うつろはんかな君待ちがてに
ずっとベッドの上に横になっていると、腰が痛くてかなわない。
寝返りをうとうとすると、とりあえず左足はまだ悲鳴をあげてくれる。
仕方がないので起き上がることも考えたが、そうすると、隣で眠る悟浄を起こしてしまうだろう。
ただでさえ疲れがたまっているだろうのに、その短い睡眠時間を削ってしまうことだけは絶対にしたくなかった。
ベッドのとなりにある窓のカーテンが少しだけ捲れて、白く曇った窓の外から射しこんでくる硬質の月の光が八戒のちょうど瞳の上に白い筋を描いていた。
夜明けにはまだ少し時間がある。しかし真夜中という時間ではもうない。
全てがこれから新しい朝を迎えるために息を潜め、深い眠りについている時間…
夜明け前、という言葉がにあう時間だ、と八戒はぼんやりと思った。
二度と夜明けなどこないと信じきっていたあのころに比べ……どんなに長く暗い闇も、明けないことはないのだと、最近は自覚せざるをえなくなってしまった。
それはよいことなのか悪いことなのか八戒はまだ考えたくないけれども。
しかし、事実としてそれは厳然とそこに存在し、心のそこから笑っている自分が、こうやってここに生きていることはようやく認めてやることができるようになった。
何もかもが絶望のふちになだれ込んで、この世の全てが終わったと思ったあの日――――――――
生きている意味もこの自身の存在も、全て、全てが虚無へと還元されるはずだったあの日――――――――
なぜ自分はこんなところまで逃げてきて、なぜあんなところに倒れたりしていたのだろうか。
なぜ自分はあの時すぐに死ななかったのだろうか。死んでしまっていれば……
死にたかったはずだ。死んで、すぐにでも愛する人のところへいくはずだった。
それをなぜしなかったのか、自分ではもう考えることすらできなくなっている。
あの嵐の日にに何が起こったのか。
最愛の人が目の前で自ら命を絶ったことしかもう思い出せない。
その他の人や物やその他もろもろのことはどうでもいい。どうでもいいのだ。
泣きながら微笑んで、さよなら、といった彼の人の気持ちは未だに八戒にはわからない。
わからないけれど、ただ、彼女を忘れることはできなかった。勿論忘れるつもりもなかったし、根本的にそれは不可能だった。
いつまでもあのときのあの笑顔のまま、彼女の記憶も思い出ももう増えることはないけれど。
それでも自分はこうやって生き延び、そして、この胸にこんなにもあたたかなものをたくさんくれる紅い髪と瞳をした、禁忌の子供と一緒に暮らしている。
…あのまま彼女が生きていれば産み落としたであろう真っ赤な髪と真っ赤な瞳を持った、半妖怪と一緒に。
産まれたその子を見てしまったら、自分は正気ではいられなかっただろう。
呪われた、赤い髪と瞳を罵り、狂気の果てに殺害に及ぶことは間違いない。
最愛の人を汚した、妖怪の血が流れる、そんな禁忌の子供を……
悟浄の髪は晩秋の落日を溶かしたかのようにきれいだ。
悟浄の瞳は、なにものにも屈しない燃える炎がそのまま凝固したかのようにきれいだ。
そしてそれは、「悟浄」の髪であり瞳であるからだということは自分自身で何回確認しても変わらなかった。
都合のいい自分に吐き気がしてくる。
「悟浄」なら、何でも無条件で受け入れることができる自分に、自分で自分にうまく説明できないくらい八戒はものすごく嫌悪を感じた。
悟浄が嬉しいと自分はとても嬉しい。
だから、悟浄に喜んでもらえるならば、なんだってできてしまう自分がたまらなく嫌になった。
それは単純に、悟浄に喜んで欲しいわけではなく、自分が嬉しがるために悟浄を利用しているだけではないのだろうか。
前からエゴの塊だとは思っていたが、もう本当にどうしようもないくらい自分のことしか考えられない自分が、こんなに自分を思ってくれるこんなに優しい人のとなりで甘えて、甘えて、甘えきっていて許されるのだろうかと八戒は薄ぼんやりとした視界の奥に、西に傾いている月の光を映して思った。
許される……誰に――――――――?
勿論神など決して存在しない。
では誰に、許されるのだろうか?
……最愛のあの人はきっと言うだろう。悟浄と並んで笑う自分を見て、きっと言うだろう。
「悟能、本当に、よかったね」
あの人は自分の全てで、そして自分の半身だった。
自分が嬉しいと思えばきっとあの人も嬉しいのだ。自分が楽しいと思えば、きっとあの人も楽しいのだ。
ではなぜ、あの人は自分を置いてたった一人で寒い寒い国へと――――――――――――――――
「……」
不意に、隣で眠る悟浄が身じろぎをした。
八戒がなおるまで隣で眠ると、がんと主張して、狭い八戒の部屋に無理矢理ベッドを二つ入れたものだから、シングルベッドが並んでまるでキングサイズのベッドで二人で寝ているような錯覚をもたらす。
暗い暗い淵に沈む自分を見る悟浄の目はとてもつらそうだから。
だから、こんなことを考えるのはもうよそう……
無理矢理に自分に言い聞かせ、八戒は、ため息を一つそっと吐いた。
相変わらず腰は痛い。もうどうしようもないくらい痛い。
昼間悟浄がいない間にこっそり起き上がっておけば少しはマシだっただろうか。
絶対、明日の朝にはしっぽが生えてきているだろう
こんなくだらないことを思うのもきっと疲れているからだ。
頭も、体も、早くなおして、悟浄に美味しいといってもらえる食事を作らなくてはならない。
悟浄の食事はまずくはないが、得体の知れない物体Xであることが大変多い。箸をつけるまでそれが肉なのか野菜なのか魚なのか茸なのか、さっぱりわからないものはさすがに少々気が引ける―――
「……八戒、腰、痛いんだろう?」
「………ご、悟浄!……びっくりしたなあ、もう」
唐突に声をかけられて、本当に心のそこからびっくりした声を上げて、八戒は悟浄の方を顔だけ振り向いて見た。
「横になってて動けないときはさ、こうやってもらうと少し楽なんだぜ」
悟浄が八戒にかかっている布団を少しめくって、両手をまっすぐ、八戒のお尻の下に伸ばしてきた。
「…!悟浄!!なにするんですか!!」
動けない左足をかばって、少し不自然な動きをする右足をばたばたさせる八戒に、にやにや笑いながら悟浄はいった。
「…おとなしくしてろ、って。俺、お前が1週間昏睡状態だったときも、こうしてやってたんだぜ?うわ―、俺って健気―」
そうして、ばたばたする右足をあごで押さえつけると、右腕が八戒の足の付け根、ちょうど太腿の始まるところを支え、左腕が八戒の腰骨あたり、お尻が始まるかはじまらないかのところを支えるように悟浄は位置を調整した。
とたんに、す、と痛みがひいていく。
「ずーっとその八戒のかわいいお尻で体重支えてたらさー、いっくら軽いっていってもやっぱり負担なんだってさ。普段、そこで体重支えてるわけじゃないからさー」
ようやくおとなしくなった八戒の足にことんとあごを乗せたまま悟浄は八戒のほうを見上げた。
「……だから俺は八戒のかわい―お尻、もう最初っから堪能させて頂いてたワケv」
「…………………悟浄…っ!」
さり気なく軽口を装ってできるだけ八戒に負担をかけないように、八戒を気遣ってくれる悟浄の優しさが胸に痛くて、八戒は、お約束にぼふん、と枕を投げつけたあと、両腕でその目を覆って、夜が明けるのをひたすら待っていた。
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