うつろはんかな君待ちがてに




 衝撃がきた。

 誰かが悲鳴をあげるその声と、誰かの足音、そして、誰かが自分をバカにするのを、他人事のような感覚で悟浄は聞いていた。

――――――バカにする?

 は?


 スイッチがかちりと入ったように悟浄は瞬時に覚醒し、思い切り目を開けた。

 まっすぐ自分の喉を狙っていたはずの百足の顎がそれ、自分の頭上の地面をその顎が抉り取る瞬間、百足の腹を蹴り上げて、悟浄は飛び起きた。

「情けないぞ!エロ河童!!」

 如意棒を肩に担いだ金色の瞳の持ち主がにかっと笑っている。
 悟浄の首が噛み切られようとする瞬間にその如意棒は百足を殴り飛ばしたのだ。


 ガゥン ガゥン

 
 最後の声にならない声をあげ、百足はさらさらと砂が崩れるように崩れていった。
 呪札が貼り付けられた麻雀牌がからん、と音を立てて転がった。

「…フン、この程度の敵にいいようにやられるなんざ貴様は所詮ただのクソ役立たずエロ河童だ」

 経文を肩にかけなおしながら、明らかに人を馬鹿にした口調で過不足なく馬鹿にしたことを言う金の髪の最高僧は、袂からマルボロをとりだすと、かちりとライターをまわし、ふう、っと紫煙をくゆらせた。

「……言ってろよ」

 そう言って悟浄は白く乾いた大地にどさりと倒れこんだ。
 土ぼこりが舞い上がり、口の中にはいってくる。いやな顔をして、悟浄は唾を吐いた。

「…なあ、三蔵。今の百足ってさー、ほんとに百眼魔王の……」
「煩い!サル。てめーはそこでのびて起き上がれない役立たずの面倒でも見てろ」

 毎度おなじみの三蔵のハリセンで、すぱあん、とはたかれた悟空はものすごくいやそうな顔をして悟浄を覗き込んだ。

「ナニ、悟浄、おきあがらんね―の?ダメダメじゃん」

 百足の毒がすっかり身体中に回っているらしい悟浄は額に脂汗を浮かせて、低く唸った。

「………うるせーんだよ、サルは黙ってろ」

 頬から灼熱感が全身に広がっていく。視界はぐるぐる回るだけではなく上下左右があっという間に反転し、手足はしびれてまるで感覚がない。
 何か透明なものが身体にまとわりついては離れずずるずると何かに引きずられていく。

「…おいこのクソ坊主」

 ぜぇっ、という息の塊とともに悟浄は首だけ三蔵のほうを向き直った。

「てめ―、何のためにこんなとこいるんだ?」

 三蔵はきっちりその言葉を無視し、ひときわ強く煙草を吸うと、くるりと背を向けてその場を立ち去ろうとした。

「…こら待てこの鬼畜生臭坊主!タレ目!!ハゲ!!」
「……そんなに死にたいなら今殺してやる」

 チャキ、と安全装置をはずす音がして、S&Wが瞬時に悟浄の心臓を正確に狙って構えられた。

「俺の質問に答えろ!用もないのにてめーがこんなところくるわけねーだろ!!」
「貴様なんぞに答える義理も義務もない」

 一筋、悟浄の額から汗が流れ落ちた。
 世界一の美女で、決して悟浄を振り向いてくれなかったあの髪の長いイイ女が最後につけた傷の上をつたわり落ちていく。

「……八戒のとこ、行くつもりかよ」
「だとしたらなんだ」

 三蔵がその言葉を言い終わるか終わらないうちに、悟浄はがばと起き上がり、三蔵の胸倉を掴んだ。

「…ふざけんなよ!」

 ぎゅうぎゅう胸倉を締め上げて悟浄が三蔵に睨み殺すかのような視線を投げつける。

「ふざけてるのは貴様だ」

 その手を音を立てて払うと、反対に三蔵が悟浄の胸倉を掴み言う。

「あのつぶれた足で俺の誕生日など祝おうなんて思われたら俺の夢見が悪くなる」

 まっすぐに悟浄の瞳を射るその紫の一点の曇もない瞳に、悟浄ははっと気がついた。

 三蔵の視線の先にはすっかりおびえきった茲燕と月明がいた。
 あのままであれば悟浄が言った些細なひとことが、何も知らないこの善良な人間にどんな影響を与えるか、少し考えればすぐに分かった。

 あのまま、悟浄が、百眼魔王と八戒を同時に台詞に乗せていたとすれば――――――

 あまりに明らかにその状況が瞬時に悟浄の脳裏に描かれた。最悪の、予想図。

 どす、という鈍い音とともに三蔵のS&Wが悟浄のみぞおちに入った。「貴様は黙って眠っていろ」と三蔵の唇が動くのが僅かに見えた。悟浄は自分の浅はかさに舌を噛みたくなるようない気持ちで、地面にそのまま沈んだ。

「悟浄!」
「悟浄さん!!」

 ようやくそこで茲燕と月明は悟浄の傍に走り寄った。
 とりあえず、悟空と茲燕で、悟浄を茲燕の家に運ぶことにする。

 毒にやられた悟浄をみて、今の八戒がおとなしくベッドで寝ていてくれないことは誰の目から見ても明らかであったから。




「入るぞ」

 許可も同意も必要ない、と言った体でそのまま三蔵は八戒が本を読んでいるベッドの傍までつかつかと歩みより、まるで自分の家の椅子に座るように、思い切り普通にふんぞり返ってベッドサイドの椅子に座った。
 大体玄関を入るところからして全く自分の家に帰るかのようにためらいも躊躇もなくドアを開け、ドアを開ける音に八戒が反応して顔を上げたと思ったらもう既に三蔵は八戒の寝室に現れていたのである。

「どうしたんですか、三蔵。突然に」

 八戒が驚いた顔で三蔵を見やる。

「誕生日は…もう少し先ですよね」
「今年は色々と忙しい。休みは取れん」

 ぶっきらぼうな口調で、とりあえず八戒に無茶をするなと無言で圧力をかけて、三蔵はマルボロに火をつけた。
 少しだけ、沈黙が流れる。

「悟浄はどうしたんでしょうね。三蔵、どこかで会いませんでしたか」

 ことりと首をかしげて、八戒は三蔵に笑顔を向けた。苦虫を噛み潰したような表情をした三蔵は、意味もなく強くマルボロを吸ったり吐いたりしたあと、乱暴にそれをハイライトの小山ができかかっている灰皿に押し付けた。

「会った。会ったが、今は悟空といる」
「悟空もいるんですか。一緒にきてくれればよかったのに…」

 八戒は目を少し細めて三蔵を見た。
 三蔵の様子がいつもと違うように思える。何がどう、というのはうまく説明できないが、とにかくこの、最高僧、つまりどう考えてもクソ忙しい三蔵がそんなことを言うためだけにわざわざ長安からこんな辺鄙な所へくるわけがないのだ。

「三蔵…?」
「………貴様に聞くことがある。正直に答えろ」

 もう1本マルボロを強く早く吸って、三蔵は八戒の碧の瞳をまっすぐ見つめて言った。

「百眼魔王の一族を、本当に、皆殺しにしたのか?」







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