おねがい。

(もし)(彼女は今でも時々考える)
(もし)(栞がもう少し弱い人間だったなら)

(……………………………………………………、もし)

              *

 クリスマス・イヴ、午後八時、私は凍えていた。身体と、心、両方とも。
 身体はここから逃げてしまうことを要求しているのに、心がベンチから一ミリも離れよ
うとしなかった。
 彼女は来ない――捨てられた。
 そんなことは、もうわかっていた。
 コートの奥底の精神が凍って癒着していた。張り裂けるように全身が痛かった。
 私はただ待つことしかできなかった。
 視線を上げる。
 数秒前と同じ風景。無人。それが栞でないならば、他のどんな人間も存在しないと同じ。
 逢いたかった。
 逢うためにここにいるのに、どうしようもなく逢いたかった。
 もう一度、その姿を見たかった。もう一度触れたかった。もう一度会話を交わしたかっ
た。もう一度――口付けを交わしたかった。
 一瞬、心に去来したあの暖かみは、却ってその後の再冷凍を深くしただけだった。
 永遠に、このベンチから立ち上がれないような気がしていた。
 否――確信が。
 私は首を振った。二度三度。でも栞の清らかな残像は消えそうになかった。
 私が自分を嘲笑った、その瞬間、幻聴が聞こえた。
「聖――」
 私は再び首を振った。私は待つためにここで待っているのだ。儀式めいた愚行。その果
てが、幻聴?
「せい」
 二回目に届いたその声色はあまりに鮮明だった。一音ずつ脳のなかで反響する。
 ゆっくりと、首をその声のほうに向けた。
 あまりにもはっきりとした、栞の姿が。
 否、否――そんな。
 なんでいまになってイマニナッテ今に成って。
「まっていてくれたの!?」
 叫びに近い声が耳元に届く、それだけで涙腺が緩んで、想い出が何故かフラッシュバッ
クして、ちがう、終わりなんかじゃなくて、これから始まるんだ、そのことを認識して、
意味のない思考が全身を駆け巡り、馬鹿みたいに二三回うめき声をあげて、ゆっくりと腰
をあげて、ずっと同じ姿勢でいたから腰が痛くなり、でも我慢して、私の前に呆然と立ち
尽くす栞の全体像を改めて確認し、その距離をゼロに縮めて、やっと私は、
 栞に抱きついて、
 その胸で涙を流して、
 二回目の、永遠にないと確信していた二回目の口付けを、
 ゆっくりと交わした。
 涙はとめどなく溢れ、口付けを交わしているその間も流れ、数時間前なのに数十年前の
ことに感じられるお聖堂の裏の出来事のときと――当然のことながらまったく同じの、綺
麗な顔を濡らした。
 でも、栞も泣いていた。
 私と栞の涙は交じり合って、ひとつになった。
 ひとつのながれに。

「もういないと思ってた」
 ベンチに座った栞はそう、ぽつりと言った。
「私ね――、一旦電車に乗ったの。聖を置いて」
「どうして」
「聖と行ったら……良くないことになるような気がして。……今でもそんな気がしてる」
「どうして!」
 隣に座った私は同じ言葉を繰り返した。
「行けば、二人きりでずっといられるんだよ――誰にも邪魔されないで」
 私がそう続けると、栞はただこくんと一回頷いて、呟いた。
「いつまでもね」
 私はただその言葉をそのまま咀嚼しないで飲み込んで、「でしょ」と畳み掛ける。
「――いいでしょう? さいごに私は聖を選んだんだから。一回電車に乗って、それかで、
目的地――遠くの教会で住み込みでシスターになるつもりだった――の駅に着いて、駅舎
の外に出た時に、もう聖に会えないと思って……でね、そう思った時に、ああ、やっぱり
駄目だ、って思って」
 そう言って薄く笑った。
「涙もそのときは出てこなくて、ただやっぱり駄目だ、生きていけないって。それだけが
直感的にわかって。それで何も考えずに引き返したの。まさかまだ駅で待ってるなんて」
「うん」
 私はただ頷いた。それ以外に何かすると、また泣いてしまいそうだった。
「ねえ――」
「何?」
「許してくれる? 一回聖を裏切った私を」
「何を言ってるの」
 許さないわけが無いじゃない。そう答えようとした私の声は、栞の願いにかき消された。
 ゆるして、おねがい。
 という、願いに。

 次に来た電車に乗った。M駅から新宿への快速だった。一刻も早く、リリアンの近くか
ら離れたかった。家族、お姉さまや蓉子、江利子――裏切る人たちとの断片的だけど密度
の濃い思い出から。
 南に行く事にした。栞がそう主張したからだ。
 新宿からなら小田急線がある。終点の小田原まで行けば箱根に近いし、JRに乗ること
もできる。約二十分で、新宿に着いた。
「それに、富士山も近いから」
 M駅のホームで栞がぽつりとそう言ったとき、私は子供っぽい、と笑った。
 南へ。そのまま小田急線に乗り換える。新宿の喧騒――ましてやクリスマス・イヴ――
は私には慣れたものであるが、栞にはストレスになるようだったので早くに立ち去った。
 もう特急は出尽くしていた。もとより特急券を買うつもりはなかったので急行の小田原
行きに乗った。混雑していた中央線と違って、小田急線には座ることができた。車内では
他愛もない話をした。お聖堂のことがあってから、栞とこんな風に話したことはなかった。
何よりも大切なことがなにもかもそうであるように、その時間がいかに私にとって濃密で
あったかは、いったんそれから引き裂かれないと実感を伴うことはない。
 これからずっと、栞とこうしていられる。
 そう思うと、胸の奥に熱いものが溜まってくるのがわかった。
「栞」
 そう呼びかけると、微笑を浮かべ栞が振り向く。
 呼べば、振り向く。振り向けるほど、近くにいる。
 不意に、泣き出しそうになった。必死で我慢する。こんな幸せな時間を、涙なんかに邪
魔されたくなかったから。
「いっしょに――いようね」
 そんな子供じみた台詞を自分の口は発していた。瞬間、恥じる。
「もちろん」
 栞は言った。私は、
「――どうしたの、聖?」
 やっぱり泣き出していた。

 小田原で下車したときには十時を回っていた。
 できるだけ安い宿を捜そうと駅前の宿をいくつか回ったが、何処も予想よりも高かった。
 これまで満足に旅行することもできなかった栞はともかく、少なくとも私は宿泊にかか
る値段をある程度わかっているつもりだった。――甘かった。私は今まで親の脛をかじっ
て生きてきたのだ。その厳然とした事実を私は眼の前に突き付けられた。旅行にいくらか
かるのかすら私は知らなかった。とにかく体力を消費しきっていたので、適当に安めの宿
に泊まることにしたが、私の貯金のすべてを使い切ったとしてもこれでは一ヶ月ももたな
い。それにあまり長い時間同じ宿に泊まるわけにもいかないだろう。怪しまれる。
 どうしたらいいんだろう――?
 私は何も考えていなかった。
 私はどうなっても仕方がない。どんな状況になってもそう思えるかどうかはわからない
が、とにかくすべては自業自得だ。
 しかし栞は――。
 私のせいで。
 今よりももっと、悲惨な目にあわせてしまうかもしれない。
 そう思うと、胸の奥がぎりぎりと締め付けられる。
 後悔が心臓を串刺しにする。
 自分のなかからなにかが染み出して流れ尽くし私は乾き水分が失われ萎縮する。
「ごめんね――栞」
 私は宿の部屋で栞に声を掛けた。
「――え?」
「私といるせいで、栞を嫌な目に合わせるかもしれない」
「何言ってるの?」
「何言ってるのって――私何も考えずに栞連れ出しちゃったりなんかして……」
「聖。……私の眼を見て」
 私は黙って従う。
「私が後悔しているように見える?」
 私はどうしていいかわからない。ただ願望から、首を振る。
「私は聖といられるだけで幸せだから」
 私は栞を抱き締めた。きつく、きつく、ずっと離れないように。

 夜になった。そもそも基本的に、することがない。本を何冊か持ってきてはいたのだが、
読む気になれなかった。浴衣に着替える。
「……寝ようか」
 そう私が言ったのは夜八時のことだった。
 うん、と栞は頷く。布団はすでに敷いてあった。二人分。
 ぎこちない動作で布団にもぐりこむ。
 当然のように、眠れない。眼が冴える。意識が不必要に覚醒している。焦っている、と
感じた。何に焦っているのか。これからのこと? それももちろんそうだ――いや、そう
だ。そうに違いない。
「聖」
 不意に、栞が暗闇のなかで話し掛けてきた。
「私ね――後悔はしてないけど……心残りはあるんだ」
「何……?」
「私――マリア様を裏切ったから」
 得心がいくと同時に、背筋を冷たいものが走った。マリア様。その言葉は、栞にとって
どれだけ大きいものだったろう。私はそれを、栞から引き離したのだった。
「でも――」
「うん。今は聖の方が大事。けど……ほんとうは順番なんてつけられないくらいに、私に
とってマリア様は大切なの――わかってくれるのよね?」
「うん」
 頷いてもわからないから、はっきり声に出した。
「でも。私は裏切ってしまった。だったら――もう、振りかえっちゃ、いけない。逃げ出
すんだったら、もう振りかえっちゃいけない」
「……………」
「だから、私はもうマリア様を棄てなくちゃいけない。聖、あなたのために」
 ――栞の潜在的な意思の強さは知っていたが、まさかここまでとは思っていなかった。
「多分近い将来もっとはっきりとした形で裏切ることになると思うけど――でも、今のう
ちに私は覚悟を決める必要があると思うの。だから――とても失礼な話だと思うけど、け
ど……」
 そして栞は言ったのだった。
 私を抱いて、おねがい。と。

 私は一瞬自分を見失った。栞の口からそんな言葉を聞くなんて未来永劫ないだろうと思
っていた。そして少しだけ屈辱的な気持ちだった。
「駄目だよ。……本当に私としたいんじゃない限り、出来ない」
 本心だった。……いくら精神的なところから出発した想いであれ、それが恋であり愛で
あるならば、あるいはそれに近いものであるならば、結局は欲に収斂するのもまた事実だ
から、私が栞にそういう感情を向けていなかったといえば嘘になる。しかし、しかし――
代償行為として栞とすることなんかに私は、価値を見出すことなんてできなかった。
 栞は何も言わない。……と思った瞬間、唇を塞がれた。舌が入ってくる。
 触れ合った瞬間、脳髄に血液が一斉に集中し、正常な思考が停止する。
 暗闇のなかで光がむやみに明滅した。
 血管が一本残らず切断され中身が飛散する感覚を味わった。
 理性なんてもちろん蒸発しきる。
 ……栞にとっては、ディープキス程度のことでも、ロシアンルーレット並みの覚悟が必
要だったに違いない。
「……これで、良い?」
 震える声色が鼓膜を揺らした。
 良いよ、喉まで出る、喉まで……。
「私、聖としたい……」
「嘘」
「嘘じゃない」
 栞の手が私の首筋に伸びる。
「そういうものじゃないの……」
 私は腕を掴んで言った。
「――」
「私とするってことは、何かのために、ってことじゃなくて、……するってことのために
する、ってことじゃなきゃ私は嫌。するなら――全部忘れよう?」
「――うん」
 私は栞の首筋にキスをした。
 栞の身体、震えてた。

 私はおそるおそる栞の浴衣に手をかける。少しずらす。白い肌が露に。
「――いい? ほんとうに――いいの?」
 訊く。返答は……ない。迷い。私は浴衣を元に戻した。栞の眼からは一筋の液体。舐め
取った。涙が付いた舌を栞の口内に差し込む。そのまま舌と舌を擦らせる。
 疑いようもなく、性的な行為。唇の隙間から声が漏れた。
 まずそれが「いやらしい」ことであることをまず理解して受け入れてもらえないんだっ
たら、その先に進むことなんてできやしない。
 水が撥ねる音がする。
 蹂躙。
 私はもう一度、浴衣に手を掛け、いいの、もっとこういうことするよと訊いた。
 栞は頷いた。
 私は浴衣を完全に脱がせ、下着だけにして、素肌の肩に右手を置く。
 栞がわずかに身を反らせる。離れそうになったので、引き寄せた。身体が重なり合う。
 肩から腕をなぞるように撫でる。手のひらの指紋に爪を合わせる。指を絡める、いつか
のように。あの時、栞は、くすぐったいと笑ったような気がする。
 今は笑っていない。
 心の緊張が解けないのなら、せめて、身体だけでも。
 左手を栞の左胸の上部に置く。栞は眼を瞑った。
 ふと、心配になる。栞の耳元に唇を寄せた。
「――嫌いにならない? 私のこと」
「……どうして?」掠れた声。
 また泣きたくなる。自分がどこまでも卑小で、栞はすべてを受け入れることができて、
その間にある溝に絶望的な気持ちになる。こんなときでさえ。
 でも、気持ちだけは交わってると思って。
 私はブラジャーのホックを外し、胸の中心にある突起に指を伸ばした。

 吐息とも、あるいは別のなにかともつかない音が漏れた。
 摘むように弄ぶ。なんだか興奮するのが悪いことのように思えるが――しかしそういう
ことをしているのにそれにふさわしい反応をしないというのも間違っている、きっと。
 だから私は自分の息が荒くなるのを止めなかった。
 栞の腕が私の背中に回される。
 私は何をやっているのだろうと、唐突に思った。首を振って、忘れた。全部忘れようと
言ったのは、私だったのだから。
 気持ち良い、と訊く。答えは返ってこない。
 右手を動かした。それと同時に唇を左胸に寄せる。口付ける。
「――ぁっ」
 喘ぎ声。身体が熱くなる。
 最後の一枚に、手を掛けた。栞が身体を捩る。しかし私に抱きついたままだから、何も
意味がない。
 両手を使って下ろす。栞は俯く。
 私は片手をそれまで隠されていた部分に導いた。ざらざらとした感触のなかにぬめり。
 唇を栞の耳に寄せる。
「濡れてる」呟く。
 栞は首を振った。
「栞が感じてくれてて、私、嬉しいよ」
 やっとのことだけそれだけ言う。でも、それだけ言えれば充分で、もう何もいらない。
 私はそのぬめりの奥に指を進めた。
「あ――はぁっ、いゃ――ああっ!」
 私は何も考えず、そのなかで指を往復させる。
 甘い響きが頭蓋骨のなかで反響し、何かが、融けて、いく、ようで。
 気が付けば栞の顔に紅が差し、涙は溢れ、半開きの唇からうめきが漏れ、身体は震えて。
 卒然、身体を反らし、
「――」
 脱力したように私の胸に倒れこむ。
 ……いっちゃったんだ、と思ったのは数秒後で。
 そして私は、気付いた。

 いくつかの台詞の断片が、つながり。
 ずっと、ずっと、最初から。栞はただひとつの未来を見ていて。気付いていて、
 それを理解して。
 今私の胸のなかでうずくまる栞。
 ……私は。
 私は自分と栞が「その場所」に向かっていることに今、やっと、気付いた。
 やっと。
 でも――私は怖くない。感覚が麻痺しているのかもしれないし、まだ実感がわかないの
かもしれない。その瞬間になったら、怖気づくのかもしれない。
 それでも……まだ、怖くない。
 ただひとつ私は祈る。
 どうか最後の一瞬まで、栞と同じ空気を吸うこと出来ますように。
 いっしょにいることができますように。

 おねがい。

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