うつろはんかな君待ちがてに




「助けて…!」
「うわあああああっ」
「逃げろっ!!」

 悲鳴と怒号が交錯し合うその騒ぎの中心には、1匹の大人の男の身長ほどもあろうかと思われる百足が鋭い顎を天に向けて立ち上がっていた。その百足の人間で言うなら胸と呼ぶべき場所には梵字が刻まれている。

「……何だ、あれ」

 悟浄がそれしかいえずに百足を凝視しているとなりで、月明はがたがたとふるえだした。茲燕もぎゅ、と月明の手を握って鋭い眼光をその百足に向けている。
 
「……式神……」

 ふるえた低い声が月明の口から漏れた。

「……式神よ。あれは!!百眼魔王の式神だわ!!!」

 よくとおる声で怒りと憎悪と恐怖の色をたたえて、堰を切ったように月明が叫んだ。悟浄はこれ以上ないというくらい目を見開いて彼女を見つめ、茲燕は彼女の肩を抱き、彼女の気持ちと自分自身とを必至で宥めようと努力していた。

「……百眼魔王だって……?」

 なおも暴れつづけるその百足はバザールの店をなぎ倒し、払い、のたくたとくねって鋭い顎から毒液を撒き散らし人々の群れに襲い掛かる。逃げ惑う男が女の名前を呼び、母親は子供を胸に抱いて香草と果物が山と積まれた店の品物の上を足を取られながらも必死で走る。
 そして、先ほど月明が投げ入れたひとかけらの小石は少しずつしかし確実にその人々の間に波紋を描いた。

「……百眼魔王だって……?」
「だってそいつは滅ぼされたんじゃあ……?」

 背中にふと冷たい視線を感じたような気がして悟浄はがばと振り向いた。
 しかしそこには誰の気配も感じられなかった。自分を刺すような、試すような、値踏みするような、そんな冷たい視線を確かに感じたのに。

「……一族千人皆殺しにされたって……」
「…しかし、皆殺しの現場を誰も見たわけじゃないぞ……」
「そもそもたった一人の人間に皆殺しだろう?それがまちがいじゃないのか……?」
 
 百足の顎からたれる毒液がジュウウ、といやな音をたてて、そこに転がっているパプリカに穴をあけた。
 月明と茲燕は硬直してしまったかのようにその場にとどまったままだ。
 悟浄はどうしたらよいのかわからずとりあえずこの場はとっとと逃げるに限ると腹をくくり、すっかり固まっている月明と茲燕の手を取り、できる限り百足と反対方向に走っていこうと二人の肩をゆさぶった。

 ざわり

 空気が固体化してざらざらした感触の波動を悟浄に塗りたくってきたかのようだった。
 その百足がその複眼に悟浄の姿を捉えた。
 一瞬、百足の動きが止まり、まるでスローモーションのように百足は一度体勢を低くした。そして、次の瞬間、悟浄の目の前にその百足は突然出現した。

「きゃあああああああああ」

 ひときわ高い悲鳴があちこちから起こる。
 悟浄は咄嗟に月明と茲燕を突き飛ばし、自らは百足の懐に飛び込んで、そしてその胸の部分に蹴りを食らわせた。

「悟浄!!!」
「悟浄さん!!!」

 しかし、甲殻類であるところの百足の外骨格はその程度の攻撃にはびくともせず、その短いが数だけは多い足をびろびろと動かして悟浄の腕や足や肩にまとわりつこうとしている。

「……気色わり―んだよっ、この俺様に気安く触るな!!」

 今度は節と節の間を正確に狙って悟浄は肘を打ち込む。しかし、それも致命的なダメージにはならず、悟浄は自らにかみつこうとするその鋭い牙と毒液から身を守るためにその後は防戦一方になってしまった。

「…逃げろ……!!」

 月明と茲燕と、その他ギャラリーに向かって悟浄は叫んだ。正直、かなりこれはまずい状況だ。
 自分は妖怪の血が半分はいっているから、何とかこのクソ百足の攻撃にも耐えたり防御したりすることができるが、普通の人間の身体能力ではとてもそれは無理であることはすぐに悟浄にはわかっていた。

「早く逃げろ!ぐずぐずするな!!てめーら死にたいのかっ」

 二度目に怒鳴ると、月明と茲燕以外の人間は蜘蛛の子を散らしたかのように逃げていった。
 多分、自分が禁忌の子供だとばれた瞬間はきっと人はこのように逃げていくんだろうな、と場違いなことをやけに冷静に悟浄は思った。

「悟浄さん!!」
「早く逃げろっつってるだろ!あんたたちがいると気が散って余計戦いにくいんだよ!」

 数ミリの差で百足の顎から自らの左腕を守りながら、悟浄は背後にいる二人に怒鳴った。
 乾いた大地を踏みつける足元から土ぼこりが舞い上がる。

「…でも……!」
「あんたたちがいても加勢にも何にもなりゃしねーんだよっ!でももへったくれもねーだろ!!さっさとこの場を…!」

 言葉を最後まで言い終えることができず悟浄は一気に噴出してきた毒液を避けるためにほぼ真横に飛び退り、ごろごろと乾いた大地を転がってその紅い髪を白い土ぼこりでまだらに染めてすぐに立ち上がった。
 そして、攻撃に移ろうとした瞬間、今度はより強烈に背中に視線を感じた。
 この世のものとは思えない。死人の体温をした、冷たい、観察の視線。

「―――――さっきからうっとおしいんだよっ!!」

 しかし、目の前の百足から視線をそらすわけにはいかなかった。致命的なダメージを与えられない悟浄にとって、このまま持久戦に持ち込まれれば分が悪いのは火を見るよりも明らかであった。
 何か、何かこの百足に対する有効な攻撃は……

「茲燕っ!どけっっ!!」

 百足の顎に頭髪をかすらせながら、悟浄は茲燕と月明の半刻前までは店だった場所に猛然とダッシュすると、先ほどまで香ばしい匂いを漂わせていた串を引っつかみ、百足が悟浄に攻撃を仕掛けようと身体をそらしたその瞬間に、節と節との間に串をぐさりと突き入れた。

「―――――――!!!」

 なんとも表現しがたい耳障りな音を立てて百足が悟浄のほうに倒れこむ。悟浄はすばやくポケットからジッポーを取り出すと、その串に火をつけた。動物の油がたっぷり染み込んでいたその串は、瞬く間に炎を上げ、内側からその百足の身体を焼く。

「――――――――!!!」

 声にならない咆哮を上げ、百足はばたりと倒れた。
 悟浄が、髪と服についたほこりを払って立ち上がる。

 シニカルな笑いを貼り付けて、悟浄は茲燕と月明の方にゆっくりと歩いてきた。
 二人は声もなく悟浄を凝視しつづける。

「…ま、俺様の手にかかればどうってことない敵だったな」

 へらへら笑ったまま、ハイライトを取り出すと悟浄は火をつけ、ふう、と煙を吐き出した。

「それより聞きたいんだケドさあ。あんたたち、百眼魔王を知ってんの?」

 じゃり、と音を立てて悟浄は茲燕と月明の方に足を踏み出した。


 二人から答えはなかった。


 その顔が恐怖と驚愕に支配されているのを悟浄は不審に思った。釣り上げられた魚のように二人は口をパクパクさせるだけである。あのクソ百足はこの自分が倒したというのにどういうことだろう。それとも、悟浄に妖怪の血が流れていることに嫌悪を抱いたのだろうか―――一瞬のうちにそこまで思考を進めた悟浄は、その次の瞬間、地の底から轟くような雄叫びを耳にした。

 つい先ほど焼かれ、倒れたはずの百足が体を起こし、そしてその強力な顎が悟浄の頭部を襲っていた。

「―――ざけんな!!」
 
 咄嗟に悟浄は背をそらし、その攻撃をかわしたが、だが間髪いれずにその体勢で足をすくわれ、背中から地面にたたきつけられる。一瞬、呼吸が止まった。そして、百足にとってはその一瞬だけで充分だった。
 百足が鎌首を持ち上げて、悟浄の首めがけて顎を振り下ろした。鋭い牙が頬に触れる感触がして、悟浄は、こんなところで首を噛み切られるなどという情けない死に方だけは絶対にしたくないと思った。しかし、思ってもこの状況はまさしくその方向に雪崩をうって落ち込んでいっていて、まさしく地獄行きエレベーターに自分が乗せられていることも悟浄にはわかっていた。
 こんなところで今死んでしまったら兄には巨大な負債を返済しないまま、クソ坊主には蔑まれ、バカ猿には自分のことを遠くの棚にほおり投げて馬鹿にされるだけだろう。
 そして八戒には――――――何より、あの大切な碧の同居人の笑顔も、誰より何より美味しい料理も、お帰りなさい、というあたたかな笑顔も、やわらかく抱きしめてくれるそのきれいな腕も、薄い唇も、キスも、白い肌も、自分の腕の中で感じてくれるその表情も、セックスも、シーツを握り締める指も、さらさらとこぼれるこげ茶色の髪も――――――
 死ぬ瞬間には走馬灯のように色々な出来事が頭の中をよぎるというのはこういうことか、とやけに冷静に悟浄は分析した。
 牙が触れた頬から灼熱の痛みがほとばしる。毒が体内に侵入したようだ。

 悟浄は目を閉じた。
 そして、首を噛み切られる感触に耐える準備をした。







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