うつろはんかな君待ちがてに




「絶対に起きて動き回るなよ」


 きっぱりはっきり言い切って、悟浄は町へと出かけていった。
 八戒が不慮の事故で足を折ってからもう1週間。さすがに冷蔵庫の中身もネタが切れてきたらしい。
 あるものを適当につかって作る悟浄の料理が、味付けはちがっても素材が同じ、というものになってから既に2日が過ぎていた。
 悟浄が目を離した隙に、これ幸いにとばかりすぐ動き回ろうとする八戒をおしとどめるのに悟浄は散々苦労している。

 大体、あの足のつぶれ具合からしてすぐに動き回るなどということは言語道断だ。
 いくら妖怪は回復力が大きいとはいえ、普通に骨折した足でさえ、動き回ると骨が曲がったままくっついてしまうこともあるというのに。 当然曲がったままくっついてしまった足はもう一度折りなおさなければならず、完治は遠い未来のはなしになりはてる。
 もう少し、あと少しだけ骨の状態がよくなれば、松葉杖を二本つく必要もなく八戒もかなり行動の自由を手に入れられるだろうが、あと少しだけ、という状態になるまでに恐ろしく時間がかかるだろうことはなんとなく悟浄には予想されていた。あの惨状を目の当たりにすれば今八戒の足がついているということだけでもいもしない神に感謝を捧げたくなってくる。




「困ったなあ……」

 ベッドに上半身を起こして八戒はため息をついた。
 悟浄の過保護ぶりにも困ったものだと自分の怪我の状況を遠い棚の上にほおり投げておいてもう一度八戒はため息をつく。
 
 理由は二つあった。

 今自分は自由に動けない。
 例えば、本棚から本を取ってきて読もうと思ってもまずベッドを抜け出すだけで体力と時間を無駄に浪費する。
 松葉杖をついて(さすがにこれをつかわない、という無謀なことまでは八戒はしなかったが)本棚の前まで行って、一旦松葉杖を本棚に立てかけ、好きな本を手にとったあとあごではさみ、もう一度松葉杖を手にとって、そこでUターンをし、ベッドに帰ってくる。次に動き回るときのために松葉杖はベッドに立てかけたままにしておいて、そして、足を投げ出し上半身を起こしたままの状態で足が冷えてしまわないようにきちんと毛布をかけ、背中にクッションを入れて、ようやくこれで本を読む体制が整うのである。
 たったこれだけの事をするために、足など折ってなければものの5秒で終わってしまうであろう動作に、その何百倍もの時間をかけざるをえない事実が、自分にはともかく悟浄に負担をかけてしまっていることが、心のそこから八戒は許せなかった。

「できる限りのことは自分でする」

 と主張し、悟浄もそれを勿論だと言ってはいるが、できる限りのこと、ということは八戒にとってあまりに少なかった。
 トイレに行くにも、今まで意識をしたこともなかったような家の中の小さな段差に松葉杖を引っ掛けて、危うくころびそうになる。悟浄がすごい勢いですっ飛んできて、支えてくれなければ、無様なことにあごから床にご対面するところであった。
 手前にひくタイプのドアは最悪だ。ドアノブを握って、まわし、少し手前にひいたら、また自分が後ろに下がり、少しずつドアを開くしかない。トイレのドアが出るときにそのタイプのドアでないことはほんの少ししか八戒の心を慰めはしなかった。
 お風呂に入るのは論外だ。シャワーを浴びようにもギプスをぬらすわけにはいかないので、体を拭くくらいしか八戒にはできなかった。しかし、体を拭くための湯を自分で汲んでもってくることができない。一度お湯を満たしたやかんを口でくわえてもってこようと試みたが、段差を乗り越えようとした途端、やかんから湯があふれて八戒は頭からその湯をかぶり、ずぶぬれになってしまった。幸いにもその湯の温度がそれほど高くなかったため、八戒は全身やけどを免れたが、以後悟浄は決して八戒にやかんをくわえさせようとしなかった。
 
 そんな状態で、家事やバイトなど全くもって論外だった。それは、八戒自身もよくわかっていたが、わかっていることと自分の感情を整理するということはまるで別の話だった。
 ただでさえ役立たずの自分がさらに役立たずのいるだけ迷惑野郎になっていることは誰に指摘されるまでもなく八戒には十分すぎるほど自覚できた。
 そして、そんなことを思う自分にさらに悟浄が心を砕かざるをえない状況だということにさらに八戒は複雑な気持ちになる。

 こんなに迷惑をかけるだけの、役立たずの自分でも、悟浄は必要としてくれる。

 そんな悟浄に、できることなら迷惑をかけたくないから、それならばさっさとこの怪我を完治させなければならない。そのためにはこんなに心が弱っている状態ではよくないということもわかっていた。


 それならば、と別のことに意識を集中しようとすると、どうしてもまたため息が出てしまう。

 来週の木曜日は、三蔵の誕生日だ。
 
 昨年の誕生日は、悟空が知らせてくれるのが遅れたこともあり、かなりありあわせのものしか用意できなかったが、今年はきちんと、三蔵に対する大きすぎる負債を少しでも返済するために、腕によりをかけて料理を作るはずだった。
 しかし、今のこの状態で来週料理がきちんと作れるかというとそれは思い切り不可能な相談であるように八戒には思えた。
 
「ぼくが勝手にひとりでうろうろしてたら悟浄が心配しちゃうんですよね……」

 もう既に7回読み返してしまった本を手に(本をとりにいくという八戒の行為にストレスをためる悟浄を見たくなかったから仕方ないのだが)八戒はさらにもう一度ため息をついた。

 気持ちよく晴れた冬の陽射しですら、八戒にはうらめしく思えた。




「………………なんでいる」
「いちゃいけないのか」

 バザールで大きなみかんを手にとって何個買おうか一瞬迷ったその瞬間に声をかけられて、悟浄は不機嫌な表情を隠しもせずに、ついでに相手を振り返りもせずに、不機嫌な声で一応返事を返すという最低限の義理を果たした。

「いや、お前さんが昼間っからこんなところにひとりでいるのって珍しいなーと思ってさ」

 そんな悟浄の態度に全くくじけず、栗色の髪と栗色の瞳をした男は思ったことを率直に口に出した。

「…お前こそなんでこんなところにいるんだ?」
「俺だって昼間は働かないと食っちゃいけねーからな」

 そこまで言ってようやく悟浄は相手―――兄と同じ名前をもつ兄とは似ても似つかない茲燕という名前の男のほうを見やった。
 茲燕は、白くて大きくて、何かのしみがいっぱいついたエプロンをつけ、肩には大きなかごを担いでいた。籠の中から香草のつん、とした匂いがあふれてくる。

「……お前、何の仕事してんだ?」

 その格好に意表をつかれた悟浄が、みかんを6個袋に入れてもらって受け取った後、ようやく茲燕をちゃんと向き直って言った。早く八戒のところに帰りたいのはやまやまだが、これくらいは聞いていてもいいだろう。

「みてわからんのか」
「わかるんだったら聞いてねー」
「……なるほど。じゃあちょっとついてこい。俺はこのバザールでときどき店を出してるんだ」

 そう言って勝手に連れて行かれたのは店というにはあまりにお粗末な屋台であった。
 もうもうと煙を上げて焼かれている、何かの獣の肉が香ばしい香りを漂わせている。その煙の向こうに、背の小さな、やせているとは思わないが、太っているとも思わない、黒い髪と淡い茶色の瞳を持つ女性が見えた。その女性が、茲燕と悟浄に笑顔を向ける。

「茲燕、お帰りなさい。お客さんをつれてきてくれたのかしら」

 容姿については「中の下だ」などという辛い採点をしていた悟浄だが、彼女の声をきいた途端、軽く目を見張って、「声は上玉だ」とランクを決定していた。かわいらしい、と艶っぽい、を絶妙のバランスでステアしたその声は、悟浄を生まれてはじめて手痛くひどくふってくれたあの絶世の美女の声を少しだけ思い出させた。

「ただいま、月明。彼が有名なあの沙悟浄だよ」
「あら、はじめまして、悟浄さん。噂にたがわぬ色男ね」

 そう言って屈託なく笑う声もとても美しい。悟浄は曖昧な笑顔を二人に向けた。

「何の肉をやいてんの?」
「これは駱駝の肉よ。西方ではよく食べてるの。とても力がつくから、悟浄さんもお一ついかが?」

 串を突きつけながらいわれれば断りようもない。したたかなバザールの商売術を身につけている月明から、串を受け取ると、悟浄はきちんと茲燕に金を払ってやってその肉を頬張った。

「私たち、西方からここまで逃げてきたのよ」

 弾力のある肉を噛み切れないのか悟浄は無言でずっと口をもぐもぐ動かしている。

「西の方はもう妖怪の力が強くって……いい妖怪だって勿論いるんだけど、でも、悪い妖怪の方が多くなってきてしまったわ。…ま、それだけ人間も悪いやつが増えてきた、ってことでしょうけどね」

 茲燕は無言で肩に担いできた香草を細かく刻み、駱駝の肉に塗りつけている。

「…怖かったわ。式神をあやつるくらい妖力のある妖怪がいてね。すごく強い妖怪らしくって死人を式神にすることもできるし、どんなお坊さんのお経にも動じないんですって。仕方ないからある年とうとう、見目麗しい妙齢の女性を献上することになったの…」

 肉をかみつづけていた悟浄のあごの動きが止まり、目が見開かれた。茲燕は、そんな悟浄を訝しげに見やる。

「私はこの顔だから、アウトオブ眼中だったけどね。村で一番きれいな娘が連れて行かれたわ…でもダメね。一回差し出してしまえば、そこはカモだと思われて、少しでも出し渋ると、式神が村をめちゃくちゃに荒らしまわるの……だから、私たち、逃げ出してきたんだけれどね」

 月明が寂しそうな笑顔を張り付かせて、目の前の串を次々とひっくり返していった。じゅ、という肉の焼ける音がやけに悟浄の耳についた。

「もうとっくにあんな小さな村は滅んじゃってるんでしょうけどね…逃げてくる最中も始終式神に荒らされる村を見かけたわ。逃げて逃げて…ようやくここまできて、妖怪の影におびえる必要もなくなったんだな、って思えるようになったの」

 玄奘三蔵様の功徳のおかげね、と笑う彼女に、思わず一瞬あの超鬼畜スーパー生臭坊主三蔵の実態を教えたくなった悟浄は、しかし、月明の言う妖怪のことが頭から離れなくなってしまっていた。


 西方。妖怪の台頭。女を欲する、強い妖怪の……それはまさか――――



 そのときバザールの一角で、悲鳴が上がった。
 ざああああ、と空気が揺れる音が悟浄の耳にも届いた。

 そして、その悲鳴にきづいて、その方角を振り向いた茲燕と月明の顔が硬直していた。




 



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