一人部屋を満喫していた観月には酷い恨まれたもので「よろしく」と、手を差し出しても「嫌です」と一蹴されたものだ。 それからも色々あった。残念ながら力及ばず、都大会で敗れはしたが、培ったものが消えるわけでもない。 ―――現に、膝の上で眠るなど、大した進歩だ。 三年である自分達にとって、中学時代のテニスは終わってしまったが、まだ後輩を新人戦に送り出す準備がある。 それに―― (高校で、頑張ろうぜ……) 眠る観月の頭を撫でながら、赤澤はあるべき未来に思いを馳せた。 |
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