一
あの頃から、もう随分と経ったのに、この街は何一つ変わっていない。
この校舎も、老朽化が進んだだけで、変わっていない。
校庭の桜の木が少し大きくなったぐらいだろうか。
何も変わっていないのだ、本当に何も。
あの頃のことは、今でも繊細に思い出すことが出来る。
それぐらい新しいこととして僕の頭の中に根付いている。
柚花の怒った顔も、
泣いている顔も、
あの美しい笑顔も、
あの綺麗な眼差しも、
あの紺色の制服で一生懸命サックスを奏でる横顔も。
今まで一度たりとも忘れたことはない。
僕は校庭の端のほうに蹲ると、手に持っていた長方形の形の箱を開けた。
その中からアルト・サックスを取り出すと、また立ち上がってマウスピースに口を当てた。
サックスを吹くのは随分久しぶりだ。
果たしてあの頃のように音が鳴ってくれるのだろうか。
サックスに息を吹き込むと、綺麗な音が出た。
もう随分と長い間眠っていたばかりの音なのに、僕は軽々と吹く事が出来た。
それだけ僕の中にサックスがいるってことだ。同時に柚花も。
思いつくままに、音を鳴らしてみた。
ド・レ・ミ・ファ・ソ・・・
全部吹くことが出来た。
それならば、それなら僕は、あの頃の音楽をまだ覚えているのだろうか。
手の動くままに任せて、音を鳴らしてみた。すると手は、僕のものじゃなくなったみたいに動き出した。
覚えていたのだ、あの頃の音楽を。楽譜を。
僕は目を閉じた。酷く心地がよかった。
あの頃のことは、全部思い出にしよう。
そして僕は、その思い出を抱いて、柚花のためにサックスを吹くことにしよう。
そう、あの頃とは、もう5,6年も前のことだったかなぁ。