悲鳴じみた女の声が、足元から聞こえてきた。
初めは言葉として正確に聞き取れなかったが、その声が排水溝の蓋の下から聞こえてくる事に気づき屈み込めば、徐々に言葉として形作られていく。
「この排水溝か」
北部水道が機能停止している為、寮近辺の噴水はいつも通り動いているが、並木道を沿う様に設置されている大きな水路から校舎へと伸びている芝生散水用の埋め込み型の小さな水路と、校舎周辺の排水溝は現在空っぽだ。
いつもなら水で満たされていて、例えば国際科の騒がしい生徒らが地下でカーニバルに興じようが、聞こえる事は殆どない。
北部水道を拠点としているのは校舎と、北部の山間にある田畑、部活動で使われているテニスコートやグラウンドの手洗い場と、汗を流す為に簡易シャワーが幾つか作られたプレハブ小屋、アンダーラインの一部と、農業専修コースの講師でもあり、用務員として務めてくれている職員が寝泊まりする事があるもう一つの小屋だ。
その小屋は、新歓祭の間は無人になっている。
第2キャノンから程近い、中央キャノンの真裏の排水溝が北部水道に割り振られているのであれば、第2キャノンを通じて南北水道が交差している中央水路の地下で、下水道に合流している筈だ。
つまり、空っぽの排水溝が音を運んでこれるのは、下水道方面であるティアーズキャノンの表側ではなく、判り易く言えば、上流方面だと言う事だろう。
中央キャノンの排水は地下で集められているので、外に置かれた雨水受け用の排水溝に中央キャノンの生活排水が流れる事はない。早い話が、校舎の外にある排水溝は中央校舎の内部とは何処も繋がっていないのだ。
「辿っていくしかないか」
雨水が水溜まりを作らない様に集める目的で、施設の各地に施されている排水溝は、地下から伸びている換気口の近くを伝っている部分がある。
現在空洞である排水溝に、地下からの声が響いてしまうのも無理はない。
『佑壱様!返事をして下さい、佑壱様ぁ!』
女の甲高い声は、良く響く。
こんな細い排水溝を貫き、血を吐く様な声で呼び続ける男は、未だに返事をしていない様だ。
何度も何度も、耳を澄ませば聞こえてくる声に導かれるまま、東雲村崎は足を進めていった。途中、何度か不審な気配を感じたが、向こうから仕掛けてくるつもりがないのであれば、今は見逃してやろうとほくそ笑む。
「今は真面目な先生じゃなくて餓えた野犬だから」
無機質な眼差しを眇め、漸く、排水溝からではなく別の方向からも微かに聞こえてきた女の声に、東雲は足を止めた。
目の前は鮮やかなブルーシートで覆われている。微かに見えた建物の屋上は、部活棟のものだろう。重機の音が響いては止まり、キャタピラが土を削る音が轟いていた。
「ああ、東雲先生!」
邪魔をするつもりはないが、きっちり張られたブルーシートの下から向こう側へ潜り込めば、目敏い誰かに呼び止められる。舌打ちを噛み殺しながら目を向け、記憶を手探った。
不便だ。教師としての東雲村崎の記憶は、アルバムの様なものだ。今の自分は、その記憶を辞書を牽く様に手探らなければならない。
引き換えに、自分の記憶は村崎が望まない限り、向こうへ渡る事はなかった。辛い記憶は全て自分のもの、東雲村崎が幸せになれる楽しい記憶だけを、主へ残す為に。
「鈴木先生、状況はどうですか?」
「最悪ですよ!何とか補強してますけどっ、第5塔の地下に大きな空洞があって!」
「空洞?」
「いやぁ、建設図面には何の記載もなかったんで、もしかすると建てる前からあったのかも知れませんが…。お陰で地下の地盤が何処まで耐えられるか、想像も出来ないです」
「穴の規模は判ってるんですか?」
「エコーで調べようとしたんですが、異物が挟まってて検知出来ないんですっ。嘘か真か、神帝陛下が『一年Sクラスが落ちた』なんて仰って〜!」
ピクリと、頬を痙き攣らせた東雲はざわつく左胸を押さえた。
この体の持ち主が起きてしまう。それだけは避けねばならない。何故ならば自分は、自分を守る為だけに産まれた、異物なのだから。
「うちのクラスが」
「あわわ、まだはっきりとした事が判った訳では…っ!気を落とさないで下さいっ、東雲先生…!大丈夫です、我々工業コースに任せて下さい!大丈夫ですから…!」
東雲の嫡男には名が二つある。
幼い頃から二面性を鍛えられ、完全なる別人格として分離する様に仕組まれるからだ。理由は単純に、例え誘拐されようが拷問されようが、敵の利益となる情報を与えない為。
昔々、雲隠と言う忍者を纏めるの頭領の家があった。
帝王院と言う主人を守る為だけに存在した彼らは、女系の血が強かった為に、女としての平和な生活を捨て、修羅になる事を宿命づけた。
女としての武器になる体を使う事は躊躇わず、加えて、己を男の様に鍛える事で、主人を最も近くから守る力を得ていたそうだ。
それだけに、主人の影武者を務める事も多かった。
人の意識を乗っ取る榛原の催眠術で敵を錯覚させ、わざと敵に捕まる事で、黒幕を暴き出す事もあったと言う。そんな危険な任務中に万一失態を犯せば、女の身だ。どんな目に遇わされるか、判ったものではない。
どれほど強靭な力を得ようと、稀に恐るべき治癒力を宿す者が居たとも言われているが、そうなると益々絶望的だ。痛めつけても痛めつけても簡単に死なない女が、卑しい男達にまともな扱いをして貰える筈がない。
平安から続く帝王院を、平安から守ってきたとされている雲隠は、己らを須く『犬』と呼んだ。己らを須く、獣と宣った。
獣は主人を裏切らない。人として主人の不利益になる様な事を、何があっても口にしてはならない。例え、殺されようとも。
彼らは間もなく、その手段を手に入れた。
自らを『人』と『獣』に分ける事で、敵に捕獲されようが決して自白する事がない、主人に永遠の忠誠を示す術を。
『雲隠は犬神の末裔である。
人の形をした穢らわしい犬である。
雲の様に虚ろな我々は、敵陣に在っては人ならず、主人の前でのみ人の言葉を喋る者。
我々は決して屈してはならない。
弱きは屠り、脆きは淘汰せよ。
我らは雲隠、犬であり雲である陽の王の忠実な下僕。
空を舞う鳥の如く自由な我らが犬の如く繋がれしその時は、人である事を捨てよ』
全ては帝王院の為に。
村崎が産まれた頃から聞かされ続けた、それは母の寝物語だ。
高森と言う伯爵家に嫁いだ曾祖母が、然し死ぬまで忠誠を誓った帝王院鳳凰は、人である事を捨てたと聞いている。
名の如く紅蓮の鳳凰となり、マグマの中へと還ったそうだ。
この地球は鳳凰様のお陰で回っているの、などと宣う母親の寝物語が作り物だろうとは、すぐに気づいた。それでも東雲と言う名に雲と言う文字がある事を、幼心に誇りに思ったものだ。
今でこそ帝王院と並ぶ家名として評されているが、男として産まれてしまった自分が、それでもいつか、帝王院の当主に仕える事が出来たなら。
あの日抱いた期待が消え去ったのは、いつだっただろう。
『駿河の宮様の元には、秀皇様と言うご子息がいらっしゃるのよ。むーちゃんより8歳年上の、大層素晴らしい若様よ』
『ひでたかさま!つよい?!』
『むーちゃんよりずっと遅い7歳から武術を学ばれる様になったのに、あっという間に私では相手にならなくなってしまったの。ふふ、隆子さんは心配そうだったけれど、杞憂ね』
『お母様が勝てないなんて、ひでたかさまは凄い』
『むーちゃんが帝王院学園に入学すれば、秀皇様にお仕え出来るでしょう。はいはい、そろそろ眠らないと、立派な犬になれませんよ?』
『寝ます。お休みなさい、お母様』
胸を高鳴らせて幾度の夜を越え、入学した学園で帝王院秀皇は想像通り、王だった。
7歳の村崎が初めて秀皇を見た時、彼は誰からも崇められる中央委員会会長の立場にあった。自らプログラミングした独自のシステムを、特許を取得すると同時に試作として学園に配備し、改革的な発展に繋げているそうだ。
当時生徒の一人でしかなかった村崎には、その内情までは判らなかった。
けれど完全オートメーションでレイアウトが変わる施設内装や、改札口で各クラス方面に振り分けられる中央キャノン昇降口のシステムなど、近未来的なそれらが中等部の生徒によって作り出された事がどれほど素晴らしい事か、理解していた自信がある。
帝王院秀皇は、文字通り皇子だった。
この国を象徴する天皇の如く、学園の誰もの象徴だった。
親王陛下が帝王院財閥を統べる支配者になる時、日本は新たな発展に湧くだろう。誰もがそう信じ、誰もが疑わなかった。
然し皇子は、中等部3年になるのと時同じくして、姿を見せなくなったのだ。中央委員会会長としての授業免除権限を用いれば、授業に出る必要はない。
誰もが姿を見たいと望んでいたが、多忙な中央委員会会長ならば仕方ないと、不審には思わなかった。選定考査では必ず首席に名が上がり、いつ勉強しているのかと噂されていた事もある。
村崎が初等部高学年になる頃、高等部に在籍している筈の帝王院秀皇が純白のブレザーを纏っている所を見る事は遂になく、陛下が失踪したと言う噂が学園で囁かれた。
九月の後期始業式典で急遽中央委員会会長になった叶文仁が挨拶している中、例え秀皇の姿がなくとも。当時高等部三年生だった帝王院財閥嫡男は多忙だから仕方ないと、生徒らは自分を納得させていた筈だ。
噂を信じていた者も、根も葉もないガセネタだと笑う者もいたが、高等部卒業式典でとうとう姿を現さなかった秀皇は、進学科の三年生が必ず受けなければならない卒業試験にも、中央委員会会長を退任し授業免除権限が消失した後の一斉考査にも出席していなかった事から、卒業資格を剥奪されたらしい。
当時の同級生は卒業式典でその説明をされたと言うが、卒業生以外には何の説明もなかった。失踪したと言う噂が嘘か真か、殆どの者は知らない。
高等部卒業以降、外部進学を希望した叶文仁は、村崎の元までやって来るなり中央委員会の役員になれと宣った。当時中等部自治会長の打診があったばかりの村崎はこれを拒否した為、文仁の後釜に当時の中央委員会副会長が収まる事となる。
村崎はどうしても自治会長になりたかったのだ。村崎より二学年年上の自治会長には4つ年上の兄がおり、秀皇が中央委員会執行部を率いていた時に、庶務だった生徒でもある。兄弟ならば何か秀皇の話を聞いているのではないかと思い、どうしても自治会長と直接話がしたかったのだ。
そして、村崎は秀皇の失踪が真実だった事を知る事になる。
けれど何か事情があるのだと思ったのだ。いつか彼の役に立てる人間になりたいと願い、学園へ入学した村崎は、秀皇が最も大変な時に力になれなかった自分を恥じた。
彼の傍らにはいつも榛原大空の姿があり、大空が帝王院駿河学園長の養子になったと噂された時は、羨ましくもあった反面、尊敬したものだ。秀皇と同じ歳の彼はきっと、宮様の役に立っているのだと。年下の自分には近寄る事も話し掛ける事も出来ない天上人だが、いつかあの二人に肩を並べたい。その一心で、母親に言われるまま心技一体鍛えてきたのだから。
東雲村崎はそうして、文仁が卒業した後も中央委員会入りを打診してきた当時高等部三年生だった会長の言葉を承諾し、中等部で中央委員会会長に就任した。
けれどそれから間もなく、高等部入学を控えた3月の暖かい晴れの日。
帝王院秀皇の信者だった卒業生が学園へ乗り込んでくると、秀皇を差し置いて中央委員会会長の座にあった村崎へ襲い掛かってきた。
完全なる逆恨みだったが、村崎を庇った中央委員会書記が腹を刺され重傷を負った事件は間もなく、学園中に知れ渡る事となる。
被害者の氏名は、羽柴輝。
「クモちゃん、おっはよ」
「おはよう、アキ」
初等部時代から東雲村崎の親友として知られた彼は、村崎が自治会長に就任した頃から暫く絶縁状態にあると囁かれていたものだが、それは単に、庶民である自分と村崎では釣り合っていないと考えた羽柴が、村崎から離れようとした事に由来する。
然し中等部2年の時に会長である村崎から指名された彼は、仕方ないなぁと困った様に笑って、中央委員会書記の任を受けたのだ。
羽柴輝は確かに母子家庭で、世間一般では庶民だっただろう。
若くして不慮の事故で亡くなった彼の父親が、YMDテクノロジーの創始者である山田大志の弟の孫だと言う事情がなければ、進学科の生徒とは言え降格圏内の羽柴が中央委員会入りする際、非難する声が上がったかも知れない。
羽柴の死んだ父親方の祖父は、山田大志亡き後、山田大志の弟だった父親が専務に収まっていた事もあってか、わりと早くから副社長に就任していた。当時の社長がリコールされた後は、新しくなった会社の社長に収まった人物だ。
リコールされた社長の名は、榛原優大。その妻である榛原美空は、山田大志の孫娘だった。
二人の一人息子こそ、実の父親を筆頭株主として罷免に追いやった榛原大空、帝王院大空である。この事実はニュースで報道された程だったが、記者会見で辞任を表明する際、榛原社長は全て自分の責任だと深々頭を下げ、息子に関しては一切発言していない。
苦渋の決断だった事は明らかだ。バブルが崩壊して以降、技術革新ばかりが先行し、真逆に市場はデフレ時代に突入していた。新しく技術を産み出しても二束三文で買い叩かれたであれば、何処の企業も苦心していた時期だ。
じわじわと傾いていったYMD社内では、山田大志の孫娘に取り入った馬鹿社長と言う悪評が蔓延り、散々我慢してきた株主の不満が爆発していた頃でもある。
完全に潰れる前に頭をすげ替えなければ、辛うじて残ったスポンサーまでも逃がす事になるだろう。然し山田大志の名で株主に名乗りをあげてくれた出資者も少なくなく、大半が山田社長に世話になったからと言う理由で出資を続けてくれていた。榛原社長の罷免を強行すれば、昔ながらの付き合いである株主が離れる恐れもあると言う事だ。
また、直接経営には携わっていないものの、取引先と親交が深い榛原美空の持つ人脈も、手離すには惜しいものがあった。傾く経営に四苦八苦している夫を助ける為、彼女もまた、見えない所で奔走していたからだ。
然し時間は待ってくれない。旧世代を大切にし過ぎれば、新しい時代から取り残されてしまう。
誰もが判っていたが然し実行に移せなかった事を、榛原社長の実子である大空が買って出たと言うのが本当の所であるのは、明白である。
山田大志の曾孫であり、帝王院学園に通う優等生が株主総会で発言した事により、古くからの株主も納得せざる得なかった。寧ろ、若い頃の山田大志を見ている様だと称賛の嵐だ。
若干13歳ながら毅然と発言する大空に、若い世代の共感も得た。連日ワイドショーで賑わってくれたお陰で、こんな若者になら投資しても良いと言った声が上がり、榛原社長が引退した後のYMDは、名を変え仕組みを変えて、現在に至るまで残っている。
然し榛原政権が崩れた真の理由は、当時の副社長が手を回したからだと言う噂も、少なからずあった。
無能な社長と言う烙印を与え辞任に追い込めば、社長に繰り上がるのは自分だと考えたのだろう。若かっただけに野望家だった男は、経営執行部総辞職に追い込まれたかも知れない綱渡りな賭けに勝ったのだ。
その男こそ、羽柴輝の祖父だった。
祖父が犯した罪を何処で聞き付けたのか、ずっと恥じていたらしい羽柴は、村崎の知らない所で何度も大空に謝罪していたそうだ。この話は、帝王院学園での事件を聞きつけたらしい大空がこっそり村崎に連絡してきた時に聞いた話である。
『子供が気にするんじゃないって言ったんだけどねー。本当に真面目な子で、困っちゃうよ。悪いのはうちの馬鹿父さんだし、下剋上なんて何処の世界でも日常茶飯事だから』
心臓に近い所まで深く突き刺さっていたナイフは、羽柴の肺にまで達していた。
集中治療室の中、いつ呼吸が止まっても可笑しくないと告げられた村崎は生きた心地がしなかったが、村崎を助けてくれた事もあってか東雲財閥がケアをする事になり、始業式典を控えていた村崎はそれ以上付き添う事は出来なかった。
その代わり、村崎の父親経由で極秘裏に連絡してきた大空が、村崎を迎えにきた車に乗っていたのである。
『…ごめんね。聞いてるとは思うけど、彼は秀皇の親衛隊だったんだ』
言い難そうに言った相手に、どうして貴方が謝罪するのかと尋ねただろうか。無気力だった。
村崎も幾つか怪我を負ったが、羽柴に比べれば蚊に刺された様なものだ。分が悪かったのは、秀皇の信者が東雲財閥に恨みのある人間を雇っていた事だろう。人数が多かった。
OBがスポンサーとして契約したいと学園を訪れる事は度々あった為、連れの身の上を調べずに敷地内へ入れてしまった様だ。セキュリティの盲点を突かれた形になった為、理事会も深刻に受け止めていると言う。
『居なくなった皇子の信者がアキを刺した。俺を刺したのは父に恨みを持つ奴らで、この件に関してだけは皇子は無関係で、俺に謝罪して貰う必要なんてありません』
『結果的にはそうだろうけど、彼らを集めたのは…』
『村崎が泣いてる』
『え?』
村崎の台詞に、大空は首を傾げた。
最後に見た大空は、目映いオフホワイトのブレザーを纏っていて。彼の傍らにいつもいた筈の男の姿は、ついぞ見る事はなかった。
『尊敬していた男の役に立てず、親友を失うかも知れない己の弱さを、悔やんでる』
『…』
『聞こえるんだ。俺の声は届かないのに、村崎の声は必ず俺に響いてくる』
『まさか、君…』
『東雲紫遊』
疑いの眼差しで見つめてきた大空は、知っているらしい。
東雲財閥の嫡男が、遡れば雲隠の当主が課せられる、宿命を。
『しゆ』
『俺が初めて表に現れた時に、母さんが名付けてくれた。曾祖母さんの糸遊と言う名前から取ったらしい』
二重人格を知っているか。
目覚めた時、投げ掛けられた母親の台詞に頷いた。彼女にとって息子は村崎だけで、後から派生した人格は、部下の様なものだっただろう。到底、息子に向ける母の眼差しではなかった。
『俺は「犬」で、村崎が「人」だ』
『…栄子おばさんは、酷い事をするね』
『アンタ程じゃない。村崎はアンタに憧れてたよ、ずっと、今でも』
『僕に?』
『宮様の隣に居るアンタが羨ましくて、ずっと尊敬してる。中央委員会会長になったのも、皇子が見守れなくなった学園を守る為だ』
『そう…』
『だけど皇子は、村崎が思うほどの人間じゃなかったんだな』
眉を潜めた大空から目を離し、深夜の高速を走る車窓から流れていく外灯を眺める。左胸を押さえたのは単に、啜り泣く声が聞こえてくるからだ。
『俺が姿を現すのは、村崎の心が死んだ時だけだ。それなのにアンタ達が居なくなった時、俺は表に出れなかった。村崎はアンタ達を重要視していないと言う事だ』
『手酷いね』
ああ、目がごわごわする。
『君、片方の目は義眼だって聞いたけど、』
『母さんに殺され掛けた時に目を潰された。当然、村崎は覚えてない。母親に傷つけられたなんて、忘れていれば良い事だ』
『雲隠はなくなった筈なのにねー』
『村崎には好きな事をやらせる。父さんの意見に俺は同意した。父さんは立派な方だよ、どうせ東雲財閥の跡継ぎには大して自由な時間はない。父さんが役職を退くまでの少ない時間、村崎に自由を許してくれる』
『偽善だよ。大人は身勝手なんだ』
『知ってるよ、俺は』
『僕らの事情を話しておこうと思ったけど、君には話せないかな』
それまで神妙な態度だった大空は、名刺を取り出した。山田大空と書かれており、成程、山田大志の姓を名乗っているのかと頷く。確か彼の祖父である榛原晴空は亡くなっているが、山田絹恵は存命だ。
『君の主人が変に思わない様に、それとなく目のつく所に置いといて』
『嫌だと言ったら?』
『無理だよ、君は僕に逆らえない。君は僕を知っている。俺は君を知っている。俺は君の友であり盟友、君は僕の友であり盟友』
左胸を押さえた。
子守唄の様な台詞を聞いた様な気がするけれど、ああ。
『何も疑わずに目を閉じて、お休み。また会える日を待っているよ』
ずっと、啜り泣いている。
「おっひゃー!おいおい正気か、見ろよあれ、サクラダファミリアがあるっしょ♪」
「はしゃがないでショー兄、恥ずかしい」
「全くだ」
意気揚々とグランドゲートを闊歩する男は、広大な帝王院学園の入り口、大広場に出るなり遥か彼方に見える巨大な校舎に声をあげた。
彼の傍らには、アマチュアバンドマン風の最近の若者と、どの角度から見てもマフィアにしか見えない男前が並んでおり、揃って冷めた目を向けている。
「おいおい高坂向日葵、ヤクザの癖に弁護士みたいな名前して、堅い事を言う奴だな。固いのはチンコだけにしとけ」
「…これがあの高野省吾の本性かよ。中身はとんだ糞餓鬼じゃねぇか」
「やっぱそう思いますか組長さん、ショー兄って有名な指揮者らしいんですけど、嘘っぽいんスよね〜」
「斎藤だったか?流石に組長さんはやめてくれ、高坂で良い」
「無理っス。ABSOLUTELYの副総帥の名字を口にしたら、呪われる気がするんで」
オタクの師匠である斎藤千明は軽やかに宣った。
高校時代に度々噂を聞いたABSOLUTELYと言えば、お姫様の様な見た目の恐ろしい獣が居ると有名だ。金獅子と呼ばれるその男は確かに目映い程の金髪で、繁華街をうろつくチンピラに『若』と呼ばれ、ペコペコと頭を下げられている。
日向が喧嘩をしている所を見掛けた事もある斎藤は、恐ろしい金獅子を膝に乗せダブルストローしていた弟子を見た時、鼻血を吹いた。
18歳の時に免許を取りに行く為、専門学校に通う隙間時間で教習所へ通っており、丁度その日は昼から講習があった千明は、昼ご飯をカルマで食べようと思い当たったのだ。
然し、女性客で賑わう店内のカウンター席で、愛弟子である遠野俊が膝に高坂日向を乗っけていた。そんな馬鹿な、である。
それだけならともかく、一杯のグラスに二本のストローを差し、お互いチューチューしているではないか。無言でドアを閉めた斎藤は食事も忘れ、放心したまま路上教習を受けた。派手に脱輪した。
放心したまま帰宅した斎藤は、放心したまま縁側に座り、母親に邪魔だと蹴られたり祖母に病気を疑われたりしたが、深夜遅くにひょいっと窓から部屋に入ろうとしている俊を認め、慌てて立ち上がったのだ。そしてガミガミお説教した。
あんな危険な子猫を拾ってはいけませんと、猫好きだが猫アレルギーで触れない悲しみを込めて、ガミガミと。
「っつー訳なんですよ。すんこの猫好きは俺に匹敵する程で、猫と見たらふらふら近寄ってくんです。俺だって大好きなのに、アレルギーで触れないのに…!」
「お前、猫好きなのか?それならそうと早く言え。うちのアイドルを見せてやらん事もねぇ、写真ならアレルギーは関係ねぇだろう?」
「えっ!組長、にゃんこ飼ってるんですか?!」
「俺も飼ってるぞぇ、佳子っつー我儘にゃんこをな」
ふっと男前な微笑でただのスケベ台詞を吐いた高野省吾には、誰も反応しなかった。見た目が出来る企業家っぽい高野は、一度口を開けば息子に瓜二つの変態だからである。
「うわ!かっわいい!!!何スかこの猫、金色じゃん!ひよこみてぇ!」
「黄色いのがピヨリーヌで、息子が拾ってきたんだ。ちょっとデブな所が何とも言えねぇだろう?」
「デブ猫って罪深ぇえ…!猫のアイボ出ねぇかな、飼いたい…」
「ピヨリーヌって言ったか?それって、ピナパパ日記に出てくる三姉妹の末っ子と同じ名前だな」
誰からも相手にされず寂しかったのか、斎藤と高坂の隙間ににゅっと割り込んだ高野の台詞に、高坂は目を丸めた。
「そりゃ俺のブログだが、知ってんのか?」
「偶々な。ヌメーバブログの上位に入ってるだろう?猫とBLネタが絶妙なバランスでもごもご」
「マジで知り尽くしてんじゃねぇかテメェ…!」
幾ら男子校出身とは言え、帝王院OBは高坂だけだ。健全な若者である斎藤の前でBLワードは危うい。慌てて天真爛漫過ぎる指揮者の口を塞いだ高坂は、ぐいぐいと高野を引っ張って走り出した。
「テメェ、もしかして腐男子かこの野郎…!」
だったら友達になってやるぞと言わんばかりに、花で溢れたヴァルゴ並木道の迷路の様な遊歩道へ飛び込んだ極道は、ばんっとフラワーボードに押し付けた指揮者に壁ドンする。他の人には聞かせられない内緒話だからだ。追い掛けてきた斎藤は感電し、後を追ってきた榊に「こっちは駄目、駄目なの」と制止した。
「どっちかと言うと妻」
「あ?」
「俺が余りにも相手にしないからか、ドイツのマンションに何冊か隠してあったんだ。詰めが甘いと思わないか、クレジットカードで日本から度々取り寄せててな」
にたりと笑った高野は、ぐっと高坂の耳元に唇を寄せた。
「明細に『花畑株式会社』なんて怪しげな社名が載ってる、とうとう大人の玩具に目覚めたか…って心配になるだろ?」
「…確かに」
「で、どんなやらしい道具買ったのか見てやろうと思って、妻を連れてオランダ公演に出てる合間にジェット機をチャーターしてドイツに戻って、屋探しした訳だ」
「どんな神経してんだ」
「俺が家に帰る事が判ってる時は巧妙に隠すから、仕方ねぇだろ」
「で、漫画?まさか小説?」
「漫画と小説とDVD」
「そりゃ末期だ、完全に腐ってやがる」
組長は目元を押さえ天を仰いだ。何故か申し訳ない気持ちになった指揮者は、ぽんぽんと肩を叩いてやっている。
斎藤は榊の腕を引っ張りながらハラハラした。ガチホモを見てしまったパンピーの気分だ。会話が聞こえないだけに、あわあわと狼狽しきりだ。
「やっぱりか。知恵袋で相談しようと思ってパソコン開いた時に、偶々ブログに辿り着いたんだよ。ネサフは凄ぇな、遭難率高過ぎて」
「世間の狭さに震えてるぜ」
「佳子は最近小説サイトにも手を出してる。頻繁にすんすんのサイトに飛んでるんだ、お前のブログにも出てくる作家だよな?」
「ああ」
「ピエロの話、あれは俺も気に入ってるんだ。男には興味ないが、ホモは二次元だからうまい」
「すまない高野さん、俺は貴方を誤解していた様だ」
微笑んだ組長は、微笑んだ指揮者と固い握手を交わした。