被(害)写体

0.

 何時ものように――そう、何時ものように私はマリア様にお祈りをして、校舎に向かっ
た。もちろん、スカートを振り乱して走ったりはしない。いや、――正確に言えば、走る
ことができないのだ。けして、走ることはできない。
 写真部の部室。
 教室に荷物を置いてから、真っ直ぐにそこに向かった。
 心臓が常に高鳴っている。今にも倒れそうに思える。しかし、そんなことは絶対にでき
ない。今日だけは――今日だけは。
 部屋には彼女がいた。
 彼女は何時もと同じように微笑んで、私に近寄る。
「――どう?」
 彼女は私に訊いた。
 私は答える代わりに制服を捲る。
「……うわ」
 彼女が言い出したことなのに、武嶋蔦子さんは驚いていた。……恐らく、演技じゃなく。
「本当にしてくるとは思わなかった」
 苦笑して、彼女は言う。それはないだろうと、私は拗ねたような表情を作った。
「本当に……“下着を着けないで”、学校に来るなんて。――すごくいい顔、してるよ」
 彼女は繰り返すように言いながら制服を捲り上げたままの私を何枚か撮影する。
「そこ、ひくひくしてる――本当に綺麗だよ、桂さん」
 なんて言いながら。
 そして私はその言葉に全身が熱くなっていくのを止めることができない。
「んー?」
 蔦子さんは撮影を続けながら少しいぶかしげに、それでいて楽しげに言葉を発した。
「もしかして、濡れちゃってる? 少し垂れてきてるかも。ふふ」
「嫌っ……!」
 私は思わず声をあげた。そんな、そんな馬鹿な。
「本当よ……後でティッシュあげる。拭いておいたほうがいいわよ。それで感じちゃって
も知らないけど。私が拭いてあげてもいいんだけどね――」
 そこで言葉を切って、蔦子さんは口癖を呟き、そしてまたシャッターを切る。
「カメラマンは被写体に手を出さない決まりだからね」

1.

 それはごく凡庸な悩みであることを私は自覚していた。
 そのつもりはないのに、いつのまにか多数派になっている。自分の意思で動いているは
ずなのに、誰かと一緒になっている。ふと客観的に自分を見直してみると、情けなるくら
いに一般的でどこにでもいる代替の利く自分。まるで何処かにいる「作者」に「普通」と
いう属性を与えられたようにさえ思える。
 しかしそういう悩みを持つこと自体が「普通」である証拠かもしれない。
 私はそうも思い、また迷路にと迷いこむのだった。

 そして今、放課後、私は楽しげに志摩子さんと歓談しているその「紅薔薇のつぼみ」に
眼を遣る。ほんの、ほんの数ヶ月前まで彼女もまた「普通」の少女だった。そして彼女と
私は親友という間柄だった。
 ――いや、過去形で語るべき事柄ではない。彼女は今も私の親友だ。少なくとも彼女は
そう思ってくれているだろう。それはとてもうれしいことだ。
 ……けど。――けれども。
 彼女はやはり薔薇の館に住まう山百合会の一員。多分、来年には滞りなくロサ・キネン
シスとしてこのリリアン学園に君臨するのだろう。「君臨」なんて言葉は彼女――祐巳さ
んにはまったく似合わないけれども。
 そう思うと、やはり遣る瀬無い。そんな自分の狭量も、「普通」であるための要素なの
だろうか?
 きっと、祐巳さんは潜在的に「普通」ではなかったのだ。紅薔薇さま――祥子さまはそ
れを見抜いたのだ。
 なら、私は? そう思うのは、私を妹にしてくれたお姉さまに失礼だ。けれど。
 私はやっぱり「普通」で、このまま誰かと取り替えが利く一生を送るのだろうか?
 そんなのは……。嫌。そう、はっきりと、嫌だ。
 けど、そう願うのも、「普通」。

               *

 武嶋蔦子は慎重にターゲットを物色していた。
 下手をすればリリアンから追放されるかもしれない。というか、それどころではないだ
ろう。あまり想像したくはないが。
 それでも、その仕事を成し遂げてからならば悔いはない。しかし、何もしていない、あ
るいは中途半端な状態で終わってしまうのは絶対に嫌だ。
 だから、絶対に失敗の無いように選ばなければいけない。

               *

 思えば、彼女が声をかけてきたのは本当に絶妙のタイミングとしかいいようのない時間
だった。昼から夜に移行する過程としての夕方。放課後で、今日の部活はなし。そして、
――私の、祐巳さんへの……抵抗があるが、――「嫉妬」としか呼びようのない感情が沸
点に達した瞬間に、彼女は私に声を掛けてきたのだった。

               *

 蔦子はターゲットを捕捉していた。
 桂さんが祐巳さんに向けていた視線。その正体がわからないほど彼女はおめでたい人間
ではない。バックグラウンドも十分。容姿だって悪くない。むしろ良いくらいだ。
 彼女しか、いない。そう心に決め、彼女は息を吸う。

               *

「あの、ちょっといいかしら?」
 祐巳さんを見つめていた私は、その声と肩に乗せられた手に驚いてばっ、と振り向いた。
「な、何?」
 私を呼び止めたクラスメイトを確認すると、私は多少驚きが醒めて冷静に訊くことがで
きた。武嶋蔦子さん。写真部エースにしてカメラを常に手放さない変人。恋人はカメラと
か本気で言いそうな少女だ。
「今日、テニス部休みよね?」
「え……、ええ」
 私は困惑しながらも答える。確かに、今日は休みだった。
「ちょっと話があるんだけど……じゃ、えっと、三十分後に温室で」
「温室?」
 いったいそんなところで何をするというのか。確かそれは祥子さまのカードがあった場
所。逆にいえばそれだけの場所。大体、用があるのなら今言えば良いのに。しかしまあ、
断る理由もないのが実情だ。
「いいわよ……でも、ここじゃだめなの?」
「え、……ええ、まあ、ちょっと」
 何か変だと思いながら、私は言った。
「……まあいいわ。じゃ、三十分後ね」
 適当に時間をつぶして温室に向かった。待ち合わせの五分前についたのに蔦子さんは先
にいた。カメラは手放していない。
「折り入って……その、話があるのよ」
 彼女はそう言った。そして、やや間を置いて、眼鏡の奥で眼を光らせ、
「あなた……今の自分が嫌じゃない?」と私に訊いた。
 視界が一瞬だけ明滅する。多分、新興宗教とかに没入する人たちはこういう経験をした
んだろうな、と妙に冷静に思った。しかし心は完全に彼女にとらわれている。自分の心中
を完全に読まれている。読んでいる人は……何か光を、進むべき道を教えてくれるかもし
れない。――多分、私は誰かにこんな言葉をかけてもらいたかったのだのだ。それは普通、
成就されない身勝手な願い。だが、そのときその願いは成就してしまった。そのときにす
べての決着がつき、私は、それとは知らず下り坂道に足を踏み出していた。
 気を悪くしたならごめんね、という彼女に私は、そんなことないわ、と答えた。
「私……そう、あなたの言うとおり自分が嫌なの。なんだか自分が誰でもいいような気が
して、なんて言ったらいいのか……自分が自分である意味がわからないっていうか……私、
なんでこんなに普通なんだろうって」
「ええ、ええ、わかるわ」
 ふるえている私を抱き寄せて背中をさすりながら蔦子さんは言った。自分はまったく普
通ではないのに。でも、それがそのときには何よりの慰めだった。
「――でね」
「なに……?」
「お願いしたいことがあるの」
「……」
「確かに桂さんは今、普通かもしれない。でも、これからは違う」
「どういう……こと?」
 私はいぶかしみながら訊いた。
「あなたは、もっと、もっと、特別になれる」
 それは私にとって、これ以上ないくらいに魅力的な言葉。特別。私がほかの何物でもな
いという証拠が――欲しい……!

「若く、美しいままの自分を永遠に残しておきたいとは思わない?」
 そう、彼女は、言ったのだった。
 私が――何度も頷いている自分に気付いたのは、しばらく経ってからだった。

「永遠に……残す?」
 何故だかうまく言葉が出てこない。私は蔦子さんを見つめ、うわごとのように呟いた。
「そう、これで」
 そう言って彼女は、愛用のカメラを取り出した。
「それで、……私を、撮るの?」
 蔦子さんは頷く。
「なんで私を……?」
 私なんかを。
「あなただから」
 そう言って私を見つめる。これ以上ないくらいの誤魔化し。それくらいはそのときの私
にもわかった。意識のなかで、私が祐巳さんに持つコンプレックスに眼を付けられたのだ
と悟った。でも……単にモデルになるだけの話なのに、何故私のコンプレックスなんかを
利用したのだろう。あえて言ってしまうのならば、このリリアン学園の生徒はみな、蔦子
さんのモデルであると言っても過言ではないのに。
「じゃ、はじめましょうか」
 急に私を距離を取り、カメラを構えて蔦子さんが言った。
「え?」
「え、て……だから、始めるって言ったのよ」
「もう?」
「当たり前。えっと、その壁によりかかってこっちを見て」
 ……という風に、撮影が突然始まった。とにかく引き受けたのは自分なのでぎこちない
ながらもポーズを取ってみたりもする。
「……これでいいの?」
「ええ……、かわいいわ」
 などという会話を何度も繰り返しながら。しかし蔦子さんが私を誉める言葉はどこか白
白しく、熱意というものが欠けているように思え、私は不満だった。
 ……そしてその台詞を蔦子さんが吐き出すのは本当に突然だった。
「じゃあ、脱ぎましょうか」
「……え?」
「脱ぎましょうかって言ったのよ」
「何を――」
「服をよ」
 数秒思考が空転し本当はすでに導かれている結論に到達するのを拒否する。
「……そんな」
 蔦子さんは呆れたように首を振る。
「普通にあなたのことを撮りたいんだったら盗み撮りすれば良いのよ。なんのためにこんなところに呼び出して……」
「そんな問題じゃない!!」
 私は叫んだ。
「そんな……そんな破廉恥なこと……このマリア様のお庭で……!」
「マリア様のお庭でなければよろしいのかしら。じゃあ、そこの公園で」
「屁理屈を言わないで!!」
 ふう、と蔦子さんは溜息を吐いた。
「私はあなたが新しい自分を見つけるお手伝いをしてあげようと思っているのに」
「そんな……そんな新しい自分なんていらない……」
 私は後ろに下がろうとするが壁にぶつかる。
「本当にそうかしら?」
「え……」
「見たところ随分いい身体をしていると思うけど」
「そんな……」
「あなたが自分を獲得するための手段として何も間違っていないわ」
「…………」
 私は何も言えずただ首をゆるゆると振る。
「大丈夫よ……写真は私が保存しておくから。誰にも見せはしないわ」
「だったら、なぜ……」
 撮るのか?
「私が桂さんの写真を撮りたいからよ」
「あなたが……」
「最後は、あなたの意思しだいだけどね――けどそのままじゃ、あなた、特別になれないけどね」
 蔦子さんはそう言って縮めていた二人の間の距離をさっ、と離す。
 私は。
 カメラを見ていた。
 ――身体には自信があった。
 テニスは小さいころから続けていたし、引き締まった身体をしていると自分でも思っていた。テニス部の友達もそう言ってくれたことがあった。
 少なくとも――祐巳さんよりは――私は何を考えているんだろう?
 そうだ、私がほかの人と比べて特別になれる手段。
 身体を曝すこと。
 その身体を……――何も付けずに。残す。美しいままで。
 それは魅力的になるだろう。自信過剰でもなんでもなく冷静にそう思った。
 なら。
 絶対に誰にも見せないというのなら。
「一枚……だけなら」
 かすれた声で自分がそう呟くのを、私はどこか遠くから見ていた。
「そう――嬉しいわ」
 蔦子さんはにこりと微笑む。何の邪気もなく――。
「どう、自分で脱ぐ? 嫌なら、私は脱がせてもいいけど」
 私はぶるぶると首を振り、制服に手を掛けた。しかし躊躇してしまい、なかなか手を上
に引き上げることが出来なかった。
 怖い。――怖いよ。
「……無理?」
 蔦子さんが近づいてきて、制服に手を掛けたままの私の手をとる。
「やめて!」
 私は拒絶し、意を決して一気に引き上げた。下着を着けただけの身体が外気に曝される。
「綺麗――肌が白くって」
 蔦子さんは私を見、陶然として言った。
「下着――取る? 一枚きりだからね……」
 一枚きり。
 どうせ、一枚きりなら。私の思考は過激になりやけに近い状態に堕していった。
 後ろ手でブラジャーのホックを外し、ショーツを引き下げ脱いだ。私は全裸になり身体
はもう何にも包まれていない。そしてそれを――蔦子さんに見られている。見られている、
私の裸を。私は反射的に腕で胸を隠した。脚ががくがくと震える。しかし、
「綺麗――本当に綺麗よ桂さん。他の誰もそんなに綺麗じゃない」
 そう言われ頬が紅潮してしまっているのが自覚できる。特別である印を私はついに手に
入れたのだ。私は胸に置いた手を外した。邪魔だ。私にとって。
 蔦子さんはもうカメラを構えていた。
「どういう……格好すればいい?」
「そのままでいればいいわ」
 蔦子さんはそう言った、そして。
 フラッシュが焚かれ、温室が光に包まれた。
 そして私の裸体はネガに焼き付けられる。永遠に、残る。
「……有難う。もう服着ていいわ」
 蔦子さんは言い。これっきりだった。
 これっきりのはず、だった。

2.

 翌日、私は何時ものようにリリアン学園に登校し、マリア様にお祈りをした。
 しかし私は昨日までの私ではない。このマリア様のお庭で――私は……。
 あんな――ことを。
 そう思うと、身体の奥で火がついたように何かが疼くのがわかる。
 私はその正体から眼を逸らし、教室に急いだ。
 教室には何時もと同じみんながいる。志摩子さんに、祐巳さん。みんな、昨日までと同
じ。その中で、私だけが変質してしまった。そのことに不安を覚える一方、しかしそこに
ゆがんだ優越感も在ることに気付き、私は慄然とした。
 私だけ違う。
 私だけ。
 その「だけ」が、ずっと、欲しかったのだ。
「ごきげんよう」
「ごきげん……、……!」
 挨拶を返そうとすると、そこにいたのは蔦子さんだった。いつもと変わらない笑顔。胸
の疼きが加速する。
「昼休み、写真部で」
 蔦子さんはそう私に耳打ちした。吐息がかかり、その耳が熱くなるのがわかる。
 私はそのまま席に着いた。
「ごぎげんよう」
「ごきげんよう」
 祐巳さんといつもの挨拶を交わす。いつものように……できただろうか? それが、そ
れだけが、……気がかりだった。
 その日の午前中に何をしたかを私はよく覚えていない。
 ただ気付けば昼休みで、食事をとると私はすぐに写真部に向かった。走りたいほどだった。
 私が写真部の部室に駆け込むと(結局、最後のほうで走ってしまった)、蔦子さんは
もうそこにいた。
「そんなに焦らなくても、ここにありますわ」
 蔦子さんはそう言って、机の上に置かれた写真を手に取り、裏返したままで私に手渡
した。私は息を吸い、身体に起こる熱を宥め、その写真を裏返し……。
 息を呑んだ。
 そこにある私は私であり私でない。
 私のかたちをした私のようななにかがある。
 白く、曲線を描き、レンズを見据え、身体を曝し。
 そしてそれは私よりもずっと、綺麗だった。
 私はそれにもっと長い時間なりたかった。
「どう……綺麗でしょう?」
 蔦子さんが言う。私は無意識のうちに頷いていた。
「じゃあ、今日も撮りましょうか」
「今日も……!? でも、テニス部が」
「どうとでも言って休めるでしょう」「……」
「今日は好都合なのよ」「え?」
「山百合会のメンバーが全員出払うから」
「どういう……こと?」
「まずは放課後の教室と、それから……」
「ちょっと……」
「大丈夫よ。桂さんは薔薇さまにだって負けないくらい、この写真では美しい」
 そう言って蔦子さんは私の手を取った。
「まさか、そんな、そんな……」
 私は蔦子さんが何を言おうとしているか悟り青白くなる。
「大丈夫」繰り返す。「今日、薔薇の館には誰もいないから」
 蔦子さんは続けた。
「薔薇さまになりたくない?」

 放課後、一時間ほど経って、私は廊下で蔦子さんと合流していた。
「やめましょうよ……こんな……こと……」
「そう思っているのなら、私を無視してテニス部へ向かえば良かったのではなくて?」
 ……私は黙ってしまう。もうすでに休むことをテニス部には伝えてしまっていた。
「さ、始めましょうか。もう誰も教室にはいないし」
「で、でも……」
 部活帰りのクラスメイトと遭遇してしまうかもしれないではないか。
「それもまたスリルがあって良いでしょう」
「そんな……!」
「さ、さっさと撮らないと本当に来てしまうわ」
 そう言って蔦子さんはカメラを構える。動悸が早くなり、息が苦しくなる。
「本当に……ここで撮るの?」
「ええ」
 簡潔に答えた。
 私は何も言わずタイに手を掛ける。汗が顔中から溢れ出ていくのを自覚していた。橙色が教室に流
れ込みすべてを淡い色に染める。
 数回、光が教室を包んだ。私はただ荒い息を吐きながらレンズを見つめていた。ポーズも何もあった
ものではない。
「こんなので、いいの?」
「最高。――本当に綺麗よ。そのべとべとになったおっぱいとか……」
「嫌っ……もう、そんなこと言わないで――」
「誉めてるのよ?」
 そうして彼女はまた数回シャッターを切り、言った。
「さあ、そろそろ部活も終わるころね……人来ちゃうわ、とりあえずいったん終わりにして、本番に行き
ましょうか」
 本番、
 つまり。
 薔薇の館で。
 それまでの誰よりも綺麗で淫らな薔薇さまになる。
 ……私が。

 夕暮れ。リリアン全体が蜜柑色に塗りつぶされているが、しかし下校時間まではまだ間
がある。
 中庭にある薔薇の館、そこは今まで私に縁遠く、そしてこれからも縁遠い場所だと思っ
ていた。昨日までは。
「さ、中には誰もいないわ……入りましょうか」
 入り口で、まるで職員室に入るかのように蔦子さんは言った。私は思わず首を振る。
「大丈夫よ……十角館じゃないんだから、殺人が起きるわけじゃないわ」
 よくわからないことを言う。
「でも……こんな場所……私には……」
 畏れ多い。
「いまさらなにを言っているの?」
 蔦子さんはそう言い、後ろから私のタイに手をかける。
「『着た』状態で入るのが怖いのなら、ここで脱ぎましょうか? 私は構わないけど」
 俄に外気が冷たく感じられ、私は反射的に扉に手をかけた。引く。私が永遠に開くこと
はないと思っていた扉が、ゆっくりと開く。
 そこに現れたのは不思議な空間だった。
「うわ……」
 威容に声を無くしている私を差し置いて、蔦子さんは通いなれた部室のように館のなか
を徘徊する。
「上がりましょうか」
 蔦子さんはそう言い、返事も聞かず階段を上り始めた。ぎしぎしと階段が軋む音がする。
私はその後を追った。
 そこにあったのは、ビスケットのような扉。
「普段、山百合会の面々はここに集まっているのよね。打ち合わせをしたり、あるいはた
だ歓談をしたり」
 蔦子さんが注釈を加える。
 そして、私を見た。
「今日はあなたが、この場所で薔薇さまになる」
 もう怖くはなかった。
 ただ私が私でなくなることを求めている。
 タイに手を掛けほどき制服を引き上げる。まるで変身シーンのようだ、と思い私は独り
苦笑した。あるいは、本当に私は――。
 思考を中断し、制服を部屋の片隅に置いた。深緑が確かに存在感をもってそこにあり、
あるべき場所に自分がないことを主張する。
 続けて下着を脱ぐ。そしてカメラを見据える、ひとつ息を吸って。
「えっと、じゃ、そこ腰掛けてみて」
 数枚写真を撮って、蔦子さんは椅子を指差しそう言った。私は言われたようにする。
 フラッシュが一回だけ部屋の内部を包む。
「そこ……いつも祐巳さんが座っている椅子」
 微笑みながら蔦子さんが呟いた。私は硬直したまま動けなくなる。
 ここに――。
 いつも、紅薔薇のつぼみの妹として、祐巳さんがいる。座っている。存在している。
 そしてそこに今私がいる。脚ががたがたと震える。じとじととした汗が身体を濡らす。
 それを蔦子さんが写真に収める。
 フラッシュ。
 私という異物をしっかりとフレームで捕らえる。今回はかなり際どいアングルからも―
―例えば椅子に座る私をちょうど太もものあたりでしゃがんで見上げるような――撮影し
ている。段々エスカレートしていくようだ。敏感な部分に吐息がかかり少し身体が震えた。
 しばらくして、ふと空しくなり……私はふらふらと蔦子さんに歩み寄った。
「ねえ……私ここにいていいの?」
 そんなことを呟きながら蔦子さんにもたれかかる。
「いていいわ。だってあなたは薔薇さまなんですもの」
「違う……」
「違わない」
 そう呟きながら蔦子さんは私の曝され汗ばんだ背中の素肌をさする。
「違わない……」私は呟いた。
「ほら、もっと堂々して、それじゃ格好がつかないでしょう」
 背中に、軽くキス。そうして私は立ち直り、その後も淫らな撮影は続いた。
 私は何をやっているのだろう。
 撮影が終わり、暗くなった中庭と蔦子さんと歩きながら私は暗澹とした気持ちに陥って
いた。
 こんなことをいつまで続けているのだろう。
 こんなことを。
 確かに撮られているときに高揚はするし、こうすることで自分が自分以外のものになれ
るという満足感もあるが――しかし。
 ……。
 いや、違う。私はただ、満足できないだけ。
 自分の身体を誰かに曝す悦びを覚えてしまったから。
 私はつながっている。この作業を通して。
 ――蔦子さんと。
 私は、この二日間を通して、いつのまにか彼女に惹かれていることに気付いたのだった。
 もっといっしょにいたい。こんなことじゃなく、もっと強くつながっていたい。
「明日も――撮るの?」
「桂さんが良ければ」
 私は何も言わず、こくりと頷く。
「じゃあ……」
 蔦子さんは微笑を浮かべる。
「もっと遅くになってから公園で撮りましょうか」そう言いながら、口の端を吊り上げる。
「そんな……!」
 反駁しながらも完全に心はその気になっている。早まった心臓はすでにその鼓動を早く
していた。発した内容とは裏腹に、声は期待に上ずる。蔦子さんも気付いて笑みを深めた。
「――蔦子さん……」
 顔を伏せ、私は呟いた。なに、と彼女は答えた。
「蔦子さんに撮ってもらって、良かったよ。ありがとう」
「そんな、私が感謝される覚えなんて……」
「ううん――私、たぶん、変われたんだ」
 蔦子さんは困惑したような表情を浮かべたままだった。私はその胸のなかに身体を寄せ
た。ショートカットの髪が柔らかい身体に包まれる。

3.

 次の日の、夜。私はリリアンの近くにある公園に蔦子さんと二人でいた。
 街灯の、仄かな明かりが私たちを包んでいる。
「そろそろだれてきたような気がするのよ」
 と蔦子さんが言った。
 私は首をかしげる。
「ただこう……突っ立っているだけじゃ、……いや綺麗なんだけど、こう物足りない
というか……」
「――どういうこと?」
 私は率直に訊いた。
「もっとこう……動きが欲しいわね」
「動き?」
 どうしたというのか、そんなことを言う蔦子さんの頬は少し赤く染まっている。いった
いいまさら何を
恥ずかしがっているのだろうか、と私は思った。
「その……ね、」
 口元を私の耳に寄せる。息が僅かに耳たぶを掠めた。
「ひとりH、してみようよ、ここで」
「え……」
 私は言葉を失った。
「そこのベンチで、制服着たままのほうがいいかな」
「そんな……こと」
「桂さんなら、できるわ。いつもやっているようでいいから」
「いつもなんてやってない……」
「じゃ、たまにやっているように」
「…………」
 数分後、頷く私がいた。
 公園の片隅。
 ベンチに座り、ショーツだけを外して、右手を下半身にもっていき、左手は胸に置く。
まあ、『たまにやっているように』だ。
 眼の前にはカメラを構えた蔦子さんがいる。
 心臓の鼓動が、どこかおかしくなってしまったのでは、と思うくらいに速くなっている。
「濡れてる……。まだ何もしていないのに」
 蔦子さんがささやく。
「嫌あっ……!」
 その台詞でますます興奮してしまうことを恐れて私は何も考えずに指をその場所に触れ
させた。不用意だった。その瞬間、今まで覚えたことの無いような快感が全身を貫く。
「ひっ……!」
 驚いて指をすぐに離すが、身体は再びその快感を享受することを要求している。指には
液体が絡まっていた。
 おかしい。瞬間的にそう思った。なんでこんなに。おそるおそる、今度はゆっくりと指
をその場所に近づけ、触れる。快感がゆっくりと脊髄を通過していった。
「ぅ……ん――」
 指を上下に動かしながら左手で胸を揉む。シャッターが間断なく切られている。
「はぁっ」
 ぐちゅぐちゅと水がかき回される音が夜の公園に響く。
「すごい……こんな」
 蔦子さんが呟いた。考えてみれば奇妙な光景であるわけだが、そのとき私たちはそんな
ことを考えもしなかった。私は撮られている状態に自分を置くことで一種トリップに陥っ
ていたような状態だった。
「ねえ……そんな淫らになって、今誰のことを考えているの?」
 蔦子さんが訊いた。私は答えない。でも言ってあげたかった。あなたよ、って。今あな
たがそのシャッターを切る指で私を貫いているところを想像しながら、こんなに乱れてい
るの、って。
「あっ――はっ……いやあっ!」
 一瞬小さな快感の波が押し寄せ、仰け反った。それを契機に親指を上部にある突起に置
く。触れた瞬間に、予想も出来ないほどの……始めての快感に私は声もなく達し崩れ落ち
た。
 目覚めたとき、私は蔦子さんがいることに安堵していた。
「もう……あんなに乱れて、あげく気絶しちゃうなんて……予想も出来なかった」
 蔦子さんは微笑みながら呟いた。
 私は眼を逸らす。
「そんなにエッチなんだから、今から私が言うことくらい出来るよね?」
 にやりとしながらそう続け、私の耳元で呟く。
 瞬間、耳まで真っ赤になるのがわかった。
 そんなこと。
 でも、これまで何回そう思ったのだろう。
「それで、明日はどうしようか」
 蔦子さんが訊いた。
 私はあらかじめ考えていたことを言う。
「あのさ……私の家、明日は誰もいないんだけど」
「いれてくれるの」
「……ええ」
「じゃあそうしましょうか……」
 そう言いながら、蔦子さんは腕時計を見た。
「随分遅くなっちゃったわね……送っていきましょうか」
 蔦子さんが訊いた。
 私は首を振った。
 いまさらこんなことを考えるのもおかしいのだけれど、恥ずかしかった。
 本当にいまさらだけど。
 なんとなく、気恥ずかしかった。
 そして空しかった。独特のあの空しさが全身を染めてしまっていた。

4.

 「カメラマンは被写体に手を出さない決まりだからね」
 私はそのときにそう言った。そう言うことで、内心の心の揺れをどうにか押し隠そうとしていた。
 下着を着けないでリリアンに登校し、顔を赤らめ羞恥に濡らす桂さんの姿を私はファイ
ンダー越しに見て、どうしようもなく身体が熱く火照ることを自覚して。危ない、と思っ
た。自分の前提が――崩れる。

 ……その夜、私――武嶋蔦子は桂さんの家の中にいた。
「友達を泊める」という名目で(実際それは間違っていない)、桂さんが私を招き入れて
くれたのだった。――淫らな写真を撮る為に。
 今日の昼、昨日彼女が公園で見せた痴態を収めた写真を私から見せられた彼女は、顔を
真っ赤にしながらも自分が自慰をしている姿を一身に見詰めていた。そこに表出する誰よ
りも美しい自分を。いや、彼女の言葉を借りるなら自分でない誰かを。
 彼女がこうして積極的になってくれるのは嬉しいことだった。――写真を撮る為に。
 彼女は被写体であり、被害者だ。
 それ以外の何ものでもないと自分に言い聞かせてきた。
 しかし……、最近その垣根が壊れ始めてきたような気がする。
 今日の行動はそれを加速させてしまうかもしれない。
 しかし私はそれに抵抗することなどできずに了承してしまう。
 坂道を転がるように。

 桂さんが住む家は平凡で、桂さんの部屋も平凡だった。
 一般的な一軒屋のなかにある一般的な一室が彼女の住処だった。

 桂さんに先導されて部屋に入る。見事なまでにステレオタイプな女の子の部屋がそこに
あった。ベッドの上にあった一冊の文庫本の見た桂さんが焦ってそれを回収する。ちらり
と「撲」という文字が見えたがそれ以上追求すると自分の根源的な部分が危機を迎えると
直感がささやくのでやめておいた。
 少しの時間、なんでもないような雑談をした。考えてみればこういうように桂さんと話
したことなんてなかった。少しだけ普通の時間。
 そしてしばらくして、夜が遅くなって、闇が深まって、普通でない時間になる。
「じゃあ……そろそろ」
 と私が言うと、桂さんはかすかに頷いた。

 桂さんはベッドに横たわっている。
「そう……そうやって捲り上げて……そうやって少しだけ胸が見えるように……ああ、良
いわ、それ」
 シャッターを切りながら私は指示を出していく。桂さんは従う。
 制服の下半身の部分が捲り上げられ、下着を着けていない(結局乗り切ったらしい)そ
の部分が露になり、胸のふくらみの下部が空気に曝される。
「そうやって、……誘うような眼で」
 私がそう言った瞬間、桂さんはまさにぞくりとするような視線を私に送る。心臓が一回、
大きく跳ねた。
「すごくいい……その表情」
 カメラをいったん横において私は言った。
「ありがとう」
 桂さんは言った。表情はそのままで唇だけ動かして。その動きさえ淫らで。
「どうして、――そんなに……」
 綺麗なの、と言いかけて、私はいつのまにか右手を握られていることに気付いた。
 彼女は言う。
「だって私……蔦子さんを本当に誘っているんですもの」
 そしてその手を自らのお臍のあたりに導く。
「え――?」
 どくん。

 鼓動が全身に行き渡り。
 劣情が全身を濡らして。
 熱情が全身を染め上げ。

 私のなかに在るすべてのスイッチに、静かに、手が伸び、押される。
 それが、わかった。桂さんは――妖しく、微笑んでいた。

 私の殻に罅が。割れて。
 私のほんとうの部分が露出する。

 汗が全身の毛穴から吹き出て、脈が激しくなる。
 私は無意識に手を桂さんの身体に這わせていた。はあはあと荒い息が漏れる。
 桂さんの身体も汗で濡れていた。私の腕を掴んだ手にはもう力が入っていない。
 その手はごく自然の帰結として――まず、胸のあたりに移動する。
 桂さんは眼を閉じた。
 柔らかい膨らみの感触が私の脊髄を這い上がる。
 心臓が締め付けられる。
 その中心部に突起を見つける。人差し指で触れると、すでに硬くなっていた。
「感じ――てる?」
「うん……」
 私はそれを摘み上げた。
「ぅ……あっ」
 桂さんが声を漏らし、私を見上げる。その視線は私を熱くする。
 私は手を再びお腹にもっていき、そこを通過させる。その下の部分。
 ――が、その場所にたどり着くその直前で押し留められる。
「だめ……」「え――?」
「ちゃんと、私を抱いて――」
 私は…………………………
 …………………………何も、出来ない。
 そのままの姿勢で固まったまま。
「もう――」
 ふっ、と、桂さんが微笑した。
「意気地なしなんだから」
 そんな言葉が、妙に私の心を衝いた。
 桂さんは私の右手を自分の顔の方にもっていき、中指を口のなかに入れた。
 口腔の中で指が執拗に舐められるのがわかる。関節の裏を舌が這う。
 水が撥ねる音が響く。
 指を銜えて出し入れしているその姿は――――まるで…………。
 ……とても、扇情的だった。
 その心地よい刺激に脳がぼーっとしかけていた、その瞬間に、桂さんは歯で指の裏側を
軽く撫でた。擽られたよう。その刺激は直ぐに快感に変わった。
「ひっ――」
 軽く身体が震えてその場にへたりこむ。本当に――本当に軽くだけれども、はっきりと、
達してしまったようだった。
「――ねえ」
 頭上から声が降る。
 私は立ち上がった。そのまま、ベッドに横たわる、桂さんの隣に寝転がる。
 そのまま抱き寄せる。
 もう、離したくない。
 もう、我慢なんてできない。
 もう、自分のなかで沸騰しているものを抑えることなんてできない。
 ふと見ると、私が座り込んでいたカーペットには、はっきりと染みができていた。
 何も考えずに動物的な欲求のまま口付けをした。
 触れた瞬間に、お互いにほぼ同時に舌を差し入れる。
 そのまま、ただひたすらにお互いの口を蹂躙する。
 身体をきつく抱きしめ合う。お互いはお互いだけのものになりお互いはお互いを独占し
お互いはお互いをどこまでも求める。
 どこまでも、あさましくなれる。私はなんだかよくわからずに乱暴に服を脱がした。
 私は改めて片方の手を桂さんの右胸に置き、やさしく揉みしだく。
「……うぅ――」
 首筋に舌を這わせる。両腕で頭部を抱え込むようにしながら。
 しばらくそれを続けてから指を――ようやく、その場所にもっていく。
「いい?」
 私がそう訊くと、桂さんはただ頷いた。ただ。
 手を伸ばす。
 ショーツの中に手を入れるとざらざらとした感触がした。
 それを掻き分けるように指を進ませる。
「ん……あっ」
 その表情を。
 その嬌声を。
 もっと。欲しい。
 だから私はその奥に指を這わせる。
「……っ! ん――!」
「声――出していいよ」
 そう言ってもまだ、堪えている。
 私は少しだけそのなかに指を沈めた。
「……――いやぁあ!」
 興奮で、全身の血液が沸騰するような錯覚。
 もう我慢できない。そう思ったのは何度目だろう。
 さらにその奥に。 いったん引く。いつのまにか抽送になっていた。
 桂さんは時々身体を震わせながらあえぎを漏らす。
「はぁ――あん……ぁ――!」
 水音。
 粘り気が私の指を包む。
 身体を重ねて――私まで昇っていくようで。
 桂さんはもう……喘ぐだけで。
「あぁぁぁあ! ひ――いやああぁ!! ぃ……いいよぅ……!」
 私の身体を掴む。掴む引き寄せる抱き締める――。
「……こ、わ…れ…ちゃ、わた――はぁあああああん!!!」
 身体が痙攣し、締め付けられていた指が開放された。
 ベッドに倒れこみ、目を閉じた。
 その表情。私はどうしてもそれを保存したくなった。
 私は咄嗟に、愛液で濡れた手でカメラを構えていた。
 シャッターを押す。
「嫌あ――もう」
 桂さんは顔を覆い僅かに首を振る。
 そのまま静寂が流れた。
 たまらなく幸福な静寂。
 突然桂さんが半身を起こした。

「私も――カメラ始めようかしら」
 唐突にそんなことを呟く。
「へえ――何を撮るの?」
 そんなことを私が訊くと、桂さんは微笑んだ。
 そして私からカメラを奪い取り、もとあった場所に置く。
「そうね、まず……蔦子さんの」
 そうささやいて、私をベッドに押し倒して。――え?
「いっちゃった――顔かな」
 唇を塞がれて……。

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