五時過ぎに裕太と一緒に帰ってきた木更津は、玄関掃除している柳沢を見つけて破顔した。

「あはははは! そうなるのわかっててよく逃げたよね!」

「ううう、煩いだーね!」

「柳沢先輩一人だけですか?」

 玄関には雑巾を搾っている柳沢しかいない。裕太がきょろきょろしていると「あっちにもいるだーね」廊下をモップ掛けしている寮生達を指さした。

「淳も手伝うだーね!」

「ヤダ。赤澤は? 一番逆鱗に触れてそうだけど」

「にべも無いとはまさにこのことだーね。クソウ…。赤澤なら風呂場掃除してるだーね。観月がびしょ濡れのままずっと居たから、早く入れるようにって」

「びしょ濡れ? なんでまた……」

「観月さんがですか?」

 模範生二人に責められるような視線を向けられて、柳沢は焦って首を横に振った。

「オレじゃないだーね! 赤澤がプールで観月抱えてダイブしたんだーねっ!」 

「はあ? 抱えて…って、観月水着…わけないよね。怒って出てった時箒しか持ってなかったし」

「そうそう。箒で上から突っつかれて溺れるかと思っただーね」

「自業自得でしょ。――裕太、暫く観月の側に寄るのよしなね。誤爆されるから」

「は…はあ」

 冷や汗を流しながら、裕太は返事をした。あの観月を、服のまま水に落としたなんて、考えただけでも恐ろしい。

「淳達はテニスしてたのか?」

 二人の手に持っているラケットを柳沢がさした。

「うん。ストリートテニス場ってオレ初めて行ったけど、中々面白かったよ。不二周助も来たしね」

「不二…周助〜? 呼んだのか?」

 最後の問いは不二弟に向けたものである。裕太はどんよりと肩を落とした。

「呼ぶわけないじゃないですか……」

「本当に凄いよね。『やあ、偶然だね。裕太』って…アンタは今日関東大会だったろうっての。絶対アレは裕太レーダーついているよ。確実」

「気色の悪いこと言わないでくださいよ!」

「さすが天才不二周助だーね」

「天才じゃなくて、あれはもう奇才の部類だよ」

「ああああ〜〜」

 落ち込む裕太を放っておいて、柳沢は「で、青学はどうなったんだーね?」と気になっていたことを尋ねた。

「緑山に圧勝したって。全国行き決定」

「おお〜。なんか羨ましいような、悔しいような。だーね」

「まったくだよ。ちなみに六角も全国行き決定だ。次は青学とだって」

「――淳」

 肩を竦める木更津に、柳沢は思わず悲しい顔をする。

「変な顔がもっと変な顔になってるよー。慎也」

 むにゅっと、その口を木更津は摘んだ。いきなりの行動に、された本人よりも裕太の方が驚く。

「何するだーね!」

「こっちの台詞。ああ、お腹空いたや。早く夕飯の時間にならないかなー」

 靴を下駄箱に突っ込むと、そのまま自分の部屋に向かうべく歩き出す。

「まったく! 酷いヤツだーね!」

「えっと…あの。多分、木更津先輩なりに、気遣ったんだと思うんですけど」

 雑巾を振り回して怒る柳沢に、裕太が慌ててフォローを入れた。

 ふっと、柳沢が目元を緩める。

「ばーか。分かってるよ」

「―――ですよね。失礼しました」

 顔を真っ赤にして頭を下げた。

「もうそろそろ風呂掃除も終ってるだーね。先に汗流してこいよ」

「はい!」

 きっちりと靴を揃えて下駄箱に入れていると、そこで柳沢が「あれ、赤澤」と言っているのを聞いて振り向く。

「おう、精が出るな」

「って、どっかに行くのか?」

 急いでいる様子で、赤澤がスリッパを脱ぎ捨てた。裕太は赤澤の下駄箱から靴を取って、下に置く。

「悪いな、裕太。――ああ、ちょっとニコタマまで行ってくる」

「駅ですか? こんな時間に遠出ですか」

「いや、なんか…オレもよくわからなんだいけど……」

 困ったように頭を掻く赤澤に、二人は目を見合わせて首を傾げた。

「赤澤!」

「うわ! ちっ。見つかったか…っ」

 今度は観月までもが玄関に出てくる。風呂から出たばかりなのか、肩にバスタオルをかけていた。

「早いぜ、出てくるの…」

 悪戯を咎められた子供のように、赤澤は首を竦める。

「ちゃんと掃除をしているか見回るためにシャワーしか浴びなかったんです! 人を烏の行水みたいに言わないでください!」

「オレは風呂場の掃除したし、もういいだろー」

「何言ってるんですか。まだ掃除するところはありますよ!」

「あー、帰ったらやっから勘弁。ちょっと、本当に急いでるから」

 片手をあげて拝む真似をすると、さっさとシューズに足を突っ込んだ。

「待ちなさい! 一体なんなんですか、そんなに慌てて。門限までには戻って来れるんでしょうね?」

「うーん。多分……」

「多分〜?」

 怪訝そうに眉を顰める観月に、赤澤は門限を破るかもしれない状況も考えて、ちゃんと話すことを決めた。

「さっき千石から連絡あってさ。なんでも今日の試合後に山吹の一年が倒れて、病院に運ばれたんだと。だけどそっから…逃げたらしくて。普通の状態じゃないらしいから、早く見つけて保護して欲しいって」

「なんですか…それは…」

 予想だにしなかった緊急事態を告げられて、全員の動きが止まる。

「オレもよくわかんねえ。で、千石達は普通に電車でそれぞれ帰ったんだけど、大岡山駅で乗り換える為に降りたら入れ替わりで乗る乗客達の中に、居るはずの無い一年を見つけて、驚いてオレの携帯にかけてきたんだ。ぼうっとしているから、もしかしたらそのまま終着駅まで乗ってくかもしれないって」

「大井町線の最終駅…二子玉川ですね。それは何時頃の話ですか?」

「見かけたのが十五分前だって言ってたぜ。だからそろそろ、こっちに着く」

「確かに大岡山からここまでなら三十分もしないと思いますが…。あの、おかしくないですか? なんですぐに千石君が捜しに来ないんです。病院から抜け出したとすれば、親御さんだって心配なさってるでしょう」

「さあな。あいつの考えてることなんてわからねえし」

「それでも捜しに行くんですね。まったくお人よし過ぎますよ」

「ふ、誉め言葉として受けて取っておこう」

 かっこつけてポーズを決めると、赤澤は「遅れたらよろしく!」と駆け出した。

 裕太と柳沢が唖然と見送る中、観月だけは大きく溜め息を吐きながら自分の下駄箱を開ける。

「え、観月さんも行くんですか?」

 裕太は玄関ホールの方に身体を避けて、観月を通した。

「あの男だけでは不安ですから。状況もいまいちわかりませんし」

「確かにわからないだーね。なんかシリアスっぽい事態なのはわかったけど。つーか千石と携帯ナンバー交換してたんだ?」

「お気楽そうな二人、馬でも合ったんじゃないですか? まあ、赤澤は新人戦の頃から都内のテニス部と交流あったでしょうから、不思議ではありませんが…。では、行ってきますので、あとはお願いしますね」

「わかっただーね」

「あ! 観月さんタオルタオル! オレ片付けておきますから!」

 そのままで出て行こうとしたので、裕太が慌てて止めた。肩に掛けっ放しだったタオルの存在を忘れていた観月は、少々顔を赤らめて「お願いします」と手渡して、改めて出かける。

「――観月さん、実は慌ててたんですね」

「本人がいなくなってから言うあたり、度胸が無いだーよ。裕太」

「そんなんじゃないですよー!」

 

 

 

 日の長さがピークの時期なので、五時過ぎといえども外はまだ充分明るい。
 蝉の鳴き声が木霊する住宅街を全力疾走で抜けて、さすがに息が切れた頃にやっと赤澤の後ろ姿を視界に捉えることができた。

「赤澤―っ!」

 足の速さで敵わないことは熟知している。振り向いてくれることを祈って呼びかけた。二子玉川駅前にある高島屋前の大通り交差点で、赤澤の足が止まる。ようやく追いついて、シャツを掴んだ。

「なんだ、お前まで来たのか?」

「人…探し…なら…複数のほうが、いいでしょう…」

 せっかくシャワーを浴びたのに、また汗を流してしまった己のバカさ加減に呆れながらも、必死に息を整える。

「顔、わかるんですか?」

「ああ、携帯に」

 緑と黒のメタリックカラーの携帯を開き、観月の前に掲げた。

「――女の子ですか?」

 綺麗な卵形の顔に、大きな黒い目。その小さな顔を覆うように、緩やかな曲線を描く黒髪。

「違うと思うぞ。名前が壇太一って言ってたし」

「男の子ですか。少女みたいな顔ですね」

「お前…人とのこと言えない」

「はあっ? 僕のどこが女みたいだって言うんですか!」

「あ、青になった」

「ちょっと、赤澤!」

 逃げるようにして、駅に向かって走り出す。夕刻、学生達や仕事帰りの社会人でごった返す場所なので、人の波を上手くすり抜けねば中々駅までたどり着けない。改札口までやっとのことで行き、観月はげんなりとした。

「お前、人込み歩くの苦手だよな」

「デカイ図体のクセにすいすい行けるあなたがおかしいんです。まったく…なんでこんなに人が多いんだ」

「山形は広そうだもんな」

「―――田舎者で悪かったですね」

「んなこと言ってねえよ。さて、駅内にどうやって入るかな」

「事情を話せば入れてくれるんじゃないですか?」

 電車が着いたようで、どっと改札口に人が殺到した。駅員が顔を出している場所にも、列ができている。
 大井町線と田園都市線。都内中枢を走る、ふたつの路線が通っているこの駅では、利用客が半端でない。

「仕方ねえ、話してみっか」

 観月の手をとって、窓口へと人を掻き分けていった。

(――こういう動作が無意識だから恐いんですよね。この人)

 振り払うこともできずに、ただ引っ張られるまま観月はあとに続く。
 なんとか駅員に話をつけると、一人が「一緒に行くよ」とついてきた。

「ホームは二つあるけど、大岡山から来たなら1番線だね」

「すみません、わざわざ」

 案内され、階段を上る。プラットホームに出て見渡すが、背の低い観月には端の方までわからなかった。が、ふいに赤澤が走り出したので、驚く。

「おい、走ったら危ないよ!」

 若い駅員もそのあとに続いた。1ホームに電車がつき、人が溢れ出す。観月も慌てて、その人込みから抜けるために走った。
 ホームの一番端。観月の肩ぐらいまである白い欄干の前で、小さい子供を抱きかかえている赤澤がいた。
 珍しい緑色と黄色のジャージ。山吹の少年ということはすぐにわかった。先に追いついていた駅員が、二人を前にして立っている。

「その子かい? 捜してたのは」

「はい。どうもご迷惑をおかけしました」

「いや、見つかったのなら良かったよ。そんなに小さな子を捜しているとは思ってなかったから。弟かい?」

「友達の弟なんです」

「そうか。じゃあ、戻ろうか」

「はい」

 真面目に頭を下げる青年に、駅員は気分を良くした様子で、先導した。それを眺めていた観月は、妙な違和感に眉をそびやかす。
 駅から出ても、無言で少年の肩を抱いて歩く赤澤に、観月は益々募る疑惑に耐え切れなくなった。

「あの、赤澤? その子どうしたんですか?」

「わからねえよ。とにかく、人気の無い所に行こうぜ。こいつ、多分今意識が無い。話かけてもウンともスンとも言わねえんだ」

「――心神喪失ってやつですか……」

 抱えられるようにして歩く、自分よりも小さな少年に目を向ける。目は開いているが、どんよりとして虚ろだ。そこには何も映ってないように思えた。
 病院に運ばれたとは聞いていたが、その理由までは教えて貰っていない。一体何があったのだろうか。観月は不安になりながらも、赤澤の隣に並んで、少年を守るようにして足を動かした。

 徒歩3分ぐらいで、多摩川河川敷まで出る。川のすぐ向こうは神奈川県だ。最初にそのことを教えて貰った時、県境に住んだことのない観月には新鮮だった。川自体は幅があるわけでも水量があるわけでもないのだが、途中で二股に分かれていたりするので、川原を含めると神奈川まではけっこうな距離がある。
 頭上には田園都市線の線路があり、川を渡ってすぐが『二子新地駅』だ。鉄橋の隣にはこの辺で唯一、神奈川まで渡れる二子橋がかかっている。観月は近いがゆえに、あまり来たことのない多摩川を見渡した。
 草の生い茂る第二堤防を越えて、河川敷まで降りる途中にコンクリートで補強された場所がある。そこで三人は立ち止まった。

「観月、ちょっと変わってくれ」

 ふらふらとしてきちんと立っていられない少年を渡され、観月は慎重に座らせた。

 傾いだ日が照らす少年は、表情の無いことも手伝ってマネキンのようだ。長い睫に縁取られた双眸は、やはりぼんやりと下方に向けられたっきり、こちらを見ようともしない。
 よく夢遊病の者に話しかけてはいけないというが、果たしてこの場合もそうなのだろうか。

「――よう、千石。見つけたぜ。ああ、ホームに居た。今は多摩川河川敷に居る。うん、鉄橋のすぐ下だから分かりやすいと思うぜ。すぐに迎えに来るんだろう? なんか様子がおかしいんだ。ぼうっとしているっていうか…へ? ――ああ? なんでだよ」

 少し離れた所で電話をしていた赤澤の様子がおかしい。頭の中で千石清純の顔を思い浮かべる。軽薄そのものの笑顔しか出てこずに、こめかみの辺りが痛くなってきた。

 通話を終えた赤澤が、少年の隣に鼻息も荒く座った。

「お迎え、来るんですか?」

「――気がついたらまた連絡頂だい…だとよ。何考えたんだか」

「はあ?」

「ああ、もう何も言うな。わかってっから」

「ちょっと待って下さいよ。あなた、それで待つつもりじゃないでしょうね?」

「待つよ。だってこいつの家知らねえし」

「携帯貸しなさい、千石君に僕から話をつけますから」

「待て待て。なんか本当に奇妙な状況だから、もうちょっと待ってみようぜ。一時間待っても気づかなかったら、もう一度入れるよ」

「あなたって人は……」

 頭を抱える観月に「だから」と、赤澤がへらりと笑う。

「先に帰ってていいぜ。こっからはオレ一人で充分だ」

「何言ってんですか! ぼんやりしている子供とあなたと残して行けますか!」

「妙な所に義務感を感じるヤツだよな」

「あなたには言われたくないですよ」

 こうと決めたら梃子でも動かない。観月の頑固さを身に染みて知っている赤澤は、諦めて肩を竦めた。

「――しかし。本当に何があったんですか、今日の試合で。相手は不動峰ですよね? 結局どっちが勝ったんです?」

「あ〜、不動峰だってよ。全国行きが決定したのは。でも山吹も敗者復活戦が残ってるから、まだ諦めるのは早いけどな」

「そうですか……」

「気になるか?」

「――大した神経ですよね。気になりますよ。決まってるじゃないですか……何笑っているんです」

「いーや。新人戦で後輩達にリベンジして貰おうぜ」

「当然です。一年にももう特別メニューを組んでますしね」

 そう言いきる観月だが、ここまで開き直るにはやはりそれなりの葛藤があったことを赤澤は知っている。
 勝つ為に集められた。全国に行くのは当然と期待をかけられていた。それらの重圧に耐えて戦ってきた観月達だ。

 ――にも関わらず、結局都大会で敗北を喫してしまったのだから、一時は学院から去ることも考えていたようだった。

 木更津や柳沢、野村も、口には出さずとも気にしていた。だがその要として、絶大の支持を受けていた観月とは比べ物にはならないだろう。何せ、木更津といい裕太といい、自分についてくれば勝てると言い聞かせて、特待生として連れて来たのが観月である。その責任は、一介の生徒の範囲を越えていた。

 氷帝に負けた時など、自暴自棄になっては他の誰よりも自分を責めていたし、夜も満足に寝むれず、食欲だって激減していたのを間近で見ている。

(立ち直ったよな…自分で。やっぱ強ええや、観月は)

「――だからなんで笑っているんですか。気味が悪いですよ」

「美人なマネージャーがいて、ウチの部は良かったなあってね」

「またバカなことを…。大体顔なんかどうでもいいでしょうが。女子マネがいいなら、来期から募集すればいいんです」

「いやあ、顔は大切ですよ。やっぱ綺麗な顔しているほうが特だって。そう思わねえか?」

「思いません。鬱陶しいことならたくさんありましたけどね。あなたは、顔で選ぶんですか。基準は顔なんですか」

 侮蔑の眼差しを向けられて、困ってしまった。そういう意味で言ったわけではなく、純粋に観月の容姿と内面の強さに賛辞を送ってみたのだが、気に食わなかったらしい。

「最初に見た時、悪いけどよ。女だって思ったぜ」

「……よくもまあ、人のコンプレックスを直球で刺激しますね」

「コンプレックスなのか?」

「どっからどう見ても男のあなたには無縁のものですよ。昔は…よく揶揄の対象になりました。女みたいな男なんて、小学校とかでは気持ち悪がられるだけです」

 そこまで告げてしまってから、観月は己の失態に気づいて、カッと羞恥に身悶えた。昔の古傷を自ら暴露してしまうなど、ありえないことだ。

「そうかな。オレだったら友達になりたいって思うけど」

「――え?」

 初夏の熱気を裂いて、清やかな風が吹き抜ける。

 銀色の列車が橋を渡り、轟音が空気を震わした。

「顔ってさ。やっぱ大事だと思うんだぜ。意地悪そうな顔。優しそうな顔。付き合ってみなきゃ中身なんてわからないもんだけどさ。中身は凄い良いヤツなのに、外見で逃げられたりするヤツだっているんだぜ。だからさ、観月は少しだけ、自分を知って貰えるチャンスが人よりもあるってことなんだぜ? あとは身形とかだよなあ。内面は形からって聞いたことあるし。そう扱われると、そういう人間になるとも言うな」

「誰かれ構わず自分を知って貰いたいとは思いませんし、わかって貰えるとも思いません」

「まあ、それ言われちゃ終りだけど。オレはお前の顔、好きだぜ。笑っていればもっといいのになって思う。――裏のある笑いは勘弁だけど」

「裏ってなんですか。失礼ですね!」

「気持ち悪いって言ったヤツ等にも、綺麗に笑ってやればよかったんだ」

「―――………」

 不覚にも観月の心臓が跳ねた。

(この男は…ホントに……)

 普通に会話していても、無意識に相手の意思を探り、相手の答えを予測して喋るクセのついた観月だ。だからこそ、予測のつかない答えで翻弄されるのが大の苦手だった。それを赤澤は毎回、無意識にしてくるので手に負えない。とにかく、無神経かと思えば、遠回しに気遣ってくる。考えて行動しているのかと思えば、衝動的だったりする。

 他人と深く関わるのが嫌いな観月が、張り巡らせる壁も、彼の前では意味をなさない。誰もが遠巻きで自分を見ているのに対して、彼だけはいつのまにか側にいて、それがあまりにも自然で居心地がいいから――困るのだ。

(―――誰にももう、気を許さないと決めたのに……)

 気を抜くと、つい依存していしまいそうで、観月はその度に悔しくて歯噛みする。

「…オレもさ、大抵初対面のヤツには恐がられるからなあ。今でもたまにケンカ売られたりするし。お前にも恐がられてたし」

「別に…恐がってなんか……」

「今更だから、いいんだけどよ」

「恐がってませんってば! バカ面だなあ。これは操れる。とは思いましたけど」

「ひでえ…」

(なにが恐がられるだ。街を歩けばあっちこちから女に声をかけられるクセに……っ)

 何度か渋谷に一緒に出たことがあるのだが、その度に女子高校生やら大学生に捕まっているのを目撃している。

 確かに第一印象は、きつい目元と長身のせいもあり、圧迫感を感じはした。が、すぐさま新しくできた仲間を喜んだように「よろしく」と破顔し、そんな無邪気な様子に気が抜けたものだ。

「―――前から思ってたんですけど……」

 なにやら面映くなってきた話題を変えようと、観月は顔を上げる。

「なんだ?」

「この駅の区間て短かすぎませんか。駅から次の駅が見えますよ。あの二子新地駅に意味ってあるんですか?」

「――それは地元民の間では禁句だ、観月」

「禁句…なんですか」

「ああ、二子新地から、次の高津駅まで見えるってのも禁句なんだ……。ちなみにその次の駅『溝ノ口』まで、こっからチャリで二十分以内ってのも禁句だ……」

「三駅先…しかも東京から神奈川で二十分もかからないんですか……。それはまた」

「意味が無いとか、税金の無駄とか言っちゃダメだ。地元民には大切な駅なんだからな」

「――申し訳無いんですけど…僕の地元では、駅に着くまでにまず車でなきゃ無理ですし。コンビニに行くのも、スーパーに行くのも車でなきゃ無理です。都会の人が細いのは、すぐに車に頼る生活じゃなくて、歩いて移動できるからだって、叔母とか本気で思ってるほどですから」

「……ニッポンって神秘な国だなあ」

「縦長ですもんね」

 段々わけのわからない会話になってきて、二人揃ってどうでもよくなってきてた。

 時計を見れば、それでも三十分以上経過しているのだが、少年は相変わらずぼんやりと川を見つめているだけで微動だにしない。

「観月、知ってるかあ? あそこの中州があるじゃん」

「はい。川の真中の島みたいなとこですね」

「あそこまでって、浅瀬を歩いていけばけっこう簡単に行けるんだけどよ。嵐が来たり、大雨が降ったりすると、水嵩がすんごい高くなってさ、最大でここの堤防まで飲みこんじまうんだ。向こうに池があるじゃん。あの池も川と合体しちまう」

「ああ、なんか周辺地域の歴史で習いましたよ。昔はこの多摩川って荒れた川で、付近の村をすぐに飲み込んで形を変えて移動していったんですよね」

「おう。でも、これはそんな昔の話じゃなくてな。一年前だけど、嵐の次の朝にさ、この上に三台ぐらいのヘリが集まってたことがあって何ごとかと思ったらよ。なんでも中州で夜に会ってた高校生のカップルがいて、水嵩が上がっちまって戻るに戻れず。結局ヘリで救出されたんだと。バッカだよなあ」

「……まさかあなたの実体験じゃないでしょうね」

「高校生だって言ってんだろう」

「どうだか。女性に誘われればホイホイと行きそうですよ。何人目の彼女ですか?」

 いつもの軽口だった。観月だって悪気があって言ったわけではない。だが、

「行かねえよ! 絶対にだ! オレは惚れた女は大事にするっ。…絶対大事にするんだ……っ」

「赤澤?」

 激高されたことに、驚くというより衝撃を受けた。観月は呆然と、腰を浮かせてまで怒った男の顔を見る。

「――悪い。あークソ。余計なこと言っちまった。恥じいな」

「いえ。ちょっと驚きましたけど」

「あのよ。オレって誤解受けやすいんだけど…彼女とかってさ。ちゃんと自分で自分の責任が取れるようになってから、考えたいんだ」

「―――同感ですよ」

 無骨な手が髪を掻き揚げる仕草にドキリとした。

 誤解――と言うのか。赤澤には一つの噂がある。それはこの年頃の少年達の羨望と嫉妬を一身に集めた噂。

 曰く――赤澤は女を知っている。

 その話を最初に耳に入れたとき、湧いたのは嫌悪感だった。当初恐がっていたと、赤澤が感じていたのならば、それは恐がっていたのではなくて軽蔑していたのだ。よく雑誌やテレビなどで、性交渉を持つ者達が早くて十二歳からだとかを見るが、自分には遠い出来事のように感じていた。

 ――いや。そう思いたかった。

 噂の真偽を確かめる気は無い。

 じくり、ととっくに治っている脇腹の傷が疼く。

 無意識にそこに手をやろうとした。

 隣に座る少年が動いたのは、同時だった。

「………やっ!」

「え?」

「やだあぁぁぁああ―――っ!」

 頭上の駅から発車ベルが鳴った。鉄橋が震える。車輪がレールをゆく音が、耳を塞ぐ。

「なに? どうした?」

 反対からも電車が通り、轟音が酷くなった。

「やだぁぁあああ――っ! 痛い! 痛い!」

 悲鳴が上がる。かき消される。

 もがき暴れる少年を、赤澤が抱き締めた。

 何かを叫んでいる。

 だが聞き取ることができない。

 まるでサイレントムービーを観ているようだ。

「―――っ! ――――っ!」

 小柄な躰を、これでもかと暴れさせている。手が赤澤を押し退けようと宙を掻く。

 唐突に湧き上がった、異彩な光景。

 観月は、動くことができなかった。

「な…」

 列車が遠ざかる。

 音が戻ってくる。

「いやあっ! 痛い! 痛い! 放して――っ!」

「――おい! 大丈夫だよ!」

 はっとして、意識を現実に引き戻した。

「…おやめなさい。大きな声は出さないほうがいい……」

「でもよ…」

「いいから、暫く待ちましょう。落ち着くまで……」

「はな…っ! 放し…」

 赤澤は咄嗟に、少年の口を手で塞いだ。

「―――痛っ」

 走った激痛に、顔を顰めるもその手は離さない。観月は、その手が噛まれて、血が滲んでいるのに気づき青くなる。

「君…っ。太一君っ!」

「――うう…ううぅぅ」

 ボロボロと泣き出した。苦しそうに、それでも何かを必死で飲み込もうと、手を噛んでいる。そんな風に何故だか観月は感じた。

「いいんだ…。大丈夫だ、観月」

「でも…血が……」

「まだ人目がある。悲鳴を上げられるよりかはましだ」

 そうあっさりと答えると、そのまま少年の体を包むようにして抱き締めた。

「大丈夫だ。安心しろ。誰もお前を傷つけたりしない」

 呪文のように繰り返す。根気よく、赤澤の宥めは続いて、段々と辺りが薄暗くなる頃に、ようやっと動きが緩慢になってきた。

 赤澤の手も離れ、今はすすり泣く声だけが流れている。
 側に居ることしかできない観月は、息苦しさを感じるほど、居た堪れなくなっていた。
 どう考えてもこの尋常ならざる状況は自分達の手に余る。理由を教えもしなかった千石に、強い憤りを持った。
 早く千石に連絡を入れたいとは思うのだが、なにせ番号を知っているのが赤澤で、今は少年を宥めるのに精一杯なのだ。歯痒さを噛みしめて、観月はぐっと少年の正気が戻るか、大人しくなるのを待った。

「――ひっく。ひっく」

「大丈夫だ。大丈夫だから……」

 胸に顔を埋めて嗚咽を繰り返す。その小さな頭を、赤澤はずっと撫でていた。
 見ていられずに、ただ流れる多摩川の先を眺める。耳が閉じれればいいのに、と心から思った。

 少年が叫んだ言葉。

 さきほどからぽつりぽつりと、意識もなく語られる内容。

(―――ああ、嫌だ…。他人の傷跡なんて、見たくない……。同情したくないんだ。千石…恨んでやる……)

 ずっしりと、肩にかかる重み。

 それがこの少年の持つ痛みの、何千分の一だとしても、それだけで観月には堪えがたかった。自分にはどうしようもないことではないか。癒すことも、消すこともできない。

 そんな人間が知ってなんになる。

 傷を広げるだけじゃないか。

 始めに見せて貰った、携帯画面の中の無邪気な笑顔が脳裏に過ぎる。その笑顔を色褪せたものにしてしまうほど、少年は自分の過去に怯え、泣いている。

(誰もが幸せであればいいのにね……)

 手を伸ばして、細い背に触れた。

 とてつもない寂しさが、胸の奥底まで広がった。

「――いつまでそうしている気ですか」

 周囲は真っ暗になり、水面には橋の上を通る車のライト。常夜灯。街の灯りだけが、煌きを与えていた。

「いいよ、お前まで付き合わなくったって」

「そうはいきませんよ。…いい加減連絡取ってもいいですか?」

「ダメだ。まだ、こいつが戻ってこないし」

 溜め息をついて、赤澤が少年の髪をくしゃり、と撫でた。

「――あれ?」

 はっとして、観月と赤澤両方の視線が釘付けになる。

「どこ……?」

 少年がゆっくりと頭を起こす。何度か目を瞬かせた。

「気づいたようですね」

「おー、良かったぜ」

「え……」

 二人同時に、どっと肩から力を抜いた。

 心の隅で、このまま正気に戻らなかったらどうしようかと、声に出さずとも不安だったのだ。

「暑かったか? オレ結構汗かいたかも」

「当たり前でしょう。いくら冷夏とはいえ、それぐらい引っ付いていれば」

「あの?」

 状況が理解できていないのだろう。困惑した様子で、身じろぐ少年から赤澤は少しずつ躰を離す。

「離れるぞ、立てるか?」

 慌てて少年が立ち上がった。焦ったのだろう、足がついていかずに縺れてよろける。観月は「ゆっくりでいいんですよ」と、横から支えた。

「はい…」

「お前、なんでここに居るのか思い出せるか?」

 背後で、赤澤がよっこらせっと立ち上がった。随分長いこと座っていたので、躰が固まっているのか大きく背伸びをして、あちこちを動かしている。

「ここは…どこですか?」

 途方に暮れたように、少年は観月を窺ってきた。

「多摩川ですよ、この川は。上を走っているのは田園都市線。そこの駅が二子玉川です」

 頭上を指し示すと、少年が釣られて見上げる。そして後方にある大きな駅をまじまじと凝視した。そこから伸びた鉄橋にまた電車が通る。黒く見える川面に、車窓から漏れる光が連なるように流れて消えた。

「ふたこ…たまがわ……」

「ダメですね。まだボケてますよ」

「言い方がマズイんだよ。――そこの駅は大井町線の終点だ。お前は大岡山駅から乗ったんだろ? 千石からそう連絡が来たぞ」

「せん…ごく先輩?」

 知っている名前を出されて我に返ったのか、言葉に明瞭さが増す。

「なんでここに居るんですか、ボク。あれ? え…確か…今日は」

「関東大会準々決勝です。山吹は不動峰に負けたそうで」

「観月…っ」

「事実を確認しているだけでしょう」

「その…ボクは…テニス会場にいて…」

記憶を手繰っているようだが、どうやら上手くいかないようで、額を仕切りに触っていた。

「壇太一君――で、いいんですよね」

「…は、い」

 観月は驚かせないようにそっと、顔を覗き込む。

「写メールだけで探せ言われた時はどうしようかと思いましたけど、見つかってよかったです。今まで名前をいくら呼んでも返事がもらえませんでしたから、間違えてなくてなによりでした」

「すみませんです。ご迷惑おかけしたようで…っ」

「いいんだよ。とにかく、どこまで覚えているか教えてくれ。そしてどうしたいか、だ」

 赤澤がひょいと会話に入ってきた。

「どうしたい…。か、帰るです! っていうかホントになんでここに? え、ボク。その……」

「落ち着けって…。あー、そうか。オレ、聖ルドルフのテニス部の赤澤って言うんだ。そっちがマネージャの観月。何度か会場で会ってるかもしれねーけど。ま、あの人数じゃ無理か。千石とか南とかなら喋ったこともあるんだけどな」

 考えてみれば見知らぬ人間同士だった。それをうっかりと忘れていた観月と赤澤は、急いで名乗る。制服を着ているならまだしも、私服なのだし、そうなると中学生にはまず見えない二人だ。訝しがられるのも無理は無い。が、少年は驚いた様子もなく、自分達を見知っているようだった。

「青学の黄金ペアに勝った人と、不二さんに負けた人ですよね?」

「……余計なことばかり言うのはこの口ですか?」

 むに、とその口を観月が摘む。

「ヤメロって、柳沢になんだろー」

「ふん。どいつもこいつも、不二不二って…っ」

「根に持つなあ」

「当たり前です!」

 名前を聞くだけでも腹立たしい天敵、不二周助。まさか他校の、しかも一年にまで知れ渡っていようとは、一生涯の不覚と言ってもいい。

「す、すみませんですう。よく、お前は一言多いって怒られるです。でも、その赤澤さんと観月さんと、何でボクは一緒に居るんですか」

「本当に、覚えてないんですね」

 責めたつもりはなかったのだが、考えなしのその言葉は少年にとってナイフで刺されるに等しかったらしい。さっと青褪めて、細かく震え出した。赤澤はその肩に、労るように手を置く。

「オレも詳しくは知らねえよ。ただ、千石から聞いた話によるとだな、お前は会場で倒れてかかりつけの大学病院に運ばれたんだそうだ。だけど…逃げたのかな? 千石はお前を駅で見つけたらしいんだけど、気づいた時には電車に乗ってたって」

「ボクが逃げた? 電車に乗って?」

「ぼーっとしているようだったから、最終駅まで行くだろう、とアイツは見当をつけてオレに連絡寄越したらしい。ルドルフ、二子玉だからな。よくわかんねーけど、普通の状態じゃないと思うから保護してくれって言われてさ。慌てて来てお前を探したんだ」

「まったく…、駅内で惚けたように川を眺めてましたよ。反対ホームの田園都市線に乗らなくて何よりでした。半蔵門線直通ですからね。乗ったら埼玉まで行っちゃいますよ」

「さ…埼玉ですか?」

 この路線をまったく知らなかったのだろう。目を丸くして驚いた。感じ入ったように鉄橋を見上げる少年。観月は知らず既視感に襲われ、苦いものが咽まで這い上がってくる。

「行きたかったんですか、遠くに」

「え……」

 目が合った。瞬間、少年の双眸に罪悪感めいたものが滲む。

「いえ、そんな…埼玉なんて。お金無いですし! あ、お金。ボク電車賃どうしたんでしょう…」

「んー? パスネット持ってるじゃないですか。それで放心した状態でも電車に乗れたんですね」

 駅から出た時に、自分達はともかく電車に乗ってきた少年は、当たり前だが金が必要だ。変わりに払うつもりではあったが、乗車したからには切符を持っているだろうと、ポケットを探ったらカードが出てきたのである。

「一応さ、千石には見つけたって連絡入れたんだけど、様子がおかしいんだって言ったら『じゃあ、気づいたらまた連絡ちょうだい』って切られたんだよな」

「無責任な男です。まあ正気に戻ったんですから、さっさっと連絡入れなさい。赤澤」

「ボク、どれぐらいこうしてたんでしょうか」

 先輩を批難され、その原因が自分であることに恐縮したのか、少年は縮こまった。

「二時間と半ぐらいですね。今は午後七時四十五分ですから」

「そんなにですかっ? あの…警察、捜してますよね。ボクのこと」

「警察…って」

 いきなり飛び出した単語に、二人は固まる。

「どうしよう…、逃げたなんて! 逮捕されちゃんでしょうか、ボク……」

「ちょっと…ちょっと待てって。捕まるって――千石は何も言ってなかったぞ?」

「…ボク記憶が無くて…、無くて…。でも…」

「おーちーつーけーって」

「うわあ」

 興奮状態になり始めたところを、赤澤が後ろから抱き上げた。これには観月も仰天する。いくら小柄といえども、中三男子が中一の男子を抱っこしたのだから当たり前だろう。落ちないように、赤澤の頭に少年が抱きつく形になる。

「何があったかは知らないけど、とりあえず落ち着けって」

「わ、わかったので下ろしてくださいです!」

「赤澤……あなたって人は、本当に……」

 がっくりと肩を落とす観月の呆れっぷりもなんのその、赤澤は抱き上げたままの状態を崩そうとしない。そこでさすがに違和感に気づいたのか、少年は顔を引き攣らせた。観月はすかさず、赤澤のジーンズの後ろポケットから携帯を抜き取る。任せていたら、いつ連絡を取るのかわかったもんじゃない。

「ボク…何か喋ってましたよ…ね」

「――――………」

「何を喋って……」

「――あ、千石君ですね。君のところの一年が正気に戻りましたよ。どうすればいいんですか? 送りましょうか?…え、は?」

 視線が自分に集まったのがわかった。

「なんですって? ―――わかりました」

 通話はすぐに切られた。観月はまだ耳に残る能天気な男の声に、相手の首を締めたい衝動で一杯になる。

「お迎えが来るそうですよ。――刑事さんだそうです」

「そう…ですか」

 近くの駅から、発進音が流れ出し。河川敷に轟音が轟く。電車の灯りが、また水面を照らし出した。

「お医者様もご一緒だそうですよ……君は…」

「観月……」

 橋を渡る音はまだ途絶えない。声が、あちこちで途切れて聞こえた。

 千石の口から出た、驚くべき単語。

『――ちょっと前にさ。捜していた人間の忍耐が切れちゃって、しょうがないから、君達の所に居るって警察に連絡したんだ。いやあ、なんか色々あってね。多分そろそろ着くんじゃないかなあ』

「あのバカ男」 

「なに人の頭抱えて泣いてんだ」

 赤澤の声に、観月が顔を向けると、少年の躰が傾いで頭から落ちそうになった。

「危ねえってー」

「いい加減下ろしてあげればいいでしょう」

 赤澤に抱えなおされて、その顔は羞恥のためか真っ赤だ。

「ボク、そんな子供じゃないです」

「まあいいじゃん。どうせ、もう暫くしたら本当に誰も抱えることなんてできなくなるんだろうし。今の内にできることをして何が悪いよ。オレ、ちっこい頃親父に抱っこされるの好きだったぜ。こう、なんか目線が高くなってさ。大人の仲間入りしたみたいでさ。――高さが違うだけでこうも見えるものが違うんだ、って感動したなあ」

「――嫌味ですか、それは。どうせ、ボク達にあなたの見ている世界なんてわかりませんよ」

「これから伸びるかもしれねーだろ。カワイイ奴め」

「何するんですか!」

 赤澤よりも頭半分小さい観月が不貞腐れたように漏らすと、その頭をくしゃくしゃに撫でられた。子供扱いをされたようで、癪に障ることこの上ない。大体中学で百八十センチ近いほうがおかしいのだ。

「ボクも大きくなりたいです……」

「なれるんじゃねー? まだ十二か十三だろう」

「赤澤さんはその時、どれくらいでしたか?」

「へ? そうだな……観月ぐらいかな。痛っ、蹴るなよ!」

 考えなしに答える男の足を蹴飛ばす。

「ボクは、きっと無理です。そんなに伸びないです」

「なにを謙虚なこと言ってるんですか! 根性ですよ、根性でデカくなるんです!」

「観月君…キミならなれるさ、根性でオレを追い越してくれたまえ」

「ほっんとムカつく男だな!」

「羨ましいです……」

「羨ましがってないで、そこで頭を叩きなさい。これ以上のバカにはなりませんから」

「ひでえ……」

「いえ、お二人の仲が良くていいなあって思ったです。南部長と千石先輩みたいです」

「ま…また微妙な例えを持ち出したな、壇」

 どこをどうすれば自分達が千石と南になるのか。大体あの二人と言えば、生真面目な南が、不真面目な千石に揶揄れている姿しか思い浮かばない。

「ボク…小学校休みがちだったんで、なんでも言い合える友達っていないです。だからいいなあ、って思うです」

 ああ、そっちの意味でか。と、納得しかけて、観月は落ち込んだ。――基本的に赤澤をお友達などと思ったことは無い。

「まだ中一だろ? お前顔はいいんだし友達なんてすぐできるさ」

「顔って関係あるんですか?」

「あるんじゃないの? なあ観月君」

「あるんでしょうね、赤澤君」

「そ…そうですか……」

 まだその話を持ち出すか。頭にきたが、ここで議論をしている場合でもない。

 何本目かの電車が通ったと同時に、背後の土手の上で一台の車が停車する。見ると、白いセダンのドアが性急に開けられ中から男が出て来た。反対のドアも開き、背広姿の男がのっそりと現れる。

「太一君…っ」

「朋倉先生」

 急いで出て来たほうの男が、土手を駆け下りて名を呼んだ。黒っぽいシャツにベージュのスラクッスといういでたちの、先生と呼ばれた男に観月は目を丸くする。踏み潰す草の汁が付かないんだろうか、と変な所を気にしてしまったのだ。

「良かった…、いきなり病院からいなくなったから驚いたよ」

 大きく肩で息をして、朋倉と呼ばれた医師は抱き上げられている太一と赤澤、両方と対面する形になる。

「君達は、千石君が言っていたお友達かな?」

「友達っていうよりテニス仲間です」

「そう。いきなりで申し訳無いんだけれど、ちょっとお話し聞かせて貰えないかな?」

 その要望に溜め息で返したのは観月だ。

「ボク達は寮住まいなので、…寮母の許可が無い限り外出はできません。門限はすでに過ぎてるんですよ」

「すみませんです! 本当にすみませんっ」

「や、もうそれはいいから」

 申し訳なく頭を何度も少年は下げる。あやすように赤澤に抱えなおした。その様子を眺めていた観月の口元が引き攣る。「だからいつまで…」小さく吐き捨てるも、遠くで鳴ったクラクションにかき消された。背広姿の男が無理に笑みを作って前に出てくる。

「警視庁捜査一課の堂本です。寮と学院側にはこちらから連絡を入れておくから、ちょっと来てくれるかな?」

 出された警察手帳を前にして息を呑んだ。赤澤がやっと地にゆっくりと少年を下ろす。そして堂々と刑事と対峙した。

「申し訳無いんですが、強制ではないですよね? でしたら明日学校が終ってからで構いませんか。こちらから出向きますので」

「明日…かい?」

「オレ達の本分は学業です。明日は平日なんで、今時間あなた方について行くわけにはいきません」

 きっぱりと拒絶する少年に、いい大人の堂本のほうがたじろいでしまっている。「しかしなあ」と、渋る刑事に助け舟を出したのは朋倉だった。

「いいじゃないですか、明日でも。今日は太一君も疲れていると思いますし……これ以上の負担は医師として見過ごせません」

「朋倉先生…」

 しばし逡巡したのち、堂本は「仕方ないですね」と諦めた。名前と住所。そして寮の連絡先を手持ちのノートに控え、碑文谷署に来るようしつこく要請した。

 初めて会う、刑事という職業の男を前に、なんだかドラマの世界に入り込んだような気分に陥った。普通に生活している限りでは無縁の人種だ。

「……刑事さんって警察手帳じゃなくてノートに書くんすね」

 なんとはなしに、赤澤が首を傾げる。知らず緊張していた観月は、力が抜けた。どうしてどうして、度胸のある男だ。

まあね。手帳変わっちゃったのもあるけど、前々から刑事はあんな小さな手帳は使わないね。すぐ真っ黒になっちゃうから。ちなみに警察手帳と刑事手帳は違うものだよ」

「そうなんですか…」

「なに、刑事に興味あるのか? 君ぐらいのガタイだったらいつでも歓迎するよ」

「…遠慮します」

 断わられたのにも関わらず、堂本は相好を崩した。笑うと意外と若いことがわかる。「それじゃあ、明日よろしく頼むよ」と言い残して踵を返した。朋倉に背中を押されて促されるままに、少年も歩き出す。ちらりとこちらを見て、頭を下げた。そのまま土手を登っていった。だが、朋倉だけは二人の前に依然としている。 

 太一が車に消えたのを確認したのちに、朋倉がこちらを向いた。観月は知らず緊張する。

「……詳しくは明日で構わないんだけれど…ひとつだけ聞いていいかな?」

「ええ」

「ああ、申し遅れたけれど私はS医大病院に勤務している医師です。太一君の担当医でもあるんだ。聞きたいのは彼のことなんだけれど、――見つけた時どのような状況だったかな?」

「ぼうっとしてましたよ。話しかけても返事はありませんでした」

 自然を装って赤澤が少しだけ前に出たので、観月は黙って事の成り行きを傍観した。

「そう…。じゃあその間、君達はただ側に居ただけなんだね? 本当ならもっと早く教えて欲しかったかな」

「――すみません。まさか警察が捜しているとは思ってなかったので」

「いやいや、ごめん。そうだよね。意識が戻った太一君に、やっと千石君の携帯番号を聞いて連絡してくれたんだったね。責めるつもりはないよ。――明日、まあもっと色々聞かれるかもしれなけれど、大したことじゃないから、気にしないで来てね。ただ、ちょっと事情が複雑になっているみたいだから……」

 それだけを言い残して、医師も車へと向かった。ドアの開閉音とともに、静かに車が発進する。エンジン音が消えるまで、赤澤と観月は河川敷に佇んでいた。

「―――千石君。何を考えているんですかね。そしてあなたもですよ」

 訳のわからない状況に耐え切れず、観月が苛立つ。赤澤は嫌に厳しい表情で川を眺めていた。

「―――連絡を入れろってことだろう。千石の嘘をオレ達が気づく。裏に何かがあると思う。オレ達は迂闊に喋れないってな。意外と頭を使ってくるじゃないか」

「あなたも意外と頭が回りますね。でも、いざこざに巻き込まれるのは御免ですよ」

「だからさっさと帰れって言ったのに。お前が勝手に付いて来て、最後まで居たんだから仕方ねえだろ。―――聞いちまったんだから」

「それは…そうですけど。まさか、あんな状態の壇君をあなた一人に任せてはおけないでしょう」

 迂闊に口にできない。そんな内容を、二人は太一の口から聞いてしまっている。

「さて、どうするか」

「とにかく、まずは千石君に事情を出来うる限り聞いてください。一体何に巻き込まれているのか、それがわからなければ……刑事さん達にボク達が聞いた内容全てを喋っていいのかも決めかねます」

「そうだな…。あいつ、すげー怯えてたもんな」

 素っ気無く向かれた背から視線を外し、観月はぼそりと「あなたが優しすぎるから、彼だって喋る必要のないことを言っちゃったんですよ」呟いた。よく聞こえなかった赤澤が振り向いた時。観月はそんな自分のいじけたような態度に吐き気を覚えて、表情を消した。鉄橋を走る銀色の電車を、ただ仰ぎ見ていた。

(こんな気持ち。あなたはずっと知らないままだろうな)

「赤澤」


「――ん?」

「誰にでも優しいっていうのは、誰にでも中途半端ってことなんですよ」




 見える傷。

 見えない傷。

 

 互いのそれが、堪えがたい苦しみを産むことになるなど。

 その時の二人が予想できるはずもなかった。











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